化物① 化物みたいに綺麗な女だった。
【青き春にはまだまだ遠く】
特別士官学校の入隊式。
講堂に充満するのは真新しい軍服と、真新しい建物の匂い。――特例制度のために新造されて間もない特士校の設備は、軍隊特有の質実剛健さと称すにしても些か以上に素っ気ない。
同様の施設は各地に点在していて、中等教育を終えたばかりの十代後半の少年少女たちを受け入れ、三ヶ月の基礎課程の後に前線へと送り込む。
所詮、お前たちは『平民』上がりの間に合わせで埋め合わせだ、と。
言外に突きつけられているように感じたのは、斜に構えすぎた物の捉え方であっただろうか。
壇上では複数の勲章を付けた夜黒種の軍人が演説をしている。妙に白々しく響くそれにエルウィン・マルセルは僅かに瞳を伏せて、ふと、周囲が妙にざわめいていることに気がついた。
「……?」
式典の最中だ。私語厳禁の場であることくらい、まだ訓練前とはいえ察せられるものだけれど。
思いつつ、マルセルの視線も動く。十代の少年らしい好奇心。
ざわめきの理由はすぐに知れた。
知って、そして、後悔した。
「――――っ」
ひゅ、と。
息が漏れる。
悲鳴の類いだ。
居並ぶ士官候補生たち、マルセルと同じ機甲科志願者の列の中。ぽつりと穴が開くように。染みが落ちたように。浮かび上がる異物。
無骨な鋼色の軍服の上からでも分かる華奢な体格。長い手足。衿から伸びる首筋は白く、折れてしまいそうにか細い。……貴種の血というのは、一目で分かる。分かってしまう。
繊細な頬の輪郭を包むのは、夜闇の黒。夜黒種。
対して涼やかな目許に嵌め込まれたのは、血の如き赤。焔紅種。
貴種の混血。
旧帝国貴族の間で忌み嫌われているという存在は、しかし、それ自体は恐怖を引き起こすものでもなんでもはない。
おそろしかったのは、彼女の眼差し。
地に堕ちた天使を、戦の女神を。遠い昔の人間が紐付けた眩い星。明星。金星の赤。あるいは噴き出した血液が酸化するまでのごく一瞬の鮮やかさ。――貴種の赤色に絡み付く、何か、ひどく、『嫌』な感覚。
感じた恐怖の正体を、この時点のマルセルはまだ知らない。
ともかく。その少女は異物だった。
なにせ、彼女の存在に気付いたマルセルを含む士官候補生たちの視線と意識を集めるせいで、壇上の軍人が無駄に長い演説を一旦止める始末。
「――――、」
壇上だ。高い位置から並ぶ士官候補生たちを見下ろす位置に立っている以上、その軍人が彼女に気付くことも容易だっただろう。
自らと同じ、否、より深くすらある夜黒種の髪を持つ少女を。――斜め後ろから彼女の横顔を覗き見ただけのマルセルとは異なり、真正面から、貴種特有の美貌を見たのだろう。
そして。
「……っ!?」
壇上の軍人が怯えた。
そう見えた。
驕慢な笑みを浮かべていた口端が引き攣り、白い頬が青褪めて、漆黒の瞳が在り得ざるものを――まるでとっくに死んでいるはずの人間でも見たかのように――見開かれる。
一介の士官候補生に、十代の少女に。士官である壮年の男性が向けるには相応しからぬ、驚愕と畏れ。
見間違いかと思ったが、ざわめきは更に広く大きくなっていく。マルセル以外の士官候補生たちも同じものを見て、そして、感じているのだろう。
アレは、なんだ?
「……」
当の少女は向けられる反応を気にした素振りもなく。
白皙に無関心を浮かべていただけであったけれど。
シンエイ・ノウゼン。
素性も来歴もこの時点では伏せられていて。けれども、ただそこに在るだけで特異性を周囲に知らしめてみせた少女との、出逢い未満の『遭遇』。
これは不運にも彼女と同じ特士校に押し込められてしまったマルセルを含む同期たちの、ごく短い三ヶ月の記録だ。
* * *
シンエイ・ノウゼンは浮いた。
それはもう、とんでもなく、浮いていた。
整った容貌が近寄りがたさを醸し出すのはままあることだ。だが限度というものはある。
指先も肩も横顔も。どこをとっても典雅で繊細。中流階級出身者――革命以前は平民と呼ばれていた――が殆どである特士校において、はみ出さざるを得ない美貌。
加えて帝国黎明期からの貴種である夜黒種と焔紅種の混血。
しかし貴族同士の火遊びの結果と断じてしまうには『ノウゼン』姓は重すぎる。
有り体に言って、歩く厄ネタだ。
……シャツの釦は常に一番上の位置で留められていて。ネクタイも窮屈そうなくらいに締め上げていて。けれど潔癖さや真面目さ故と解釈するには訓練に対する姿勢は些か不真面目。ぎりぎり、叱責を受けない範囲で効率よく手を抜いている。
……ああそうだ。
よく見ていた。
けれどもそれは、例えば恋愛的にどうとかいう甘酸っぱい感情に由来するものではない。それだけは未来永劫にない。断言できる。
多分、同期は皆そうだった。
見たくもないのに、見つめていた。
自分の人生に関わって欲しくはないのに、同期と括られる以上はそうもいかない。うっすらとした絶望すら漂う有様。
……いや。例外が、たった一人だけ。
「ユージン。あの女と関わるのはやめておけよ」
マルセルの忠告に、友人は曖昧な微苦笑を浮かべた。
人でごった返す昼食時の食堂。とある一角へと脚を向けかけていたユージンの腕を掴み、半ば無理やり同じテーブルへと着席させて。
マルセルは湯気を昇らせる腸詰めにフォークを突き立てながら続ける。
「関わったって碌なことにならねぇぞ」
齧りつく。ぷちん、とした歯触りと滴る肉汁。合成肉であろうが味は悪くない。
特士校で提供される食事は質が高かった。温かく、量が多い。成長期かつ過酷な訓練を課せられている士官候補生たちの胃袋を満たして余りある。
糧食は軍隊の基本だ。あるいは人間――生き物の基本。生きるならば食べる必要があるし、食事の質は士気に直結する。
特士校の士官候補生にはなおのこと。連邦はそれを正しく理解していた。
「……うん。それは、そうなのかもしれないけれど……」
ユージンはパセリの浮いたクリームスープをスプーンで掻き混ぜた。瞼が軽く伏せられて、銀色の睫毛が白い頬の上に陰を落とす。
淡い同意のようで、しかし、納得はしていない様子のユージンにマルセルはこっそり奥歯を噛んだ。
「……別に、一人でメシが食えねぇなんて可愛げがあるタイプでもねぇだろ」
マルセルは食堂の隅へと視線を投げる。先程ユージンが気にしていた場所。――人がごった返す食堂で不自然に空いたテーブル。複数名で掛けるはずのテーブルをたった一人で使う少女の姿。
可哀想だとかは、思えない。平然と黙々といっそ悠々と。食事を進めていく姿に悲壮は感じられない。
何も、感じていないかのようだ。
まるで造り物の人形みたいに。
「……確かに。シンは気にしていないだろうな」
苦笑。これについてはユージンもマルセルと同じ意見だったのだろう。意見だけは。
「……」
柔らかく細められた白銀の瞳。宿る微かな羨望と、兄が妹を見守るにも似た慈しみ。
どうしてあんな無愛想な女にそんな感情を向けることが出来るのか。
『シン』だなんて愛称で呼んでやれるのか。
マルセルには分からなかった。
あるいは、
「マルセル?」
眼鏡の奥で白銀の瞳が瞬く。白銀種。……あの女と同じ、貴種の血を引く容貌。
「……お前も見てくれは『それ』なんだから、あんまり面倒ごとに首を突っ込むなよ」
「あれ、心配してくれているんだ?」
「べっつにぃ?」
からかうかのようなユージンの口振りに、マルセルは唇をへの字に曲げた。対面でくすくすと微笑む同い年の友人は、けれど妙に大人っぽい。
「……」
スープを一匙掬って口に運ぶ仕草は洗練されていて、育ちの良さを伺わせる。
荒れた手指から決して楽な生活をしてきたわけではないと察せられても仕草の一つ一つに滲む、気品、のようなものはあって。それは彼の両親が我が子に授けた最後の矜持なのかもしれなかった。
……中流階級の子供が集まる中等学校では、ユージンもまた異物で。
だから。
「懲りてねぇのかよ」
「……どうかな。でも、見た目だけで相手を判断するなんて出来ないだろう?」
諭すような言葉。マルセルは眉間に皺を刻んだ。
あの女の見た目は大概だが、誰とも関わろうとせず自分のことを語らないから、見てくれだけで語るしかない部分もある。
視界の端で黒髪の少女が立ち上がる。ひそひそと交わされる陰口に対しても一切動じた様子のない血赤の瞳。――また、見ていたことに気付かされて。振り切るようにマルセルはコーヒーを呷った。
炒ったチコリの根の渋みが口の中に広がる。
* * *
異物だった。異質だった。異端だった。見てくれも、態度も、名前も。何もかもが周囲と違う。断絶した生き物。
首に斬首のような痕がある、と。噂の出所は同室の少女だったか。あの女と寮で同室になるという貧乏くじを引き当てた彼女に対する周囲の目は同情的で。女の身体に残る傷なんて不躾な話題を口にしても咎められることはなく、むしろ面白半分で噂に尾ひれが付いていった。
あの女は、それでも平然としていたが。
その頃にはもうどうしようもなく、周囲と孤立していた。
とはいえ集団生活。ましてマルセルたちが配属される予定の正機甲部隊が駆るのは複座式のヴァナルガンド。訓練の最中に二人組を組む必要がある場面は多々あって。
……「誰もいないなら」と。手を挙げたユージンに対する教官の評価が上がった様子であることは、まあ、良かったのかもしれないけれど。
その日の訓練は射撃訓練だった。
だが生身の人間が持てるサイズの小火器などレギオン相手にさしたる損耗は与えられない。まして一キロにも満たない拳銃であればなおのこと。威力も射程も命中精度も低い拳銃では、レギオンの装甲を撃ち抜けやしない。
だからこれは、鉄クズ共を倒すための訓練ではない。
戦えなくなったときの備え。戦場でおいて安らかに死ぬための、訓練。
直接言葉にして告げられたわけでなくとも、士官候補生たちはみな察してはいて。故にどこか浮足立った雰囲気が射撃場を包み込んでいた。
そして。
自らの恐怖を誤魔化すために、逸れ者を甚振り優越感に浸ろうとする者も、中にはいて。
「なあノウゼン。お前、拳銃なんて持てるのかよ?」
一度にブースを使える人数には限りがある。発砲音が断続的に響く中。順番待ちの士官候補生たちの群れから外れて一人佇む黒髪の少女に話し掛けたのは、体格の良い少年たちの集団。
善意によるものではないことは明らかだった。にやにやと。薄ら笑いを浮かべながら彼らは続ける。
「なんだったら俺らが代わってやろうか? お貴族様の細っせぇ手じゃ鉄の塊なんて重すぎるもんなぁ」
「……」
無視だった。
ひょっとすればヘッドセットの消音設定を上げているのかもしれない。
そう思わせるほどの無視だった。
「……お高くとまってんじゃねぇぞ」
少年たちが舌を打つ。俄かに剣呑な雰囲気が漂い始める。袖にされたことで彼らのプライドか何かが悪い方向へと刺激されたらしい。
「それとも自決のやり方はとっくに学んでいるってか? 純血を尊ぶお貴族様らしい習い事じゃねぇか」
一人が腕を大きく広げながら、まるきり動物の威嚇と同じ動作で、華奢な少女の前へと歩み出た。
貴種の美貌が無遠慮に見下ろされる。
「レギオンとの戦争が始まったのなんてここ最近の話だからなぁ……それより前は人間同士の戦争だ」
夜黒種の髪と焔紅種の瞳。帝国貴族の間で忌まれる混血。しかしてどちらも軍属に多い色彩。
少年は下卑た笑みで口端を吊り上げて、
「ひょっとして、お前の母親は『それ』が出来なかったりしたのか? そりゃあカワイソーになぁ?」
流石に下劣だ。
マルセルでさえ眉を顰めたのだから、傍らのユージンならなおのこと。
「っ、」
白い顔に義憤を浮かべた友人の腕を、掴んで引き留める。
「落ち着けって。確かにあいつらは言いすぎだけどよ……ノウゼンの奴、どうせ気にしてねぇって」
「っ、当人が気にしているか否かの問題ではないだろ……! 俺たちは双頭の鷲を預かることになる身としての正義と秩序を忘れては、」
「お前のそういう育ちの良いところは嫌いじゃねぇけどな? 一旦深呼吸でもしとけって」
いきり立つユージンの腕をがっしりと掴んだまま、マルセルは揉めている――というか片方が一方的に喚いている――方角を顎で示す。
漆黒の髪を持つ少女は眉一つ動かさず、淡々と順番通りにブースへと向かっていく。
いつも通りの光景。
あえて言い返すこともせず、まるで鳴いている家畜の前を通るかのように。無視を貫く姿勢がいっそう彼らの癪に触るのだろうが。
「――――」
しかし、この日は違った。
所定の位置に立った少女は拳銃を手に取る。無骨な鉄の塊は、確かにほっそりとした掌には不釣り合いなのに、――何故だか。よく馴染んで見えて。
紅を引いたかのように赤い唇が、小さく動く。
「確かに、自決用だな」
声まで綺麗な女だった。
少女としてはやや低い声音。男じみた口調。
「だが、――自らの手で自らの頭蓋を撃ち抜くことが出来るのは幸運だ」
声は美しかった。けれども彼女の声は、例えば鈴の音のような聴く者の耳を楽しませる類いではなく、聴いた者の耳を斬り落とさんばかりの怜悧と共に響く。
「さて、」
滅多に喋らない無口な少女にしては珍しく、言葉は続いた。
「人体で最も広い面積を占めるのはどこだと思う?」
唐突な問い掛け。けれど誰に語り掛けているつもりもないだろう。血赤の瞳は真っ直ぐに人を模したターゲットのみを見つめている。
「胴体だ。そして、ここを損なえば致命傷になるが、――例え上下に引き千切られたとしても即死とはいかないし、そんな痛苦の中では重たい鉄の塊なんて自分の力で持ち上げられない」
少女の腕が持ち上がった。
水平に構えられた細腕は僅かな震えもなく。まるで初めから銃を持つために造られたかのような。
「心臓の近辺に衝撃を受けたとて、肋骨の硬さも案外馬鹿に出来ない。折れて内蔵を食い破って、それでも中々死ねないことは多い」
赤い唇は動く。
耳を塞ぎたくなるような言葉が続いていく。
「即座の致命傷とならずとも厄介なのが手足だな。失血の痛みと寒さの中で死を待つことになるし、腕を失えば拳銃も操縦桿も握れない。目の前にレギオンが迫っていようとも対抗する手段がない。戦えない。……生きたまま鹵獲される」
語られていくのは凄惨な事例。――明らかな無駄口だ。けれど、一向に教官の静止が入らないのは何故だろうか。無音。いつの間にか射撃場には少女の声以外の音が消え失せている。
誰もが、少女の言葉から耳を離せない。
「だから、」
血赤の瞳から温度が消える瞬間を、確かに見た。
「――そのときは、おれが撃つ」
トリガ。
引き金に掛かる力はごく軽く。無造作に。撃ち出された銃弾がターゲットの頭部を穿ち、穿ち、穿ち、穿ち、
「――――」
全弾をターゲットの頭部へと命中させた少女は空の拳銃を右脚の太腿付近へと近づけて、はっとしたように所定の位置へと置き直す。
「まあ、」
ちらり、と。
下卑た笑みを引き攣らせている少年たちを紅い瞳が一瞥した。
「そんなふうに腰が引けているようなら、やめておいた方がいい。撃たれる方も撃つ方も、余計に苦しむだけだ」
失笑。
彼女の白皙が笑みを刻んだ瞬間をマルセルは初めて見た。酷薄な冷笑。そう見えた。
嘲るかのような微笑と言葉を向けられた少年たちは顔をまだらに染めたが、流石に、ようやく、口を開いた教官の叱責で渋々と引き下がる。
「……シン」
ユージンが呟く。抑えた腕は微かに震えていた。マルセルとて同じだった。
自分たちと同じ鋼色の軍服を着た少女が、自分たちと同じ生き物なのだとは、どうしても、思えなかった。
* * *
事件はその日のうちに起きた。
「誰か……! ノウゼンさんがあいつらに囲まれて……!」
一日のカリキュラム終了後。自習室に駆け込んで来たのはあの女と同室の少女だった。
「……っ、!」
躊躇なく飛び出していった白銀の髪の持ち主の背中を、マルセルは追う。
「落ち着けユージン!」
「今度は止めてくれるなよマルセル! あのやり取りの後だ、幾らなんでも……!」
「止めはしねぇよ!」
ほとんど怒鳴るように言い返しながら、マルセルはユージンの隣に並ぶ。
「けど俺らだけで闇雲に割って入っても解決にはならねぇだろ! お前は教官呼んでこい!」
「そんな猶予は、」
「時間稼ぎには俺が行く!」
勢いで言った。
だがまあもう仕方がない。
ユージンが関わるつもりだというのならば、もう、仕方がない。
「……いや、それならマルセルが教官を呼んできてくれ。危険な役目は俺が――」
「適材適所なんだよ! それくらいは呑み込め!」
白銀の瞳を見据えて言い返す。――貴種たる白銀種。革命により貴族階級を追われようとも国と家族のために身を盾にする軍属となり、そして逸れ者にも親切な優等生。
教官受けが良くて、反対に、かつての貴族階級にコンプレックスを抱いているようなタイプの同期とは折り合いが悪い。
ユージンは唇を噛んだ。
「っ。……分かった。頼むよ、マルセル」
「ああもうクソ頼まれてやるよチクショウ!!」
もう自棄だった。
マルセルは建物の外へと出て、あの女の同室の少女から聞いていた場所へと向かう。
建物の裏手。人目につきにくい死角。――幸い、すぐに見つけられた。
沈み始めた太陽が辺りを赤く染める中。体格の良い複数の少年たちが一人の少女を取り囲んでいる、なんていうロクでもない絵面に、マルセルは割って入る。
「待て待て待て! 流石に女一人に複数でってのはどうなんだよ!」
出来る限り周囲に響く大声を上げつつ、マルセルは少女を背に庇うように身体を捩じ込ませた。
「お前らだってこんな女のせいで人生棒に振りたくないだろ!?」
わりと本音。
闖入者たるマルセルに少年たちは多少鼻白んだが、かといって大人しく引き下がるのはプライドが許さないのか。睨み付けられて、マルセルの背中にだらだらと冷や汗が流れる。
「っ、ノウゼンも、」
お前の言動にもそこそこ大分問題があることは事実なのだから頭の一つでも下げておけ――と。背後の少女へと視線を向けて。
しかし。
「――舐められたものだな」
眇められた血赤。
直後。
衝撃が降ってきた。
* * *
再び戦場へと戻ると決めた五人が、しかし別々の特士校へと振り分けられたのはエルンストの思惑によるものだ。
結束の強い自分たちだが、連邦軍に所属する以上は常にひとかたまりで行動させるわけにもいかない。出来るだけ多数の、それも同年代との交友を促して連邦軍という組織に馴染ませる――そういう意向があることくらいは察せられた。
意向というよりは、配慮と称していいぐらいなのかもしれないけれど。
とはいえ元々、半年ごとに人間関係が一新される環境下で命懸けの戦いを行ってきた自分たちだ。群に馴染むやり方は身に付けている。そうでなければ生き残れなかった。
……まあ。例外はいなくもないが。
「ノウゼン候補生の姿が見当たらないですって!?」
特士校の簡素な廊下に女性士官の声が響く。
若くして佐官の地位に就く金髪紫瞳の麗人の剣幕に、この特士校の責任者と思しき男性が冷や汗を浮かべる。
繰り広げられる光景を横目で眺めつつ、四人は顔を見合わせた。
特士校基礎課程三ヶ月間には複数日の休暇というものはあって、それを利用してライデンたちに課せられたのはグレーテ・ヴェンツェル中佐が開発する新型フェルドレスの試乗任務。不満はない。むしろ仲間たちとの久し振りの再会が喜ばしい。
それぞれが所属する特士校から回収されつつ、車内で和気藹々と近況報告を交わすライデンたちに向けられる、紅唇の微笑。……今すぐ信用してやる気なんてないけれど、まあ、敢えて反抗する理由もない。
しかして最後――シンが所属する特士校へと到着してすぐ問題が起きた。
「事前に通達は出していたでしょう! ――寮の自室にもいないって……ああもうどうして――、」
グレーテが額を押さえた。対応する男性がますます委縮している。
そんなやり取りに背を向けて、ライデンたちは建物の出入り口を通る。
めいめいの色彩の瞳に浮かぶのは、全く同じ感情と思考。
少しばかりの呆れと、納得。
第一に。シンは意味のない命令違反はしない。上官扱いのハンドラーからの命令系統など破綻していたのが八十六区の戦場だが、それ故に、合理的でない判断を我らの戦隊長はそうそう選ばない。合理性を貫くために既存の常識を無視する傾向はあるが。
加えて。事前に通達が出ていた以上は例えば居残って自主訓練に励んでいるとか、教官からなんらかの指示を受けているだとかは――まあどちらもシンはやらないだろうが――ない。
つまり。仕掛けたのは、シンの事情を知らない士官候補生だろう。
そして。特士校は群だ。新たな群だ。――少なくとも、ライデンたちの認識では、そうだった。
生き物の群で起きることなんて、いつだって、決まってる。
* * *
「あー、やっぱりやってやがる」
建物の裏手。人目につきにくい死角。――『それ』が起こる場所もまた、どこでだって同じらしい。
だからあっさりと目当ての人物を見つけて。
ライデンはゆったりと足を止める。
丁度、シンが地面を蹴って高く跳び上がった瞬間だった。
夕焼けに浮かぶ細身。ふわりと広がる漆黒の髪。血赤の瞳は凝り固まった冷徹で以って相手を見据え、長い手足は的確に人体の急所を捉える。
垂直に跳んだシンは正面に立っていた少年の肩に手を置き起点とし、腕の力で更に跳び(結果として引き倒された少年は何が起きたかも理解していない様子で地面に転がった)、真横に捻じり上げた脚が風を裂く。
遠心力を乗せた軍靴が最も手近にいた相手の頬に、食い込んだ。
「ぉごっ!?」
――目前に立つ相手の身体を視線の盾とした上で先手を放つ、複数人を相手取る際のシンの十八番。少女としても細身である体格だからこそ可能な死角の活用法。普通は出来ない。
撃沈した仲間(と、位置と体勢的におそらくシンを庇おうとしていた少年)を前に少年たちは驚愕を浮かべた。……アレはもう駄目だな、と。ライデンは醒めた思考で判断する。
予想外の出来事程度に動揺して動きと思考を止めるなど悪手の極み。動き続けなければふっ飛ばされて死ぬのが関の山。折角三ヵ月も猶予があるというのに前線に立つ心構えの基本も学んでいないのか――と。軽蔑ですらなく、淡々と思う。
「……それにしてもよ、」
蹴撃と拳撃の、一方的な蹂躙劇を眺めながらライデンはぼそりと呟く。
「シンの奴、跳躍距離縮んでね?」
「ほんとだ。前はもっとぴゅーんって跳んでたよね?」
どこか調子が悪いのではというクレナの呟きを聞いたセオが瞼を細めて、
「いや。特士校って食事の量が多いし質も悪くないからさ、」
「セオ君?」
アンジュが嫋やかな笑みの裏から圧力を掛ける。
「――健康的になってきて良かったねって言うつもりだったんだよシンって細すぎるくらいだったしねえライデン!」
「俺に振るんじゃねぇ」
失言が増えたというか状況のしわ寄せを受けることが多くなってきたセオと、戦場ではないので彼のことを即座に見捨てたライデンと、笑顔の圧を増すアンジュと、一連のやり取りに首をかしげるクレナ。
誰一人だってシンのことを心配していない。
さもありなん。シンは自分たちの戦隊長だ。現在の肩書きは異なれど、絶死の戦場において自らの命と――あるいは最期を。預けるに足ると判断した相手だ。
いやまあリーダーシップに秀でているかといえば別にそうでもないが。
人の上に立つ側にいたくせに報連相を徹底しないし、いくら言っても言葉は足りないままだし、お綺麗な鉄面皮は何を考えているか分かりづらいし、思慮深そうに見える無表情の裏では何も考えていなかったりするときもあるのだが――まあ、その辺りのフォローは副長の役割だった。
周囲に押し付けられていたともいう。
お前が一番甘やかすのが上手いからだよお母さん、と笑っていたのはクジョーだったかダイヤだったか。せめて父親ではないのかそこは。
「……」
とはいえ。
群のリーダーに求められる第一条件にして絶対条件だけは、シンは十全に満たしている。
即ち。
つよいこと。
「こちらです教官――無事かマルセル!? 教官! 負傷者一名、いや二、三――教官! きょうかーん!!」
眼鏡を掛けた白銀種の少年が血相を変えて叫んでいる。
教官を呼んできたらしい彼をライデンたちはきょとりと眺めた。どうやらシンを庇おうとしていたと思しき(とっくに地面に倒れ伏した)少年も踏まえて思考して、そういえば我らの死神戦隊長は見た目だけは儚いとかそういう方向性だったな、と思い出す。
だが、存分に暴力を振るえる環境であればシンが対人戦で遅れをとることは早々ない。
……軍の施設とはイコールで暴力を振るっていい環境でもなんでもないのだと、ライデンたちはまだ知らなかった。
なので。
いっそほのぼのと会話を続ける。
「シン、途中から加減入ってるよね? 珍しく」
「でもシン君、人間の皮膚くらいなら手刀で斬れるから……」
「あれどういう仕組みなの?」
「手を凄く早く振って風ごと斬るとか言ってやがったな……まあ顎下を打たれるよりはマシだろ」
身長差があろうとお構いなしに放たれる、膝頭から繰り出すアッパーカット。……ちょっと意味が分からない動きだが、揺さぶられた脳みそとは無力なもので、足元がふらついたと思った瞬間には地面へと引き摺り倒されてマウントを取られてタコ殴りコースだ。死ぬかと思った。
「なんでそのレベルでボコボコにしてきた相手にああも甲斐甲斐しいの? いや別に理由とか知りたくはないけど」
「分からせられたというか……結果的に躾けになってしまったのかしらね……」
「最初が肝心だよね!」
おおむね獣の理屈だった。
騒ぎを聞きつけて、というか勝手にいなくなったライデンたちを追いかけてきたグレーテは繰り広げられる会話と乱闘ですらない蹂躙に紅唇を引き攣らせたが、彼女の反応に子供たちは首を傾げる。
大人に頼るという発想が薄い少年兵だった。
ひとまず。
「……共和国……!」
そういうことにしておいた。
そういうことなので。
まあ。
青春するにはまだまだ色々なものが欠けていた。
そういう話だ。
* * *
当然、そこそこ大事になった。
軍隊だ。私闘も乱闘も蹂躙もご法度。当然である。
けれども懲罰といっても反省文の提出程度で、当事者の誰一人として除隊処分のような扱いとならなかったのは、三ヶ月弱とはいえ手間と金を掛けて育てた人材を放逐する損失を惜しまれたか――それほどに。戦況は逼迫した状態であるのか。
ともかく。
揉め事を起こした者はばらけさせた上で各地の特士校に配属し直されて。この一件は終わったことになった。
本当に関わるものではなかったな、とマルセルは痛む肩を抑えながら思った。
なお、地面に倒れたマルセルを介抱したのはユージンで、あの女はいつの間にかいなくなっていた。別に礼を言えとは思わないし、何も出来ていないのだから言われても困るが、あの無愛想さはなんなんだ本当に。
あの女は――シンは、何も変わらない。
……何があっても、変わることなく超然としている。
今日のランチメニューは挽き肉のオーブン焼きだった。四角く固められた挽肉と覆うように巻かれたベーコン。どちらも合成肉ではあるが手間を掛けられているぶん、味が良いことを既に知っている。
分厚く切られた断面から溢れる透明な肉汁。――香辛料に混じって立ち昇るのは合成品由来の、けれどヒトの舌と鼻を誤魔化せる程度には本物らしい獣臭。赤茶色のソース。
「……」
成程。食べることも訓練であるらしい。
思うところはあれども空腹を訴える己の胃袋に従って、マルセルは空いているテーブルを探す。
まあ。
探すまでもなく、この三ヵ月弱ずっと空き続けているテーブルはあるのだけれど。
「……懲りねぇんだよなぁ……」
不自然に空いた一角。漆黒の髪と、白銀の髪。ここまでくるといっそ感心する。マルセルは腹の底から息を吐いて、足を進めた。
向かい合って座る二人は、しかし会話が弾んでいるわけでもなく。白銀の髪の少年が一方的に話している。
一応、漆黒の髪の少女の方も相槌らしきものは返しているが。……これで彼女にしては『かなり』会話をしている部類なのだから、本当に大概だ。
白銀の髪の持ち主――ユージンの隣の椅子を引きながら、マルセルは口を開く。
「こいつの妹語りは長ぇぞ。昼休憩が終わっちまう」
隣に腰を下ろしたマルセルへとユージンが顔を向ける。
白い掌が握り込んでいるのはロケットペンダント。納められているのは幼い少女の――妹の写真だ。
あえて覗き込まずとも知っている。
なにせユージンと同室のマルセルとて散々聞かされたので。耳タコだ。
「なぁ、“兄ちゃん”?」
からかうように言ってやる。それでやや身体を乗り出し気味になっていた自身に気づいたのか。座り直したユージンにマルセルは肩を竦めた。
「……」
そっとトレイの中身を伺う。ユージンの方は半分近く。シンの方に至ってはほとんど片づけられていて。
ならば自分だけ弱音を吐いてやるのは悔しいから、マルセルはフォークを掴んだ。
度胸づけの哨戒演習は、散々だった。
「――基礎課程が終わったら、部隊に正式配属される前に一旦休みを貰えるだろう? そのときにお土産でも買って帰ろうかと思って、」
ユージンの声は続く。……あるいは平和と日常の象徴である妹について語ることで、無意識にでも、精神衛生を保とうとしている心理があるのかもしれないが。
「そうか」
一方で返すシンは淡々としていた。――引率の教官がレギオンに殺された、悪夢のような哨戒演習を生き残って。なおも平然としていた女だ。
血も涙もない。
どうしても、思ってしまう。
「……」
もそもそと。食べ進めながらマルセルは口を開く。
「……ってか、お前ら特士校より前に面識あんのか、もしかして」
会話の内容から察したこと。
マルセルの言葉にユージンは頷く。
「シンと最初に会ったのは首都の図書館だよ。ニーナともそこで」
「へぇ。ニーナ、この鉄面皮の前でビビったんじゃねぇの?」
「……あー……えっと……」
白銀の瞳が泳ぐ。怖がらせたらしい。
は、とマルセルは喉を揺らす。
シンが眉根を僅かに寄せた。
「……そうだったのか?」
「あっ。いや、ニーナは人見知りをする子だから……それに一応はお礼を言えたし……一応……」
詳しい状況は分からないけれど。
ささくれだった気持ちを誤魔化すためだと自覚しながら、マルセルは笑うように口の端を持ち上げた。
「こんな無愛想な女にお礼を言ってやるなんて、お前の妹は相変わらずいい子だな」
実際、同期が話し掛けても本から顔も上げないような奴よりよっぽどちゃんとしていると思う。
マルセルの皮肉に対し、
「ああ……!」
何故かユージンがはにかみながら応えて、
「いい子を待たせているなら、ちゃんと妹のところに帰らないとな。“お兄ちゃん”」
シンが飄々と呟いて、
「……ん!?」
“お兄ちゃん”、などと。
無表情で無感情な鉄面皮の持ち主が冗談を口にしたことに遅れて気がつき。
ぎょっとして見た白皙が。
何か痛みに耐えるような。
寂しがりの子供のような。
まるで人間みたいな微笑みで。
「――――」
浮かんだ笑みはごく一瞬。
多分、ユージンは気づいていなかった。シン自身、浮かべていたことを自覚していたかどうか。マルセルとて今しがた見たものは単なる幻かもしれないと思いたくなるくらい、常の彼女とはかけ離れた表情だった。
「なんだ?」
マルセルの視線を察したか。血赤色の視線もまたこちらへと向けられる。
じぃっと。
紅い瞳は猫みたいにマルセルを見つめて、
「……そういえば、」
瞬く。
「誰だ?」
* * *
「やっぱこんな冷血女に関わるもんじゃねぇってユージン!!」
「シン……流石に今のは……」
「だから誰だと尋ねている。おれはお前の名前も知らない」
やっぱり嫌だこの女!