この時間 もうすっかり冬だ。白い息を吐き出しながら、アベンチュリンはそんなことを思った。ついこの前までは半そででも問題ないくらいの気温だったのに、今はマフラーがなければ凍えてしまう。つまり、彼がいなければアベンチュリンはここで凍えていたことだろう。顔の半分ほどを隠すこの暖かな布は、家を出る直前に彼が巻いてくれたものだから。
ここから家までは歩いてさほど遠くない。しかしペットがいるというのもあって近くもなかった。大体歩いて十分ほどだろうか。そんな場所に心休まる自宅があるというのにこんな場所にたたずんでいるのには、水たまりよりも浅い訳がある。つまるところ、待ち合わせだ。今アベンチュリンは、同じ家に住むかの人をここで待っているのだ。
「……まだ、かな」
仕事終わりの時間。それを、予定していた時間よりも遅く伝えたのはアベンチュリンだ。そんな日に限って残業もなく退勤できて、予定よりも早くここに辿り着くことができて。それを失敗したな、などとは思わなかった。むしろ嬉しいまである。いつもは待たせてしまう彼を、そんな彼の貴重な時間を、今日は奪わずに済むのだから。いや、でもそれだけではなくて。
ずっと暖かい。マフラーの内側にとどまってくれる体温も、念のためにと持参したカイロも。彼が愛用していると聞いて同じものを購入したインナーも靴も、全部が。そして言い表せない場所がぽかぽかと熱を持っているのだって、決して期のせいではなかった。
人が右から左へ、左から右へと通り過ぎていく。彼は今何をしているだろう。まだ仕事中だろうか。約束の時間まであと十五分というところだけれど、職場の最寄りから電車に乗ったところかもしれない。何を思ってここまで、向かってきてくれているのだろう。今アベンチュリンは彼の到着を心待ちにしているわけだけれど、彼も、レイシオも、そうだろうか。だって朝顔を合わせているというのに、まだ一日さえ立っていないというのに、もうすでに恋しくて会いたくて仕方がないのだ。
「ん、んん、」
ぴゅう、と風が吹いて髪を揺らした。さすがに寒くて手をポケットに突っ込んで、駅前広場の時計だけをぼんやりと眺めた。かち、こち。こんな雑踏の中で聞こえる訳もない秒針の音が耳朶を打った。幻聴だ、分かっている。分かっているからこそ心地いい。あと何度この音が聞こえたら彼と会えるだろうか。あと何回瞬きをしたらあの赤色が見えるだろうか。あと何回、どれくらい、したら。
「……アベンチュリン?」
彼が驚く顔を、この目に焼き付けられるだろうか。
「お疲れさま、レイシオ」
「いつからここに……いや、まぁ、いい」
赤い宝石がふたつ。きれいなかんばせにはめ込まれたそれがぱちんと瞬いて、大きな手のひらが頬に触れた。あれ、マフラーを巻いていたはずなのに彼の手の方があたたかい。なんだか負けた気分である。けれど、手ずから温めてもらえるのは特権のひとつだからいいのかもしれない。
「今日は早く終わったのか?」
「そう。びっくりしたかい?」
「とても」
「なら僕の期待通りだ」
頬だけではさみしいからと、その手に自分のものを重ねた。おそらく頬よりもさらに冷たかったのだろう。きれいなかんばせの中心に皺が寄って、すぐにぎゅうと握りこまれた。温めるように揉みこまれて、捏ねられて、温かい彼の体温が少しずつ移ってきて。
「まだ予約の時間まで余裕がある。そこのカフェでいいか」
「うん? 僕は構わないけど……お腹がすいているのかい?」
「アホ。君が冷たすぎるから飲み物を買うんだ」
なるほど、心配をかけてしまったらしい。とはいえ外で待っていた時間なんてほんの数十分だ。アベンチュリンは連絡さえできないほどの激務に追われて数時間後に行けない旨をメッセージで送ったこともあったし、そもそもその日に家に帰れないことだってあった。律儀な彼のことだからもっと長く待ってくれていたはずだ。先ほどまでのアベンチュリンのように、少しの不安と、それ以上の期待を抱きながら。
「……君が早く来てくれたから、そんなに待ってないんだけどな」
「そうか。次はあとニ十分は早く来るようにしよう」
「それじゃ僕の立つ瀬がなくなるだろ。何のために今日の時間を、……あ」
じと、と彼の目がその非を訴える。手のひらは握りこまれて、片方は既に彼のポケットにねじ込まれた。もちろん逃げられないように掴まれたまま。そのまま歩きだしてしまうのだから、アベンチュリンができることと言えばそれに付き従うことだけで。
「でもレイシオ、あのさ、」
「なんだ。僕は次から予定の三十分前から待つようにするが」
「いやさすがに早すぎるし、次はしないからさぁ」
駅前のカフェに押し込まれて、椅子に座らされて、そしてすぐにカップをふたつ持った彼が帰ってくる。いつも通りアベンチュリンにはカフェオレを、そしてレイシオは紅茶のようだ。つまり今日は既にコーヒーを職場で二杯飲んでしまっているらしい。それが分かるくらいにはもうずっと、一緒にいて。
「でもさ、レイシオ」
「……なんだ」
「君を待つ時間、僕は結構好きだなって思ったよ」
さっき言い逃がしてしまった言葉をようやく口にすれば、また赤が瞬いた。まるで太陽みたいなあたたかい赤。だって待ちながらずっと彼のことを考えられるのだ。気持ちが逸って、落ち着かせて、でも完全に落ち着くことはないからどきどきして。それが彼のせいだと思うと酷く、心地よくて。
「…………せめて、」
どこか店の中でやってくれ。そう言う彼の耳が赤いのは、決して店内を満たす暖房のせいだけではないのだろう。
そしてそんなことを口走ったアベンチュリンだって、人のことは言えないのである。