dialogue(占い師と探偵 ややイラゲキ) 全ての客人が去ってから時が経ち、今はただ廃墟となって朽ち果てるのを待つばかりのエウリュディケ荘園に、人探しの依頼を受けて訪れた探偵オルフェウスは、何者かによる妨害かポルターガイスト、さもなくば建付けの悪い扉、兎角運命の悪戯めいたそれによって辿り着いたリビングの内側に閉じ込められ、そこで身動きが取れなくなってしまった。
外に出られないのであれば、内に向かうしか無い。十年前の火災以来、たびたび抜け落ちてまるで頼りにならない記憶と、境のふやけたような自我とを携え、荘園の奥深くへ向かって調査を始めたオルフェウスはそこで、本に挟まっていたか、或いは直前に掻き分けた紙束から、不思議と彼の手の中に残ったのか、仔細は覚えていないものの、兎に角手の中に持っていたある手紙の封を開けた。自分宛てのものではない書き置きや諸々を盗み見るのは探偵の性というものだが、この場合は違う。先程偶然に手にしたものであるにも関わらず、その封筒の宛先には、彼の名前が書かれていたからだ――尊敬なるオルフェウス様。達筆ではないが、取り立てて拙いとあげつらうほどのひどさもない、素朴な調子の文字を連ねられた何枚かの便箋の中で、差出人はイライ・クラークと名乗った。
喩え話にケルトの神話を用いる何かと難解な手紙の差出人の名前に、オルフェウスは覚えがあった。ここに誘い込まれた哀れな「招待客」の一人だ。いや、この期に及んでは、犠牲者と言う方が適切か。それでは、依頼人の娘は果たしてどうだろうか……。オルフェウスは今考えても仕方のないことをそのように考えながら、かつてここを訪れた客人が壁一面の本棚一杯に残していった膨大な量の日記を手に取り、ひとつひとつ表紙の内側を検め――というのも、日記の表紙や背表紙には何も書かれていないか、良くて各人に割り振られた数字がラベルで張り付けられているぐらいで、日記の書き手がそれぞれに持つ個人名は、中身を確認しないことにははっきりしないのだ――そして見つけた。
イライ・クラークの日記は、他の客人の日記とその様相が全く違った。この荘園に招かれた招待客の面々は皆日記を残しており、それは荘園の中で「日記を書くこと」が守るべき規則として設けられていたからだろう。日記の書き方や記載内容は、書き手によって多少の個性が出る――つまり、「何をどのように書き残すべきか」という指示はなかったようだ――が、イライ・クラークの残したそれの異質さは群を抜いていた。
「親愛なる探偵オルフェウス様」
彼の日記は毎日同じ書き出しで始まった。つまり、それらは全て、この荘園が全く廃墟となってからここに閉じ込められることとなった哀れな探偵、オルフェウスに宛てて書かれているかのようだった。そうでなければ、日々の行動を記録する日記帳に「探偵オルフェウス」という仮想の人格を与え、友人相手に日々の出来事を語っているかのような――しかし、この男にそのような文才はないだろうというのが、オルフェウスの見立てであった。
イライ・クラーク。「予知」の能力を与えられた、平凡で無知な男。もしも彼に与えられたのが予知能力ではなく、日記を友人に見立てるような文才や想像力であったのならば、或いは記憶喪失になる前の私のような小説家として、名を馳せることもあったかもしれない。何せ小説家というのは変わり者が多く、それを飯の種にしているにも関わらず文学士の面を重んじて、商業主義を毛嫌いする向きもある。現世利益を毛嫌いする修行者のように商人を嫌っていたように見えるこの男がもし小説家となっていたのならば、恐らくそういった態度を取っただろう。そこで参考例として、かつて成功した小説家として存在していたらしい過去の自分が、その問題に対してどのような態度を取っていたかは、しかし、思い出せないが……。
「貴殿の魂は少々特殊な有り様をしているようだ。しかし、全て星の巡りに拠るものです。だから何も心配する必要はありません。」
イライ・クラークの日記は、オルフェウスが抱える自らの過去に対する猜疑と不審を見透かしたように続く。
「ご存じですか? 人の魂は朽ちることはない。一定の年月の後、再び違う身体に入るのだ。フクロウの身体は、輪廻する前の魂を入れる器になれる。彼らの予言が間違ったことはない。その聡明な眼から、普通の鳥には感じられない知性と平和を見ることができる。」
最初に目にした手紙と同じように、彼本人としてはわかりやすく注釈を入れているつもりなのだろうが、それこそがかえって文章全体を難解にしているケルト神話を踏まえた喩え話を交えながら、イライ・クラークの日々が綴られる彼の日記は、かつてこの荘園で起こった恐ろしい出来事を理解するにあたって、あくまでこのゲームを仕込んだ側ではない、招待された側からの証言者として、その張本人である彼の肩書――占い師、あるいは「予言者」――こそが怪しく、正直なところあまり信頼には値しないという問題点はあるにせよ、これほど詳細な情報を提供してくるものは他になく、また分量も何かと多い上に難解な彼の日記を読み解くことは、ここに至って外にも出られず、かといって手掛かりが新たに見つかるわけでもない手詰まりの状況に陥りつつあったオルフェウスにとって体のいい暇つぶしとなりつつあった。
かくして、オルフェウスにとって、信頼はあまりできないとはいえ、それなりに良き証言者となったこの男は、婚約者との約束のためにこの荘園を訪れたらしい。日記の冒頭に書きつけられた自伝――「貴殿には、この私がどういう人間かを知っておいて頂いたほうが良いでしょう」という書き出しで始まる、彼の来歴に関する自己紹介文――によると、彼がこの荘園を訪れることとなったその理由は、「誓約を破った代償として失った予言の力」を取り戻すためらしい。
しかし、仮にこの荘園で行われていたおぞましい「ゲーム」にこの男が勝利し、かねてよりの誓約の通り予言の力を取り戻したとて、取り戻した力で以て、どうせ婚約書のために便宜を図り、その罰として再び力を失いかねないという末路は見て取れるのであるからして、彼にとってここを訪れるのは全くの無駄骨ではないか、と、時間に飽かせて退屈に日記を捲りながら、今やこの荘園に閉じ込められてからどれほどの時が経ったかもはっきりしない探偵、もとい、日記の読者であるオルフェウスは思っていた。
このゲキウという女が問題だ、というのが、オルフェウスの観点である。
クラーク氏曰くこの上なく贅沢で魅力的、そして輝かしい彼女の存在は、彼の人生最良の時の記憶に欠かすことの出来ない黄金色の太陽の如き存在であるようだが、彼の筆致から読み取れるその「贅沢で人を魅入らせ、そして重々しい」淑女の優しい言動というのはどうにも、クラーク氏本人ではなく、「彼の見る予言」に向けられるように見えて仕方がないのだ。
例えばどうだろう。彼が後生大事に持っており、最終的にはこの日記の中に挟まれた――ここからの脱出を最早目的としないのであれば確かに、荘園側が義務として課し、収集し、こうして保管しているこの日記が、この荘園の中で最も残留しやすい物体だろう。クラーク氏のその読みは正しい。――ゲキウの手紙。その文中で彼女はクラーク氏の予言に感謝し、彼の予言とそれがもたらした結果に感嘆し、最後に一文、彼との邂逅に期待を寄せるような優し気な言葉を書いたが、それはあくまでリップサービスに過ぎないものではないか……というのが、探偵オルフェウスの意見であった。
彼は十年前の火事以前の記憶を悉く失い、成程人格もあやふやな存在であるが、元来他人に向けて懐疑的な眼差しを向ける性質を持っていて、それこそが、かつて有名な小説家であったらしい彼の才能のひとつ、そして今、探偵として細々と経営する中で僅かに役立てることの出来る形質、人を見る目というものに繋がっていくのだが、いわばオルフェウスにとっての予言でもあるその思考が告げるものというのは、「この淑女は、クラーク氏の予言を便利に使っているだけではないか?」ということだ。
今更そんな欺瞞をひとつ暴き立てたところで、そこに何ら意味はない。しかし、今や他人の日記を読み耽り、ここで何かあったのかを再現することにしか、先に進む活路も、或いは時間を潰す術も持たない読者オルフェウスは、いかにも小市民的な心地でもって、日記を通して親し気な態度とあまり信用できない情報を齎してくるクラーク氏に向かって、ちょっとしたヤジを入れたくなっただけだ。「予言を以て私の存在すら見据えて見せたお前は、田舎の豪商のご令嬢の可愛らしさと他愛もない手管に盲いで、良いように使われたに過ぎないのではないか」と。
「勿論、聡明なる貴殿はそう思われるでしょうね、オルフェウス様。ですが、私はこれで構わないのです。私が彼女を愛している。私の運命は、これで構わないのです。」
続いて日記の頁を捲った側から、例の素朴な筆致で書き付けられているその言葉に、オルフェウスは日々の疲れから鈍い痛みを訴えている瞼を指で揉みながら、所謂超常的な力を持ち、自らの身体は朽ちた過去に居ながらにして、未来に起こるオルフェウスの来訪すら認識してみせたその男が露わにする有り触れた熱烈さと凡庸さに、鼻白んだような顔をしながら首を竦めた。