幸せそうに笑って気絶するように眠りについたゼルをじっと眺める。呼吸に合わせて時折揺れる耳を撫でて共に眠りたいと思うが、それをぐっと堪えて体を綺麗にするためにゼルの首と足の下に手を差し込んで持ち上げる。
少し前に街の女性たちが噂していた、いわゆる《お姫様抱っこ》と呼ばれる体勢だ。起きているゼルなら尻尾を暴れさせて逃げるだろうから、こうして抱いた後にやるのが密かな楽しみになっている。
ウォータークラスターを2つ、ファイアクリスタルとアイスクリスタルを1つずつ放り込んでエーテルを与えておいたバスタブは、ちょうどいい湯加減のまま保たれている。
首に抱きつくゼルを起こさないようにそっとバスタブへ入り、2人分の液で汚れた体を湯に浸して落としていく。いつもならこの辺りで目を覚ますのだが、今日は特段激しかったからだろうか、唸りこそするがその目が開く事は無い。
願わくば、陽が空に登るまで目を覚さないでくれと思う。
シャーレアンに渡る準備が出来たと連絡が来たのが、つい2日前の事。当日ーー今日は夜が明ける前に石の家に集合して、夜明けと同時にシャーレアンへ発つ。
その事を私は最後までゼルに伝えられなかった。変わらない日常を噛み締めて過ごしたかった私の細やかな我儘だった。
...恐らく、また長い旅路になるんだろう。第一世界へ渡った時のように長く、もしかしたら命を賭けるものになるかもしれない。どうしても生きて帰れる確信が持てなかったのだ。
だからこそ、旅立つまでの2日を心配や寂しさに満ちたものにしたくなかった。
少し冷めた湯から上がり、乱雑にシーツだけ剥ぎ取ったベッドで濡れた髪や尻尾を大きなタオルで包み込む様に優しく拭き取っていく。くすぐったそうに逃げる耳までしっかり拭いた後、新しいシーツをゼルに掛ける。
いつもなら一緒に潜り込むが、今日からはそれができない。
出来る限り静かに装備を身につけ、軽く肩を回す。嫌になるぐらいいつも通りだった。
手甲だけ片手に持って、穏やかに眠るゼルの側へと膝をつく。
普段は布に覆われた額をそっと撫でると、小さく唸ったゼルが私の手に擦り寄るように額を押し付けてくる。
心臓の奥をくすぐる様な幸せがじわりと満ちていく。この幸せを守るために、私は今から一番酷いことをするのだ。
ゼルの少し硬い髪をかき上げ、額に静かにキスを落とす。使い古した鞄と手甲を身につけ、鞄の金具に結びつけられた指輪を枕元...ちょうどゼルの指輪に寄り添うように置いた。
「......さようなら、行ってくる」
小さく呟いたその声は、寝息だけが残る部屋に静かに溶けていった。
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「っ、これは....!?」
驚きの声を上げるアルフィノと同じように、私もまた目の前の光景に圧倒されていた。
空に浮かぶ劇場艇や空賊たちの船、海には見知った海賊船が何艘も所狭しと並んでいる。シャーレアンの港を、端から端まで知り合いが大きな荷物を抱えて歩き回っているのだ。
圧倒されるまま話を聞くに、全て私の縁によるものらしい。
これはボズヤの、テンゼンの愛刀を、イディルシャイアのトレジャーハンターが...なんて、聞くだけでも胸が熱くなってくる。
今までただ楽しく気のまま生きてきただけだった。それがこんなにも沢山の人を動かすのか!
「っと、そうだOyakataa。お前に会いたいって奴も連れてきてるぞ!」
シドが面白そうに言うその声に、誰が?と返事を返す事は叶わなかった。死角から突撃してきたその頭を、私は間違えるはずがなかった。濃い灰色の髪、そこに可愛らしく乗る2つの耳。不機嫌そうに私の太ももを叩く尻尾も、旅立ったあの日から変わっていない。
「.........ゼル」
絞り出した声は、酷く掠れていた。全てが終わった後に帰ろうとしていた私の居場所が、もうここに居るのだ。なんと罵倒されても、私は反論する術を持たない。ただ微かに震えるその耳を優しく撫でる事しか出来なかった。
「...ッ馬鹿だ、本当に......!」
「.........そうだな」
「あんな出ていき方があるか!?指輪だって置いていって...!」
「..................あぁ」
ひとしきり大声で文句を言ったゼルはぐり、と私の胸に額を擦り付けて、誰にも聞こえない程小さい声で生きていて良かった、と呟いた。
後ろのサンクレッドとエスティニアンが茶化している声が聞こえているから、それは後でどうにかしてやるとして。
今はただ、腕に絡まったこの時間を大切にするだけだ。