毒に冒される 別に知らなかったわけではない。隣に並んだ時の視線の高さが違うことには気付いていたし、下を見下ろせば足の大きさだって違う。手の大きさだって彼の方が一回り以上大きくて、腕の太さに関しては二回りじゃ足りないだろう。そう、だからちゃんと理解はしていたのだ。
「ぁ、」
けれど、それを実感したのは今だった。彼との想いをあたたかな何かでつなぎ合わせてから初めてこの部屋に招いて、それぞれに風呂を済ませた今。ちいさな三つのかわいい子たちも今は別の部屋で眠ってもらっている。そのための寝床をわざわざ用意したのだ。だから今からは二人っきりで、つまりはそういうことをしようと、思っていて。それは多分レイシオも一緒で。
そしてぽすり、とベッドに押し倒された。彼に覆いかぶされるようにして寝転がったそこからはきれいな赤色と天井が見える。そこでようやっと、今更ながらに気が付いたのだ。本来であればこれは『アベンチュリン』が避けるべき体勢である、ということに。だってこんな大柄な男に押し倒されてしまえば、小柄であるこの身では到底太刀打ちができない。ある程度は体術を仕込まれたし今は基石だって手元にあるけれど、それを鑑みたところで危機であることに違いはないのだ。だからこれは、脳が警鐘を鳴らしてしかるべきで。
「……どうした?」
だというのにどうしたのだろう。感じるのはただ目の前に彼の顔が迫っているという気恥ずかしさと、それを上回る期待だけだ。いや、だけではないかもしれない。でもそこに恐怖や焦燥なんてものは存在しなかった。警鐘なんて鳴るはずもなくて、その手が頬に添えられてもただあたたかいだけ。本来、こういう時はどうすればいいのだったか。相手が男なら下半身の急所を蹴り上げるとか、目を狙うとか。顎を狙って脳を揺らすのだって有効だ。そしてこの身体の下から抜け出すというのが第一目標となる。
「……あったかいね」
触れさせてはいけない。この手が首にかかればすぐに気道は塞がれてしまうだろうし、今は跨いでいるだけの身体に乗られてしまえば身をよじることだってできなくなる。それくらいに、彼とこの身体には差があった。けれど出てくる言葉は、湧き上がる感情は、どこか酷くずれている。教え込まれた『アベンチュリン』の部分がどうしたって機能しない。どうしてだろう。そんなの、自問自答する必要はないのだけれど。
「レイシオ、僕の……僕の手を、握ってほしいな」
「手?」
そう言えば頬に触れていた手が、震えもしていない左手を柔く握りこむ。それの指にひとつひとつ自分の指を絡めていけば、より一層その温かさが分かるような気がした。体重をかけることもしない触れ合い。このまま手をシーツに押し付けられてしまえば、きっと自力でそこから抜け出すのは無理だろう。爪を立てようと思ったって届かない。四肢のうちのひとつを奪われてしまえば、もう幸運だってこの身を救うことは難しいかもしれない。
「不安ならやめるべきだ。これは決して、無理に進めるようなことじゃない」
「……うん」
「アベンチュリン?」
「あはは……うん、そうだね。不安なら、やめるべきだね」
赤色がひとつ、またたく。だってどうしよう。レイシオがそう思っているのは分かっていて、それが虚勢でもなんでもなくただこちらを慮っての、いわゆる本心であると分かっていて。だからこそそれが本当に、嬉しくて。
彼からしたら簡単なことなのだ。この身体を力任せに組み敷いてしまうのも、そのまま暴いてしまうのも。それくらいには力に差があるし、言ってしまえばカンパニーにとっても重要な存在である彼に、ただの駒であるアベンチュリンは決して否を返さない。返せない。どれだけこの心が恐怖を訴えたとしても受け入れる以外に選択肢なんてない。そこには何の余地も、ない。
「どうしよう、レイシオ」
何の恐怖も、不安もないんだ。それって一番恐ろしいことかもしれない。今までずっと周りには敵しかいないと思いながら生きてきた。奴隷であるときは事実として敵しかいなかったし、石心となって同僚や仲間が増えた今でも、それは上っ面である可能性をずっと念頭に置いておかなければならなかった。ジェイドやダイヤモンドはアベンチュリンの作り出す利益を重要視しているだけ、トパーズだって仕事で協力はしてくれるけどそれだけだろう。
レイシオだってそのはずだった。ただカンパニーが組んだ、利益を生み出すためのパートナーにすぎない。何かひとつでもミスをすればこの首は切られるだろうし、だからずっと気を張っているべきだったのだ。だってまだ死にたくはない。生きるために必死にならなければ、それの回避を一番に考えなければ、簡単に転がり落ちてしまう人生だ。
「君の言葉の全部が演技だったらどうしよう。君の服の下にナイフが仕込まれている可能性だってあるし、注射器で毒を打つのだってきっと簡単にできてしまう」
「……」
「あはは、そんな顔しないでよレイシオ。……そういう可能性があるってちゃんと考えられてるのに、そんなことはあり得ないって方が勝ってるんだ」
これじゃあ、それを教えてくれたジェイドに怒られてしまうのに。不満そうな顔に自由な右手で触れれば、それにすり寄るように頬が寄せられた。伏せられた瞼と、わずかに揺れるまつ毛が酷く美しい。まるで何かの美術品みたいな顔だ。
「きっと、僕は君に毒されているんだろうね」
「……それなら、もうひとつ君に毒を与えてやろう」
「うん?」
毒、という言葉に疑問を呈せば、それにこたえるより前に唇が触れた。舌で歯をなぞられて、薄く開けば中で縮こまっていたそれに分厚い舌が絡んでいく。重力でレイシオの唾液が喉の奥に落ちてくる。耐えきれなくなって飲み込んだのは彼の唾液か、自分の唾液か。それを何度も繰り返されて、しまいには入りきらなかったものが口の端からこぼれていく。もったいない、なんて思うのはもう頭が馬鹿になっているからだろうか。
「ぷ、は」
「今君が飲んだのは、僕が調合した毒だ」
「う、ん?」
口を塞がれていたせいで呼吸が上がっている。酸欠でぼうっとして、胸を上下させながら呼吸をして。そのせいか、うまく彼の言葉が理解できない。毒、って何のことだろう。自分の身体で何かの薬の治験でもしているのだろうか。唾液が毒に変わるような薬なんて聞いたこともないけれど。
「君はこの『毒』に冒されているから、僕に押し倒されても恐怖を感じない。だから、恐怖を感じないからといって拒む必要がない、ということにはならない」
「……拒んで、ほしい?」
「まさか。僕はそのうえで、君に『拒む必要がない』と思ってほしいだけだ」
つながれたままの手が持ち上げられて、『毒』であるらしい彼の唾液が隠れた口元へと寄せられる。ちゅ、とかわいらしい音と温度がそこに触れた。まるで希うようなそれに目が離せない。
「その『毒』は……万物に対して有効なのかな」
「そんな訳ないだろう。僕だけだ」
「ふぅん。じゃあ、いいかな」
レイシオだけ、なら。だってもし本当にそんな毒に冒されていたとして、そのせいで彼に恐怖を感じないとして。それが事実だったとして、こんなにも優しく振れてくる彼を拒むだろうか。力でねじ伏せてしまうことも、言葉で言いくるめてしまうことも簡単な彼を。こうやって言葉を尽くしてアベンチュリンという存在を肯定し、尊重してくれる彼を。
「解毒剤、作らなくていいよ」
「……そうか」
「うん。優しくして、レイシオ」
「当たり前だ」
大きな大きな身体がこの身体を覆いつくしてしまう。太くてたくましい腕がこの身体に触れて、ぎゅう、と抱きしめられて。
人はもしかしたら、これを信頼と呼ぶのかもしれない。そんなことを思いながら、アベンチュリンは愛しいその人に身体のすべてを預けることにした。だってもとより、彼に不安を抱く必要なんてないのだから。