お花が好きじゃない人(弁護士と庭師) リサは、お父さんのお友達と一緒に、お出かけをしたことがある。「お父さんと二人で、よくお話をしないといけないから」といって、お母さんが、そのお友達の人に、一日、リサの面倒を見るようにお願いしたの。それから、お母さんはリサに、「いい、フレディさんの言うことをよく聞くのよ」って言い聞かせた。
お父さんのお友達のライリーさんは、スーツを着て髪をピカピカに固めた若いおじさん。いつも親切で、尋ねてくる時は、お花を持ってきてくれる。普段は疲れた顔をしてるお母さんも、彼が持ってきてくれる綺麗なお花を見ると、元気が出るみたいで、そのお友達の人の前では、よく笑ってる。お母さんはきっと、お花が好きなのね、だから、リサもお花が好き。
「今日は、お花を持ってきてないんですね。」
ぱりっとしたスーツにネクタイを結んで、手にはお仕事の鞄(ブリーフケース)だけをぶら下げているライリーさんに聞いてみると、彼は訝し気に眉を寄せた。
ライリーさんがそんな態度を取るところを――つまり、普段の感じのいい微笑みを浮かべもしないで、相手を疑うような目で不躾に見るところを、これまでに見たことがなかったリサはそれに驚いて、(私、何か悪いことを言ってしまったかしら)って、リサがそうやって考えている内に、ライリーさんは、ともすれば睨んでいるように細めた目でリサを見下ろしているかと思えば、ふっと、口元だけで嫌味っぽく笑って、何か言った。
その時に、彼が何を言ったかは、表通りを行きかう様々な人の足音や、車道を走る馬車の車輪がレンガを叩く音に紛れて、何も聞こえてこなかった。けれど、そうやってあからさまに、笑いたくもないところで無理やり笑うような顔をしているライリーさんは、普段からお花が好きで、だから来客の度に綺麗なお花を持ってきてくれる人というわけではないし、元々親切な人だから、お母さんや私たち家族に、親切に見えるように振舞っている訳じゃないんだな、ということはわかった。
ライリーさんはその日、「したいことがあったら、何でもいいなさい」とリサに言った。
「普段、ご両親も忙しくしているんだろう。あまりかまってやれていないから、よく見てやってほしいと、君のお母さんから聞いている。」
彼は柔らかいものの表面を撫でるような気を遣う声で、「お金のことは心配しなくていい。」と優し気に言う。その一方で、眼鏡の奥の彼自身の目は、決してリサを見なかった。それでいて、普段のように笑って見せると、愛嬌のあるようにも光る(彼は服装に隙が無い分、気取らずに笑うと目立つ前歯が、親しみに近い可笑しみを抱かせる性質の顔立ちをしていた。)彼のブラウンの目は、トカゲめいた冷血な温度のまま、それでも「心配そうに目配せをする」フリが、いっそ巧妙な程に上手なので、かえって、輪郭を上滑りしていくような、その不自然さが目についた。
ショーウィンドーが並ぶ通りの雑踏の中で、これほどの人込みを一人で歩くのには慣れていないリサは、自分の両手を硬く握りしめながら歩いた。
最初、人込みを歩くなら、はぐれないようにした方がいいんじゃないかと思って、ライリーさんに「手をつながないんですか?」と聞いたら、ライリーさんは、眉間に寄った皺を隠すように、眼鏡の鼻宛てを押し上げて、その位置を直しながら、「必要か?」と、逆に聞き返してきた。
「君がそうする必要があると言うなら、勿論そうしよう。何せ、君のことは、君のお母さんから、くれぐれもよろしくと言われているからな。」
そこまで言うと、ライリーさんは少し肩を竦めて「でも、随分しっかりしているようだから、そういう子ども扱いは、かえって失礼かと思ってね。」と、口元に苦笑いを浮かべて付け加えた。
「……わたし、六歳なの。」
「そうだな。その年でそんなにしっかりしてるのは、立派なことだと思うよ。」
まるでリサを褒めるみたいなことを言いながら、眼鏡の奥の目を細めて、ライリーさんは笑っているフリを続けている。
「……はい、大丈夫です。」
だから、リサは彼にどうにかしてくれるように頼むより、ここではぐれないように自分の方で神経を尖らせることにした。もしも、ここに人さらいが来たらどうするの? でも、薄い膜を張ったように距離を取りたがり、うっすら拒むように眉頭を寄せて不愉快そうにしているライリーさんに、「人さらいに遭ったら怖いの」と言って、手をつないでほしいというのはちょっと勇気のいることだったし、手をつなぐことを許してもくれない大人のズボンの裾を握るのは、もっと勇気のいることだった。第一、彼のぴしっとしたスラックスに触ることを、この、物腰ばかりは柔らかいけれど、どこかで神経の糸をぴりぴりと張り詰めている気配のあるおじさんが、リサに許してくれるようには思えない。それに、流石にそんなことが――人さらいが来るようなことがあったら、大人のライリーさんがどうにかしてくれるんでしょう。
通り沿いを歩いている間、ライリーさんは、リサが横を歩いていることなんかまるきり忘れたような、しらじらとした顔で歩いていたけれど、リサが少し躓きかけたりすると、顔色ひとつ変えないながらに、傾いたリサに手をそれとなく添えて、リサが転ばないように止めはしてくれた。彼はそれから、「気をつけなさい」というでもなく、リサの肩を掴んだ手をすぐに離すと、自然な仕草でハンカチやスラックスの布地で手を軽く拭いながら、自分のすべきことは果たした、と言いたげな様子で前に向き直る。
今になって思えば、あの時のあの人は、他人の子供(それも異性の子供)を持て余していたのかもしれない、と思う。あの人が好きなのは、お母さんだけだった。お父さんのことはお友達と言って騙してカモにしたし、その彼からすると、リサは「お母さん(マーシャ)の子供」というよりも、「お父さん(レオ)の子供」に見えていたんだと思う。それはそれで構わないわ、と私は思う(だって、お母さんが選んだのはライリーさんで、結局私たちは捨てられたんだもの!)。けど、あの時のリサに、そんなことはわからなかった。
これは、ライリーさんとどこかに行く途中なのか、それともこのあたりをぶらぶらしたいだけなのか、リサは疲れたと言っていいのか、これからどこに行くのか聞いてもいいのかしら? ライリーさんは、リサが何かを言えば、たぶん聞いてくれるけど、それでも、見るからに機嫌のよくない(しかも、それを隠そうとする)大人は怖い。平坦な声で、興味もなさそうに冷たい目をしていて、それを取り繕いもしないのに、態度ばっかり、親切な振る舞いの表面をなぞっているライリーさんは、どこかちょっとでも触ると、そのまま張り詰めた糸が、キリキリと金切声を上げそうな不穏さがあった。
その内に、ちょっと疲れて、なんだか歩くのがばかばかしくなってしまったリサが、ふっとその場に立ち尽くして、歩くのを止めてしまうと、ライリーさんは、二歩三歩と先に歩いてから、ぴたりと足を止めて、リサの方を振り返った。
その時、振り向いた大人の顔を、リサは怖くて見れなくて、自分の足元――お母さんが綺麗に磨いてくれたよそいきの靴――ばかりを見ていた。
「どうしたんだ」
そこに、ライリーさんの平坦な声が降ってきた。リサにそう聞きながら、ライリーさんは仕事鞄の持ち手を几帳面に握り直していて、もしかすると彼は、ちょっと怒っているのかもしれない。だって、リサが変なところで立ち止まったりなんかしたから。
(怖いな、)と思って、リサが、リサの正面にやってきたライリーさんの、よく磨かれてはいるものの、少し草臥れている革靴から目を逸らすと、その先にあったショーウィンドウには、揺り籠やベビーベッドと一緒に、白くてふわふわのウサギのぬいぐるみがいくつも飾ってあった。
「……欲しいのか?」
「ううん」
だいじょうぶです、と、リサが平坦な声を慎重になぞると、ショーウインドウの方に目をやっていたライリーさんは、「不思議そう」というには、やっぱり訝るように眉を動かしながら、リサを横目に首を捻ったけれど、リサは本当に大丈夫だった。
だって、それが欲しくって立ち止まった訳じゃない。ずっと気を張っていたから、ちょっと疲れちゃっただけなの。それに、疲れたって言っても仕方がない。今出来ることといったら、この、お花も子供も好きではなさそうな、「お父さんのお友達」との時間を、出来るだけ穏便に済ませるということだけ。
それからどうやって、日が沈むまでの時間を潰したか、今の私はもう覚えていない。
ショーウインドウの前をゆっくりゆっくりと数往復してから、どこかのお店に入って、ご飯をごちそうになったかもしれない。その時には、彼も多少砕けた話し方をして、私もそのお話に、少しは笑ったのかもしれないし、ライリーさんは相変わらず、子供の相手をする気はないままで、リサも、特に何もしゃべらなかったのかもしれない。第一、食べている途中におしゃべりをするのは、あまりお行儀の良いことではないし……。
でも、覚えていることが一つある。その日の別れ際のこと。ライリーさんは、リサのお家のドアをノックする前に、リサに一匹のウサギのぬいぐるみを持たせた。それは白くてふわふわの、ショーウインドウの中にいた子で、リサはそれに、「わあ!」と驚いて、何なら嬉しそうに笑いながら、「ありがとうございます!」って、すぐに言わなきゃいけないのに、そのぬいぐるみがあまりにも急に、彼の平たい仕事用の鞄から、まるで手品みたいに出て来たから、そっちの方にびっくりして、何も言えないでいるうちに、相変わらず、あくまで立ったまま、上からリサを見下ろしてくるライリーさんは「リサ」と、初めて私の名前を呼んだ。
「お前は、これが欲しかったんだろう?」
彼は続けて、有無を言わせない程の落ち着いた声で、ゆっくり、リサにも聞き取りやすいようにそう言うので、リサは、彼が何をしたがっているのかすぐにわかって、自分のするべきことを――きちんと頷いて、口答えをしなかった。
「よし、」
そうやって物分かり良く頷くリサを見たライリーさんは、これで一仕事終えた、という風に呟いた。そして、続いてリサに「帰ろうか」と言い、踵を返すと、リサの家の呼び鈴を鳴らした。