モクチェズと生クリーム「ええっ……!」
眼前にでん、と置かれた皿の上―――パンケーキのように三段に重ねられた“どら焼き”に、モクマの目が丸くなる。彼の驚愕を意に介さず、ウェイターは判で押したように朗らな声で商品名を告げた。
「お待たせいたしました、マイカ風どら焼きスイーツと――ブレンドコーヒーになります。ご注文は以上でよろしいでしょうか。」
「ええ、問題ありませんよ。」
モクマと対する席に座って優雅に足を組んでいるチェズレイが、唇に愉快そうな笑みを浮かべて返した。
「かしこまりました、ではごゆっくりどうぞ。」
仕事は済んだとばかりに二人の男が座る席――二階席カフェテラスから店内に戻り、人影のないフロアから階段を下りていく背中を見送ってモクマは困った顔を浮かべた。
「ちょ……チェズレイ、俺は問題ありありなんだけども……」
「おや如何なさいましたモクマさん?遠く離れたこの地で珍しいマイカ風の字面を見て、注文なさったのは貴方ではありませんか。」
「こういうのが来るのは想定外だったんだってば。」
はあ、とため息を吐く男の前には、縦長くに重ねられた三つのどら焼きがどうしたの、私たちを食べてと誘惑するように揺れている。
「…ルーク辺りだったら喜ぶんだろうけどなぁ。おじさんにゃちとキツいよ。」
「おや、とりわけ甘味が苦手な印象はありませんでしたが。先日宿に逗留した際は温泉まんじゅうの食べ比べなどもなさっていらしたのに。」
紫の瞳を見開いて意外そうな顔を作ってそう言う相棒に、モクマは眉尻を下げてしょんぼりした顔で返した。
「…知ってて言っとるでしょ。俺が苦手なのはどら焼きじゃなくて。…その上に乗っかってる、これだよ。」
そう。この店の人間が異国甘味を再現した際、なにやら手違いがあったのだろうか――或いはほかにない独創性を求めたか。三段重ねのどら焼きの上には、たっぷりと真白な生クリームがホイップされていた。
「生クリーム……ですか。世界各国でありとあらゆる珍味を口にしてきたであろう貴方が、万国共通甘味に近い立ち位置を占めつつあるこれが苦手とは。なんとも予想外――不思議なものですねェ。」
「万国共通だから苦手なのよ。珍味ならそう心構えもできるし、ご当地ものなら国を去りゃもう食べないけど…これはどこに行っても見るからねえ。しかもこうやってお店側の好意で添えられることも多い。」
はあ、とため息をつきながらフォークを手に取り。それでいてどこから手を付けたものかと攻めあぐねた様子でモクマがため息をついた。
「う~ん、たっぷり乗ってて避けられそうにないね。どうしたもんか……」
「残してしまえばよろしいのでは?食を粗末にする事にうるさい怪盗殿もここには居ませんよ。」
コーヒーにひとかけら砂糖を落とし、ピッチャーからミルクを注いてかき混ぜながら涼やかに青年が啓示を告げるが。
「…それはそれで心苦しいっちゅうか。勿体なくない?こんなにサービスしてくれとるのに。」
「難儀な方ですねェ……。」
マドラー代わりに使ってたスプーンをカップから取り出し、ナプキンで丁寧に水気を拭って綺麗に戻しテーブルの上に置きながらチェズレイが問いかける。
「何が苦手なのです?先に任務達成祝いの席で供したステーキは平らげていらした――油類が駄目という訳ではないのでしょう。」
「肉類の油は――年取って胃に来るようにはなったけど、美味しいし好きよ。バターも嫌いじゃない、んだが……。」
三又に分かれた銀色の食器の先端で、ちょん、とさざ波の模様を描いて絞り出されている緩い固体を突く。
「これだけはどうもダメでね。口の中でもわーっとする感じっちゅうか、牛の乳臭さが強烈に舌に来るっちゅうか…それでいてすごく甘いし…」
「生クリームとはそういったものでしょう。」
「――だからやっぱ、俺はこれそのものが苦手っちゅう結論になるなぁ。」
酪農家さんには悪いけど、とため息を吐く間にも、テラス席には燦燦と日光が降り注いでいる。まだ涼しい頃合とはいえ気温も上がり始めたこの国の当季節、ゆるゆるとクリームが溶け始めているのは止めようがない事実あった。
「―――いかん、溶けてきた。ど~しよ……」
モクマが慌ててフォークで生クリームを掬い取る。山盛り一杯削ぎ取って、それでもまだゆうに二山分は残っているのが恐ろしい。
「あ~~………、」
銀の食器の上でわたしはこのままどうなるの、と問いかけてくる可憐な白に苦悶の表情を浮かべて、男が口をゆがめた。堪えて口に入れるか、それとも心ならず皿の端に残していくのか。そんな相棒の逡巡を肴に愉快そうにコーヒーで口を湿らせていたチェズレイに―――黒い三白眼がすっと真正面から視線を向ける。
「………―――チェズレイ。良かったらこれ、食べない?」
「――――………、」
口元からカップを離して、青年はじっと男を見返した。
「私が?」
「そうそう。チェズレイは別に生クリーム苦手じゃないもんねえ。」
「何を根拠に」
「この前ウインナーコーヒー挑戦してみるって飲んでたでしょ。美味しいって言ってたじゃない。」
「………。」
相棒として常そばに居る男に証拠を突き付けられ、青年は―――フ、と小さく笑った。
「…駄目ですよ。私が注文したコーヒーは…いかに街中の小規模店舗なりのそれとはいえ、専用に味が調えられています。生クリームを追加してはバランスが崩れてしまう。」
「じゃあさぁ、このまま食べちゃってよ。」
ほい、と差し出されたフォークの上で、いまにも輪郭を崩しそうな白が揺れている。
「……行儀の悪い方だ…。こんな場所で私を誘惑するなど……。」
薄く開いた唇から吐息を零しながら囁くチェズレイに、モクマは朗らかに笑った。
「大丈夫。二階は俺たち以外誰もいないし、道路側も―――ほら、街路樹茂ってて全然景色見えないでしょ。お店としちゃ業腹だろうけど、悪い事するにはピッタリだよ。」
「―――まァ、そういう席だからこそ我々も選んだのですがね。……まったく……。」
眉根に軽く皴を寄せて、表面だけ少し怒った風を演じながら、青年は口を大きく開き――――テーブルの上に身を乗り出して、男の差し出すカトラリーを口に取り入れた。ぴたりと閉じた桜色の唇から、少し濡れたフォークをゆっくりと引き抜く。ちゅ、と微かな水音を立てて最後まで抜き出した食器を持つ指先が――微かに甘く震えるのを感じながら、モクマは目を細めて問いかける。
「……どう?……」
「―――………。」
細い輪郭の顎がゆっくりと揺れて、筋張った喉仏が静かに嚥下される。今頃眼前の青年の熱い真っ赤な粘膜と舌先が、丹念に白い液体を溶かし味わっているのであろう。その妙なる触感を身をもって誰よりも知っている男は、幾度も交わされてきた濃厚な夜の記憶を反芻して腹の奥をじわりと煮立たせた。
「……店で仕込んでいるものではなく、業務用の生クリームのようですねェ……。可もなく不可もなく……。風味とコクがやや足りませんか。」
「…そっか。イマイチな味わいのとこ悪いけど、あと2回分食べちゃってくれる?ほい。」
どら焼きの天辺に残っていた生クリームの残骸を掬って、再度青年に差し出す。彼はアメジストに似た瞳を細めると舌先でぺろりと唇を舐め、差し出すモクマの手に己のそれをそっと添えた。ゆっくりと口を開き、今度は―――緩くクリームを舐めとって。フォークの股に残った残滓を真っ赤な舌先でチロチロと『掃除』する。
「…………。」
他人の眼がないからといって理由もなくこんなに下品な食べ方をする男ではない。その意図に明らかにこちらへの性的な煽りを感じて、モクマは口元にやにさがった笑みを浮かべた。
「……そんなに綺麗にしてくれなくても。あともう一回分あるんだから。」
「フ……。そうでしたねェ。思いのほか味わい深く……堪能してしまいました。」
「お前さんがそんなにクリーム好きとは意外だね。」
最後にどら焼きの天辺に残った生クリームを綺麗に拭い取りフォークの上に山盛りにしてそう言うと、モクマの手を細い指先ですりすりと撫でていたチェズレイが心外だと言わんばかりの顔を作る。
「あァ、モクマさん……。私が凡庸な味の生クリームで満足する人間だとご理解していらっしゃる?……酷い相棒だ……。」
「あ、その顔駄目。おじさん弱いんだって~…何でもしてあげたくなっちゃう……。」
眼を潤ませたチェズレイの貌にふにゃふにゃと芯のない笑みを返しながら、モクマはますます溶けそうな幸福に身をゆだねて返した。
「……分かってるって。俺が食べさせたげてる生クリームなのが美味しいんでしょ。……はい、あ~~ん。」
「………ん………。フフ……なんとも自意識過剰な台詞だ……。」
まァ概ね間違ってはおりませんが、と返しながら、チェズレイは最後までモクマ手ずから口元へ運んだ生クリームを咀嚼した。最後の一滴まで嚥下して、平らかな胸をなでおろす。
「お陰様で……。コーヒーに合う良い甘味を堪能させて頂きました。……こうなると砂糖は要りませんでしたねェ。」
手袋をはめたしなやかな指先でカップの取っ手を持ち上げ、濁った薄茶色の液体を口に運ぶチェズレイにモクマは笑う。
「いや~~~ありがと!これでどら焼きも心置きなく味わえるってもんだ。」
「どうしたしまして。……あァ、一方的に教えるのもフェアではないですから……お次はそちらの味も教えて頂きましょうか。」
手づかみで行くか、そのままフォークで切り分けるか―――迷った末に後者を選んだモクマが、どら焼きを四等分にカットして口に運ぶ。モグモグと咀嚼してウン、と頷くと下から見上げるように、秘密を共有するようなそぶりでひっそりと相棒に囁く。
「……異国で出されたにしてはなかなか良いね。ちなみに、粒あんだ。」
「フ……それはそれは。お口に合ったようでしたら協力した甲斐がありましたよ……。」
テーブルの上、顔を寄せ合って秘密の相談をするようにくすくすと笑いあう。爽やかな風が二人の間を駆け抜けていった。
「……は~~~~!割と腹一杯になっちまったなぁ。これ、夕飯軽食でいいかも。」
二人の食器が空になった時分、モクマが腹を撫でながらそう言った。
「今日この後の予定は……明後日任務で使用するこの席の事前チェック以外は空いていますから。ホテルに戻って何か適当な夜食を用意しましょうか。」
タブレットを確認しながらチェズレイがそう返す。懐に機器を戻して―――ナプキンを手に取り、コーヒーと生クリームの残滓で濡れた唇を拭う。その艶がいつもに増して潤んでいるのを視界に留めて、モクマはテーブルの上に頬杖を突いた。
「―――ちなみにさ。おじさん、山盛り一杯の生クリームは苦手なんだけど、フレーバー程度なら全然気にならないんだよねぇ。」
「おや、そうですか。その一情報だけでこちらから指示できる任務の幅は変わりますからねェ…今後に生かさせて頂きましょうか。」
目を伏せて涼しい顔でそう返す相棒に、垂れ眼の奥からじわりと熱を含んだ視線を向ける。
「そそ。どら焼きたっぷり食べれて美味しかったけど、生クリームの味わいも風味だけは確認しときたい気持ちは一応あるのよ。なんてったってお店の人が自信もって用意してくれた味だからねえ。」
「欲張りな方だ……。」
そよ風の中、チェズレイがすっとモクマに目を合わせる。かち合った黒曜石とアメジストが激しく光の火花を散らし合い―――視線の中含んだ熱が絡んで情熱的に溶けあった。
「チェズレイさんや……この後、ホテルで腹ごなしの運動などは如何でしょうか?」
にこっと笑いながら直球に誘いをかける男に、青年はややの沈黙の後肩をすくめてみせた。
「はあ……。言っておきますが、ストックのスキンはひと箱しか持ってきていませんよ。」
「あ、用意してくれてるんだ。やさし。」
その声にますます目じりを下げながらモクマは席を立ちあがりチェズレイの傍に立ってエスコートする。
「や~~、楽しみだ。生クリーム風味のお前さんもたっぷり味わえるしね。注文した甲斐があったね。」
「…ホテルに戻るころには、私の舌からはとうに味など消えてなくなっていますよ。第一、コーヒー交じりで風味など追えたものではないでしょうに。」
「そこは大丈夫。おじさんこう見えて五感が鋭いの!……甘味も苦みも、感じ取れるまで、沢山キスさせてもらうから……。」
二階フロアを通り抜け階下へ向かう。そんな二人の頬は、日陰に入って尚緩やかに色づいていた。
<完>