Re:gret六章3話第3話 逢坂壮五
果たしてこれは何のための会なのだろう。逢坂壮五は柔和な笑顔を絶やさぬまま、心の中で毒づいていた。
今日は叔父の七回忌だ。読経と法話を終えた僧侶が仏間を退出すると、改めて座布団が敷き直されて会食が始まった。ここは壮五の暮らしている洋館ではなく、渡り廊下でつながった和風建築の旧逢坂邸だ。昔、祖父母が住んでいた本宅にあたる武家屋敷で、この日のために敷き直された真新しい畳が青々とした匂いを放っている。伽羅の線香と混ざりあって、お寺にでもいるような気分だ。
法要に参加しているのは、ファイブスターカンパニー、通称FSCで要職についている年配の男性ばかりだった。父のコントロールが行き届いた身内しか出席していないため、話題は仕事の話とそれに付随する雑談がメインとなっていく。
(いやだな。……早く帰りたい)
今のところ壮五の立場はただの学生でしかないのだが、何故かこの首脳会談のような座の末席に座らされていた。これも「勉強」ということらしい。
提供されている料理は会席料理のフルコースだ。家紋の入った箱膳に、揃いの陶磁器、使用されているものは博物館に展示されていてもおかしくないような骨董品ばかりだ。料理自体も老舗の料亭から料理人ごと貸し出された特別なものであるらしい。細長い角皿に、突き出しのなますが芸術品のようにちょこんと乗せられている。周りの様子を窺いながら箸をつけてはみたが、とても味わうどころではない。
法事とは本来、亡くなった人を偲ぶためのものだ。
壮五にとって、叔父との思い出は常に音楽と共にある。だからこそ、こんな法要には意味がないと思った。七回忌をダシにして集まっているだけで、誰も叔父のことを思い出そうともしないのだから。
叔父である逢坂聡はミュージシャンだった。自分で曲を書き、歌う、いわゆるシンガーソングライターで、専属のバンドこそ持たなかったが、その音楽は正統派のロックサウンドだ。壮五の物心がつく頃には既に叔父は勘当されていたが、父の不在を見計らっては会いに来てくれた。
音楽の楽しさを、どきどきわくわくする気持ちを教えてくれたのは叔父だった。
胸が高鳴って昂揚する気持ちを、大声を上げて叫ぶ爽快感を、暴力的なほどの音の塊は質量をともなってぶつかってくるということを――音楽とは自由なものであるということを、壮五は叔父の聡から教わった。
優しげな風貌からは想像できないような叔父の力強い歌声が、ハスキーなシャウトが、稲妻のようなギターが、壮五の胸を高鳴らせてくれた。叔父から生みだされる音が、壮五はとても大好きだった。
そして、素晴らしいものは自分でも生み出すことができるということを教えてくれたのも叔父だった。
初めてギターを歌わせることが出来たあの日、胸の奥の何かが解放されたような気持ちになった。
叔父は、言わば恩人だ。息の詰まるこの世界で、呼吸する仕方を手解きしてくれた。生きる希望を与えてくれた。
普段であれば、父の求める「逢坂家の完璧な跡取り息子」を演じることは造作もないことだった。だが、今日だけは、叔父に関することだけは駄目だった。どうしても自分の心に嘘が付けなくなってしまう。
こんな味も素っ気もない法要で、叔父の魂が安らげるはずがない。
(もっと、僕に勇気があったら……)
作り笑いの下で、壮五はぎゅっと拳を握った。手のひらに爪が食い込む痛みで、かろうじて正気を保てるような気がした。
(体裁ばかりの集まりなんかおかしいって、父に意見することも出来たかもしれないのに)
エレキギターをぶっ壊すような過激なパフォーマンスは現実的ではないとしても、例えば、叔父の出したアルバムや、彼が好きだったアーティストの曲をこの場で流したり、ゲストを招いて生演奏を披露してもらったり――叔父が今ここにいないことを悔しがるような演出が出来ていたら、どんなに素敵な会になったことだろうか。
何より腹が立つのは、不満を抱えながらも行動を起こせない自分自身の不甲斐なさに対してだ。
このまま敷かれたレールに乗って生きていくことには耐えられないと思うのに、あの父と正面から交渉する決心がつかない。
煮え切らない自分自身が、たまらなく嫌だ。
「そういえば壮五くん、ラビチューブに君の演奏が映っているのを見ましたよ」
相槌を打っているばかりの壮五に気を遣ってか、隣に座った父の従弟が話しかけてきた。ちらりと横目で上座の様子をうかがうと、父は鋭い目をさらに険しくしてこちらを見つめている。
「お恥ずかしい限りです。素人のお遊びに目を通して頂いたなんて、恐縮です」
父は耳と目がいい。離れてはいるが、こちらの話を聞いているに違いない。厄介な話題に触れられてしまったな、と内心で舌を巻きながら、壮五は出来るだけ穏便に話を切り上げようと謙遜してみせた。
壮五は時々、友人のバンドでサポートメンバーをしている。それが許されているのは、友人の所属する軽音サークルに代々政治家の家系の先輩がいるからだ。経済学部ではなく法学部への進学を勧められたことと、理由は同じだ。逢坂家の男にとって学校とはただ勉学に励むためだけの場所ではない。人脈を築くための、重要な社交の場なのだ。
ところが、間の悪いことに、酌をして回っていた大叔父が会話を聞きとがめて座り込んでしまった。
「ああ、私も見させてもらったよ。一緒に映っていたのは元総理大臣のお孫さんだろう? いやあ、大したものだ! 人脈を広げられるならば、ああいった趣味も悪いものじゃないねえ」
「あはは……」
壮五は言葉もなく笑うしかなかった。
春先に、新入生歓迎のためのライブが学内で行われた。ラビチューブに上がっていた映像というのは、恐らくそれのことだろう。演奏、とわざわざ言っているところをみると、彼らが目撃したものは壮五がギターを弾いている姿なのだろう。
ギターだけなら、まだマシだ。壮五はほっと胸をなでおろした。実はあの日、最後に一曲だけ自由に歌わせてもらったのだ。その映像を見られでもしていたらもっとまずいことになっていただろう。もちろん、自分のソロボーカルが収められた場面をアップすることまでは許可していない。もしアレが父の耳にでも入ろうものなら、最悪、手伝いをすることすら禁じられてしまうかもしれない。
「動画が出回っているという話は初耳だな」
聞き捨てならない、とでも言わんばかりに、よく通る声がぴしゃりと話をさえぎった。父の壮志だ。壮五は素早く顔を伏せた。
「……申し訳ありません。僕の映っている場面は、何とか編集してもらえるように先輩に掛け合ってみますので」
「それが可能であるのならば最初からそうしておけ。みっともない」
親戚連中は父の忠実なしもべだ。主の不興を知り、にわかに慌てだした。
「まあまあ壮志さん、まだ壮五くんも学生ですから……」
「ほら、壮五くんも早く謝っておしまいなさい」
肩を抱くようにして謝罪を強要されて、壮五は頑なに動きを止めた。
ぷつり、と理性の糸が切れる音が聞こえた気がした。
「――いつまで同じことを繰り返せば気が済むんですか?」
ご老体の手を振り払って、壮五は目をつりあげた。気が付いたら考えるより先に言葉が出ていた。声を荒らげた訳ではない。ただ、はっきりと口に出しただけだ。けれど、壮五の声は父に似てよく通る。
場はしんと静まり返った。
「あの日、お酒の席で悪しざまに言われた叔父さんは、何の反論もせずにふらりと帰ってしまいました。そして翌日、そのまま自宅で亡くなっているのを発見されました」
壮五は立ち上がって事実のみを訴えた。ただ一点、壮志の顔を凝視した。FSCグループ会長の表情は普段と変わらぬ仏頂面だ。こちらを威圧するかのように眉間の皺が深く刻まれている。
普段からおとなしく、礼儀正しい壮五の叛逆に、その場にいた全員が驚いて声も上げられないようだった。
壮五は唇を湿らせて息を整えた。壮志は返事もせずに黙っている。父のしもべ達は父の胸中を代弁するかのようにざわつきだした。
「っ、あれは、聡さんの不摂生が原因で――」
「腕一本では食っていけずに亡くなったのだから、自業自得だろう?」
「最後はあなたたちがとどめを刺したようなものじゃないですか!」
たまらず、壮五は断罪の声を上げた。
全員の顔を忘れないように、一人一人目を合わせて睨みつける。中には耐えかねて目をそらす者もいたが、反対に睨み返してくるような者がほとんどだった。
壮五は自嘲を含んだ薄い笑みをこぼした。本当に悪いことをしたと思っていないのか、分かっていても認めたくないのか、顔色だけでは判断ができない。気の強いところは逢坂の血筋だろうか。嫌なところばかり似てきた気がして、自分自身にもウンザリしてしまう。
「……だけど、僕も同罪だ。あの時、僕は見ていることしか出来なかった。やめてって言いたかったのに、声を上げることも出来なかった。あの日が叔父さんの寿命だったとしても、最後に見た顔があんな寂しそうな顔だなんて……そんなこと、あってはならない人だったのに!」
「壮五、いい加減にしないか」
壮志はうんざりしたような溜息を吐いて首を振った。
「僕を子供扱いするのはやめてください!」
まるで子供の癇癪だ。冷静な自分が酷評する。だが、これは理性や体面で押さえつけていたものが爆発しただけのことで、ずっと腹の底で燻っていた本心だ。表現の方法がまずいことは認めるが、内容自体に恥じることは何もない。
壮五は据わった目をして、宣言した。後戻りができないことは自覚している。だったらあとは先へ進むだけだ。
「父さん、僕は叔父さんと同じ道を歩きたいと思います。音楽を愛した叔父さんは不幸なんかじゃなかった。家族にそれを理解してもらえなかったことは不幸だったかもしれないけれど……」
「そうか」
壮志は束の間、目を伏せた。だが、次の瞬間には苛烈な眼差しが壮五を焼いた。
「ならば二度とこの家の敷居を跨ぐな。金輪際、私を父と呼ぶことは許さん!」
「――分かりました」
やはり父とは分かり合えないのだという現実を突き付けられて、壮五は歯を食いしばった。遅かれ早かれ、こうなる予感はしていた。
家を出るならば、学業の道も諦めるしかなさそうだ。しばらくは野宿生活になるかもしれない。ずっと覚悟を決められないと思っていたけれど、覚悟ならとうの昔に決まっていたのだろう。そうでなければ、こんなに落ち着いていられるはずがない。もう少し準備や根回しをする時間が取れたら良かったが、いざとなればどうにでもなるし、どうにかするまでのことだ。
壮五は晴れやかな気持ちで微笑んだ。
「逢坂さん、今までありがとうございました。育ててくれたことには感謝しています。身辺を片付けたら、すぐにでも出ていきますので」
「――壮五さん!」
悲鳴じみた母の声が聞こえた気がしたが、壮五は足早に自室に向かった。寝袋に、いくつかの着替え、持ち出せるものはそう多くはない。荷物にはなってしまうかもしれないが、捨てられでもしたら買い直すことが難しそうなCDは持って行った方がいいかもしれない。
手早く準備を整えて、壮五はパンパンに膨らんだスポーツバッグを肩から下げた。長い廊下の途中で、叔父である聡の部屋の前で足を止める。叔父から託されたレコードは、さすがに持っていけそうにない。
黙祷を捧げるように、壮五はそっと目を閉じた。
瞼の裏に浮かんだものは、薄く雲のかかった春の空だ。
ステージ上から見た観客の顔は、遠くても意外とはっきり判別できた。アーティストが叫ぶ「後ろの席まで見えてるよ!」は嘘じゃないんだなと知れて嬉しかった。
新入生歓迎ライブの最後に、壮五は叔父の歌を高らかに歌った。自分の声が風にのって、どこまでもどこまでも伸びていくような気がした。ラムネ瓶の中のビー玉を押し込めた時のように、胸の奥がシュワシュワと弾けた。どきどきとわくわくが一気に身体中をかけめぐって、初めて叔父とレコードを一緒に聴いたあの時のように、興奮が抑えきれなかった。
ステージの上で感じたときめきをもう一度味わってみたいと相談してみたら、叔父はどのような答えを返してくれるのだろうか。
幽霊でも何でもいいから、今すぐ叔父に会いたかった。
* * *
それから一週間が経った。
退学届を提出しに学生課へ行こうとしたら、友人に捕まった。しばらく大学に行く暇もなかったから、顔を合わせるのも久し振りだ。
退学届には入学時に届け出た保証人のサインが必要となるため、書類の完成には少し時間がかかってしまった。公衆電話から母親に連絡したら渋られてしまったので、会長秘書を呼び出して、何とか逢坂氏のサインを手に入れることが出来た。叔父の法事以来、宣言通り家には一度も帰ってはいない。今や全財産となったスポーツバッグ一つ持って、ネットカフェや野宿で雨露をしのいでいるという有様だ。
退学届を提出する直前に友人に捕まってしまったので、書類はまだ壮五の手元にある。奢ってやるから何があったか言えと迫られて、壮五はそのまま構内のカフェテリアへと連行された。
「――それで、後先考えずに家を出てきたって?」
「面目ない……」
「いいからもう食えって。スープ冷めちゃうだろ」
壮五の目の前には、トレイにのせられた軽食Aセットがある。サンドイッチとサラダ、唐揚げが二つついたワンプレートと、ポタージュスープのカップが添えられたランチメニューだ。退学届を提出するまでの経緯を話すことを交換条件に奢りを受け入れたのだから、先に食事に手をつけるのは契約違反だ。
打ち明け話が終わったところで、ようやく壮五は両手を合わせて食前の挨拶をしてタバスコに手を伸ばした。
「お前……普通のサンドイッチにまでタバスコかけんのかよ。ピザトーストなら分からんでもないけど」
友人はあからさまに嫌な顔をした。いつものことなので、壮五は澄ました顔で赤い瓶を振る。
「サンドイッチにはかけないよ、サラダに少しね。酸味があってドレッシング代わりに丁度いいんだ」
「少しって量じゃないんだけど……まあいいや。そーゆーので胃に穴があく人もいるんだから、マジで気を付けろよな」
「お気遣い痛み入ります」
「お前な。本気にしてねーだろ、その言い方」
苦言には苦笑を返して、壮五はサンドイッチを頬張った。家を出るときに通帳やカードは置いてきてしまったので、そろそろ手持ちも危うくなっている。実のところ食事を提供してもらえたことは大いに助かっているのだ。
一足先に食事を終えた友人は、頬杖をついて溜息をこぼした。
「なあ、壮五。今からでも考え直してみたらどうなんだ? せっかく入学したんだから、せめて卒業するまで待ってもらえば……」
「そういう訳にもいかないよ。あの人が大学までいかせてくれたのは、僕を跡継ぎとして投資していただけのことなんだから。別の道を行くと決めた人間にそのまま融資を続けるなんて、そんな旨味のないことをFSCの会長が選択するはずがないもの」
「はあ 何なんだその理屈は! すべての国民には教育を受ける権利ってもんがあるんだぞ」
「日本国憲法、第二十六条だね」
手のひらから顎を落として、友人は激昂した。壮五は眉を寄せて微笑むことしか出来ない。
壮五は笑顔のまま席を立った。大きなスポーツバッグを肩から下げて、友人の分も重ねてトレイを片付ける。
「ありがとう、ごちそうさま。――ゴウくん。君ならきっと弱者によりそえる立派な弁護士になれるよ。この借りはいつか必ず返すからね」
さよならは言わないつもりで去ろうと思っていたのに、友人はスポーツバッグのベルトを掴んで離さなかった。
「ちょ、ゴウくん」
「――分かった! お前の決意が固いことは分かったから、今後のことを話し合おう! お前、これからどうするつもりなんだ? 行くアテはあるのか? 仕事を探すにしても、本拠地は必要だろう?」
「………」
大声を上げたことで衆目を集めてしまった。好奇の視線が、少し恥ずかしい。
「てゆーかお前、今どこで寝泊まりしてるんだよ? その様子じゃ、何日もまともに風呂も入ってないんだろ? 服もよれよれだし」
「水浴びはしてるんだけどな……」
「どこでだよ。せめてシャワーとか言ってくれよ。公然わいせつ罪で捕まるぞ」
壮五は黙秘権を行使した。友人はしかつめらしい顔を作ろうとして失敗して、肩を震わせて笑ってしまっている。壮五もたまらず吹き出してしまった。
ひとしきり笑って、発作が治まったあと、友人は不意に真顔になった。
「なあ、壮五。悪いことは言わないから、ウチに来いよ。お前は借りを増やしたくないのかもしれないけど、ここでお前を見捨てたりしたら、俺は多分、一生後悔することになるんだからな」
「……でも、君にこれ以上の迷惑はかけられないよ」
「貸しとか借りとか、そんなもんで人をはかろうとするなよ。ビジネスシーンじゃ大事なことなのかもしれないけど、人生に必要なものはそれだけじゃないだろ」
「ゴウくん……」
友人はよく言えば面倒見がいい。悪く言えばお節介だ。だが「好きにしろ」と突き放す家庭で育った壮五にとっては、友人が差し伸べてくれる手は驚きとともにありがたく感じられた。
壮五は言葉に甘えて、しばらく彼の部屋へご厄介になることを決めた。退学届を提出するという当初の目的を果たし、大学での用事を全て済ませると、そのまま友人のアパートへと案内されることになったのだった。
「逢坂壮五さん!」
正門を出てしばらく進むと、スーツを着た若い男性から声をかけられた。友人から目線だけで「知り合い?」と尋ねられたが、心当たりはまるでない。壮五は小さく首を振った。
男性の身なりは悪くない。仕立ての良いスーツだ。年齢は、自分たちとそれほど変わらないように見える。困ったように笑った表情が少しだけ叔父に似ている気がして、胸がドキリと高鳴った。
「はじめまして。私は小鳥遊紡といいます。先日の新入生歓迎ライブで、あなたの歌を聞かせてもらいました」
差し出された名刺には、小鳥遊事務所という会社名と、名前と、住所、連絡先だけが記載されていた。役職や肩書きの類は何一つない。
小鳥遊事務所。確かモデルやバックダンサーをメインで扱う芸能事務所だ。けれど、残念ながら音楽部門は存在しなかったような気がする。
芸能界入りを果たすためには、スカウトを待つかオーディションを受けるかのどちらかが定番だ。図書館で公募雑誌に目を通してみて、オーディションの公募が常にある訳でもないことを知った。もしこれがスカウトであるならば、またとないチャンスであるだろう。だが、こんなに都合よくスカウトマンが現れることがあるのだろうか。
友人も同じ考えだったようで、威嚇するように肩をいからせて、壮五と小鳥遊との間に割って入った。
「失礼、大学構内への部外者の立ち入りは禁止されているはずですが……?」
「あ。こちらこそ失礼しました! 実は私、こちらの大学のOBなんです。もちろん、入構許可を得てからの訪問でしたよ。お世話になった教授へご挨拶に立ち寄ったついでに、ライブを観覧させて頂いたんです」
だから問題はありませんよ、と言って小鳥遊は人の良さそうな笑みをこぼした。
「逢坂さんの――壮五さんの歌声、とっても素敵でした。伸びやかで、力強くて……どこまでも自由で。聞いている私まで空高く飛んでいけそうな気がしました。最後に披露されたあの曲、『OVER THE RAINBOW』は逢坂聡さんの曲でしたよね? 透明感のある声質が似ていらっしゃるなと思っていたんです。実の、叔父様だったんですね」
「あ、ありがとうございます……」
自分だけでなく、叔父まで褒められて嬉しかった。褒められることに慣れていないので、ついつい照れてしまう。だが、それはそれだ。受け取った名刺をシャツの胸ポケットにしまって、壮五はまっすぐに小鳥遊を見つめた。
「ええと……それで、芸能事務所の社員さんが、僕に何の御用でしょうか?」
「今日は、逢坂さんに小鳥遊事務所へ所属して頂きたいというお願いをしに参りました。もちろん、すぐにお返事を頂こうなんて考えてはおりません。私どものことをよく知って頂いて、考えた上で答えを出して頂けたらと思っております」
「はあ……」
そこまで一気に話し終えると、小鳥遊は表情を改めた。緊張したような固い表情だ。真剣すぎて、少しだけ怖い。
「あの、よろしければ、この先の喫茶店でコーヒーでも召し上がりませんか? もちろん、ご友人も同席していただいて構いませんので!」
不器用な誘い文句に、思わず壮五は吹き出しそうになってしまった。多分、彼はとても良い人なのだろう。誠実さが滲み出ている。だが、芸能界でそれが吉と出るか凶と出るか。売り出される当人がいくら頑張ってみても、力のない事務所では日の目を見ることも出来ない可能性は大いにあるのだ。
正門前の通りにはほどほどの通行人が行き交っている。落ち着いて話をするような場所ではないだろう。喫茶店へ行くこと自体は、それほど悪くない提案に思えた。どうしようかな、と考えていると、小鳥遊の背後から白い腕がにゅっと伸びてきた。ひえっ、と小鳥遊が声にならない悲鳴を上げる。
「ごめんね、そろそろタイムアップかな。紡くんには悪いけど、僕には悠長に口説いてる時間はないんだよね」
小鳥遊をバックハグするようにして、テレビ画面越しに見たことのある顔が壮五を覗き込んできた。長い髪はバゲットハットに収めているが、目尻のほくろは隠しようがない。
「り、Re:vale の、千さん なんで……」
騒ぎになることを恐れて、壮五は慌てて自分の口元を押さえた。
「こんにちは、壮五くん。まさか君、僕の頼みを断るなんて真似はしないよね?」
笑顔の圧を感じて、壮五は混乱した。本物だ。本物のRe:valeだ。Re:valeの千が、自分の名前を呼んでいる。意味が分からない。そもそも、Re:valeの所属は岡崎事務所だ。小鳥遊事務所ではない。どうして小鳥遊事務所の人間と千が一緒に行動をしているのだろう。二つの事務所が提携でも始めたのだろうか。そんな話は聞いたことがないが。
壮五は半ばパニックを起こして、目の前の光景を呆然と眺めることしか出来なかった。千の後ろからは、わらわらと人が集まってくる。自分が騒いだことで芸能人だと気付かれてしまったのかと思ったが、どうやら全員、関係者であるようだ。
「すみません、紡さん。自分がついて来てしまったばっかりに、千くんまで……」
「おかりん、紡くんのことが心配で見に行くって言うから、それなら僕もって連れてきてもらっちゃったんだよね」
眼鏡のスーツ男性が気安く千に話しかける。確か彼はRe:valeのマネージャーのはずだ。そのかたわらには、スポーティなキャップと黒縁メガネで顔を隠した、頭の小さな青年の姿があった。青年は、ぷりぷりと頬を膨らませて、千に文句を言い放っている。
「もー、ダメじゃないですか千さん。自分から出ていってしまったら、かくれんぼの意味がなくなっちゃいますよ」
「ひ、ひぇ。今度はTRIGGERの陸くん……」
思わず名前を呼んだら、青年と視線がバチリと合った。壮五は身体を強ばらせた。最近、体調不良を理由にテレビやラジオの生出演を見合わせているはずの九条陸が目の前にいる。その上、華やかな笑顔を見せてくれたのだ。雷に打たれたような衝撃を受けつつも、失神しなかった自分を褒めてやりたい。
「どうしよう、ゴウくん。僕もうキャパオーバーで死にそうなんだけど……」
「――ちょ、壮五」
へなへなと力が抜けてしまって、壮五は友人にすがって立っているのがやっとだった。
喫茶店へ移動したあと、壮五は混乱した頭のままで小鳥遊事務所と仮契約を取り交わすことになった。
ずっとパニック状態が続いていたので、友人が一緒に契約内容を確認してくれてありがたかった。結果的に小鳥遊事務所がまともな事務所だったから良かったものの、今の壮五ならどんな契約内容だったとしても簡単に判を押してしまいかねなかった。
「ありがとうございます。これから、よろしくお願いしますね」
書類を受け取った小鳥遊は、眉を下げてふにゃりと笑った。
困ったような笑顔がどうしても叔父に似ている気がして、壮五は頭の片隅で、ひょっとしたら、この出会いは叔父が与えてくれたプレゼントなのだろうかと非科学的なことを考えたのだった。