The Moment(医師) 試合の場でエミリーだけが最後まで立っているということは、珍しいことではなかった。医薬に精通する彼女は、試合の最中にも瞬く間に負傷を治癒することができ、試合ではロケットチェアに縛り付けられて一定時間が過ぎるのを待つだけでなく、治療が間に合わないまま地面に蹲り、そのまま意識を失うことも脱落条件に含まれているからだ。そのようにして脱落することを、ここでは「失血死」と言うが、かといって、本当に死ぬわけではない。試合の場で受けた傷は五体満足に――招待を受け、表の門を潜って荘園に訪れたまさにその時の状態に戻るし、試合の場で事切れたサバイバーも、ゲームが終わりさえすれば、その場での負傷や苦悶が、まるで夢か何かであったかのように五体満足で歩いている。
他人の死に直面すること、その死に目を看取ることは、医師である彼女にとって、何となれば荘園に来る以前から、そこまで珍しいことではなかった。すべての患者が適切な処置を受けられるわけもなく、すべての医者に自愛の心があるとも限らないが、少なくとも、彼女は誠実で使命感を持った医師でありたいと、常にそう願っていた。一つきりしかない命を懸けたこの戦場においても――故に、彼女は伏せた仲間の傍らに在ろうと努めたし、まさにそれ故に、治癒が間に合わず事切れる仲間の姿を見ることも珍しくはなかった。
「母さん?」
赤の教会である。ここではかつて未完了の結婚式が行われたらしいが、この場所を「試合のマップ」としてしか認識していないエミリーは、その逸話も誰かに言われて思い出す程度のことだった。その教会が何故、「赤」という色をその名に冠しているのかもわからないが、ゲートの前には、さながら参列者のために並べられたようないくつもの椅子があり、赤い絨毯が敷かれている。
その上に蹲っていたウィリアム・エリスの顔からはすっかり血の気が引いており、治療が終わるのが先か「失血死」の判定となるのが先か、極めて怪しいところだった。
「動かないで」
エミリーが鋭く放った指示をよそに、ウィリアムは負っている怪我の度合いからすると驚くほど呆気なく頭を擡げ顔を上げ、意外だ、とでも言いたげに丸くした目でエミリーを見上げると、処置のためにエミリーが伸ばした手を、いたってやさしく掴み取りながら繰り返す。
「母さんなのか」
久しぶりだね、来てくれたのか。見てくれた? 俺の活躍をさ。口角から血の泡を零しながら、ウィリアムはそれにまるで気付いていないかのように、へらりと人懐っこく、それでいてはにかむような調子の微笑みを浮かべながら、次々に口を動かす。
「……ええ」
それらはすべて明らかに「時間切れ」の兆候であり、エミリーは最早制止しなかった。いたって柔らかく掴まれた手で、スポーツマンの分厚い程の手を力なく握り返しながら、顔色の割には穏やかな彼の微笑みを見つめる。
「ちゃんと見てたわ、あなたの活躍を」
「そう、へへ……」
エミリーの声に応じて、ウィリアムは微かな笑い声を漏らすと、次の瞬間には、もう息をしていなかった。それは、試合の中ではそこまで珍しいことでもない。他でもない「医師」である、彼女にとっては特に。
一拍遅れてどっと地に俯せたウィリアムの骸を見送るや否や、背筋にぞっと寒気が走る。ハンターが近くにいる。「囮」の様子見にでも来たということかしら? そうやって、すぐさま思考を切り替えられる程度に、「それ」が相手の使う戦法としてはいたってありふれたものだと、エミリーにも分かっていた。そういう「戦法」だとわかっていたとしても、彼女はあくまで医師であった。少なくとも、彼女自身はそう在りたいと願っている。故に傷ついた人間を見捨てて脱出を図ることが、彼女にはどうしてもできなかった。この試合自体が狂っている。何につけても人道に悖ることだと、腹立たしく思う気持ちが無い訳でもないが、そもそも相手(ハンター)は化け物なのだから、そんな話、通用しないということだろう。彼女は注射器を握りしめて素早く立ち上がると、走り出す。
致命傷を負った全ての者が、自分の傍らに屈んでいる医師に、「誰か」を見出すというわけではない。例えば調香師は、流石に感覚が鋭敏なのもあってか、致命傷を負いながらも治療を続けようとするエミリーに向かって、「もう十分でしょう、〝ウィラ〟(わたし)から離れて頂戴」と言いながら、ほっそりとした柳眉を神経質に顰めると、最後の息で心底忌々し気に、「臭いのよ……」と零したりもした。
そういった「例外」はあるにせよ、事切れる直前の彼らが、訳も分からず伸ばして来る手、慕わし気な眼差し、微笑み、言葉、エミリーはそのどれもを、否定せずに受け止めることにしていた。「ええ、私よ。ここにいるわ」と言って、伸ばされた手を握る。それも医師の――患者の幸福を追求することを義務付けられた者に掛かる、職責の一つだと感じていた。
それは、決して欺瞞ではない――すべきことをしたのだと、エミリーは捉えている。自分が嘘を吐きたくないからという身勝手で、事切れる寸前に見る幻覚を否定して、何になるというの? どんなことがあろうとも、老若男女誰であろうとも、目指すのは「患者の幸せ」だ。私は毒薬を渡さないし、使用指導もしない。どんなに頼まれても、絶対に渡すことはない。けれど、もう助かる見込みがない彼らが、最後の息で零す言葉を掬い上げて、その手を握ること。せめて一人ではないと伝えること。それが、居合わせた私にできる最後のことでなくて、一体何だというの。
聖心病院であった。マップの端に放置された彼は、既に起死回生を一度使っているようであったし、地面にはおそらく踏みつけられてひしゃげた彼の眼鏡がへばりついている。爪に土の入り込むまで地を握りしめながら、擦り切れた地図を握りしめているその手の手首に、エミリーは触れた。脈をとるためだ。
固い地面に俯せ、自分自身では最早出血を留めることも出来ず、ひたひたと這い寄る冷たさ――背骨が凍り付くような、失血死の瞬間――に晒されていたライリーは、消える間際の蝋燭がひときわ明るく燃えるような素早さで顔を上げると、ただでさえ眼鏡を失い、殆ど見えていないのであろう目で、ぼんやりと、目の前に現れた人影を凝視する――今際の際に現れ、自分の手を取ったのは誰か――願望がついに、形を持って迎えに来たのではないか――血の回りきっていない頭で考え事をするライリーの様子には、日頃の鉄面皮というべきか厚顔と言うべきか、或いは口ばかりがやたらに上手いというべきか、兎角隙が無い振る舞いをする彼らしからぬ、透き通るような無防備さがあり、平生の彼らしからぬ柔らかな雰囲気、向けられる茫洋とした眼差しに、彼が「誰かを見ようとしている」ことを反射的に察したエミリーは、「大丈夫ですよ」と気休めに声を掛けようとして開きかけていた口を噤んだ。
目の前で死にゆく人が、最期に一目会いたいと願ったのが、母であろうとそれ以外の女性であろうと、エミリーは、その手を握ることに躊躇いはなかった。それが、最期に居合わせただけの、これ以上手を尽くすことのできない医師にできる、唯一のことだったからだ。間に合わなかったことへの贖罪と言ってもいい。
握り込んでいた地図の切れ端が破れても尚強く、土ごと握りしめていたライリーの手が開かれる。彼の指は細く、その分指の節々に残るペンだこの名残が目立つ。しかし、エミリーの予想に反して、彼女の手を振り払うように腕を振ったライリーは、次の瞬間には、日頃の様子に近い顔つき――眉間に深い皺を刻み、青白い頬を強張らせながら、「今更医者か」と嘆くように言うと、血を失い冷えていく身体が絶えず感じる寒気から唇を震わせながら、途切れがちに続ける。
「どこで、油を、売って、いやがった……はぁ、もう遅い、役立たず……」
ライリーは続けて、他人の愚かさに苛立つようにも、或いはそれを嘲るようにもといったところの冷酷な溜息を吐き、一言、「人殺し」と、どこか冷笑交じりに履き捨てたかと思うと、吐き切った息を再び吸い込むことなく、そのまま事切れた。血を失い地面に伏せった屍となったライリーの瞼は薄く開かれたまま、その中央の瞳孔は、みるみるうちに黒々と開いていく。結局脈を確かめる間も無く事切れた男の手首を離すと、エミリーは肩を落とし、先刻のそれがうつったかのように溜息を吐いた。
そうやって、助けられなかったことを今更嘆いているわけではない。人間の命には限りがあり、医術は神の技ではない。それは、これまでの数多の犠牲の中から生み出された知識の蓄積であり、最善の手の積み重ねこそが医術であり薬学であって、それを振るう医師もまた、人間であることに変わりはない。だから、限りある中で最善を尽くす以上、どうしても、そこから零れ落ちるものがあるのは、ある意味で「仕方がない」。エミリーはその点をよく弁えていた。その意味では医師は皆少なからず人殺しであり、そうでなくとも、彼女は既にその謗りを免れない――エミリーは、それを否定するつもりはなかった。
ただ、少し疲れた。いいえ、ひどく疲れた。もうこんな、いつ終わるともしれない試合の再現に駆り出され、日々マップを駆けずり回るような、人目を気にしながら絶えず引っ越しを繰り返すような、こんな暮らしを終わりにして、私は、ただ、どこか遠くで、この上なく穏やかに暮らしたい……。背筋に寒気が走り、怖気に握り潰されるように心臓が悲鳴を上げている。しかしその日、その場に座り込んでしまったエミリーは、どうしても、立ち上がる気にはなれなかった。