荘園旧友(弁護士と庭師) フレディ・ライリーは常に日々を記録して、自分の記憶に騙されないように警戒することを心掛けている。彼の職業は弁護士だ。社会的信用を重んじる仕事であるからして、毎朝起床すると顔を洗い、着替えた後に前髪を上げて髪を固める。彼のその生活ぶりは、彼の記憶以上に雄弁だった。
彼には、ここに来るまでの記憶がない――覚えていることはいくつかある。過去の訴訟での失敗、荘園のゲーム、約束された賞金。彼には、自分が自ら意思を持って、この荘園を訪れた……覚えがある。しかし振り返ってみれば、記憶には不自然な点が多い。「過去の訴訟」で、俺が犯した失敗とは何だ?――そこでしくじった結果、自分の生活が経済的に苦しくなったことは覚えているが、その訴訟自体がどういったものであるかは、不思議な程に覚えていない。
ライリーは、自分が時にそうやって感じる記憶の齟齬を、常にシャツの胸ポケットに突っ込んで身に着けているメモに書き付けるようにしている。言った言わないが主要な争点になる法律の世界において、記憶の外部装置であるこのメモは彼にとって重要な武器であり、仕事道具であった。
思えば、彼が最初に疑念を抱く切欠となったのもこれである――ある日、何の気なしに開いた擦り切れた革のカバーの内側に収められていたものが、予想外にまっさらなメモ帳だったのだ。書き込みがあるだろう以前のメモ帳を探しても、手荷物の中にそれらしいものは見当たらなかった。ここに来る前に新調したのか? 何故カバーを取り換えない。いや、俺の暮らしは経済的に余裕のあるものではなかった。わざわざカバーを取り換える程の金は、言われてみれば、無かったのかもしれない。どうだったか。古びたカバーを見下ろしても、何の感慨も覚えない。ということは、俺はこれを特別気に入っているという訳でもないだろうし、懐の寒いなか、惰性で使い続けているというだけの話かもしれないが――などと思いながら、ライリーが念のため裏返して見たカバーの裏に、何かヒントが残されている訳でもなかった。あるのは、写真の切れ端だ。
それを見ていると、ライリーは何故か、無性に焦りを感じた。心臓が痛い程引き絞られるような心地を、彼は「焦り」だと感じていた。この写真は何だ? どこかで紛れ込んだ? わざわざ身に着けていたのなら、何故思い出せないのか。家族写真か? 親とそこまで懇意にしていた記憶はない。なら、これは何だ? たまたま挟んだ証拠品の写真が、千切れてそこに残ったのか――脈絡もない焦りの心地に耐えきれずその切れ端から目を離すと、彼は自分の指を見下ろす。ペンだこの他はまっさらな手からは、何も情報を得られなかった。違和感もない。ホワイトカラーの労働者など、どれもこれも似たようなものだろう。
一度違和感を感じると、同じようなそれを――説明のつかない、しかし自分の意識の中において激烈な力を持つ感覚を――拾い集めるのは簡単だった。例えば、「次の試合」に同席する参加者(サバイバー)は、皆それぞれ荘園に部屋を与えられており、今屋敷の中にいるのは三名で、試合を始めるために必要な、最後の一人の到着を待っている状態にあるが、現時点で集まっている三名の参加者の内、俺以外の参加者は二名とも女で、一人は医療従事者だった。実際の真偽はどうだか知らないが、本人は頑なに医者だと名乗る。
荘園の中でこの女医とすれ違う度、俺は毎回、その消毒液の臭いに、反吐が出そうになる気分を堪えなければならない。何故だ? 俺は病院で、特別嫌な思いをした記憶はない筈だが――それを思うと、心臓が握り潰されるように収縮する気配があり、意味の分からない内から冷や汗が頭皮に滲む。何故だ? 俺は医者を唾棄すべきものだと考えている。理由もなくそのように考えているとは、いささか信じがたい。今や科学全盛の時代だ。中世でもあるまいし。それに、女が医者を名乗ることには確かに驚いたが、「男の領分を踏み越えている」その無軌道ぶり、年甲斐もないお転婆に、眉を顰めこそすれ、それだけで、わざわざ糾弾すべきだと思う程のこともない。俺が女医を避ければ良いだけの話だ。その存在を許しがたいと感じるような理屈はない、が、俺の脳は怒りのあまり熱を発しながら、隙あらばあの女を睨みつけようとする。あれは存在してはいけないものだ! 何故だ? 「女であるから」ということを憎むにしては、脳を焼く憎悪はあまりにも強烈が過ぎ、自分でも戸惑う程だった。
賞金を餌に(?)俺たちをここに集めた「荘園主」は顔も見せず、また、試合開始の合図となる「最後の一人」がいつ到着するのかの目途も知らせずに(無礼なことだ)、俺たち相手には一方的にタスクを課している。曰く、「自伝を書け」と。前の試合を待機している際には、「日記」を書くようにと言われていた筈だが。一体どういうつもりで宗旨替えをしたのだろうか?
荘園主からの指示の変化を疑問視した参加者は、俺の他にもう一人いた。麦藁帽子を被っている庭師の娘だ。荘園主からの通知を目にした時、あの娘は、「今度は日記じゃないの?」と呟いていた。その疑問には、敢えて口に出すほどではないが、俺も同意するところだ。前は日記で、今度は自伝。荘園主は試合参加者を書き手に、何か壮大な群像劇でも作る気なのだろうか――待てよ、「前の試合」とは何だ? いや、考えて見れば確かに、俺は、「前の試合」に参加している。そうでなければ荘園主の指令に対して、(前は日記を書かせただろうに)と考えること等ない。前にも試合があった。であれば、そこで一度、何らかの勝敗が着いた筈だ。何故記憶にない。前の試合は、どういうものだったか……ひどく頭が痛む。何かに殴られて、そのまま薄く固い膜(頭蓋だろうか?)が陥没するような、ガコンという嫌な音が後頭部から響いてくる。意識が遠のく――――
目を覚ますと、自分の部屋にいた。それは勿論、荘園で試合開始を待つまでの間、屋敷の中に割り当てられた自分の部屋だ。今は二階にいる。今は? 前から部屋割りが変更されているのか。前の試合ではどうなった? 誰がそこにいた? 少なくとも、今一同に会している面子ではない、と思う。そのはずだ。一階の部屋を割り当てられている女どもの顔に、俺は、見覚えがない。俺は弁護士だ。仕事柄、そういったことは忘れないようにしている。だが、過去に俺は、どういった案件の弁護を担当していた? これまでに最も額の大きかったもの、弁護目標の達成が困難だった案件は?
(…………。)
ライリーは取り急ぎ、メモに記憶があいまいな箇所について箇条書きで書き付けた後、荘園主から毎晩の提出を求められている「自伝」に一つとして、それらしいエピソード――荘園主は必ずしも編年体での記録を求めず、印象深いストーリー毎に出してくれれば良いし、そこに正確さは求めていないので、適宜脚色して構わない。とのことだった――を書き付けた後、彼が部屋を出て水を飲みに食堂へ向かうと、そこでは例の庭師が座り込んで、頬杖を付きながらぼんやりとしていた。
何だ文字を書けないのかと思い話しかけてみると、「エマは、何にも思い出せないの。」と言いながら、彼女は白紙の用紙を見下ろしていた。識字と筆記にあたっての問題はないらしい。これまで何度か「何も思い出せない」ことを荘園主にも説明したらしいが、そのたびに「自らを語る言葉であれば何であれ構わないから、思い浮かんだ何かを書くように」と突っ返されており、このままだと何か罰を受けてしまうけれど、思い出せないのだからどうしようもない……というようなことを、娘は恥じ入るようにもじもじと続ける。ライリーはその言葉に、多少思うところがあった。
「確かに、俺にも思い出せないことがいくつかある。ここは何とも、違和感の多い場所だ……。」
この娘に俺の所感、もとい情報を共有したところで、仕方がないし意味もない、が、それをライリーが自覚したのは、言葉を迂闊にも口に出した上、思い出せないというその感覚について、「気味が悪い」と評しまでした後になってからだった。
「ライリーさんもなの?」
エマ・ウッズは目を丸くして、思わず独り言ちた俺の顔をじろじろと不躾に見てくる。肉体労働者は素朴であることを美徳のように構えて、己の無礼さや品性の無さを隠しもしない。ライリーは眉を顰めながらも、とはいえ、不用意に話を続けてしまったここでわざと踵を返して、自分の部屋に戻るのも、少々外聞が悪いだろう――他人に自分を信用させるための仕草というものは、職業柄、彼の骨身に沁み込んでいた――ということを思い直し、彼はまず、己の表情を悟られないよう座っている彼女の隣に立つと、テーブルの上に手をついて、エマが今向かっている真っ白な用紙を横から覗きながら、「俺たちは、記憶に手を加えられている可能性がある。お前が物事を思い出せないのは、そのせいかもしれない。」と、潜めた声でそれとなく耳打ちした。
それは、確たる証拠のあるような話ではなく、全く想像の域を出ないものではあるが、荘園側に聞かれて一切問題ない話、ということでもないだろう。仮に、「本当に」記憶操作を受けているとすれば、我々の記憶を弄っているのは他でもない、荘園の主ということになる。もしそうだとすれば、記憶を操作した参加者に、ともすれば奪った筈の過去を自らの手で書かせることで、荘園主は、一体何がしたいのか? 記憶操作が上手くいっていることの確認か? 否、これ以上仮定の上に仮定を塗り重ねたとて、それはおよそ妄想であって、意味も何もないのだが……。
「常に日々を記録して、自分の記憶に騙されないよう警戒すべきだ。」
ライリーはそこで、話題の転換、或いは会話の終了を合図するようにテーブルの天板を指先で軽く叩いた後、「まあ、それでお前の頭がはっきりするかどうかはわからんが、おまじない程度に考えてくれればいいさ。」と、わざとらしく気安い調子で首を竦めながら続けると、さっさと踵を返した。
というのも、仮の話として今想像したこの「記憶操作」の話を本気にされて、荘園主が「何でもいい」と言っているものを適当に書いて誤魔化したりする能も無く真剣に「無理だ」と言い続けているらしいこのナイーブなスウィートガールが、記憶も頭もないなりに真剣に考えた挙句、再び俺に相談を持ち込まれても困るからだ。こいつの世話は、あの女医に任せておけばいいだろう。そもそも医師は部屋にこもりがちで、彼女らがつるんでいるところをあまり見たことはないが。