顔のない男(「良い子」と心眼) 「顔を触らせていただけますか」という要望を受けたリッパーは、その場で僅かに、しかし、その不躾な要望によって気分を害したと主張するには十分な程度に〝眉を顰めた〟。そんな今の彼――荘園主から贈られたものである、「良い子」の衣装を携帯している――は、年若き紳士といった面立ちをしていた。身に着けているものは、紳士に望ましい思慮と礼節を思わせる深い緑色のジャケットに、洒落た雰囲気を演出する柄物のベスト、清潔な白シャツの首元を彩るのは、黒光りする程上等な絹のアスコットタイと、ピンというにはあまりに豪奢な大粒のサファイア(さらに、それは銀細工の蛇に縁どられている。)だ。すらっとした脚を覆うホワイトのスラックス。それらの、いかにもきちんとした、紳士らしいまっとうな格好に反して、「紳士らしく」整えられていないぐちゃぐちゃの髪は彼の目元を胡乱に翳らせていたが、それは鼻筋の通った白皙の顔と相まって、かえって彼に「神秘的な芸術家」という雰囲気を纏わせている。しかし、そのどれもが、彼に「顔を触らせてほしい」と申し入れた彼女には、関わりのないことでもあった。彼にその要望を申し入れた少女ことヘレナ・アダムスは全盲である。
とはいえ、それはそれとして、「おやまあ、随分と不躾なお願いをされるものですね?」とリッパーが鼻白むように返すと、ヘレナは心外だと言うように「あなたが聞いて来たんじゃないですか。」と、試合の最中に気まぐれを起こしたリッパーの腕の中にあって、大して怯えた様子もなく返してくる。
この会話が、薔薇の杖をリッパーが使い始めた最初の内の数回であれば、彼女の声もきっと、追い詰められた獲物らしく、哀れに震え通していたものだろうが、そこには慣れがあるのだろう。何せこの荘園では、「最後の試合」が終わる時まで、誰一人、ここから去ることを許されていない――死を以てしてもここから退場ができないことを悟ると、招待客(サバイバー)の多くは、試合を「ハンターへの恐怖心と生存欲求に駆られて死に物狂いで挑むもの」としてではなく、より単純な日々のタスク、或いは、何らかのささやかな報酬を得る為の手段として捉えるようになっていった。それは、慈悲なく気まぐれに楽しんで獲物を狩る「狩人」たることに誇りを持っているリッパーにとって、少々嘆かわしい傾向ではあった。
一方、今はその彼自身が、先刻までこそこそと物陰に隠れていたヘレナの足跡を追って、ついに今は姫抱きにして吊れ歩いているものを、中庭に設置された噴水の回りでぶらぶら歩くばかりでチェアに座らせないのは、今回の試合におけるやる気が最早、彼に残っていないということの現れでもあった。荘園主の計らいによるものかそれ以外の機構が存在するのか、仕組みは何であれ、毎試合ごとにランダムに選出されるマップの中で、「ホワイトサンド精神病院」というそれは、あまり彼好みのセレクトではない。その上、彼女を捕まえた今、残る一人は冒険家――どういう理屈か、身体が縮む男――であって、壁や物陰が何かと多いこの場所で、しかも小人のようになっている男を、リッパーはそれ以上探す気にもなれなかった(これが彼好みの女相手であればかくれんぼに興じる気にもなるが、髭面の男とかくれんぼというのは実にいただけない。)。
かくして、リッパーの暇つぶしに付き合わされている格好のヘレナは、諸々諦めたようにリッパーの腕の中に納まり、いたって大人しくしながら「あなたが聞いて来たんじゃないですか。」と言い返していた。彼はそれに、はてどうだったかなと(半ば本気でわかっていないにしても、紳士としての嗜みとして)大袈裟に首を捻って見せたところで、そういえば、「あなたにはどう映ります? この顔は」という質問を直前に差し向けていたことを思い出す。
「……ああ、そういえばそうでしたね。」
「急に結構なことを申しつけられましたもので、ついうっかり抜けてしまいましたよ。」と悪びれず続けながら、リッパーはヘレナからの要望を受けることにし、気が変わらない内にと急かすように彼女に顔を近づける。
すると、片手では杖を握り締めたまま、ヘレナの柔らかな――家事労働に従事したことがないのだろう。本とタイプライターしか相手にしていないような、程よい湿度と温度を持って、傷らしいものの見当たらない――手が、「良い子」を纏うリッパーの白皙の頬に恐る恐る触り、鼻の形や細面の顎のラインをなぞり、それが、彼の無造作に跳ねる前髪に触れてから、しっかりと形態を確かめようとするような、存外に不躾なその手付きで、さらにその奥――双眸があるべき場所――に触れてこようとしたところで、気が変わったリッパーは唐突に姿勢を正し、手指で宙を掻いたヘレナに向かって「さあ、どうです? ご感想は」と促した。
「肌に触れたような感触がありました……驚いたわ。本当に、人の顔みたいに作られているんですね。」
急に顔を離されたことに気付かず――そもそも彼女には見えていないし、彼女の視覚の代わりである杖も、抱き上げられた今は、ほとんど取り上げられたようなものだ――数秒の間、そこを探るように宙を掻いていた片手を自分の腹の上に戻しながら、ヘレナは何気なくそう言ったのだが、それは彼にとって、予想外の回答だった。
というのも、「良い子」を携帯したリッパーを目の当たりにした招待客は皆、リッパーが「元々そのような顔」をしており、普段は「その顔」の上から、例の白い仮面を被っているものだと理解したからだ。彼の美的感覚からすると、いかにも頭の軽そうで、絵具のちょっとしたシミにしかなり得ないどころか、却って制作の邪魔にすらなり得る――芸術は「純粋」であるべきだ。故に、それを構成する要素が猥雑であっていい筈がない――踊り子などは、「リッパーさんは普段からその顔で居て下さった方が、わたしたちは楽しめるわ」と、しなをつくりながら彼に向かって言い寄越して来たものだ。
忙しいオルゴールの安っぽいリズムで、せわしなくキッチュに踊る彼女をロケットチェアにエスコートしながら、リッパーも別段、彼女の感想に、わずらわしさを覚えたわけではなかった。仮に、今起きているのが「良い子」(彼本人)であれば、他者からの評価や眼差しに不愉快の類を感じたのかもしれないが、悪い子は、そういった表皮、否、表層的な部分には、大したこだわりはない。純粋な芸術は、衆愚からどう見られるかを超越して、そこに存在するものである。故に、私の仮面がどういう作りをしていたところで、大した問題ではない。どの顔が〝本物〟らしく見えると言われたところ、霧の都に住まう怪人には顔がないのだから。それがどのような顔をしているのかは、誰にもわからないものだ。
とはいえ、多くの連中からこの顔が本物だと思われているように、この衣装(「良い子」)は、なかなか上手に出来た代物なのだろう。それを、『人の顔みたいに』『作られている』とは。なかなかどうして、的を射ている。この娘、心眼、そうだ、「心眼」だ。目に見えないものを視ることは、成程お得意のようで……。
ヘレナの感想を聞かされたリッパーは、彼の方から質問をしておきながら、その答えがまるきり予想外であったというようにたっぷり数秒黙り込んだ後、今彼が携帯している衣装である「良い子」に誂えられた白皙の頬、抑制的でありながら、甘やかに微笑む具合の口元をいっそう極端に引き上げると、歯を見せて笑う。それは身なりのきちんとした若き紳士がするにしてはあまりにも不釣り合いな、狂的なそれであるが、触れでもしていなければどんな顔をしているのか分かったものではないヘレナには、怯える必要もないことだった。
変える必要もないから表情を変えない彼女は、急に黙り込んだハンターに(気分を害したのかしら)と、悪いことをしたと思う調子でもなく(何せ感想を求められたから、それを口にしただけだ。彼女からすれば、反省を求められる謂れ等どこにもなかった。)思いながら、取り敢えず、「リッパーさん?」と黙りこくるハンター相手に声を掛けた。