with pearl earrings(泥庭医) エマが部屋で机に向かい、彼女が日頃つけている継ぎの当たったエプロンのポケットに入る程度に小ぶりなサイズのノートを開いて、日々の園芸の記録を付けていたところ、ドアをノックされた。
「はーい」
それに何気なく応えたエマが、さらに「どなた?」と続けると、「う、ウウ、ウッズさん! わっ、わた、私だ、ク、クリーチャーだ。その、い、いまいいか」と、ドアの向こうから男の裏返った声が返って来て、エマは微かに表情を曇らせながら、迂闊に返事をしたことを後悔した。
彼女に用があるらしく、部屋の前まで来ているクリーチャー・ピアソンとの因縁――彼はエマにとって、荘園での初回のゲームで同席した三人の内の一人であり、そのゲームの参加者はいずれも、過去に彼女に対して酷い仕打ちをした者たちで構成されている――は兎も角として、今時点のエマはその男のことを、「絡まれたら面倒な人」程度に思っていた。何かと付きまとってきて鬱陶しいし、それで思うように行かないと癇癪を起こして喚き出すところなんかを、エマは(子供じゃないんだから!)と、呆れるぐらいに思っている。そっと息を殺して、いないふりをすれば良かったかもしれない………。
(でも、試合の再現のことで、何か連絡に来たのかもしれないし)
確かに、彼は何かとエマに付き纏っては来るものの、部屋にまで押しかけてくるのは珍しいことだった。やたらと絡んでくる癖に自分に自信があるという訳でもないようで、自分が部屋を訪ねたところで、居留守をつかわれるのがオチだろう……というところは弁えているのかもしれない。部屋を出たところで出待ちをされていたことはあっても、部屋にまで押しかけられたことはあまり記憶にない。
そう思うと、何か本当に、まっとうな用事があるのかもしれないと思えて来て、気を取り直したエマがドアを開けると、そこには案の定ピアソンが、やたらにそわそわと落ち着かな気な態度で立っていた。彼は見るものに貧相な印象を与える自分の顎髭(というには、顎に生やしているだけの髭という風のそれ)を触ってみたり、通常衣装よりは破れ目の目立たない「無律の曲」衣装の鼠色のジャケットの、無い襟を正すように触ってみたり、青いハンチング帽の鍔(その付け根には、柄模様の帯が巻かれている)を触ってみたり――それでいて、エマが顔を出したことに気付くと、一拍遅れて自分の衣服の裾等を弄繰り回していた手を止め、わざとらしいぐらいに目を瞠ると、口角を引き攣らせて、笑うような角度にする。
「あ、ああ、あのっ、その、ウッズさん、そ、その、こ、これを、ッ、クリーチャーは、あ、ああ、あ、あんたに、」
言葉に詰まりながらそう続ける彼は、履いている青みの掛かったグレーに近いスラックスのポケットに手を突っ込むと、無造作としか言いようのない手つきで、真珠の連なりをじゃらじゃらと引っ張り出して来た。
それにエマがぎょっとしている間に、ピアソンは彼女の手を掴んで、取り出してきた真珠の連なりを殆ど押し付けるように掴ませる。そうやって無理やり持たされたときに初めて、それが真珠を数珠繋ぎにしたネックレスと、金具に揃いの白い真珠を取り付けたピアスであることが分かった。
男が言うには、これは「バレンタインデーの返礼」らしい。エマには全く身に覚えがなかった。
あの日は、愛する人やお世話になっている人にチョコレート菓子を渡すと良いというのが荘園主の言葉だと、ナイチンゲールさんが案内していたから、エミリー先生と一緒にチョコレートケーキを焼いて、素敵な時間を過ごしたわ。そう言えば、「荘園主さんの計らい」で台所に用意されていた(と、エマたちはナイチンゲールさんから聞いた)製菓用のチョコレートが、思ったより少なかったような気がする。その時は、エマたちよりも前にチョコレートを使う人がいるのかもしれないと思ったけれど、もしかすると、この人が盗んだのかもしれない。
「……ピアソンさん、何か、勘違いをしているんじゃないかしら?」
エマは首を傾ぎながら困惑した具合にそう言ってはみたものの、「照れなくてもいい、クリーチャーにはわかっているから」と興奮した調子で返されると、それ以上会話を試みようという気分ではなくなった。
「そう……」
エマは溜息を吐く代わりに、一言だけ相槌を零した。
今はエマの手の上に載せられている粒の整った真珠は、フィールドから拾い集めてこの人が作ったのか、それとも、より単純に盗品か。彼のことだから、正規の商品ということはまずないでしょう。でも、元あったところに戻してきてと言っても、この人が話を聞いてくれるとも思えないし……。
握らされた真珠の連なりに視線を落としながら、エマがそうやって考え事をしていると、“返礼”を手渡して、もう自分の用事は終わっているだろうに、何を期待しているのか、まだ部屋の前から動こうとしない薄ら笑いの男から、「つ、つけてやろうか?」と声を掛けられる。
そのぞっとするような声かけに顔を顰めたくなるのを堪えながら、エマは普段の愛想の良い微笑みを口元に浮かべたまま顔を上げると、「折角だから、似合うお洋服を探さなくちゃ」というようなことを言い、部屋の奥に引っ込んだ。
その日の協力試合の最中、湖景村の浜辺近くにある暗号機を解読している彼女――鮮やかなブルーのボンネットを被り、胸元のリボンの他にもそこかしこにフリルのあしらわれたブラウス、そして、ボンネットと揃いの可愛らしいブルーのスカート、「少女たちの確執」と名付けられた衣装に袖を通している――の耳元に、見慣れない真珠の耳飾りがあることに気が付いたエミリーは、解読に意識をむけるべきところ、少し疎かになりながら「あら、」と声を漏らした。
「可愛らしいわね」
シンプルなブラウスとスカートを、首元に結んだ黒いリボンタイを残して覆う黄色いレインコートに揃いの帽子という格好の衣装(それには「雨に唄えば」というタイトルが付けられている)を携帯していたエミリーが何気なくそう言うと、エマはそれに「そうかしら?」と、白粉のうっすらと塗られて普段よりもそばかすが薄くなった頬をいっそう緩め、華やぐように笑って返した。
「ピアソンさんから頂いたの」
続いた予想外の言葉にエミリーの指先は思わず縺れ、調整に失敗した。解読進捗は少し後ろに巻き戻り、暗号機に触れていた指に僅かながらの痺れが走る。ごめんなさいね、と咄嗟に謝るエミリーの様子を気にするでもなく、エマはその頂き物の経緯について続けていた。
何でも、渡した覚えのないバレンタインデーの“返礼”と言って渡されたもので、アクセサリーなんてここで、携帯品とは違うものとして渡されることなんてないから、ちょっと困ったし、ネックレスは流石に目立つから、試合には持ってこれないかなって思ったけど、耳飾りなら大丈夫かなと思って、付けてきてみた、とのことだった。
“お礼”って言っても、やっぱり、エマには覚えがないから、ちょっと困るけど、あの人は、エマがちゃんと使ってるのを見て喜んでるみたいだったから、いいことをしたと思うわ。でもあの人、それで大騒ぎして、そのせいで、最初に二人のハンターさんに追いかけられる羽目になったのは、ちょっと、エマも迂闊だったかもって思うけれど……。
普段通りに軽く微笑み、何気ない風に言葉を続けているエマに、エミリーは、「気を付けた方がいいんじゃないかしら」と、日頃から下がりがちの眉をいっそう懸念めいた角度にしながら告げた。
「勿論、それがあなたの気に入っているのなら、私には何も、言うことはないわ……けれど、ほら、皮膚に直接つけるものでしょう? 耳飾りは特にね。ピアソンさんは、そういったところに、少し疎いでしょうから……」
「ピアソンさんから頂いた」と聞いた時に、すぐさまエミリーの頭に過った懸念――それは、皮膚に直接身に付けるには衛生的な問題があるのではないか。そもそも盗品では? 外部犯の余地のないこの閉鎖空間(荘園)の中で、窃盗の片棒を担がされるリスクを受け入れられる程に、その“贈り物”が、あなたのお気に召すものだったというのなら、私に言えることは何もないけれど……それに、身に覚えのないことの“返礼”を受け取ってしまうというのは、あの人相手に借りを作るようで、ちょっと迂闊なんじゃないかしら、といった、諸々の事柄――を、敢えてはっきり単語にはせず、それとなく仄めかしてみると、円らな青の目(「少女たちの確執」の衣装を身に着ける時、エマの瞳の色はそれに合わせて、瑠璃のような青の色に変わる。荘園主から与えられた衣装が身体に変化を及ぼすことは、そう珍しいことでもない)を丸くしながら、エミリーが遠回しに表明する懸念を聞いていたエマは、不意に「そうね!」と言って噴き出すように笑った。
「耳に付けるなら、きちんと清潔にしてからじゃないと良くないわ。エマ、うっかりしていたみたい……」
そうして花の綻ぶような満面の笑顔のまま、彼女は自分の耳に着けていた真珠の耳飾りを手早く外すと、ロイヤルブルーのチェック生地が張られて可愛らしくなった工具箱の中に仕舞いながら、「試合が終わったら、エミリー先生の部屋に行ってもいいかしら」と言い出した。
「消毒をお願いしたいの……もし、つけていたところからばい菌が入ったら良くないって、いつも教えてくれたでしょう?」
はにかむように続けられるエマの言葉に、エミリーは思わず、ほっと胸をなでおろしていた。それは、彼女の身に降り掛かった懸念を適切に処理できる見込みが立った安堵でもあり、彼女の身体から得体の知れないものを外させることが出来たという安心でもあるようだが、エミリーは思わず胸をなでおろした自分の気分というものを、(ひとまず安心した)という気持ちとしてだけ捉え、それ以上のことは考えないまま、兎に角、残り僅かとなっていた暗号機の解読を完了させる。
そして、電気が通った一瞬、それまでカタカタと歯車を回していた暗号機が最後に響かせる騒がしい音を聞き届けてから、「ええ勿論! いらして頂戴」と、“患者を安心させるような”という程に意図的なものでもない、自然な微笑みと共にそう返した。