煙草 探窟家に喫煙家は少ない。強く服や体に残る香りが原生生物に気取られやすいため、そもそも三層以降へ降る者へは禁煙が推奨されているのだ。遥か昔は一時的に得られる鎮静効果や痛み止めのような効果を期待し持ち歩く者も多かったらしい。がしかし近年はそれ以上に喫煙による肺活量の減衰が深刻と叫ばれ、今やすっかり禁煙がメジャーとなっている。
そんな中、グェイラという男は頑なに煙草を手放さなさずに黒笛まで至った数少ない探窟家の一人だ。
そうバカスカと吸うわけではないが、仕事と仕事の間に出来た小さな空白だとか、夜勤の合間に隠れてこっそりだとか、時折オースから持ち帰られる少し高価な酒のあてにだとか、あるいは彼が執着する数少ない存在の男と何もかもを放り投げたかのようにまぐわった後だとか。
その日も、グェイラはぐったりとのびるボンドルドにシーツをかぶせると静かに煙草をくゆらせていた。
ここでは煙草は貴重品でもあるから、たった一本。ナイトテーブルに適当に置かれていたジッポで火をつけると、重たい煙に混ざりふわりと甘い香りが鼻孔をなでる。昔、地上で遊んだ女のどれだかに「絶対気に入るわ」と渡され、また別の女に「セクシーね」と微笑まれた甘い香りの煙草。こだわりではなく惰性で愛用し続けているその煙がもうもうと狭い部屋にたちこめ、彼の香りとして染み付いてゆく。
実のところ、基地の中で彼のこの習慣はあまり評判がよくない。意識を返された祈手達から「臭い」とクレームが入る事が最早恒例行事のようになっている。そりゃあそうだ。現在基地に喫煙家はグェイラしかないない。その事を当然グェイラも解っていたものだから、始めてボンドルドを抱いた後いつも通りに煙草を一本吸い終わった後に「ココじゃキスマークより酷いマーキングだな」と笑ったりもした。それも今ではただの習慣に成り下がったのだから、人の慣れとは恐ろしい。
疲労と充実感を頭を空っぽにして楽しむ時間は意外とすぐに終わる。
気づけばフィルターの間近まで灰が迫っている。貧乏くさく吸うのは趣味でない。ほんの少しの勿体なく感じる心を無視してナイトテーブルに置かれた灰皿へと手を伸ばした。
突然、視界の隅で白い影がぬっと伸びた。「あ」と思う間もなくその影は今にも灰皿へ着地しそうな煙草をスルリと抜き取り、ベッドの方への戻してゆく。
「旦那、起きてたんすか」
その影の正体は勿論、さきほどまで疲労困憊でのびていたはずのボンドルドだ。彼は何がおもしろいのか、まったく様にならない手付きで短い煙草を摘み、まじまじと見ていた。
「実は、吸ったことが無いのです」
彼の低く深いはずの声色はまるでモラトリアムの只中の少年のような純真さを孕んでいて、それがグェイラにはどうにもむず痒く思えた。
「そりゃあ探窟家のほとんどはそうでしょうよ」
「しかし、全くはじめ、という方は意外と少ないようですよ。皆少なからず興味は持つもののようです」
「べつに、旨いもんでも無いですよ」
「それはそれは、口にしなくてはわかりませんね」
ボンドルドの口元が、いたずら好きの猫のように歪んで、これまた「あ」と思う間もなくパクリと煙草を咥えた。そしてバカみたいに思い切り吸い込む。まるで吸入薬か何がと勘違いしているように、スゥーっと。そして案の定盛大に咳き込むのだった。ゲボ、ゲボ。苦しそうに背を丸め悶える姿にほんの少しグェイラは安堵した。
「あんた、もう少し加減とか用心とか無いんすか」
「しかし煙草とは吸うのでしょう?」
「まあそうなんすけどねぇ」
一体何が悪かったのか解らず少し不満げな眼差しを向けるボンドルドを無視して、スッと煙草を取り返す。そして間髪入れずに灰皿へと押し付けた。「あ」とボンドルドの間の抜けた声が聞こえて、声には出さずに「ざまあみろ」と嘲笑った。相変わらずボンドルドは少し苦しそうに咳き込んでいる。
「ね?べつに旨か無かったでしょ?」
「…そうですね、特別旨味は感じませんでした」
まるで的外れな答えにグェイラは笑みを深くした。自分よりずっと年上なのにどこか子供臭い彼の有様は嫌いではない。そんなグェイラの思いを知ってか知らずか、ボンドルドはようやく落ち着いた口を少しモゴモゴと動かすと、不意に目線を合わせてきた。
「しかし、確かに君の香りがします」
邪気の無い言葉がグェイラを突き刺した。あっと言う間に耐えられなくなった彼は、その大きな体を大きく動かしボンドルドをシーツに荒っぽく包むと、押しつぶすようにベッドへ倒れ込んだ。シーツの中からはクスクスと腹立たしい声が聞こえる。もはや恥も外聞も無いグェイラは、衝動のままに自身の頭を掻きむしった。
シーツの奥から嗅ぎなれた香りが漂っていた。