2月22日「黒川エマさんですよね?」
「え?」
目の前に立つ、紙袋を頭に被り喪服に身を包んだ、おそらく男であろう人物が突然エマに問いかけた。
「佐野、エマです」
「あれ?あー……?名字変わってる!ちょっと、マジか」
抱えている書類の束を勢いよく捲って何かを確認した紙袋は、おそらく額があるであろう位置に手を当てて天を仰いだ。
「そうじゃなくて!ここどこ!?」
エマは紙袋の胸ぐらを掴んで問うた。
ぐわんぐわんと揺さぶられた紙袋は、エマにとりあえず止まってくれと訴える。エマが止めた途端に紙袋は後ろを向いて四つん這いになり、おえぇ、おえぇと吐く素振りを見せたが、頭に被った紙袋を除けるような仕草は見せなかった。
「大丈夫?ごめんね?」
「いえ……まあ、大丈夫です」
顔色は読めないが、声音は全く大丈夫じゃなさそうだ。エマは申し訳なく思い、喪服の背中をさすった。
「えぇと、ここがどこか、でしたっけ」
回復した様子の紙袋がようやく顔を上げた。エマが何度も頷くと、彼は事も無げにここが死者の国であると言った。死者の国。小さく繰り返すと、彼はその通りだと立ち上がる。
「あなたは死んだのです。よぉく思い出してください。あなたが死んだあの瞬間を」
彼は両手を広げながら芝居がかった声で言う。しかし、そんな突拍子もないことを信じられるわけがない。だって現にエマの胸にある心臓は脈打っているのだから。
「本当に?」
紙袋は揶揄うような言い方でエマの胸を指差す。
不安になったエマが胸に手を当てる。次に首。その次に手首。
「嘘……」
エマは言葉を失った。キラキラした綺麗なモノ、可愛いモノ、大好きだった彼を想うだけで高鳴った鼓動はおろか、脈を感じられないのだ。そういえば、呼吸はどうやってするんだっけ。気づいた瞬間、エマは息を呑んだ。紙袋に出会ってからずっと呼吸をしていなかった。
ここが死者の国であることと、心肺が動きを止めていることを合わせて考えれば自ずと答えは出てくる。出てしまう。
「ウチ、死んじゃった……?」
紙袋はくしゃりと紙が擦れる音を立てて頷いた。
自分が死んでしまったことはわかったけれど、なぜ死んだのかエマには心当たりがない。歳をとっていたわけでも、病気をしていたわけでもない。病弱ではないどころか、風邪もひいていなかったはずだ。いくら頭を捻っても思い当たる死因が見つからない。
それを見た紙袋は両腕に抱えた書類を持って、エマについてくるように求めた。ついていった先にあったのは書類を広げるには十分な広さのテーブルと、高そうな2人掛けのソファ2台。紙袋は向かい側のソファへとエマを座らせる。
「これはあなたの人生を記録している書類です。間違いがないか、確認をお願いします」
読んでいるうちに何か思い出すこともあるでしょうし。先程のお名前のように、手違いがあることも考えられるので。紙袋の言う通り、エマは書類を上から見ていくことにした。
生まれる前から生まれた瞬間、名前の由来、初めて口にした言葉。
微かな記憶が残る幼少期。シロツメクサの花冠の作り方を教えてくれたのは、夜の蝶である母だった。花冠を上手に作れなくて泣いたエマの首にネックレスと、手首にブレスレット、そして小さな指に指輪をつけてくれたのは兄だった。お返しにあげた手作りの花冠はグチャグチャで、歪んだ輪の形をどうにか保っていたものだったが、兄は喜んで褒めてくれた。
そんな兄とのお別れに涙なんてなかった。シセツという楽しいところに行くのだと笑う兄が羨ましかったから。けれど世の中を知った今考えてみれば、あれは兄と母による優しい嘘だったのだとわかる。
それから佐野エマになった。今までとは違う家族。朝早くに起こされて朝ご飯はみんなで食べて、お母さんが家のことを色々してくれる。お母さんは夜に出かけたりなんかしない。家族というひとつの社会に突如として投げ込まれた少女に対して、周りも彼女自身もどうしたらいいのかわからず、微妙な距離感を保っていた。傷つくことを言われても、泣いて縋ることができない距離。佐野家と自分の間に分厚いガラスがあるみたいに、すぐ目の前で見える家族の幸せに自分は入れないと目を背けていた。
そんなエマに手を差し伸べたのは、万次郎だった。同じ父親譲りの明るい髪色に加えて、マイキーという外国人じみた名前の兄をエマにくれた。水族館の水槽のような、分厚いガラスは無敵の手にかかれば簡単に壊れてしまった。
「あれ?ねえ、ここ読めないんだけど」
真っ黒に塗りつぶされた何十枚の書類を紙袋に見せると彼はその書類を受け取って、どこから取り出したのかライターで火をつけた。
「え!?ちょ、なんで!?」
エマは慌てて他の書類に火が移らないように抱える。紙袋は猫背のまま、火のついた最後の一枚の書類を指に挟んでぼーっと見つめていた。最後の最後まで灰になったことを見届けた。
「……あれは、あったはずの記録です」
「あったはずの記録?」
佐野エマの人生としての記録だが、何者かの影響で改変されてしまった場合、その記録は虚偽の記載となる。しかし、一度歩んだ道を完全に消すことはその人物が死ぬまで許されないために黒く塗りつぶされる。それが先ほどの記録。そして、エマが死亡したために記録を燃やした。それだけのことだと上機嫌で紙袋は言った。
「それだけって……。じゃあウチの過去?を誰かが変えたってこと?」
「そういうことになりますかね」
直接的に佐野エマの過去を変えたかったのか、それとも誰かの過去を変えた影響が佐野エマに及んだのかはわからないけれど。
紙袋に勧められて書類の確認を続ける。
龍宮寺堅に出会った日のことは今でもよく覚えている。兄の友達で、怖い見た目なのに優しくて、笑顔が子どもっぽくて。ちょっと優しくされたくらいで簡単に恋に落ちた。でも、龍宮寺堅はそれから何度も佐野エマを恋に落として、ドキドキさせた。恋に落ちる瞬間のときめきは、何度味わっても慣れなかった。もちろん、今も。
「……すき、大好きだよ。大好きなの、ケンちゃ……っい!」
突然ズキリと痛む頭を押さえてエマは膝を抱えた。慌てて紙袋が手をかざすとゆっくり痛みが治る。
「なんだったの……?」
「佐野エマさんの死因や、死亡時に関する記憶に近いものがあったんでしょうね」
これから死亡時に近づいていくたびに痛むけれど、解決策はない。ただ、受け入れるしか。
書類を確認して捲っていく。歳の離れた兄が死んだ。中学校入学で全校生徒にビビられた。運動会の借り物競走のお題で「大事なもの」を引いたマイキーに借りられた。大好きな彼が死にかけた。初めて親友ができた。幼馴染が死んだ。誕生日にマイキーとデートをして、龍宮寺堅から誕生日プレゼントをもらった。クリスマスの夜に彼と会えた。お正月の初詣にマイキーと彼と行って親友にも会えた。
「あなたは、可哀想ですね。」
「は?」
紙袋の言葉の意味がわからなかった。言葉の意味を飲み込もうとしているエマを放って、紙袋は言葉を続ける。
実の母に捨てられ、大事にしたいと思ったものをいくつも失い、失いかけ、そして若くして自らの命さえ失ってしまった。そんな少女を可哀想と言わずしてなんと言えばいいのか。
確かに、振り返ってみると人よりも失うことが多い人生だった気がする。けれど、その分与えられるものも多かった。
愛され方を教えてくれたのは実の母だった。笑顔を教えてくれたのは一緒に過ごした兄だった。温かい家庭は桜子、厳しさという愛は祖父、心の強さを真一郎。そして、佐野エマという人間を作る要因の多くはマイキー。