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    hanakagari_km

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    りっぷ 【フェヒュ】「ヒューベルト、ソレは?」
    「開口初めに指示語ですか。はてさて、ソレとは私が手にしている人目に晒せぬ幽暗の黒皮手帳ですかな。それとも愛飲しているにも拘らず指先より冷えたテフのこと。はたまた昨日の寝所にて獣がしでかした戯れで気怠い腰のことか。皆目見当がつかぬので、ソレが指す事柄を教えて頂けると助かりますな」
     最後に紡がれた昨日の獣は己なので、そこに関しては深く反省してフェルディナントは恋人に近づいた。
     ヒューベルトは問いかけておきながら、視線を黒皮手帳に落としている。宮内卿の黒皮手帳と言えば並み居る貴族を震え上がらせる極秘手帳だ。一説によれば始末された、もしくはされる人間が連ねられ、除き見た者の名前が炙りだされるように羊皮紙に浮かび上がり、次の始末対象になるとかなんとか。
     その実、ヒューベルトは死者の名を書き留めたりしない。そのような証拠など残さない。この手帳は彼の雑メモ用である。
     いつだか食事を用意する貴族らの名を書き連ね、たまたまその者たちが悪事を働いていたので帝国の何処かで不幸な事故に見舞われたようだが、偶然でしょうと彼は笑っていた。
     フェルディナントは手帳の中身を見た者がいたのなら、それはヒューベルトがわざと見せたのではないかと考えていた。恋人殿は、うっかりなどしない性格で、常に二手三手先を読んで行動する策士である。
     たまたま見られた手帳に、たまたま記された貴族たちが、たまたま同じ現場で不審死をするたまたまが、偶然であるはずがない。
     まあどちらにしても、彼が処すべきと判断したのならば口を挟むべきではない。それは彼の仕事であり、内情を知らぬ己がおいそれと意見して良いものではない。
     話が逸れたが、フェルディナントはヒューベルトの顔をじっと見つめた。
    いつも通り、愛しい人の顔は視界に入るだけで心が満たされ、内なる活力すら湧いてくる。だが今日はそれに加えて一つ、違っていた。
     いつもは薄く淡い色をしているヒューベルトの唇が染まっているのだ。
     互いに止まれず、限度を超えて口づけをした後は、もう少し赤いが、それでも常よりは色づいている。
     指先を延ばして頬に触れれば、ようやく意識を向ける気になったのか、邪魔ですと手帳で押し返された。
     手帳の端を持つ彼の手に己の手を重ねて置き、握り込んで近づくと顔が引かれた。
    「何用ですかな。海底の貝にでもなりましたか」
     口がきけぬのかと問われれば、笑い返す。
    「あれらは逞しく跳ねたりするのだぞ。今度、君をエーギル領の海に招待しよう」
     魚が旨い。
     フェルディナントはさらに身を寄せると、人差し指でヒューベルトの唇に触れようとして一度止まり、手袋を脱ぐと遠慮なく触れた。咎めはこない。
     ぺたりと、なにか妙な感触がするので唇を横になぞれば、ぬるりとしたなにかが指先に付着した。油分の多い食事をして唇が光ることはあるが、この量はさすがに気付く。
     あえてそのままにしているのであれば、意思的に塗ったということ。
     前回の逢瀬時、乾燥の季節は唇が荒れると言っていたのを思い出す。
    「これは?」
     親指と人差し指をこすり合わせると、ぬるりとしたなにかは肌に浸透して伸びていく。よく見ると薄く指先が色づいていた。
     ヒューベルトはハンカチを取り出すと、フェルディナントの指先を拭う。すると色がハンカチに付いた。
    「りっぷ、というらしいです」
    「りっぷ?」
    「先日より唇が荒れているのを陛下がお気遣いくださり、ドロテア殿から試作品としてもらった唇用保湿潤滑材だそうです。効能は確か――、ああ、ありました。乾燥を防ぎ、栄養価を外部より補充し」
     色づく唇が動くのを目で追っていると、いつの間にか顔も動いたらしく、抽斗から取り出した説明書を読み上げる唇を断りもなく塞いでしまった。
     プツン、と音が消えてヒューベルトは瞬く。フェルディナントも、自分がしたことに理解が追い付かず相手の目を見て瞬く。
     しばらく黙ったままでいたが、ヒューベルトの指先がフェルディナントの顎を撫でるとフェルディナントは遠慮を放り捨てた。
     りっぷが彩るよりも赤に染まった唇を食み、ヒューベルトは効能を書いた説明書に今一度目を通す。
     ――乾燥を防ぎ、栄養価を外部より補充し、口づけたくなる唇に!
    「商人の目は確かと言うことですかな」
    「なんだね?」
    「いえ、なにも」
     色の移った相手の唇を見て、元は己の唇のために塗った保湿剤だから返せと、ヒューベルトはフェルディナントのスカーフを引いて再び唇を合わせた。
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