今、君の隣にいる 事実、腹いせではあった。
『ごめん、撮影が押してて』
今月に入って四度目になる、全く同じ文言。それを見るやいなやすぐに是を返せば、既読マークだけがついて音沙汰がなくなった。それがだいたい一時間前だろうか。集合場所にずっと立っているのも馬鹿らしいからとカフェに移動したけれど、一人で飲むコーヒーは何とも味気ない。話し相手が居ないせいで持参した本に集中してしまって、読み終えてしまいそうなそれとは裏腹にカップの中身はまだ半分以上残されていた。
『今終わった。どこ? そっち行く』
最後のページ、奥付までしっかりと読み終えて、ついにやることがなくなってしまった時に入った通知。緑色の無地の画像という、傍から見ればスパムアカウントとも思えそうな彼のアイコンからしゅぽん、とそんな言葉が吐き出されていた。そのアイコンがなんの詮索もされないから丁度いいのだと聞いたのはいつだっただろう。随分と前だったように思う。いっそ初対面だったのかもしれない。アイコンひとつに意味を探すなんて変な人。そう言われて、笑われて、思えば第一印象はお互いにあまり良くなかった。
方や今をときめくアイドル、方や大学で教鞭を執る教授。そんな二人の接点はとあるバラエティ番組だった。堅苦しい問いの解説にたまたま呼ばれて、その出演者のひとりだったというだけの関係。それがまさかこんなことになろうとは、あの時の自分に言えば鼻で笑われそうである。
まぁ、つまりこの忙しさは彼の人気に比例しているものであって、今が売り時ということなのだろう。若いだけ、顔がいいだけ。それだけではやっていけないことなんて彼はとっくに理解していて、だから撮影やライブの合間に色々なことを身につけようと足掻いていた。歌やダンスのスキルアップはもちろん、演技や文芸、そして勉学にまで。泊まりに来た日の夜に、隣で教材を開いた彼に質問攻めにされたことだってある。
要約すると、結局のところ彼の遅刻に関してはなんとも思っていないのだ。そうなる可能性を見越して本を持参していたし、そんな時間が無くなってしまったとしても今日の終わりは家まで来てくれると知っている。そんな疲労困憊の彼を労るのだって、それなりに楽しいと思っているのだ。何せ、人生で初めて自ら望んだ恋人である。
ただ、ちょっとした悪戯心が芽生えた。仏の顔も三度までという言葉があるように、何度も繰り返されれば限界はあるのだ。いや、他人がそうであろうと、今の自分には一切そういったものは無いのだけれど。でも一種の意趣返しくらいなら許されるだろう。本をしまってコーヒーが残ったカップを手に持って、もう片方の手で集合場所を送信する。ここからそう遠くもない、ただの看板の前だ。
『駅前に大きな広告看板があるだろう。今の広告は僕も気に入っているんだ』
きっと忙しすぎる彼は知らない。顔が知れているのだから電車なんて、駅なんて使えないだろうし、移動はもっぱら車だろう。そして急いで向かってきてくれているのだから、そこに今何があるのかなんて調べる余裕も無いはずだ。
ふ、と緩んだ口元を隠すように、手元のカップに口をつけた。冷めても風味のなくならないいいコーヒーだ。席もそれなりに区切られていたし、今度は一緒に来るのもいいかもしれない。彼も、毎朝飲むくらいにはコーヒーが好きなようだから。
怒ったような彼がふくれっ面で声をかけてくるまであと五分。看板のそれと見比べて、実物の方がいいなと再確認するまであと六分。二人きりになれるまでだって、そう長くはかからない。