手を繋ぐから始めませんか?*
長谷部陸夫が諸伏高明と初めて出会ったのは、東都大学のキャンパス内にある図書館だった。人がまばらな時間帯に訪れたそこで、彼を見つけた。
窓から光が差し込む端の席で、背筋を伸ばし静かに本を読む凛とした姿に、目を奪われた。
彼の周りだけ輝いていて、時が止まっているのではと錯覚してしまいそうなほど美しく、まるで絵画のようだった。他を寄せつけないその様が、絵になって綺麗だと思った…
中性的な顔立ちに透き通るような白い肌、綺麗な黒髪と長身だけど線の細い身体。儚げで、触れると消えてしまいそう、それが諸伏高明に抱いた最初の印象だった。
彼に興味を持った長谷部は、すぐに声をかけた。突然初対面の男に話しかけられ、最初は不審に思われ避けられていたが、毎日彼を探し繰り返し声をかけるうちに、徐々に心を開いて様々なことを話してくれるようになった。彼のことを「高明くん」と呼べば、いきなり下の名前で呼ぶのかと怪訝な顔をされたことを覚えている。
高明はイメージ通りの儚げな美少年…なんてことはなく、飛び抜けて頭が良く並外れた知識を持ち、訳の分からない故事成語を多用して話してくる、変わった子だった。
そんなところも面白くて、徐々に惹かれていくのがわかった。もっと彼を知りたくなり、おはようの次には「付き合おう」と交際を申し込む日々が始まった。「好きです、付き合ってください」といった畏まったものではなかったので、軽いノリで言っているだと思われていたのかもしれない。真剣に取られていなかったのか、当然、高明が首を縦に振ることはなかった。
「付き合わない?」
「お断りします」
このやり取りは、長谷部が大学を卒業するまで続いた。
大学を卒業して就職し、高明とは疎遠になった。一応連絡先を知ってはいたが、友だちと呼ぶには違うし、頻繁に連絡を取り合うような間柄でもなかったので、連絡するのを躊躇ってしまいそれ切りになった。仕事に慣れるまで時間を要し、忙しく連絡を取る暇などなかったというのもあるが…。
しばらくたった頃、高明が大学を首席で卒業したにも関わらず、長野県に戻りそこで警察官になったということだけは、風の噂で聞いた。
高明がいなくても時間は流れるし、気を取られている暇もなく、仕事に明け暮れる日々を送っていた。プライベートな時間を取ることも難しかったが、仕事はやりがいがあった。
出会いと別れを繰り返し気が付けば30も後半で、幼い頃漠然と当たり前に思っていた結婚して子どものいる生活、とは縁がなく独り身でいる。思い描いていた未来とは違っているがこういう人生も悪くない。
そんなことを思っていた矢先の出来事だった…
ある事件の捜査のために、長谷部は長野県に赴くことになる。
長野と聞いて思い出すのは、やはり高明のことだ。一刻も早く事件を解決しなくてはいけないというのが第一だが、もしかしたら高明に会えるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。会ったからと言って何がどうなるわけでもないが、彼がどんな風に歳を重ねているかは興味がある。
内閣情報調査室の一員として長野に来ていることがバレないようキャラ付けをして会議室に入ったとき、眉をひそめてこちらを見上げる高明が視界の端に入った。
*
無事に犯人を確保したと報告を受けたものの後処理に追われており、高明が再入院したと長谷部が知ったのは日付が変わってからだった。これから東都に帰らなければいけないが、その前に高明の様子を見に行きたい。
長野県警の関係者に高明の入院先を知りたいと訊ねたら、どうして知りたいのかという顔をされたが、今回の事件で世話になったので直接礼を伝えたいと言えば渋々ながら教えてもらえた。
タクシーで病院に向かい受付を済ませ、高明のいる病室まで足を進めた。扉の前まで来て足を止める。勢いで来てしまったが、いきなり来ても高明が自分のことなど覚えていなかったら、ただ迷惑なだけなのでは…。ここまで来ておいて、柄にもなく緊張している自分がいる。
いや、そもそも自己満足でここに来たのだから、なんと言われようと気にしなければいいだけの話だ。自分のことを覚えていなければ先程までの演技を続ければ良い。
意を決して扉を3回叩くと、中から「どうぞ」という何とも良い声が聞こえた。もう一度深呼吸をして、長谷部は扉を開けた。
部屋に入ると、高明は体を起こして何かの書類に目を通していた。顔を上げ長谷部の姿を目にすると、大きな目をより見開いて静止している。長谷部が来るとは思っていなかったのだろう。だけどそれも一瞬で、すぐにいつもの顔に戻り、「お疲れ様です」と口にした。
(これは、どっちだ?)
「あぁ、うん…お疲れ様…」
「…お久しぶりですね、長谷部さん」
「!お、俺のこと、覚えてくれてるの?」
「まぁ、あんなに毎日熱烈な告白をされたら、なかなか忘れられませんよね」
「熱烈……」
そこまで必死に言っていたのだろうか…いやしかし、きちんと告白だと受け止めてくれていたのはわかった。それを今になって知るとは思っていなかったが…
「長谷部さんこそ、私のこと覚えていらっしゃったんですね」
「そりゃ、まぁ…好きだった子のことは忘れないよね」
そうですか、と好きという言葉に反応する素振りを見せることなく返事をするから、こちらだけが意識しているみたいでなんだか落ち着かない。
「ところで長谷部さん、キャラ変わられました?」
「っ、あ、あれは捜査に入れてもらうために仕方なくだね…」
「ふふっ、わかっていますよ。ですが、なんだか新鮮でした。ああいう長谷部さんも良いですね」
座りませんか?と高明から告げてくれたので、お言葉に甘えて近くにあったパイプ椅子を高明のベッドの傍らに置き、腰掛けた。
「ところで、怪我の具合はどうなの?まさか病院を抜け出していたなんて…後で知って驚いたよ」
「大したことありませんよ。暫くは入院になりますし、足に怪我をしてしまったので車椅子が必要ですが…」
それって大したことないって言わなくない!?と言いたかったが、恐らくこの男にそれを言ったところで聞いてはくれなさそうなので、長谷部は口を閉じる。だけど、思っていたよりも元気そうで安心した。
「私たちが林を追いかけた後、長谷部さんがコナンくんを守ってくれたと聞きました。ありがとうございます」
コナン…?と突然出てきた知らない名前に一瞬面食らうが、野辺山天文台に眼鏡の少年がいたことを思い出す。きっと彼が高明の言うコナンくんなのだろう。
「どうして君がお礼を言うの」
「私たちが引き入れてしまった子なので…。毛利さんは離そうとしていたのに、巻き込んで、危険な目に遭わせてしまいました。事件解決のためには彼の知恵が必要でしたので…ですが、本来ならば子どもを巻き込むなんて間違っていますよね。毛利さんに申し訳ないことをしたなと反省しています」
逃亡した犯人に向かっていこうとする子どもを危ない、と抱き上げ傍に置いたことは覚えている。結局目を離した隙にいなくなってしまったので、守ることができたかと言われればそんなことはない。
「きっとあなたは、良い父親をしているのでしょうね…」
(…………え?)
今なんて、と聞き返そうとしたとき、静かな病室に軽快な機械の音が鳴り響いた。音の出処は長谷部の胸ポケットに入っているスマートフォンからで、慌てて取り出しマナーモードに切り替える。ここは病院だというのに、気が焦っていたから電源を落とすのを失念していた。
「っ申し訳ない」
「大丈夫ですよ、どうぞ」
もう一度詫びを入れ画面を見ると、今回の事件の関係者から進捗報告のメールが届いていた。内容を確認し、それに関する返信と、もうすぐ帰る旨を入力してメールを送信すると、スマートフォンの電源を落として胸ポケットにしまった。
「お忙しそうですね」
「ん?あぁ、いや、報告を受けただけだよ。俺にできることは限られているからね」
「早く東都に戻った方が良いのでは?ご家族が心配しますよ」
「あいにく、帰っても1人だからね」
「え?」
「え…?」
「……」
「何その反応」
「あ、いえ…てっきりあなたはご結婚されているものだと……」
何か勘違いしているのでは?と高明の言動に違和感があったが、予想通り、やはり既婚者だと思われていたらしい。
「……俺も、そのつもりだったんだけどねぇ」
大学を卒業して10数年、ずっと高明のことが頭にあったわけではない。就職して、いくつか恋をして、結婚するかもしれないということもあった。だけど……
「なんか、思い出しちゃうんだよね、君のこと…」
「……馬鹿なんですか?」
「そうだね、俺は自分が思うよりもずっと馬鹿だったみたいだ」
大学時代の片想いをいつまでも胸に残しているなんて、どうかしている。
「本当に…人の気も知らないで……」
「…え?」
「いえ、なんでもありません」
長年、高明は自分に興味がないのだと長谷部は思っていた。だけどここに来て、高明の言動から、実はそうではないのでは?と確信めいたものを感じている。
「勘違いだったら申し訳ないけどさ、高明くんって結構俺の事好きだよね」
「…そうですね、ここに来てくれて嬉しいと思うくらいには好きですよ」
「珍しく素直…」
「もう隠しても仕方ないので。それに、いつ言えなくなるかわかりませんから」
「…………」
「…なんて顔をしているのですか」
目の前にいる高明が、愚図っている小さい子どもでも見るかのような顔をしている。自分はよっぽど酷い顔をしているのだろう。
だけど、仕方のないことだと思ってほしい。本当に、怖かったんだ。高明の緊急信号を受信したとき、それが消失したとアナウンスされたとき…恐怖で体が震えそうになるのを必死で抑えた。失うかもしれない、もう二度と会えなくなるかもしれない、そう思うと身体中の血の気が引いて、立っているのがやっとだった長谷部のことを、高明は知らない。
命に別状はないが滝壺に落下して入院していると報告を受けたときには、すぐに病院に行って無事を確認したかった。立場上それは無理なことで、早く目を覚ましてくれと願い、事件解決のために尽力するしかなかった。
現場検証の場に高明がいたことには心底驚いた。もう退院しても良いのか?ということもだが、スラックスの太もも部分が破れており、その隙間から包帯が巻かれているのが見えて目を疑った。犯人との銃撃戦については聞いていたが、高明が撃たれていたことを長谷部はこのとき初めて知った。
警察官という職業が危険と隣り合わせであることを痛感した。高明のことだ、危険を顧みずに捜査するのは恐らくこれが初めてではないのだろう。
「敢助くんが死亡したという連絡を受けて、少々無茶をしてしまいましたね。入院することにはなりましたが、後悔はしていません。敢助くんを守ることができましたし、由衣さんも助けることができましたから」
高明の言う『敢助くん』のことを長谷部は詳しく知らないが、彼にとって大切な存在であることは察することができる。こんな傷を負うほど身を呈して守り、敢助の死亡を知らされれば病院を抜け出してしまうほど、高明の中で敢助の存在は大きい。その事実に、胸の奥が何かに掴まれたように痛くなる。
この痛みの正体が何かなんて、考えなくてもわかる。間違いなく敢助に対する嫉妬だ。長らく会っていなかった自分が、何年も高明のそばにいる相手に嫉妬するなんて、虚しいだけだと我ながらに思う。だから、今の自分に言えるのはこれだけだ…
「高明くんが生きてて良かった…」
目の前にある高明の白く美しい手に自分のそれを重ねたかったが、触れることが許されるのかわからなくて、自分の膝の上で握りしめた。
「大学生の頃…」
「ん?」
「長谷部さん、本当に私のことを好きでいてくださっていたんですね」
「…そうだよ、ずーっと、片想いしてたんだから」
「私の何がそんなに良かったのですか?」
「えー…うーん……顔…?」
「……それはあまりに陳腐な回答では?」
「いや、なんというか…言葉にするのは難しいけど…綺麗だなって思ったんだよね」
当時のことを振り返ると、やはり思い出すのは初めて会った日のことだ。あの美しい情景は、いつまでも色褪せることなく長谷部の中に残っている。あのとき自分がどれほどの衝撃を受けたか、許されるのなら高明に語り尽くしてしまいたいくらい。
「俺からも聞いていい?」
「どうぞ」
「どうして、返事はいつもノーだったの?」
最後にこれだけは聞いておきたい。今日高明と話して、彼も自分のことを好意的に思ってくれていたことを知った。そしたらなぜ、あのとき交際に応じてくれなかったのか。
静寂に包まれ、言いたくないならいいよ、と言いかけたところで、「そうですね…」と高明がぽつりと話し始めた。
「あなたの未来を奪いたくないなと、思ったんです。長谷部さんのこと、何度かキャンパスでお見かけしました。あなたの周りはいつも華やかで、女性の隣がとても似合っていて、きっとこの人は普通に生きて、ごくありふれた幸せな家庭を築くのだろうなと…だから、私がいたのでは枷になると思ったのです」
当時を思い出しているのか、少し寂しそうに、自嘲気味に笑う。
「だけど、おかしな話ですよね。付き合ったからといって、その関係が未来永劫続くわけではないのに…」
「あ、でもその予感は当たってるかも。君と付き合ったら、俺離してあげられないと思うよ?」
「そんなことはないと思いますが」
「じゃあ、勝負してみる?どっちが先に、相手に飽きるか」
長谷部の言葉に、高明は大きく目を見開き数度瞬きをした後、目を細めて微笑んだ。
「長い戦いになりそうですね」
今日の高明は表情が良く変わる。初めて見るどの表情も可愛くて、愛しいという感情が長谷部の中に芽生えてくるのがわかった。
fin.
ここまで読んでくださってありがとうございました!
表現が変だったらごめんなさい