kiss as a punishment(ピアソンさんとリサちゃん) ホワイトサンド孤児院には子供の度を越したやんちゃを戒めるための罰則がいくつかあり、その内の一つが「クリーチャーのキス」である。孤児院の経営者であり、何かにつけて自分を「院長先生」と呼ばせたがるが、猫背姿でよその人間に媚び諂っている痩せぎすの男に「先生」という格式ばった肩書きは滲まないと判断されているのか、雇用しているスタッフは勿論孤児たちからも「クリーチャー」と呼び捨てられているその男からキスをされるというものだ。それは、ここにふさわしくない振る舞いをした孤児が喰らうことになるいくつかの罰則の中で、食事抜きや平手打ちよりは重く、反省部屋よりは軽いものとされていた(それらの罰則の間に明確な序列があるわけではないが、苦痛の度合いややらかしたことの大きさから、少なくとも孤児たちの間では、そのように理解されていた。)。
孤児院の経営者であるクリーチャー・ピアソンは、ホワイトサンド孤児院の慈善活動を取材に来た記者たちの前では、日頃からみっともなく丸まっている背筋を伸ばすと、手に唾を着けてどうにも貧相な印象のある顎髭を撫でるように整え汚れを幾分落とし、その手をズボンで拭きながら、睨むように眇めて物を見る癖のある目つきをいくらか意識して瞠るようにして、どうにも柄の悪い人相を誤魔化しているのだが、穴の空いた上着や擦り切れたシャツを着て、潰れるように型崩れした平たいハンチング帽を斜めにしながら目深に被っている様は、「使命感と慈愛に満ちた院長」というよりは、やはり、獲物を求めて裏路地を徘徊するチンピラらしいそれだった。
彼は、他に住まうための家がないのか、それとも単に横着しているだけなのか、孤児と同じように孤児院に住み着いていて、来客がない時は大きなソファのある応接間を我が物顔で占拠している。孤児院に住んでいて孤児と概ね同じ屋根の下に過ごしているから、彼が孤児の面倒をよく見るかというと、決してそう言う訳ではなく、走っていた子供が転んで床に下顎を打ち付け、口から血を流しながら止まらない血に怯えて泣き叫び始める、というような阿鼻叫喚の図が繰り広げられない限り、ホールの長ベンチに腰かけて酒をちびりちびりと舐めたり、中庭で小さくなった煙草を拾った小枝の先に刺し、唇を火傷するのではないかと見せられている方が不安になるようなやり方でちびちび吸うというけち臭い娯楽を享受している時の彼はまず立ち上がらず、いかにも自分が言われも無い迷惑を蒙っていると言いたげに目を眇めて、騒ぐ子供らを睨むぐらいのことしかしない。
そうやって食堂のホールや庭の隅でそうやってみみっちく寛いでいる彼を見つけた孤児が「クリーチャーがけちなことをしている」と見たままのことをいうと、彼は小物らしく怒り出して孤児の胸ぐらを掴むと、その顔をピシャリと平手打ちにすることもあれば、ありのままの事実を述べた子供の方を、どういう訳か左右で色の違う目でじろりと見遣り、汚く黄ばんでいる上に並びの悪い歯を威嚇めいてむき出して笑ったかと思うと手招きして、怪しんでいるのか小さな眉を一丁前に顰めつつ寄ってきた子供に、懐に入れていたスキットルから安物のジンを舐めさせ、子供がそのままぎょっとした顔でひっくり返ったりする様を、げたげたと悪魔のような声を上げて笑ったりもした。時には、おずおずと近寄ってきた子供に「目ぇ瞑って、口開けてろ」と言い、子供が指示通りに口を開けると、その小さな口の中にどこかから持ってきたらしい溶けかけの飴玉やチョコレートの切れ端、手持ちがない時には丁度取れた耳糞や鼻くその類を指ではじいて放り込み、急に口に物を放り込まれた子供が目を白黒させているのを見遣ってまたゲラゲラと下品に笑う、というようなことをした。要は、彼は不安定で癇癪めいた気質をもっており、迂闊に近寄るとどういう扱いをされるか分かったものではないという点で有害な大人だったが、そうでなくとも孤児たちは好んで彼の側に近寄るようなことはしなかった。彼はそれを都合よく勘違いして、「国王は程よくイフ(畏怖)されるべきだ」と上機嫌にしているが、単純に近寄ると臭く、いいこともあまり無いからだ。
ある日、よく言えば活発でやんちゃ、悪く言えば周りがまるきり目に入っておらず、しかも頭のネジが緩んでいるような振る舞いをする子供が廊下を転がりまわるのを止めないせいで危うく洗濯物を廊下にぶちまけかけたヴェロニカ――彼女は万年人手不足の孤児院に雇われている数少ないスタッフの一人だ――が低い声で怒鳴ってみても、足がないくせに尋常ではない素早さで這って逃げ回る爬虫類のような子供に業を煮やし、さらには、すぐそこに見える例の経営者が、どこかで調達してきたらしい長い紙巻きたばこをゆったりと吸い込み満足気に目を細め、ここでヴェロニカが苦戦していることなど全く聞こえていないような面を晒していることに気付くといっそう腹が立ったこともあり、「あんまり言うことを聞かないと、あんたはクリーチャーとキスだよ!」と口からでまかせに脅し文句を怒鳴ると、それまでヴェロニカの発したどんな言葉にもまるで耳を貸さないで転がりまわっていた子供がぎょっと目を見張りながらその場で凍り付くように止まったので、以来、その文句は、孤児院とは縁のない家庭の寝かしつけで「早く寝ないとおばけが来るよ」と言う時と似たような文脈で使われるようになった。
そうして「クリーチャーのキス」という罰がホワイトサンド孤児院に現れたのだが、実際にその刑が執行されるかどうかは、まちまちだった――いきり立ったヴェロニカから子供を渡されたクリーチャーが、彼の側としても、いきなり子供にキスをしてやれと言われ、多少困惑した風にヴェロニカと子供を見遣った後、ヴェロニカは引く気配もないしまあ仕方がないかと思い、顔を蒼褪めさせている子供に向かって(まあ一応)と言いたげに腰の引けた様子で頬に軽くキスをしてみると、ヒゲがあたって痛いと火の点いたように大泣きする子供を見て腹が立ってきたので床に叩きつけて余計な怪我を負わせるような時もあれば、すっかり酔っぱらっている時に呼び出されたせいか、「クリーチャーが大人のやり方を教えてやる」と妙な意気込みを見せ、子供相手に顎を掴んで舌まで入れる(その時執行された子供が白目を剥いて気絶したせいで、「クリーチャーにキスされると魂を持っていかれる」という噂まで出回った)こともあった。
ホワイトサンド孤児院に収容されている孤児のリサは、その他多くの孤児と同様、クリーチャーにはあまり近づかないようにしていた。元は幸福な家庭で大切に守られていた彼女は、子供ながらにある程度物事の道理を弁えており、彼女の円らで聡明な目から見たホワイトサンド孤児院の経営者、もとい院長は、あまりまともな大人のようには見えなかった。幸いなことに、クリーチャーは積極的に子供の面倒を見る性質ではないので、大人の手をてこずらせなければ、彼の世話になるようなことは殆どなかったのだが、ある夜中に目を覚ましてしまったリサは、そこで自分が、(とてもトイレに行きたい)と思っていることにはたと気が付いてしまい、そうなるともう一度目を瞑って朝までやり過ごそうという気持ちにもなれなくなってしまった。
勿論、消灯時間を過ぎてから歩き回ることは許されてはいない。けれど、二段ベッドの一段に子供が二人から三人ずつ詰め込まれている部屋の中にはおまるのひとつも置いていなくて、時々年端の行かない子供が我慢できずに漏らして、大人だけでなく、同じベッドの子供からひどい目に遭わされているのを見たことがあるリサは、しばらく尿意を忘れようと心掛けた後に、諦めて、薄っぺらい毛布の下からこっそりと抜け出すと、裸足が床に触ってぺたぺたとなる音も抑えようとしながら、こっそりと部屋を出ようとした丁度その時、夜警をしていたクリーチャーと鉢合わせた。
部屋から急に出て来た子供の影にピアソンの方も相当驚いたらしく「うおっ!?」と若干間抜けた声を上げ、身構えるように一歩後退ったのだが、リサの方も出し抜けに、それも、(外出禁止の禁を破っている最中なのだから、孤児院にいる大人の誰にも鉢合わせたくないが、中でも特に)鉢合わせたくない大人に遭遇してしまって、思わず叫ばないように両手で口を咄嗟に押さえるぐらいには驚いていた。それでも、ただ懐中電灯をもって歩き回っている怖い顔の男に出くわしたぐらいなら、八歳になったリサは、まだ尿意を堪えられただろう――怖い顔の大人といっても、それは全く見ず知らずの知らない人ではなく、一応は、知っている顔であるし――が、その日は折り悪く「新入り」が入る日であり、新入りの面を見て時に「経営判断」をすることがあるクリーチャーの服は、暗がりでもそれとわかる程の量の返り血を浴びていた(加減を誤った日だ)。極めつけに、彼は懐中電灯をもっていない方の手に、血まみれの斧を持っていた――彼の視点としては、「経営判断」のために薪割り場から持ち出して来た斧を水で濯いでから戻しにいく途中、急に孤児がひょっこりと現れたというところだったが、ドアを開けたところに怖い顔をした大人が、それも血まみれの刃物を持って立っている現場に遭遇してしまったリサは、その場でぷつんと緊張の糸が切れてしまって、生暖かい液体が太腿を伝ったと思ったら、そのまましょろしょろと迸るようにその場で漏らしてしまい、しかも、その上にへなへなと座り込んでしまった。
(どうしよう……)
リサは頭の中でそんなことを思いながらも目の前は真っ暗になっていて、自分の心臓が怯え切って縮み上がりながら、役に立たなくなった喉の代わりに、どこかへ助けを求めるようにばくばくと響く音ばかりが耳についた。子供は夜に出歩いちゃいけないし、漏らして床やお洋服を汚してもいけない。しかも、それをあのクリーチャーに見つかった上、彼は何故か、血まみれの斧を持っている。クリーチャーは機嫌によって、孤児に対してとんでもない仕打ちをする大人であることははっきりしていた。ある時には特に怒らないようなことでも、ある時にすると、まるで火が付いたように怒り出して、子供がぐったり動かなくなるまで追い回して、蹴り続けたりする。その時のリサには、ここで「床を汚した」という理由で、彼が今手に持っている斧で、自分の頭をかち割られたって、本当におかしくないように思えていた。
「お、おい、マジかよ。漏らしやがった……」
咄嗟に頭を庇いながらその場に座り込んだままのリサを上から見下ろしていたピアソンは、怒声というよりは呆れ声に近いそれでため息交じりに言った。そして、頭を抱えているリサがびくっと大きく震えるのも気にしないで、懐中電灯をズボンの尻ポケットにしまい、空にした手でリサの服の首根っこを掴むと、「た、立てよ」と続ける。しかし、ここで本当に首を切られてもおかしくないと思い、蒼白の顔で助けを呼ぼうにも、身体がすっかり竦んで声も上げられない――だいたい、ここで子供が誰かに助けを求めたところで、意味はないのだが――リサが震える脚でどうにか立とうとしているのを眺めていたピアソンは、(こいつは頭がおかしいやつだろうな)と悪びれずに思いながら、手に持っていた斧を壁に一旦立て掛けたところで、そういえば自分がまだ洗っていない、新入りの返り血がべったり付いた斧を持っていたことを思い出し、それから、目の前に急に出て来たと思うとその場で怯え切った様子で漏らしている子供の様子にようやく納得がいった具合に、「あ、」と、少し間の抜けた声を漏らした。
「……お、驚かせて、わ、わる、悪かったな。」
「お前がちゃんと寝てれば、こんなことにはならなかったんだぞ」と、ただ咎めるというには恨みがましい調子の前置きをしつつも、あからさまに血まみれの斧を壁に立て掛けた大人が、続いてリサに向けた言葉は、それまでリサが全く予想だにしていなかった、哀れむような声だった。悪評の名高いこの大人が、そんな調子の声で物を言えるのかというところにリサはまず驚き、続いて、リサの前に膝を広げて屈んで、「い、一緒に洗っといてやるから、脱いじまえ」と言いつつ、リサが漏らしたおしっこに汚れたぶかぶかのシャツとパンツを、思いのほか手際よく脱がせてくる、返り血を浴びている大人の、怖い顔をした男の顔をきょとんと眺めていると、取り急ぎ今この場で頭を割られたり首を切られたりすることはないみたい、という安心感から遅れて視界が歪み、リサの目からは涙が溢れて来た。
「な、何で泣く!?」
怒鳴ってもいなければぶってもいない内から泣き出されたピアソンは、その場でぎょっと目を剥いて思わず声を荒げたものの、それでリサがいっそう火のついたように泣きじゃくり始めたのを見ると流石に少々慌てて、小便で濡れた床をリサから脱がせた服を丸めて雑に拭くと、ほとんど裸になって立ち尽くしているリサを取り敢えず片腕に抱き上げ、洗濯室の方へと向かった。クリーチャーはそもそも斧とシャツを洗う為にそうする必要があったし、お漏らしのシャツとパンツはその辺の桶にでも突っ込んでおいて、明日ヴェロニカが来た時に洗わせればいい。乾いているシャツがそこにあれば、ついでにこいつに着せてやろう。裸で寝かせて、そのまま風邪を引かれても困る。
翌日、昼頃になって大あくびをしながら部屋から出て来たところで早速ヴェロニカから渡された「罰則を犯した孤児」が、ぎゃあぎゃあ騒いで泣いて暴れながら嫌がるのを壁に押さえつけてがりりと頬を齧ってから、まるで汚いものを噛まされたというように中庭の噴水の水を掬って口を濯ぎ、地面に向かってぺっと唾を吐いているピアソンを見かけると、昨晩洗濯室に置かれていたパンツと、以前着せられていたものより若干サイズがぴったりなシャツを着ることになったリサは、これまでにないことに自らピアソンの方へと近寄って行き、「あ、あの」とおずおずと声を掛け、それに続けて「ありがとうございました」と、幾分畏まった礼を言った。結局昨晩の彼は、リサに乾いたタオルで身体を拭かせると、その間に洗ったものか洗っていないものか定かではないものの、適当なシャツと下着を見繕ってリサに着せ、「さっさと寝ちまえ」と、ぼやいているのかリサに言い聞かせているのか微妙な調子でぶつぶつと言いながら、リサの腕を掴んで孤児の寝室まで引っ張って来ると、そこに放り込んだ。つまり、(これと言って優しい訳でもなく、むしろ雑な扱いであるとはいえ、)思いのほかまともに世話を焼いたのだった。
ピアソンは一瞬、妙によそよそしく畏まった調子で声を掛けて来た孤児に心当たりがないのか、まるで言葉を喋るカエルを見たとでも言いたげな訝る視線で、リサの切りそろえられた前髪の下から覗く稚く円らな目をジロリと睨んだものの、そうやって一拍置いてから思い出したのか、「……あ、お前、き、昨日の、ションベン垂れか」といかにも心無く揶揄うような意地の悪い含み笑いの調子で言い出すと、まるで獲物に狙いをつけるように細めた目でニヤっと嫌な嗤い方をして、「おもらしがヴェロニカにバレたか?」と尋ねる。
「お、お前も、ば、〝罰〟を貰いに行けって、い、言われたんだろ?」
クリーチャーが斧で脅かしたとか言って逃げればいいのに、お前、バカだなあ、などとべらべら続ける大人の声は、矢張りどうにも哀れむような調子で、哀れみながらリサをコケにして嗤っているのだとわかっているし、これまでも平気で孤児に手を上げるところを目の当たりにして、彼はろくでもない大人だときちんと知っているにも拘わらず、リサは(ホワイトサンド孤児院で下されている「経営判断」についてよく知らないということもあったが、)不思議と、(彼は、そこまで悪い人ではないのかもしれない)という風に考えを改めつつあった。
だから、意地が悪いことを嘲笑うような調子で言いながら昨晩と同じようにその場に屈み、子供がこうすると嫌がって泣くとわかってにやにやしながら「ン~マッ」などと粘っこく喉を鳴らすような音を立て、これ見よがしに唇を尖らせつつ顔を寄せても、リサはその場に座り込んで火の点いたように泣き出した昨晩とは打って変わってたじろぎもしなかった。それどころか、顰められもしないリサの真顔を見ることになったピアソンの方が、(何だ、あてが外れたな)とでも言うように片眉を上げ、少し白けた調子で、今にもキスをくれてやろうという具合に寄せていた顔を引こうとしたところで、リサの方から上着の肩の辺りをぎゅっと握られ、まるでだっこでもせがむように引き留められたので、いよいよ彼の方が顔を顰めて「あ、あんまり、図に乗るんじゃねえぞ、シッ、ションベン垂れが……」と叱責めいたことを言おうとしたところで、子供の方から急に顔を寄せてくると、彼の頬に口を宛がってきたので、今度はピアソンの方が驚いて肩を竦め、その拍子にバランスを後ろに崩し、まるでその場で腰を抜かしたかのように、地面に尻を着いて座り込む番だった。
「……キスが罰扱いなんて、ひどいと思うの。」
リサはそこで初めて、はっきりと物を言った。というのも、それは親から引き離され取り残されたような日々を独りぼっちで暮らしながらも、辛い目に遭う他人を見て心を痛めるような優しい性質の彼女が前々から思っていたことでもあり、クリーチャーのことを「恐ろし気でろくでもない院長」と見ていた時ならば兎も角、彼が思いのほか、良心の兆しめいたものを持っている人なのかもしれないと思うと、それが本当にむごい扱いであるようにも思えたからだった。
「これはお礼よ」と言って、少なくともピアソンの目からすると孤児らしからぬしっかりした足取りで去っていくリサに、(それは彼の人生ではほとんどないことだったのだが、)悪意のない接触を受けた頬を、まるで不意に殴られた後のように手で押さえて、ぼんやりしていたピアソンはふと我に返ると、子供にされたことで度肝を抜かれたような有様になっている自分を辱められたと感じ、怒りか何かによって瞬間的に顔を真っ赤にして「ガキに唾つけられて礼なんざ、っへ、ヘヘ、反吐が出るぜ!」と声を荒げて罵ったものの、その不機嫌めいた仕草が長く続くことはなかった。