Re:gret六章2話第2話 心強い味方
大和と焼肉屋に行った翌日の朝――陸が万理の部屋に転がり込んできて、三回目の朝でもある。
万理と陸の二人は今日も朝からしっかりと食べているが、千はまだお腹が空いていなくて、カウンターチェアに腰掛けて、コーヒーだけを口にしていた。
そんなに飲みすぎたつもりはないが、頭がぼうっとする。
陸と、ナギと、それから大和。数日の間にIDOLiSH7のほぼ半分の人数を集めることが出来た。桜春樹の楽曲使用許可はおりたし、できることの幅も広がった。
けれど、その分、千が事前に準備しておかなければならないことも増えている。
千の最終的な目標は「モモのいる世界に戻ること」だが、そのためには一織にも元の世界に戻りたいと思ってもらわなければならない。メンバーをただ集めただけで、それだけで一織をぎゃふんと言わせられるとは千も思ってはいない。自ら帰りたいと思わせるような仕掛けが必要だ。そのためのプランはあるにはあるのだが、実行に移すためにはいくつかのハードルをクリアしていく必要がある。やるべきことが多すぎて、どれから片付けていったら良いのか分からない。
――こんな時、モモがいてくれたら頼りになるのになあ。
本末転倒なことを考えて、千は無意識に溜息をついた。
「辛気臭いな。朝から溜息つくのやめろよ」
「僕、そんなに溜息ついてた?」
隣に顔を向けると、陸は困ったように笑いながら、首を傾げて肯定してみせた。万理はいつものようにカウンターの向こうに陣取りながら、お椀を手に取って、ちらりとこちらに視線を向ける。
「あ、千。今日は午前中は出かけるなよ。あとで紡さんがペットのうさぎを連れて来てくれるそうだから」
「分かった。こちらは特に問題はないよ」
ユキはマグカップを置いて頷いた。うさぎ。うさぎか。アレが果たしてうさぎなのかどうかは疑問だが、確かに小鳥遊事務所ではうさぎと称する妙な生き物を飼っている。恐らく紡青年はアレを連れてくるつもりなのだろう。
陸は顔を輝かせて歓声を上げた。
「嬉しいなあ! 昨夜ちらっと、いつか紡さんが飼ってるうさぎを見てみたいなって話をしてたんです!」
「なるほど、それでだったんだね。部屋に放しても良いかって許可の問い合わせが来てたから、いいよって返事をしておいたよ」
「わーい、ありがとうございます! 楽しみだなあ~!」
千はコーヒーを口に含みながら苦笑を噛み殺した。あの変な鳴き声を聞くのも久し振りだ。きなこが本当にうさぎなのかそうでないのかはともかく、癒しになることは間違いないだろう。
一通り話を終えると、万理は二人を残して仕事に出掛けた。
万理が部屋を出てから三十分ほど後に、紡青年はやってきた。リクルートスーツのような濃い色のスーツに、淡い色のネクタイを締めている。リュック型のキャリーを腹側に大事そうに抱えているおかげで、円形の窓枠からうさぎの姿を覗き見ることが出来た。
キャリーの中に入っていたのは、白い、垂れ耳のうさぎだった。ロップイヤーラビットというのだっただろうか。何を考えているのか分からない黒い瞳が作り物めいている。三角の鼻がひくひくと忙しなく動いているため、間違いなく生きていることが分かる。
千は口を大きく開け放して驚いた。
うさぎだ。
ごく真っ当な、普通のうさぎがそこにいた。
「紡さん、うさぎだ!」
「はい、うさぎですね」
指をさして見たままを叫ぶと、紡青年は困ったように微笑んだ。
千は膝を折ってキャリーの中を覗き込んだ。うさぎは狭いキャリーの中を、前肢を揃えて移動している。真っ白な毛皮が柔らかそうだ。
「この子、みゅっみゅっ、とか鳴いたりしないの?」
「千さん、うさぎって、実は鳴かないんですよ。ブッ、ブッ、って、鼻を鳴らして音を出したりはするんですけれど、猫や犬みたいに声帯から声を出す訳じゃないんです」
「へええ、そうなんだ……」
脳裏に「みゅみゅ~!」と鳴くマスコットじみた綿毛の存在を思い出しながら、千はそれ以上の追求を放棄した。ますます、きなこの存在が謎めいてきてしまった。もしかしたら、これは深く考えてはいけないことなのかもしれない。
「もおお。千さん、オレにも見せてくださいよお~!」
「ごめんごめん、ちょっとびっくりしちゃって……」
千は慌てて立ち上がった。
紡青年は玄関先で立たされたまま、靴も脱げていない状態だ。
「紡さんも悪かったね、どうぞ上がって。僕の部屋ではないのだけれど」
玄関先でばたばたとしていたら、再びチャイムの音がした。はーい、と声を上げて、陸がインターホンの元へ向かう。
『おはようございます、凛人です。――千くんは、ご在宅ですね?』
玄関の扉の向こうとインターホンの両方から、聞きなれた敏腕マネージャーの声が聞こえてきた。急な訪問に驚いたが、凛人はエントランスの暗証番号を知っている。何も不自然な所はない。
けれど、怒られ慣れている千は、わずかに滲む、凛人の怒りの波動を感じ取っていた。
心当たりがありすぎて原因は不明だ。千はどうやってこの状況を誤魔化そうと内心で頭を抱えながら、玄関の扉をそっと開けた。
* * *
「千くん。何か自分に言うべきことがあるんじゃありませんか?」
凛人は苦笑いを浮かべながら千に声をかけた。
ここは万理の部屋のリビングだ。ソファに座った凛人の前で、大人が二人、正座してうなだれている。岡崎事務所の所属タレントである千と、小鳥遊事務所の御曹司である小鳥遊紡の二人だ。
一方、陸はどうしているかというと、紡が連れてきたというロップイヤーラビットと遊んでいた。ラグの敷いていないフローリング部分にペットシーツを広げて、うさぎを自由にさせている。恐らく、凛人の話が自分には関係ないことだと気が付いて、彼なりに気を遣ってくれたのだろう。
凛人は肩を竦めると、千に対して追撃をした。
「ソファに座らずに床に座っている時点で、やましいことがありますって言っているようなものですよ?」
「す、すみません……これには深い訳がありまして……」
千ではなく紡が深々と頭を下げたので、凛人は表情を隠すように眼鏡を押し上げた。隣に座っている千が紡に顔を上げさせたかと思うと、二人して「いやここは僕が」「いえ私が」と押し問答を始めている。随分と仲がいいらしい。
裏方に徹しているのが惜しいほどの美形が小鳥遊事務所の事務方にいるという噂はかねてから耳にしていた。確かに、小鳥遊紡はどことなく美少女めいた可憐さがある。顔立ちだけでなく、声も優しげで中性的だ。
(ウチでデビュー……いや、表舞台に立つつもりがあるのなら、既にあちらでデビューしているのが普通ですよね……)
眼鏡のブリッジに指をあてた手の下で、凛人はひっそりと溜息をついた。
Re:vale以外の所属タレントが小粒なままになっているのが、岡崎事務所の悩みの種だ。もちろん、Re:valeはよくやってくれている。だが、事務所の底力を上げるためには、後進の育成にも力を入れていく必要がある。新人発掘は岡崎事務所の今後を左右する、重大な課題なのだ。
しばらくして押し問答の片がついたのだろう。眉を八の字に寄せて、千が躊躇いがちに口を開いた。
「ええと……実はね、おかりん。陸くんをIDOLiSH7……小鳥遊事務所でデビューさせないといけなくなってしまって」
「そ、そうなんですか 自分が千くんに問い詰めたかったのはその話じゃなかったんですけど……」
「あれ。そうなの?」
千はまばたきを繰り返してきょとんとしている。どうやら心当たりが外れたらしい。凛人はもはや苦笑を隠さなかった。九条陸を小鳥遊事務所でデビューさせたいという話も聞き捨てならないが、まずは問いただしたかったことを訊いておかなければ。
凛人は表情を改めて、真顔になった。
「千くん。数日前に自分を訪ねてきた高校生と一対一で会って、連絡先も聞かずに帰しましたよね? 自分が陸くんを連れてきたあの日、あの直前に」
「あ」
千は顔を顰めた。しまった、と顔に書いてある。
「……お知り合い、だったんですか?」
重ねて尋ねると、千はバツの悪そうな顔をして頷いた。
「実は、僕のいたところと同じ場所から来た子だったんだよね、彼」
「なるほど。本当に会いたかったのは自分ではなく千くんだったから、彼の方も目的を果たせた、という訳ですね」
「はい。その通りです」
千は殊勝にうなだれている。そんな顔をされてしまっては、これ以上、厳しい表情を維持するのは難しかった。凜人は眉を下げて肩を落とした。
「だからと言って、情報を遮断するのは良くないですよ。それならそうと教えて頂かないと」
「話すと長くなるんだけれど……」
「今更ですよ。聞かせてください」
千たちをソファに座り直させると、改めて凛人は千の長い話を聞いた。
この世界に千が来てしまった原因が、映画「星巡りの観測者」の小道具である願いを叶える宝石・星玉に願いを託してしまったせいではないかということ。願いを託した人間は千だけではなく、そのほかに五人もいるということ。
千と同じく向こうの世界の住人である和泉一織が、この世界に留まりたいと考えているらしいこと。そして、今のところ一織の託した願いだけが完全には叶っていないらしいということ。
一織の願いは「IDOLiSH7を最初からやり直したい」というものだった。
千は彼に向こうの世界へ帰りたいと思わせたいのだそうだ。そのために、先手を打ってIDOLiSH7というアイドルグループを結成して、一織にゆさぶりをかけたいと考えているらしい。一織に初心を思い出させるような曲を披露して、この世界にいたいと願っていることを後悔させたいのだそうだ。
急いで帰りたい理由は、元の世界での千の相方・百の様子がおかしいからだと千は言った。こちらの世界での春原百瀬はすでに鬼籍に入っている。千の相方である百の意識は眠っている間にこちらの世界に幽霊として紛れ込んでいるのだそうだ。それだけなら良かったのだが、どうやら存在を維持することが難しいらしい。もしもこちらの世界で幽霊の百が消滅してしまった場合、向こうの百がどうなってしまうのか分からない。だから早く帰りたいと、そういうことであるのだそうだ。
春原百瀬のことは凛人もうっすらと覚えている。一度だけすれ違った記憶がある。千と万理をスカウトしたあの日、溌剌としたスタッフの青年を目撃した。彼が芸能界に興味があるならば声をかけてみようかと思うくらいには目を惹く存在だったのだ。もしも彼がまだ生きていたならば、アイドルになっている未来も充分にありえた話だ。
一織を含めてIDOLiSH7のメンバーは七人。そして今現在、協力を約束してもらえている人間はここにいる陸を含めて三人集まっている。あと半分、どうにか探し出して、説得する必要がある、と千は話を締めくくった。
話を聞き終わって、凛人は黙って溜息をついた。
「……それならそうと、言ってくれたら良かったのに」
「IDOLiSH7のメンバーは逸材揃いだもん。知ってしまったら、岡崎事務所でデビューさせたくなったりしない?」
「見くびられたものですね」
凜人は不敵に笑って眼鏡の位置を直した。
「自分はRe:valeの……千くんのマネージャーですよ」
千は顔を上げた。
やっと視線が合った。
凜人は優しく微笑んだ。自分のことを「おかりん」と呼ぶ千は、子供のように素直な表情をして驚いている。
「千くんにとって何が一番大事なことなのかは、自分にも分かっているつもりです。社長には怒られてしまうかもしれませんけれどね」
「おかりん……」
「千くんが向こうに帰るために必要なことなら、自分も協力します。いえ、協力させて下さい」
頭を下げると、千は泣き笑いするように笑った。
「……ありがとう。ごめんね」
「前にも言ったでしょう。謝らないで下さいよ」
「だって、帰るってことは、おかりんと――あなたともお別れになっちゃうってことじゃない? 別の人だって分かってはいるんだけれど、やっぱりおかりんはおかりんだからさ。どうしたって大好きな人だから、離れがたくて。帰りたいとは言い出しにくかったんだよね」
照れたように打ち明ける千は、驚くほど素直で可愛らしい。
虚を突かれて、凜人は目を丸くした。
信用されていないから、帰りたいことを相談されないのだと思っていた。
けれど、そうではなかったのだ。千のことを信用していなかったのは自分の方だったのだと気付かされて、申し訳なくて、自分が間違っていたことが嬉しくて、少し悔しくて、凜人の鼻の奥はツンと熱くなった。
「……ずるいな、千くんは。泣かせないで下さいよお……」
「ごめんごめん。泣かないでよ、おかりん」
千は凛人の隣にやってきて、慰めるように肩を抱いた。凜人は苦笑しながら眼鏡をずらして、にじんだ涙をそっと拭う。
「向こうの自分も、見知った千くんがいなくて寂しがっていると思いますよ」
「おかりんも、こっちの僕がいなくて、やっぱりさみしい?」
尋ねられて、凛人はそっと目を細めた。
千とはもう五年以上の付き合いになる。それなのに、凜人は千のことをほとんど知らない。千は社会とのつながりに万理を窓口とすることを選び、こちらもそれをよしとしてきた。凜人は二人の関係に口を出すことも、あえて割って入ることもしてこなかった。千はデリケートな芸術家肌で、万理以外との関係を望んでいないと思い込んでいたからだ。
だが、このもう一人の千を見ていたら、自分が間違っていたことに嫌でも気付かされてしまった。もしも自分から踏み出していたら、千との関係はもう少し違うものになっていたのかもしれない。
「そうですね。……自分は、元々いた千くんとはちゃんとした関係を結べていなかったですから。こちらの千くんが戻ってこれたら、今度こそしっかり話をしてみたいですね」
凜人は唇を噛むようにして息を吐いた。
間違っていたと気付けたのなら、やりなおすチャンスが欲しい。
そのためには、まずはこの優しい千を元いた場所に返してあげなければいけないのだ。