「記憶」という名前の少女(小説家と少女) とある日に荘園を訪れた青年は「小説家」のオルフェウスと名乗り、それまで招待状を携えてこの荘園へやってきたその他大勢の招待客(サバイバー)と同様に、「最後の試合」が終わるその時までの間、その身を荘園に囚われることとなった。肩書きとしているその職が上手く軌道に載っていることを体で示しているかのように、彼は茶色の髪を自然体ながらも見苦しくない程度にワックスで固めて、理知的な雰囲気を纏う白皙の顔立ちには、銀縁の光る片眼鏡が洒落っ気のあるアクセントを与えていた。彼が着るものは糊の効いたスリーピースの白スーツに、胸元にはエメラルドグリーンのスカーフと銀細工らしく見えるスカーフ留め。なりふり構わず部屋にこもって文章をひり出すという、所謂「文筆家」のイメージとは異なり、他人からの見え方をあきらかに意識しているようにまっすぐに背筋の伸びた彼が履いているのは、傷一つないように見える革靴だった。
そのように、見てくれとしてきちんとしてはいるが若干派手で、人目を惹くその身なりと白皙の美貌からして、「小説家」オルフェウスは独り身だと思われていた――が、彼は実のところ、自身の妻の行方を探してここに来たらしいという話を聞いた時に、高い声を上げて落胆を露わにしたのは踊り子だった。荘園に囚われた多くの招待客と同様、金策に困ってここを訪れたという彼女は、オルフェウスの、およそ金には困っていなさそうな身なりと、精悍というには優男風ではあるが、兎角整った顔立ちをしているところに目をつけていたからだった。
荘園に囚われた小説家オルフェウスは、一見して身なりのきちんとした青年であり、出身階級は見たところ中上流。行方知れずになった自身の妻を探してここに来た(と言う割に、彼は「妻を失った」という憔悴ぶりのないいかにも涼しい顔でそれを言うのだが)というところの男であったが、彼が持っている「奇妙な癖」は程なくして明らかになった。
彼は、親しくもない(彼女と親しい人間というのは、荘園に限らずおよそこの世に存在しないのだが)異性からの唐突な声掛けに怯える玩具職人を相手に交渉してくまのぬいぐるみを購入すると、リボンを掛けられたそれを誰に贈るでもなく自分の部屋に持ち込んだ。食事の場では、そういったシーンにのみ現れる居館の執事に依頼をして、自身が手を付ける食事とは別に、オレンジジュースと白パンに簡単なサラダとスープや、トリュフケーキと新鮮な牛乳といった可愛らしいメニューを注文し、それらのためのフォークとナイフまで持ってこさせておいて自分の隣の空席に並べさせておきながら、自分はそれに一切手を付けない(空席に供されて手を付けられていないそれを泥棒が拝借しようとしたとき、オルフェウスは珍しく声を荒げた。)。
荘園に囚われた招待客の中で、奇妙な振る舞いを見せる者は少なくもない。例えば、庭のカカシを自分の恋人だと言って憚らず、たびたび医師の診察を受けている庭師や、屋敷の中で他人を捕まえては自分の「冒険譚」を語り聞かせて、日々飽きる様子のない冒険家がいる――が、彼らはオルフェウス程に自分の身なりに気を配っているわけでもなければ、彼のように、他の招待客の来歴に関心を持って、他人を相手にちょっとした会話を試みたりするわけでもない(無論、話し掛ければ答えはするが。)。有り体にいえば、この荘園に囚われている他の「奇妙な振る舞いをする人物」は、大概精神を病んだ「狂人」として受け容れられており、取り立てて問題視されることもなかった。また、試合も食事もどこに行くにも梟を連れるという占い師の男のように、受け答えに問題はないものの生活面の奇行が目立つものも居たが、彼については試合の場で梟を操り負傷を肩代わりするという役である(し、梟を飛ばしているときには棒立ちになる彼は「梟がいないと目が見えないのではないか」とも噂されている)こともあって、各々思うところがあるものはいるかもしれないが、誰も取り立てて文句を言おうとするものもいない。しかし、オルフェウスの奇行は占い師のそれとは異なり、試合の展開上必要なものというわけでもなかった。
オルフェウスの奇行に対するそういった疑問が呈されてから、それが名目上は解決されるまでも、そこまで時間は掛からなかった。というのも、オルフェウスは荘園内で「狂人」と見られている他の招待客と違い、他の招待客との会話にある程度意欲的で、荘園の中では社交的な性質を備えていたからだ。
「おたくは何で、その、ああいうことをするんだい?」とある時のオルフェウスに気安く尋ねたのは、まだ会話可能な程度の酩酊状態にあった一等航海士か、それともバーカウンター越しに彼に酒を提供していたバーメイドか。問いかけたものが誰であるかにせよ、オルフェウスの回答はトーン一つ変わることなく、「そこに娘がいるからだ」というものだった。その答えに、居合わせた二人の酔っぱらいは思わず顔を見合わせ、首を捻り、自分の指の本数を確認し合って、幻覚が見えるほど(あるいは、見えているべきものが見えなくなってしまう程)酩酊していないことを確かめ合ったのだが、見合わせるお互いこそが酔っぱらいだったので、それが正しく機能していたかは定かではない。兎に角、オルフェウスは例の白皙の涼しい顔立ちを、少しも焦りや狂気めいて漣だたせること無く、誰がいるようにも見えない空間に向かって、「娘がいるからだ」と言い切った。
娘を連れていると主張するオルフェウスの側にいる筈の「娘」の姿をはっきりと目にした招待客は、これまでに誰もいなかった。しかし、「姿が見えないが」という招待客からの、ある種当然の指摘に対して、オルフェウスは抗弁もしなければ、これといった追加情報を述べる様子もなかった。一度、彼の「娘」に対して幻覚作用のある薬物の服用を疑ったダイアー医師が検査を促したものの、オルフェウスはそれを丁重に固辞した。奇行があると言われれば目につくものの、一見して平常に見え、取り立てて生活上の問題がないように見える(つまり、目に見える病変のない)オルフェウスに対して、それ以上検査や治療を進めることを医師は躊躇い、結局、それ以上の口出しは控えた――彼女の専門は産婦人科であって、精神や脳の領域ではない。その上、最早医師であることに倦み、患者の幸福を希求するという使命感というよりは、むしろ職業に付随する義務感から、病に苦しんでいるように見える招待客に一応は声を掛け気に掛けようと振舞う彼女がここに来た目的は、たった一人のかつての患者との約束を果たすことであり、無闇矢鱈と患者を増やし、治療をするためではないからだ。
「娘が君のそばにいる」という文句をオルフェウスが最初に口にしたのは、ある日の罪の森の試合でのことだった。「調整」が上手く行っていない時期なのか、ここでは死すらも許されていない――つまり、どうせ誰も死なないから関係ないのか、その試合は普段よりもシビアな様相を呈していた。つまり、断罪狩人のし掛けたトラバサミを踏み抜くと足首に傷が残り、チェーンクロウが首に絡まると、それがそのまま肌を切り裂くような鋭さを持って、案の定凄惨な試合となった。
無論「試合」のルール自体が書き換わっている訳ではないようで、ハンターから二度攻撃を食らうまで、身体は動く。しかし、損壊が日頃のそれの比ではない。実際、カウボーイの縄は早々に擦り切れ、バッツマンは片耳がちぎれていた。薄暗い曇天の下、吸い込んだそばから、濡れた葉の腐ったような酸っぱい匂いに思わず嘔吐いてしまう、排水溝のヘドロを集めたような緑色の沼地に傷ついた足を浸しながらそこを横切り、踏むたびに不穏な音を立てて軋むアスレチックを登って、遠方から飛んでくる金具に怯えながら、残すところ二台となった解読機を生身で回しているうちに、トラバサミを踏み抜いた仲間の苦悶の声――ここでのそれは生死に関わりはしないが、痛いものは痛い――を聞いたその時に、縋る人形も見る影無く壊されてしまっているなかで、ぎりぎりと張り詰めていた神経が決壊したのか、ぼろぼろと泣き始めて解読どころではなくなった機械技師に向かって、試合によって白スーツは多少汚れ、チェーンクロウの錆によって襟は一部ちぎれているものの、声も上げられずに泣き崩れた彼女とは対照的に、涼しい顔を崩さない小説家は例の言葉を言った。
「娘が君のそばにいる。」
機械技師であるトレイシーは、彼女自身がネジの一つ歯車の一つに信を置くが故に、実体のないものにあまり関心を持つ性質ではない。オルフェウスからそうやって声を掛けられた直後は、わけのわからないことを言わないでよと腹立たしい気分で顔を上げたのだが、彼女はその時、確かに、〝存在〟を感じたのだという。焼きたてのパンに粉ミルクをまぶしたような、少し香ばしいこどものはだのにおいが彼女の鼻先を擽り、そのにおいを振りまきながら目の前でひょこひょこと飛び回る妖精のようなそれは、腰までの長さの金髪を模した毛糸束をゆらゆらと揺らしながら、解読器の上からトレイシーの顔を覗き込んでいた。人形に縫い付けられているボタンの目はまるで、彼女の励ますようにも、気遣っているようにも見えた。
オルフェウスが「連れている」と言って憚らない不可視の娘の〝存在〟を感じることができたのは、トレイシーに限らなかった。日頃あくまで冷静で顔色を変えないオルフェウスが、珍しく気遣うとも慰めるとも取れない深みのある柔らかなトーンで「娘が君のそばにいる」と声を掛けると、招待客は誰でも、自分を励ますように目の前でひらひらと揺れる〝少女〟の姿を感じることができた。
そういったことが何回か続き、荘園の中でその〝少女〟に窮地を励まされ、不意の場面で鼓舞された招待客が多くなるにつれ、オルフェウスが連れていると言って憚らない〝少女〟――それは相変わらず試合外で招待客らの前に姿を見せることはなく、ただ、隣の空席に食事を供したり、子供好きのするものをそれとなく集めるというオルフェウスの奇行を通してしか現れないものだが――に向かって戯れに声を掛けたり、思い付きから便宜を図るようにか、ちょっとしたものを与えようとするものが増えた。
そうやって彼の娘、もとい〝少女〟に向かって招待客が声を掛ける度、彼女を連れていると言って憚らず、頭がおかしいんじゃないかというジェスチャーを目の前でされたところで顔色ひとつ変えなかったオルフェウスの方が、片眉を困惑めいた角度に引き上げつつ、彼が連れている〝少女〟に代わって、招待客からのいたって親切な声掛けや、髪に飾るのに具合の良いだろう花、子供向けの絵本、ゼンマイ仕掛けで動く小さなブリキ人形、ミルクパズル、そして、「少し余分に作り過ぎてしまった」という、クリームの上にサクランボのひとつ乗ったカップケーキといったものを、おずおずと受け取るのであった。