信頼の証 その単語が耳から脳へと伝わって、その意味を理解して―――――そして絶句したのだ。商人にはあるまじき行為。けれどそれくらいには頭の中が驚愕で満たされていた。だってそんな拷問まがいの言葉が、年端もいかない少女の口から吐き出されるとは思ってもみなかったのだ。彼女は決して誰かに使われるだけの奴隷ではない。ちゃんと人権を有し、両親も健在の普通の『人』だったから尚更。
「まじないのようなものだ。小指を絡め、約束を守ると誓い合う」
二の句が告げられなくなかったその耳元で、低い声が落とされた。囁くほどにかすかな言葉が促すままに小指を差し出す。小さくて温かい小指がきゅ、と絡んだ。上下に揺られて、鈴のような少女の声が言葉を紡いで。
ちゃんと笑えていただろうか。子供とは騙しやすいようでいて、扱いやすいようでいて、純粋すぎて逆に相手の本質を見ていることが多い。だからこそぼろを出すわけにはいかなかった。ここでの仕事はかなり神経をすり減らすような繊細なものだから。まぁ『アベンチュリン』の仕事にそうではない簡単なものがあったのかといえば、それは限りなくNOに近いのだけれど。
「……ありがとう、助かったよ」
「仕事先の文化ぐらい調べておいたらどうだ。この星系では珍しくもないものだぞ」
「あは……うん、返す言葉もない」
小さなその子を見送って、その低い声の主へと視線を向ける。頭ひとつぶん上にある彼のかんばせ。いつ見ても怖いくらいに整っているなぁ、なんて頭の片隅で思った。そんなことを口にすれば「嫌味か?」と鼻で笑われるだろうけれど。
別に調べてこなかったわけではない。決して職務怠慢の如くここまでの道中を過ごしていたわけではなくて、まぁ確かに道中くらいしか時間を取れないくらいにはかつかつのスケジュールだったけど。だとしても、調べはしたのだ。そして彼の言う『まじないのようなもの』も知っていた。知ってはいたけれど、何とまぁ時代錯誤なやり方なのだろうと、そう思って。だって指を切るだなんて。そんなことをすれば人材として使うにしても、どこかへ売るにしても、価値としてはだだ下がりするだけだろう。だからそんな約束の仕方なんてさせないから関係ない、とも思って。
「あんな子供が言うなんて思わなくて、さ」
「確かに元の意味から考えると過激だが、今ではただの言葉遊びにも近い。『約束を守らなければひどい目にあうぞ』という子供への教育にも使われている」
「教育ね……」
あぁそうか。これは単なる、言ってしまえば口先だけの誓いなのだ。約束をしておきながら守られないのであれば、それは約束の体を為さなくなってしまう。だからそれを破ると怖いことが起こるぞ、嫌なことが起こるぞ、と。その『怖いこと』や『嫌なこと』が指切りなのかもしれない。
今回アベンチュリンが回収に向かうこの星の権力者はそんな文化圏の人間でありながら、その約束を違えた。「返す」と約束して一切返されない金銭、増える負債。それならば指切り、もといそれ以上の対価をもってして返してもらわなければ。
「未来のことなんて何も分からないのにね」
なんとなしに口にした言葉は、彼には届かなかったらしい。
仕事はある意味順調だった。当たり前のように返済を渋った相手に対して言葉と、そして武力で返してやる。博識学会からの協力が得られて運がよかった。今回の取引は専門的な話が多くて、アベンチュリンだけではこれほど完膚なきまでに、とはいかなかっただろう。
「も、もう少し! あと少しだけ時間をいただければきっちりとお返しできますので……っ!」
「へぇ? でも返済期限はとうに過ぎてる。分かっていて抵抗もした。違うかい?」
「み、未来のことなんて完全に見通せるわけもないではありませんか……! 本当にもう少し、もう少しなんです!」
「……未来のことは分からない、それには同意しよう」
ぱ、とまるで神に縋るようにこちらを見上げてくる。しかしながらその顔は、瞳は欲望に満ちている。汚い色だ、と思った。こういう顔をするのは半人前でしかない。それを隠すことすらできていないのだ。商人であることを前提に考えて、彼が成り上がるのはどう見積もったって不可能だろう。
「でも、それなら君の言う『もう少し』も確固たるものではないんじゃない? 君はその不明瞭な『未来』をどうやって見出したのか……ここにかのべリタス・レイシオもいるんだ、彼に君の言い分を判定してもらおうじゃないか」
「僕をまるで試験薬か何かと勘違いしていそうな物言いだな」
「あはは」
これ見よがしに吐き出されたため息はいつもの事だ。まぁ彼の言い分もわかる。目の前でひれ伏した男の『もう少し』で何が出てくるかなんて判断のしようがないのだ。それはあくまで仮定であり、未定であり、ありとあらゆる『何か』で行く先を変えてしまう。
「で、であれば!」
あなたなら。それはきっと彼にとって、探しに探して藁にもすがる思いで口にした言葉だったのだろう。しかし幸か不幸かそれを聞いてアベンチュリンの思考は一瞬、ほんの一瞬だけ、止まった。
「あなたの幸運さえあれば、必ずや! どうかお力を貸してはいただけませんか!」
未来のことは分からない。本当に? 分からないだろう。分からないはずだ。明日に『アベンチュリン』という身分が剥奪されて死刑囚に戻るかもしれないし、この名と身分を妬んだ誰かに刺されて死ぬかもしれない。母星が滅ぶことも、家族や同族がみんないなくなることも、あの時の自分は知りもしなかった。本当、に? 地母神がその三つの瞳でこちらを見ているので、あれば。
「くだらないな」
しかしそんなアベンチュリンの思考を動かしたのは地母神でも、目の前の男でもなかった。低く落ちるような声が耳朶を打つ。あ、怒ってる。彼のこれはそういう時の声音だ。
「君が証明したかったものはなんだ? それは彼の『幸運』とやらで左右され、たまたま出た結果だけでどうにかなる代物なのか?」
「い、いや、」
「違うのであれば何故? まさか一度の成功だけでこの負債が返済できるほどの利益が出せると? その根拠は?」
彼のサンダルが地面を踏みしめる音。ひれ伏した男がさらに身を縮めて、でもそれでその身体全てを隠すなんて不可能だ。
「……この星には『指切り』というものがあるんだろう?」
「へ、」
「ちょうどいい! 君は返済という約束を破ったのだからその誠意を見せてもらおうじゃないか。その後で……僕が協力するかどうかを決めよう」
言葉を紡ぐ。心底楽しそうに、面白そうに。それが『アベンチュリン』だからだ。そこに別の何かなんて混ぜてはいけない。大丈夫。それは決して、露見したりなんかしないのだから。
呆気なかったな。そんなことを思いながらも「悪いね教授」なんて謝罪を口にする。こんな質の悪い話し合いに巻き込んで、彼という人の時間を無為に使わせてしまったのだから謝罪は必要だろう。とはいえ彼からの返答はない。その必要もないと思われているのだろうか。
「……なんで確約できないことなんかを、指を対価に誓い合うんだろう」
だからこぼれた。聞かれていないと思ったから、今なら何を言っても彼の頭には残らないだろうと思ったから。普段だったら絶対に口にしない言葉。部下や同僚の前では絶対に口にしない言葉。目の前にいる彼がレイシオだったからこそ、こぼれてしまった言葉。
「未来なんて誰にも分からないのに」
本当にそう、だろうか。さっきからずっと頭の中で巡るそれの答えが見つからない。きっとアベンチュリンは明日も生きている。明後日も、多分数年後も。それは地母神の眼差しがこちらへと向けられているからであり、それ以上でもそれ以下でもない。
あぁ違う、分からないのではない。アベンチュリンの未来はそもそも地母神の与える『幸運』だけで保たれていて、だからアベンチュリンの手元には一切残されていないのだ。それを持っているのは地母神でしかなく、人であるアベンチュリンはそれに抗うなんてできる訳もなく。
「『指切り』は、別に約束を破った際の罰では無い」
「……え、」
「逆だ。指を切り書面に血判を残すか、もう少し時代を遡れば切り落とした指の先を相手に贈る」
「はは……酷く、グロい話だね?」
突然返された言葉に動揺が隠せない。ばくんと打った心臓の音がばれないように、慌てて言葉を紡ぐ。そんなアベンチュリンを見て、それに気付いたのかは定かではないけれど、レイシオが鼻で笑った。ふん、とまるでこちらを小馬鹿にするように。グロいだなんて、それ以上のものを見てきたはずなのにどの口が、と。いや、これはただの妄想か。
「今では指を切り落とすことも、血を流すこともない。ただ過去の事例から読み取れるように指切りとは『相手を信じている』、『君なら約束をたがえない』という信頼の証だ」
「……信頼、」
「そうだ。……アベンチュリン」
へ、と間抜けな声が出た。何故って、彼の小指がこちらに差し出されたからだ。まるで昼間の少女がしたように、こちらにも同じものを出せと言うように。
「僕と指切りをしよう」
「そ、んな必要あるっけ? えっと、別にそんな事しなくたって君が望むなら何でも、」
「何度も言わせるな。これは、信頼の証でもある」
言葉が出てこない。きっと顔に出てしまっている。あぁもう、隠せなければ商人としては半人前だ。さっきも思ったことだろう。なのに、どうしたって彼相手だと上手くいかないのだ。小さな子供では無いはずなのに、その全部が見透かされているような気がして。
「自分の指を切る価値がある。僕は、君に対してそう思っている」
「未来のことなんて分からない、だろ」
「けれど僕は今の君を信頼している。だから『今』、ここで君と指を切るんだ」
「……」
なんのために? 一歩も引かない彼にとりあえず、問う。だってこれは約束のためのものだ。一体彼はアベンチュリンとどんな約束をしようというのだろう。未来なんて自分では決してつかみ取れないアベンチュリンに、地母神の眼差しひとつで、カンパニーの指示ひとつで、簡単に行く先を変えてしまうこの未来に。
「では、君の愚鈍を治すことを」
「……あはは、君らしいな」
「ふん」
愚鈍ってなんだろう。確かに学のない元奴隷ではあるけれど。なんて、どうでもいいことを頭の中で紡いでみる。分かっているのだ。きっと彼にとってその理由なんてどうでもよくて、今アベンチュリンの『それ』をただ、飛ばないようにと握りしめてくれているだけなのだということを。絡めた小指みたいに、力強く。
「じゃあお願いしようかな、教授」
何も分からない未来にどうか、少しでもこの病の改善がみられますように。そんな馬鹿みたいなことを考えながら、アベンチュリンはレイシオと二人で指を切った。