Re:gret 六章1話六章 バタフライ・エフェクト
第1話 七瀬陸
(お留守番って、なんだか昔を思い出すなあ……)
ローテーブルの上でハードカバーの本を開いて、陸はふと微笑みをもらした。
ここは万理の部屋のリビングだ。陸は一人、毛足の長いラグにぺたりと座って、テーブルの上に肘をあずけて本を読んでいる。テーブルサイドにはソファも置いてあるが、カウチソファは千の寝床として使われているので、何となく勝手に座ってはいけないような気持ちになってしまう。
留守番初日に「何か欲しいものはある?」とラビチャで聞かれて、陸は本が欲しいと即答した。新刊も良いけれど、昔読んだ本を読み返したくて、いくつかのタイトルを挙げておいた。すると万理はその日のうちに全ての本を買ってきてくれたのだった。お陰で、今のところ退屈せずに二人の帰りを待つことが出来ている。
いま陸が読んでいるものは、二匹の蛇が互いの尾を咥えている絵が浮き彫りにされた、あかがね色の表紙の本だ。果てしない物語、とカリグラフィーの筆跡でタイトルが刻まれている。
――アトレーユって、天にいみたいだな。
主人公であるドイツ人の男の子の名前はバスチアン、冴えない彼はいじめっ子たちに追いかけられて、逃げ込んだ本屋であかがね色の表紙の本と出会う。盗んで手に入れた本をおおっぴらには読むことが出来なくて、バスチアンは学校の屋根裏に隠れて、物語に夢中になる。本の中身は冒険譚だった。世界は崩壊の危機にあり、それを食い止めるために少年であり勇者でもあるアトレーユが奮闘する――物語は二重構造になっていて、前半部分はこんな話だ。
アトレーユは魅力的な登場人物だ。美しく、勇敢で、何度くじけそうになっても諦めない。ぼろぼろになりながら、不屈の精神で前に向かって進んでいく。
作中に登場する本と同じ装丁で作られているこの本――「果てしない物語」は、子供の頃に出会った児童書だ。長期入院の間、ページが膨れ上がるほど何度も読んだ。見舞いに来てくれた天に「果てしない物語」の話をすると、天は騎士のようにベッドサイドに跪いて、陸の手を取って微笑んだ。
「じゃあ、陸がバスチアンだね。本当に世界を救うのは君なんだよ、バスチアン」
病室のベッドから出られなかった陸にとって、勇敢な戦士・アトレーユは、双生児の兄・天そのものだった。
兄のことを思い出したら、途端に物語に集中できなくなってしまった。溜息を落として時計を見上げると、まだ七時を少し回ったところだった。――夜は長い。今日も一人だ。誰かと話したい気持ちもあるけれど、話し相手はいない。万理は深夜まで仕事が入っていて、千は例によって外出している。
喉の渇きに気が付いて、陸は立ち上がってキッチンへと移動した。乾いたグラスによく冷えたミネラルウォーターを注いで、一気に飲み干す。結露で本が濡れるのが嫌なので、テーブルには持っていかず、飲んだらすぐに片付けてしまう。
(今日も百さん、来てないんだな……)
洗い物を終えて、陸は改めて部屋の中を見渡した。キッチンからの眺めは、いつも万理が見ている景色だ。カウンターテーブルの向こうには、カウチソファの背面が見える。一人で住んでいる割には、広い部屋だ。恐らく、千が入り浸ることを見越した上での間取りなのだろう。万理は否定するが、仲良しだな、と微笑ましい気持ちになってしまう。
千と万理と、それから百。
彼らのことは、おぼろげに知っている。
陸には元々、普通の人には見えないモノが見える能力がある。例えば、幽霊だったり、生霊だったり――寝ている間に別世界のことを夢として見せられていたりすることもある。
陸と仲良くしてくれている現在の千は、実はこの世界の住人ではないらしい。彼は元の世界に戻るために、向こうの世界にしか存在しないアイドルグループをこちらの世界でも結成させようと奮闘している。
「アイドリッシュセブン……かあ」
呟いて、陸は天井を見上げて溜息をついた。
千が作ろうとしているアイドルグループは、陸が夢の中で見た――夢の中の自分が所属するグループと同じ名前だった。偶然と呼ぶには出来すぎている。
(怖いな)
背筋に冷たいものが走って、陸はゆっくりとリビングの方へ戻っていった。自分だけのことなら、ただの夢だと一笑に付すことも出来る。だが、実際にはそうではなかったらしい。
胡蝶の夢、という言葉がある。
夢の中で自分が蝶になったのか、自分が現実だと思っているものが蝶の見ている夢なのか――。夢と現実の区別がつかなくなる、といった意味を持つ故事成語だ。
陸は再びラグの上に座り、開いたままだった本を眺めるようにテーブルに頬を寄せた。
本の文字は色が分けられていて、主人公にとっての現実の世界と、主人公が読んでいる物語の世界とが見た目にも分かりやすく表現されている。こんな風に、夢と現実とが分かりやすく識別できたら良かったのに、と、陸は唇を尖らせてしまう。
小さな頃から病気がちだった陸は、夢の中で自分の別の人生を覗き見ることが時々あった。現実とはかけ離れた世界を描くような物語が好きだったから、「こうだったらいいな」という願望が夢となってあらわれたのだろうと自己分析をして、不定期に放送されるドラマのように、どこか他人事として楽しんでいた。
ただ、願望が見せたものにしては、夢の中の世界は陸に優しくなかった。
陸の病気は治らず、天は一人だけ九条の元に引き取られた。天はTRIGGERというアイドルグループを結成し、陸は少し遅れて小鳥遊事務所にスカウトされ、紆余曲折を経てIDOLiSH7というグループでデビューすることになった。
夢はいつも断片的で、必ずしも前回の続きから見せてくれる訳ではない。もちろん、目覚めた陸が忘れてしまっている夢も恐らくある。
『――オレはずっと、大人になって、丈夫になったら、天にぃが一緒に歌おうって言ってくれると思ってた……!』
薄暗い部屋の中で、自分と兄とが言い争っているところを夢に見たことがある。どういう経緯でそういう状況に至ったのかは不明だが、哀しそうな天の表情と、頑なな自分の表情がやけにリアルで、直視することが出来なかった。
自分の見ている夢も、実は「胡蝶の夢」と同じなのかもしれないと気が付いたのはその頃からだ。自分の方が夢の中の陸が見た夢なのではないだろうかと疑いを持つようになった。
不安要素など何一つない現状に、陸はずっと不安を感じていた。こちらでの陸は病気も完治し、兄と共に九条に引き取られ、兄と同じアイドルグループでデビューをして、順風満帆の世界を生きている。まるで夢の中の陸が望んだ世界であるかのように。
緑色のインクで刷られた文字を指でたどって、陸はやるせない溜息をこぼした。
(本当はずっと不安だった。九条の家に一緒に引き取られたのは、九条さんや天にぃがそうしたいと思ってくれたからじゃなくて――二人とも本当は別にオレのことなんか大事じゃなくて、わがままで、可哀想な子供に仕方なく付き合ってくれてただけなんじゃないかなって……)
不安だったからこそ、自分が九条の籍に入っていなかった事実が胸に突き刺さった。
『天にぃに、オレは必要とされてなかったんだ……!』
まだ病を患ったままの、夢の中の自分の声が脳裏によみがえる。咳き込みながら吐き出された言葉は、今の自分の気持ちとシンクロして、胸が痛む。
遠い昔、まだ陸が入退院を繰り返していた頃、兄は自分を物語の登場人物になぞらえて「バスチアン」と呼んだ。
振り返ってみると、どういう意味だったのだろうと考えてしまう。身体の弱い弟に花を持たせようと、主人公の座を譲ってくれたのだろうか。それとも、自分に自信がなくて、意気地無しで、おだてられるとすぐ調子にのってしまう、バスチアンの駄目な部分がそっくりだとでも思われていたのだろうか。
(違う……、天にぃはそんなことを考えたりしない)
相手が悪いように考えたくなるのは、自分の心根がまっすぐではないからた。そもそも、天をアトレーユだと言い出したのは陸の方だ。天にとっては深い意味のない、言葉遊びのようなものでしかないだろう。嫌なところも含めてバスチアンに似ていると自分でも感じているから、そんなひがみっぽいことを考えてしまうのだ。そう考えて、陸はますます落ち込んでしまう。
それでも、かつてバスチアンになぞらえられたことがあるという思い出は、どこか象徴的な事柄のように陸には思えた。
物語の後半で、「果てしない物語」の主人公であるバスチアンは、願いを一つ叶えるごとに、大切な記憶を一つ、失ってしまう。
千からIDOLiSH7を作るという話を聞かされてからというもの、陸は自分が何か大切なものを忘れてしまっているかのような、落ち着かない気持ちにさせられていた。このままではいけないような、何かが足りないような、正体の分からない不安と焦燥にかられている。
(こんな気持ちのまま、TRIGGERに戻ることは出来ない……でも)
もしいま本当にIDOLiSH7に加入することを決めてしまえば、天との溝は修復不可能なものになってしまうだろう。どちらかを選ばなければならないのに、どちらも選びたくない。陸は考えることに疲れてしまって、顔を伏せて溜息をついた。
唐突に玄関のチャイムが鳴って、陸はびくりと顔を上げた。
万理か千が帰ってきたのだろうかとモニターを確認してみたら、見覚えのない、スーツ姿の青年が立っていた。
『あのう……、私、小鳥遊事務所の小鳥遊紡と申します。千さんからお留守番のお手伝いを申しつかって参りました!』
ぺこりと頭を下げるその青年は、夢の中で憧れていた女性マネージャーの面影を色濃く残して、どこか困ったように眉を下げて微笑んでいた。
* * *
「はじめまして、陸さん。お会いできてとっても嬉しいです」
部屋に上げてもらって、紡は差し入れのお弁当を陸に渡した。初対面で手作り弁当はどうだろうかと配慮して、レストランで注文したお持ち帰り弁当だ。
「そんなに警戒しないでください。今日は陸さんに会わせていただきに来ただけですから」
「……オレを、引き抜きに来たんじゃないの?」
ローテーブルの上を片付けて、陸は弁当の蓋を開けた。ハンバーグがメインの折り詰め弁当だ。紡はキッチンを借りて、温かいお茶を淹れる用意をする。万理からは勝手に使って良いと許可を得ているので、茶葉や急須などの道具は元からこの家にあったものを使わせてもらっている。
「陸さんが望まないことはしませんよ。私、TRIGGERのファンなんです」
困ったように微笑むと、陸は目を白黒させて箸を口に咥えた。
「小鳥遊……さん。ごめんなさい。オレ、ちょっと勘違いしちゃったみたいで……!」
紡の訪問は千から連絡してもらっているはずだが、どうもうまく話が通じていないようだ。
紡は丁寧にお茶を淹れながら、改めて陸に自分の立場を明らかにした。
「確かに小鳥遊事務所でアイドルグループを作る計画は進行中ですが、無理強いをするつもりはありません。千さんの計画は千さんの計画で、また別のものだと考えてほしいんです」
陸はきょとんとした顔のまま頷いた。言葉足らずだったかな、と苦笑しつつ、どこまで説明するべきか悩んでしまう。
紡は陸にお茶を差し出して、ラグの上に座った。陸とは少し距離を置いて、対面でも真隣でもなく、いわゆるお誕生日席にあたる場所に陣取る。
「今は千さんが引っ張っていて下さっていますけれど、これは私が任された、私のプロジェクトなんですから……私が交渉しないと意味がないですよね? でも、陸さんはまだTRIGGERが大好きで、脱退しなくてもいい道を探して、迷っている――違いますか?」
真正面から切り込むと、陸は目を丸くして箸を置いた。口の端にデミグラスソースがついてしまっていることにも気が付いていないようだ。
紡は自分の唇をとんとんと叩いて、陸の唇にソースがついていることを指摘した。陸は一瞬、首を傾げたが、すぐに気が付いたのだろう。恥ずかしそうに慌てながら、陸はティッシュで無造作に口元を拭った。
「違わ……ない。でも、どうして分かったの? オレがまだTRIGGERを諦めきれていないってこと」
「言ったでしょう? 私、TRIGGERのファンなんです。ちゃんと見ていたら分かりますよ」
紡は泣き笑いのように微笑んだ。
千や万理から陸の話は聞いていたが、TRIGGERが嫌いになったから脱退したいという訳ではなくて本当に良かった。紡がTRIGGERのファンであるという言葉に嘘はない。これから作るグループに陸が欲しいのは山々だが、そのせいでTRIGGERに悪い影響が出るのは嫌だ。もちろん、どんなに円満に解決したとしても、陸への反感が集まらないとは言えない。何かが起きた時に、出来るだけ傷が浅くて済む道を探すのもマネージャーの仕事だ。
いま紡が抱えている仕事は、まずは新しいアイドルグループを結成させること、そしてその維持存続だ。千とは置かれている立場が全く違う。
千の最終的な目的は、小鳥遊事務所に所属するアイドルグループを立ち上げることではなく、彼のいた世界に戻ることだ。どういう理屈かは分からないが、小鳥遊事務所でデビューする男性アイドル候補生たちを集めると、元の世界に戻れると彼は信じている。
千の言葉を鵜呑みにするのであれば、千はいずれ居なくなってしまう人間だ。紡と一緒に彼らを育ててくれる人ではない。千の与えてくれたものは、ただのきっかけに過ぎない。このチャンスを活かすも殺すも、要は紡次第なのだ。
だからこそ、紡は紡自身の立場で彼らに接し、信頼関係を築いていく必要がある。それが陸に対する――自分の任されたアイドルたちに対する誠意だと、紡は考えている。
「陸さん。私と友達になってくれませんか?」
陸が食事を終えたのを見計らって、紡は静かにそう切り出した。
「アイドルとファンじゃなくて、アイドルと芸能事務所の社員じゃなくて、まずは人間同士として、ただの友達になりたいんです」
「友達……?」
「はい!」
思いのほか勢いよく返事をしてしまって、紡は慌てた。どんな結果になったとしても、力になりたい。仕事というしがらみを超えて、応援していたい。そう思わせる力が陸にはある。
思い入れが強過ぎることは、本当は良くないことなのかもしれない。利権がからめば期待を裏切る結果になってしまうこともある。
けれど、スタートラインはここから始めたかった。立場をとっぱらって、一人の人間として相手と向き合っていたい。その一つの手段として、陸と友達になることを紡は選んだ。
「友達になろうって言われても、知らない相手からじゃ戸惑っちゃいますよね。――実は私、うさぎが大好きなんです。きなこって名前のうさぎを飼っていて、事務所にも連れてきているんですよ。こればっかりは社長令息の特権かもしれませんね」
きなこちゃん、と口の中で呟いて、陸は少しだけ寂しそうに微笑んだ。懐かしいものに出会ったかのような、不思議な笑顔だった。
「うさぎかあ……。うん、オレも好きですよ。小さい頃は触らせてもらえなかったし、一度だけでもいいから撫でてみたいなあ」
「それじゃあ今度、事務所の方にも遊びに来てくださいね! あっ、もちろん、今のは勧誘とか、そういうのじゃないですからね」
「大丈夫です。分かってますから」
紡の失言に、陸はくすくすと笑っている。
「きなこちゃんに会ったら、抱っこさせてもらえるかなあ?」
「喜ぶと思います。あの子、抱っこも撫でられるのも大好きですから! あと、きなこは音楽も大好きなんですよ」
「へええ! 音楽! 何が好きなの?」
「何でも喜びますよ、でもしいて言うならポップスが好きみたいです。音楽に合わせて鼻を鳴らしたり、踊るみたいに跳ねたりするんですよ」
「ええー。見てみたいなあ! きっと可愛いんだろうなあ」
「そうなんです。ウチの子、すっごく可愛いんですよ!」
紡は思わず拳を握りしめて力説してしまった。陸は目を丸くしてまばたきを繰り返している。
紡は赤面した顔を隠したくて、両手で覆った。穴があったら入りたいとはこのことだ。自分の話ばかりして、これでは陸の信頼を得るどころの話ではない。
「すみません。親馬鹿丸出しでしたね……」
「あはは。小鳥遊さんって面白い!」
「紡でいいですよ。――って、すみません! 私、勝手に名前で呼んじゃってましたけど……大丈夫でした?」
「全然大丈夫です。やっぱり面白いなあ」
陸は眉を下げて楽しそうに笑っている。反省した紡がしゅんとうなだれていると、陸はひょいと顔を覗き込ませて、いたずらっ子のように微笑みを浮かべた。
「紡さん、俺の好きなものも聞いてくれます?」
「は、はい。もちろんです!」
「あはは。元気になった! その方がいいですよ」
「うう。ありがとうございます……。陸さんの好きなもの、曲でも、人でも、何でも教えてくださいね」
しおしおと声をかけると、陸は改まったように姿勢を正した。紡も正座に座り直して、両腿の上に拳をのせる。
陸はどこか遠くを見るような、謎めいた笑顔を浮かべて口を開いた。
「オレね、TRIGGERのことがね、大好きなんだ」
紡さんと一緒だね、と、小さく首を傾げて陸は笑った。
「天にぃが好き。もちろん、龍にいにいも、楽兄貴も。姉鷺さんも、八乙女社長も……時々こわいときもあるけどね、オレたちのこと一生懸命考えてくれて、本当はすっごく優しいんだよ」
陸の言葉に嘘はないのだろう。声の響きは、温かくて、優しい。愛しいものを慈しむかのように、陸は歌うように言葉を紡いでいく。
「ふふ、じゃあ、どうして脱退なんか――って顔してますね」
「す、すみません……」
陸がTRIGGERを抜けたいという理由は詳しくは聞かされていない。出来れば陸の口から聞いてみたかったが、無理やり聞き出すのも違う気がして、聞きたくても聞けずにいたのが本音だ。
陸は目を細めて紡を見た。その視線にどういう感情がのっているかまでは、紡にはよく分からなかった。
「天にぃはね、ファンのことを一番に考えなさいって言うんだ」
陸は紡と視線を合わせながら、どこか違うものを見ているような目をして紡に詰め寄った。
「だけど、じゃあアイドルは? 天にぃは? 自分よりファンのことを一番にして、ずっと犠牲になっていればいいの?」
「陸さん……」
「ファンだって馬鹿じゃない。アイドルが自分自身のことを大事にしないなんて、そんなのって悲しいよ」
陸は視線を落とすと、ぐっと唇を結んだ。
「オレ、アイドルだけど、天にぃのファンでもあるから。オレのために自分を犠牲にする天にぃのことが我慢できなかった」
陸は紡から視線をそらしたまま、後ろめたさを隠すように、どこか怒ったような口調で続けている。
「分かってるよ。こんなのオレのわがままだってことは」
紡は何をどう言ってやればいいのか分からず、口を挟むことも出来なかった。陸は陸で、ただ聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
「だけどTRIGGERが大好きだからこそ、オレはTRIGGERから離れた方がいいんだと思う。こんな気持ちのままじゃ、メンバーにも、ファンのみんなにも、失礼だよ」
様子を窺うように、陸はちらりとこちらを見上げてきた。そんなことはないと言う代わりに、紡はそっと首を振る。
陸は泣き笑いのように顔を歪めて笑った。
「オレも含めて四人のTRIGGERが求められてるのにね。ファンのみんなを裏切るようなことをしたらいけない。頭では分かってる。分かってはいるんだけど……」
そこでようやく、陸は大きく溜息をついた。
「求められる期待が、オレのやりたいことと違うから、心がバラバラになりそう」
「陸さんのやりたいことって……何ですか?」
紡は優しく尋ねた。陸がどうしたいか、どうなりたいか、それがはっきりしていなければ、サポートの方向性も決めることが出来ない。
「何だろうね。オレにもよく分からないんだけど」
紡の心配を知ってか知らずか、陸は他人事のように肩を竦めて笑う。
「病気が治ってから、オレ、一つ気付いたことがあるんだ。病気を盾にするみたいにして、オレは天にぃのことを思い通りにしてきたんだなって」
それは思いのほか真剣な声だった。思い詰めたような低い声に、体感気温が五度くらい下がったような気がした。
紡が戸惑っていることにも気付かず、陸は顎に人差し指を当てて考え込んだままだ。
「そうだなあ。天にぃに自由になってもらいたいな。せっかくオレから解放されたのに、今度は九条さんの――九条の操り人形になるんじゃ、悲しすぎるよ」
陸は紡の目を見つめて、キッパリと言った。
「だから、どうにかして、九条から天にぃを取り戻したい」
「陸さん……」
「もしかしたらオレの一番やりたいことは、それなのかもしれない」
陸は拳を握ってうつむいた。
気負いすぎた発言に照れてしまったのか、陸は次の瞬間にはへらへらと笑って頭をかいた。
「あ、あとね。レッスンが受けたいし、思い切り歌いたいな!」
「小鳥遊事務所のレッスン室でよければお貸ししますよ」
「いいの」
もちろんです、と請け負うと、陸は紡の手を握ってぶんぶんと上下に振り回した。
「紡さん、いいひとだなあ!」
「あはは……、陸さん、ちょっと痛いです」
「わっ、ごめんなさい!」
陸は慌てて手を離した。
話が一段落ついたところで、弁当のゴミを片付けたり、湯のみを片付けるためにキッチンに向かう。陸も手伝ってくれたお陰で、片付けはすぐに終わることが出来た。万理か千か、どちらかが帰ってくるまで一緒に居ようと申し出たのだが、本が読みたいから一人でいいと断られてしまった。
「……オレは七瀬陸に戻って天にぃを取り戻す。そのためならIDOLiSH7にでも何にでもなってみせるよ」
玄関まで見送りに来てくれた時、あかがね色の本を小脇にかかえて、陸は一人言のように小さく呟いた。
頑なに閉ざされた陸の心を垣間見たような気がして、紡は彼のために出来ることをしよう、と静かな決意を固めたのだった。