Re:gret六章4話第4話 四葉環
スタジオを借りてもらってオケを録音していた千は、ロビーで迎えが来るのを待つ間、ぼんやりとスマートフォンを眺めていた。壮五の映像がラビチューブに上がっていたことを考えると、環の画像も探せばあるのかもしれない。そう思って、ダメ元でショート動画を中心に流し見していたのだ。
環が施設育ちであることは千も知っている。
今のところ一織からの連絡は特にないが、一織はもしかしたら既に環と接触を果たしているのかもしれない。同級生で仲の良い二人だから、環が育った施設のことも知っている可能性が高い。
千の計画は、一織以外の六人を集めて向こうでの思い出の楽曲を披露して、一織に里心がつくのを期待したい、という割とアバウトなものだ。もっと確実なやり方を思いつけたら良かったのだが、相談できる相手もいないし時間は迫っているし、現時点での最善の方法を試してみるしかない。
既に集まっているメンバーたちにはボーカルレッスンやダンスの基礎レッスンをしてもらっている。披露するべき楽曲は念の為に複数用意しているが、彼らのデビュー曲であるMONSTER GENERATiONにするべきか、デビュー後の再出発を歌ったRESTART POiNTERにするべきかでまだ迷っている。どの曲にするか、どこで発表するのか、早く決めておかないといけないのに、決定打が見つからない。気持ちばかりが焦ってしまう。そもそも若者向けのSNSを見ている場合でもないのだが、これはこれで、意外と見始めると止まらない。
スワイプを繰り返していた手が止まった。
「……えっ」
いた。環だ。ジャージ姿の環が、DIAMOND FUSIONを踊っていた。途中で撮影されていることに気が付いたのか、カメラ目線でウィンクのサービスまでしてくれている。アカウントは本人のものではなさそうだ。撮影場所は、どうやらどこかの公園であるらしい。
紡青年にURLを共有すると、すぐに返事が来た。
『お疲れ様です! この子……以前、事務所の前でぼうっと立っていたことがありますよ。見たことあります。何か御用ですかって声をかけたら逃げていっちゃったんですけど』
小鳥遊事務所に? 千は首を傾げた。ありがとう、の意味を込めて王様プリンがサムズアップしているスタンプを押すと、ピンクのウサギがニコニコしているスタンプが返ってきた。
まさか、環にも向こうの記憶があるのだろうか。こんな簡単に見つけることができるのなら、一織の方が先に環くんと会っているかもしれない。環に向こうの記憶があったとしても、一織の口車にのせられて、環まで帰りたくないなどと言い出すようになっていたらどうしよう。
「――すみません、千くん。お待たせしました!」
ぐるぐると考え込んでいると、スタジオ受付前の自動扉が開いた。こんなところで待たないで下さいと苦言を呈しつつ、黒縁メガネの童顔マネージャー・岡崎凛人が駆け寄ってくる。
スマートフォンを握りしめたまま、千はほっと息をついて立ち上がった。――凛人が味方になってくれて本当に良かった。顔を見ただけで、こんなにも心強い気持ちになれる。
「ごめん、おかりん。ここに行きたいんだけど、どこなのか分かる?」
画面を見せてお願いすると、凛人は一瞬、虚をつかれたように息を飲んだ。
「すごい……逸材じゃないですか。天性のスタイルの良さに加えて、指先や表情まで手を抜かずに表現する力がありますよ、この子。岡崎事務所で声を掛けられないのが惜しいな……」
「うーん。おかりんがよその子を手放しで褒めるの、初めて見るかも。何だか嫉妬しちゃうな」
「千くんが、ですか」
驚きを隠せないでいる凛人に、千は思わず苦笑を返した。
「そうだよ。いけない? おかりんからの称賛は、いつだってRe:valeが独占していたいからね」
凛人は黒縁メガネをそっと押さえて、顔を上げた。千は茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせる。千の視線を真正面から受け止めると、凛人は眉を下げて笑ってくれた。
泣き出す寸前に見えるほどの、くしゃくしゃの笑顔だった。
* * *
目覚まし時計を手探りで止めて、環はごろりと寝返りを打った。パチリと目を開ける。天井が近い。これは小鳥遊事務所が用意してくれた寮の天井ではない。
見慣れた、施設の天井だ。
「だあぁ、も~~……」
環は布団をかぶって不貞腐れた。まだ自分はIDOLiSH7のいない世界にいるらしい。何度寝て起きても夢の中から目が覚めない。早く向こうに帰って、仲間と一緒に歌ったり、踊ったりしたいのに。
「兄ちゃん、起きて! 遅刻しちゃうよ」
「んんん。もう、うるせーなあ……」
気の強い妹の声が耳元で響いた。二段ベッドのハシゴによじ登って、大声を出しているのだろう。本来ならば男子部屋に女子が入ってはいけないことになっているのだが、朝のこの時間だけは特別に許されている。こうでもしないと環が起きてこないからだ。
この世界で唯一マシなことがあるとすれば、妹の理が一度も養子に出ていない、ということくらいだろうか。だからもちろん最初の養子先が倒産してもいないし、そのあとで九条の養子にさせられてしまってもいない。時々はケンカをすることもあるけれど、昔のように施設で仲良く暮らしている。IDOLiSH7になる前の環が、何度も妄想したIFの世界だ。
「んもう、うるさいとか言うなら明日から起こしてあげないんだからね 朝ごはん、食べる時間がなくなっちゃってもいいの」
「わーった、起きる。起きるからさあ、頭の上で怒鳴んのやめてくれよお……」
しょぼしょぼしながら身体を起こすと、呆れたような顔の理と目が合った。セーラー服を着ているのが見慣れない。環が通っていた公立中学校の制服だ。小学生の時にはもう養子に出ていたから、学生服姿を見るのは初めてだった。こちらの世界に来たばかりの頃はつい涙ぐんでしまって、理に気味悪がられてしまったものだ。
「なあに? 兄ちゃんてば、また私のセーラー服にびっくりしてるの?」
ぼうっとしていると、理はうさんくさいものでも見るように目を細めた。環は妙に恥ずかしくなってしまって、照れ隠しに唇を尖らせる。
「うっせーなあ。かあちゃんにも見せてやりたかったなって思っちまうんだから、仕方ねーだろ」
「……そっか。それでだったんだ」
虚をつかれたようにまばたきを繰り返して、理は微笑んだ。こちらの理は九条天の妹ではない。それなのに、どこか天の微笑みに似ている気がして、環は唇をぎゅっと結んだ。
天と理は優しいところがよく似ている。
以前、理から父親そっくりだと言われたことを、環は忘れていない。許せないという意味ではなく、事実として受け止めているつもりだ。アルコール中毒で、普段は気が弱いくせに、酒が入るとすぐに暴力を振るう父親を、環は一生許さないと思う。絶対にあんな風にはなりたくないと思っていたのに、頭ごなしに理に命令する自分は確かに父親とよく似ていた。
今もそうだ。本当は理は九条の家にいたがっていたのに、環は自分の願いを叶えるために理の気持ちを無かったことにしてしまっている。もしかしたら、天の妹でいる方が理にとっては良いことであるのかもしれないのに。
頭では今の状況は良くないことだと分かっているのに、居心地良く感じてしまっている身勝手な自分が本当に嫌だ。
理はハッと顔色を変えて、壁にかかった時計を振り仰いだ。
「わっ。やだ大変! もう時間がないんだってば! 私はもう学校に行っちゃうけど、ちゃんと身支度して降りてきてね」
「へいへい。わーったわーった」
「返事は一回!」
施設の先生みたいなことを言い残して、理はドタバタとはしご段を降りていく。そのまま振り返りもせずに階下へ走っていってしまった。
環は手早く着替えを済ませて、食堂に向かった。トレイに用意されたトーストと目玉焼きの朝ごはんを食べながら、まあ、走れば何とかなるだろうなと計算をする。朝のホームルームには間に合わないかもしれないが、一限には余裕で間に合うだろう。
あの日――みんなで千の部屋に押しかけたあの日、環は理と暮らしたい、と星玉に願った。一緒に暮らしたいというのは施設に戻りたいという意味ではなく、自分の力で、自分の稼ぎで、妹を養っていけるようになりたいという意味だったのだが、星玉は言葉通りにしか願いを受け付けてくれなかったようだ。
この世界はどこかおかしい。陸は何故かIDOLiSH7ではなくTRIGGERに所属しているし、本来ならばMEZZO"のマネージャーである大神万理は、千と一緒にRe:valeとして活動している。小鳥遊事務所に様子を見に行ってみても、IDOLiSH7の女性マネージャーである小鳥遊紡の姿は見当たらないし、千の隣にいるはずの百にしてもどこにいるのか分からない。あの時、星玉に託した願いが、まるで本当に叶ってしまったかのような世界だ。
(こんなことなら、かあちゃんを生き返らせて欲しい、そんでもって、クソ親父との縁が完全に切れますようにって祈っておけば良かったのかなあ……)
薄いバタートーストをざくりと齧って、環はそっと溜息をついた。大事なことは、いつだって少し遅れてからでないと気付けない。最適解に、どうしても最短では届かない。例え気が付いていたとしても、いつもいつも、あと一歩が足りない。
春樹に長生きして欲しかったと言ったナギの願いは、果たして叶っているのだろうか。
『言っておきますけれどね、四葉さんは馬鹿なんかじゃありませんよ。あなた、ちゃんと説明したら難しいことでも理解できる力はあるんですからね。だからこそ私や逢坂さんが口うるさく言うんです。本当に出来ない人間を相手にいちいち小言なんか言ったりしませんよ。それこそ、時間の無駄じゃありませんか』
呆れた顔の一織を思い出して、環は少しだけ気持ちが慰められた。
パーフェクト高校生と自称する同学年のメンバーから、自分を馬鹿だと思うことは諦めだ、逃げるなと叱咤激励されたことがある。言い回しは独特だったけれど、期待してくれていることは伝わってきた。その期待が鬱陶しいこともあるけれど、自分では出来ないと思っていることを出来ると信じてくれる人がいることは素直に嬉しかったし、やる気ももらえた。
一織はうるさいし、よく分からない思考回路の持ち主けれど、だからこそ面白い。それに、仲間想いの良い奴だ。この世界でも、一織はわざわざ環に会いに来てくれた。向こうの世界で環が暮らしていた施設へ一緒に遊びに行ったことがあるから、覚えていてくれたのだろう。
(いおりんって、俺といすみん以外に友達らしい友達いねーもんな)
一織の眉間のシワを思い出して、環は一人でくすくすと笑った。自分と出会ってから――IDOLiSH7になってからでさえ、そうだったのだ。アイドルという目立つ存在になる以前の一織に、友達がいたとは思えない。
環を訪ねてきた一織は、駅前の公園まで環を連れ出すと、単刀直入に用件を切り出した。この世界が恐らくは星玉に願って出来た世界であること、まだ自分の願いが叶えられていないことを打ち明けて、環にも協力を持ちかけてきたのだ。
夕食前のまだ明るい時間帯だった。たくさん並んだベンチの端と端に座って、環は一織と話し込んだ。環は学校指定のジャージの上にTシャツを着て、薄手のパーカーを羽織っていた。一織が詰襟の学生服を着ていることが、なんだか見慣れなくて不思議だった。
「協力って、何したらいーの? いおりんに協力したら元の世界に戻れたりする?」
「……戻りたいんですか? 四葉さんは願いが叶っているというのに」
環はムッとして唇を尖らせた。
「てんてんも言ってたじゃん。頑張れば叶うような願いは自分で叶えろーってさあ。本当に叶えて欲したかった俺の願いって、そーじゃねーし」
「そうなんですか?」
うまく説明出来る気がしなくて、環は質問には答えなかった。
「んで? いおりんはどーすんの、これから」
「私は、こちらでIDOLiSH7を作りたいと思っています」
「ええー? それ本当にやんのー?」
足を投げ出して駄々を捏ねると、一織は額に指を当てて溜息をついた。
「………。四葉さん。あなた、いつ、どこでスカウトされたんでしたっけ?」
「んん? えーと、確かこの場所で……なんだっけなー、みんなで一緒に踊ってたときに?」
「分かりました。それじゃ、また社長からスカウトされるまで、あなたはそこで踊っていてください」
話は終わりだ、と言わんばかりに一織は立ち上がった。環は大股に座ったまま、前屈するようにベンチの縁をぐっと握る。
「けどさー。自分から事務所に行くんじゃダメなの? 俺、待つのヤダなー」
立ち上がった一織は、大袈裟な溜息をついて環を見下ろした。
「私たちのことをどうやって説明するつもりですか? IDOLiSH7でデビューするには時期尚早だと言われて、結局あなたと逢坂さんだけがMEZZO"としてデビューしなければならなかった経緯を、よもやお忘れじゃないでしょうね?」
「忘れちゃいないけど……つまりそれって、どういうこと?」
「私たち二人だけでのこのこ出向いたとしたら、あなたと私でコンビを組むことになりかねないんじゃないかと言っているんです」
「ほほー? なるほどー?」
一緒に行こうとは一言も言っていなかったはずなのに、一織の中では二人で行くことは決定事項だったらしい。何となく面白くて、環はにやにやと笑ってしまった。苛立ちを隠しもせずに、一織は眉間に皺を寄せる。一織の気が短いのはいつものことなので、これしきのことでは環は動じない。
わざとらしい咳払いをして、一織は話を元に戻した。
「ですから、メンバーを集めるならば一気に、そうでないならば社長の狙いに乗じる方がかえって近道になるはずですよ」
「それよりもさあ、ここでIDOLiSH7作って、それからいおりんはどーすんの? もう元の世界には戻らねーつもりなの?」
環は静かに核心に触れた。一織はふと真顔になった。返事はない。答えるつもりがないのだと環は理解した。はぐらかそうとしているのかもしれないが、答えないということは肯定しているのと同じだ。
「何とか言えよ、いおりん!」
また来ます、と一礼して去ろうとした一織は、ふと足を止めて環の前にスマホを差し出した。
「あの、四葉さんの連絡先を……、そうか、携帯なんて持ってなかったですよね、あなた」
「あのさあ、俺、ちょ~怒ってんですけど」
何事もなかったかのように振る舞う一織に対して、環は目を剥いてみせた。環には馬鹿の自覚はあるが、一織は時々、驚く程に空気が読めない。頭が良いクセにどうして分からないんだろうと不思議に思う。
一織は苦笑気味の笑顔を浮かべた。
「王様プリンを持って来ますよ、今度は。ウチのケーキも一緒に」
「……施設にも電話くらいあるよ。あんまし長電話してっと怒られるけど。いちおー教えとく」
環は唇を尖らせながら、電話番号を市外局番からそらんじてみせた。多分、一織は本当に分からないのだ。もしくは、分かっていて分からない振りをしているのか。環はそれ以上つっこんだ話をするのを諦めてしまった。話が噛み合っていないことは理解できても、それをどう説明したらいいのか、よく分からない。
繰り返し確認して登録を完了させると、一織は学生鞄からメモ帳を取り出した。さらさらと素早く何事かを書き連ねて、環に手渡す。
「ありがとうございます。私の連絡先もお渡ししておきますね。――てゆーかあなた、帰るまでに無くさないでくださいよ」
「えへへへへ……」
環は頭をかいて笑った。こういう、ちまちましたものを無くすのは得意だ。一織もそれに気が付いている。
なあんだ、と環は思った。いおりん、ちゃんと俺のこと分かってんじゃん。
一織の考えることは、環には難しくてよく分からない。けれどIDOLiSH7のことを考えて行動しているのだろうということが環には分かった。分かったから、今日のところは勘弁してやることにした。大事なことは理屈ではないのだ。
「何なんですかその顔は まったく、あなたって人は……」
「あ。ロップチャンじゃん」
渡されたものは、見慣れた、青い垂れ耳ウサギのキャラクターのメモ紙だった。指摘をすると、例によってよく分からない言い訳をしどろもどろ始めるのが面白い。
何となく離れがたくていつまでも構っていると、一織は怒った素振りで足早に駅へと向かっていった。本当に怒ったのではなく、照れているだけだと分かっているから、環は大声をあげて一織の背中に声をかけた。
「――なあ、みんな集まったら帰れんだよな」
一織は身体全体を使って振り返った。
「そうだといいなと、私も思っていますよ!」
その言葉に嘘はないと、環は信じることにした。疑う余地がない訳ではなかったけれど、一織は環が嘘を嫌いなことを知っている。それなのに、あえて一織が自分を騙すような真似をするはずがない。環の直感は、一織も自分と同じようにIDOLiSH7を恋しがっているのだと告げていた。
* * *
千は凛人に車を出してもらい、途中で紡青年を拾って千葉県にある駅前公園へと向かった。
公園といっても特に遊具がある訳ではない。複数並んだベンチがある程度のものだ。高架橋脚が立ち並び、頭上には懸垂式モノレールの線路が走っている。やがて、東京方面から二両つながったモノレールが駅の中へと吸い込まれていった。千は子供のように助手席の窓に手をついて、その様子をまじまじと眺めた。
「それじゃ、自分はその辺をまわってみますので、お二人は先に行っててください」
凛人は千と紡を車から降ろすと、駐車場を探しに行った。社有車のバンを見送って、千は公園を突っ切るように駅の方へと向かっていく。背後から紡青年が追いかけてくるのを知っていたが、千が歩みを緩めることはなかった。
まだ時間が早いせいか、駅から出てくるのは学生たちばかりだ。きょろきょろと辺りを見渡すと、駅の入口付近に若い女の子たちが群がっているのを見つけた。彼女たちの視線の中心に、背の高い男の子が踊っているのが見える。誰かがスマホで流しているのだろう、軽快な音楽が聞こえてきた。古い洋楽だ。エイトビートのリズムに合わせて、彼は長い手足を大胆に使って、のびのびと楽しそうにダンスを披露している。
環だ。
足を止めて遠目から眺めていると、環は不意にMr.AFFECTiONの振り付けを始めた。違う曲なのに成立しているように見えるのは、きちんと音にハマるように適度にアレンジを加えているからだろう。
「凄い……。あの子、上手いですね」
「そりゃそうだよ。彼はすでにプロだからね」
追いついた紡青年に声をかけられて、千はまるで自分のことのように自慢気に語った。
環は本当に楽しそうに踊っている。一人なのが、惜しいくらいに。千はしばらく、目を細めて環のダンスを見守っていた。
やがて、曲が終わりに差しかかった。アウトロのドラムに合わせて、環はくるりとターンを決める。曲が変わる寸前に、丁寧にお辞儀をした。どうやら一度休憩を挟むようだ。女の子たちの拍手と歓声が沸き起こる。千も拍手をしながら輪に向かって近付いていった。
「ねえねえ、次はForever noteやってみせてよ。僕あれ好きなんだ」
「――いま誰かForever noteつった」
Tシャツの襟を伸ばして汗を拭きながら、環が吠えるように叫んだ。女の子たちがビクッと怯えて、こちらを振り返る。驚きと戸惑いが、黄色い歓声に変わった。どうやら、Re:valeの千だと気付かれてしまったらしい。
「こんにちは、環くん」
「ゆきりん……」
環の大きなタレ目が、くわっと見開かれた。千は微笑を浮かべながら、腕を組んで頷いてみせる。
その傍らでは、紡青年が色めき立つギャラリーに対して丁寧にこの場のお開きをお願いしていた。凛人が彼に千を任せたのはこのためだろう。一部から不満げな声が上がったが、紡青年は有無を言わせぬ態度で、ただしきちんと頭を下げてお引き取りいただいている。器用ではないかもしれないが実直な仕事ぶりに、千まで誇らしい気持ちになってしまった。
静かになった駅前公園に、千と環は少しの距離をあけて向き合っていた。環は驚きの表情のまま、固まってしまっている。千は口元に手を当てて、ふふ、と笑った。
「僕、カレイドスコープも好きなんだよね。MEZZO"じゃなくてIDORIiSH7から選んでもいいけど。何がいいかな」
「ゆきりーん!」
大型犬の反射速度で、環は千に飛びついてきた。見えない尻尾がブンブン振られているのが見えるようだ。千はよろけながらも環を受け止めて笑った。
「うわー……、びっくりした」
「ゆきりん、ゆきりん、もう本当にマジもんのゆきりんじゃん! びっくりしたのはこっちだっつーの! 目が覚めたら施設に戻ってるし! 理はいるけど、みんながいねーんだもん。事務所いってもマネージャーいねーし。バンちゃんはRe:valeになってっし! もうヤダ。もう帰りてえよ。みんなに会いたい!」
「僕も帰りたいよ。この世界にはモモがいないから」
宥めるように背中を叩くと、環はガバッと顔を上げた。
「ももりん、いねーの?」
「そう。死んじゃってるんだってさ。お墓にも連れていかれた」
「マジか……。ごめん」
環の瞳が動揺したように揺らめいた。環は相手を思いやる心を持った、優しい子だ。千は言葉を選ばなかった自分を恥じた。
「謝ることはないよ。それに、僕のモモは向こうにいるんだから。元の世界に戻ればハッピーエンドだ。そうでしょう?」
微笑むと、環はぎこちなく頷いた。環は一織と違って、元の世界に帰りたがっている。あともう一押しだ。千は表情を改めて環に対して頭を下げた。
「お願いします、環くん。元の世界に戻るために、僕に協力してくれませんか」
「どうしたら帰れるのか、ゆきりん分かるの?」
環の言い分ももっともだ。千は正直に答えた。
「いや……、実は僕にもよく分かってないんだ。でも、こうなんじゃないかなって案はあるよ。こっちの世界でIDORIiSH7を結成させようと思って」
「それ、いおりんも言ってたな……。じゃあ、やっぱり本当なんだ」
「一織くんに会ったのか いつ」
「んーと。三週間くらい前だったかな……」
千が一織に出会ったのは数日前だ。あの時、陸や天に向こうでの記憶がないと伝えたら一織は驚いていた。それはもしかしたら環に記憶があると知っていたせいなのかもしれない。
一織は実家に戻っているのだろうから、三月とは既に接触しているはずだ。恐らく、三月にはIDOLiSH7の記憶はないのだろう。だから、千に試すような真似をしたのではないだろうか。――記憶を保持したままの人物と、そうでない人物との差が何なのか、もしかしたら一織にはある程度の予測が立っているのかもしれない。
落ち着いて考えてみれば、腑に落ちることばかりだ。千は一織の腹芸に舌を巻いた。そしてもう一つ、思い当たる節があった。岡崎事務所で再会をした時に、向こうの記憶を持つ人物と接触をするのは初めてだ、というようなことを一織は言っていたはずだ。
(一織くんめ。さては、あえて環くんのことを僕に教えなかったな?)
何故、環のことを隠さなければならなかったのか、それは千にも分からない。もしかしたら、千が一織に感じているように、一織も千のことを、いずれ自分の邪魔をする存在になるかもしれないと考えていたのかもしれない。
一織の言い分も分からなくはないのだ。納得する部分も沢山あった。だが、一織の言う通り、彼の願いが叶ったら元の世界に戻れるのだとして、それは一体いつのことになるのだろう。こちらでIDOLiSH7を結成させたとして、それだけで彼が満足できるとは思えない。彼の夢はまだまだ途中であるはずだ。考えすぎかもしれないが、夢を追い続けることが夢である、という結末だってあるのかもしれない。
千は一織がこの世界を成立させているキーマンだと予想している。
だが、いかんせん、今の一織はただの高校生だ。アドバンテージは千にあると言っていい。一織の意表をつく形でIDOLiSH7を集めることが出来れば、千にも勝機があるかもしれない。
千は唇を湿らせて、そっと環に囁いた。
「――ねえ、環くん。僕に会ったこと、一織くんには内緒にしてくれないかな」
「ええー 俺、嘘はヤダよ」
猫なで声でさらなるお願いを頼もうとしたら、環は過剰なほど難色を示した。千は焦った。
「嘘じゃないよ、本当のことを言わないでいてくれたら良いだけの話で」
「だけどさ、知ってるのに黙ってるって、それって嘘ついてるのと一緒じゃね?」
千は真面目な顔をして、環の両肩に手を置いた。
「思い出して、環くん。僕たちの五周年記念ライブのとき、大和くんが僕にドッキリを仕掛けたことがあるでしょう。あのとき、あの場所に君もいたよね。大和くんが演技をしてるって――僕に嘘を仕掛けているって知っていたのに、君は黙っていた。それはどうして?」
「だって、あれはサプライズだったじゃん!」
「同じことだよ。一織くんに内緒でメンバーを集めて、びっくりさせたいんだよね。君が嘘を言う必要はない。もし何か聞かれたとしても、一織くんには黙っていてくれるだけでいい。――もしも黙っていることがつらいなら、全部打ち明けてしまっても構わない。それなら、問題はないでしょう?」
「え。言っちゃってもいいの?」
環はきょとんとまばたきを繰り返している。
千は笑って、環の肩から手を離した。
「まあ、びっくりは半減するかもだけど。別に構わないよ」
「……わーった。そんなら、ゆきりんに協力してもいーよ。いつもお世話になってっし」
「ありがとう。環くんはいい子だね」
「もー。子供扱いすんのやめろよな~……」
頭を撫でてやると、環は満更でもなさそうな顔をしつつ文句を言った。
ふと、視線だけで振り返ると、紡青年が所在なげにもじもじとしていることに気が付いてしまった。いけない。彼のことをすっかり忘れてしまっていた。
「ごめんごめん、紹介が遅れたね。こちら、四葉環くんです。僕と同じく、彼にはIDOLiSH7の記憶があるみたいだよ。――それから、環くんにも。こちらは小鳥遊紡くんです。いずれ君たちのマネージャーになる青年だよ」
爆弾を投下すると、環は面白いくらいに動揺した。
「は ――エッ マネージャー、男になっちゃったの 何で」
「あ、ははは……」
紡青年は困ったように眉を八の字に寄せて、コメントを控えたようだった。彼としては生まれた時から男性であるので、何故と聞かれても答えられないだろう。
環は紡の表情をまじまじと見つめて、ふと微笑った。
「……なんか男になったマネージャーって、ちょっとそーちゃんに似てんね」
「そーちゃん? 壮五さんのことでしょうか。私、似て……ますかね?」
紡青年はびっくりしたように目を見開いている。
「確かに、おっとりしているようで過激なところは似てるかもしれないね。見た目だけの話じゃなくて」
「はあ……」
フォローを入れたつもりだったのだが、紡青年はますます困ってしまったようだった。環はピンときた顔をして、一人言のように呟いた。
「そうか。そーちゃん、もうそっちにいるんだ……」
「大和くんと、ナギくんもいるよ。あと、陸くんも」
別に自分の手柄ではないのだが、千は自慢げに胸を張った。
「マジで そんじゃ、あとはみっきーといおりんだけじゃん。すげえ!」
「――でもね、彼らに向こうの記憶はないんだよね」
目をキラキラと輝かせる環に、千はにっこりと笑って肩を叩いた。
「ダンス指導は任せたからね、環くん」
いま現在の彼らの技術が、結成した当時と同程度のレベルであることは、千はあえて言わなかった。何も知らない環はどんと胸を叩くと「任しといて!」と請け負ってくれたのだった。