「へ」
「そうと決まれば早めに行動した方がいいだろう。住居の指定は? 特に希望がないなら僕の家に来てくれないか。部屋は余っているし、君の小さな家族も住んでもらって構わない」
「え、ぁ、うん?」
「籍も入れる必要があるな……君の籍は誰が管理しているんだ? 流石に奴隷籍はもう撤廃されてるんだろう」
「た、多分ジェイド、」
「ふむ。では彼女にも一言入れるべきか……次の休みはいつになる。僕も合わせて休みを取ろう」
「三日後、だけど……えっと、レイシオ?」
「なんだ」
本当に僕と結婚するつもりなのかい。その言葉は酷く困惑に満ちていた。ぐる、ぐる。頭の中で疑問符が踊っている。きっとこれは夢だ。もしくは彼の気まぐれとか、たちの悪い冗談とか。そうだろう。そうだと言ってくれ。そうじゃないと。
「そのつもりだが」
そんな願いを嘲笑うかのような、酷く簡潔で端的な返答だった。瞠目したアベンチュリンを他所に、手馴れた手つきで必要なものを羅列、作成していく。こういう時に仮装ディスプレイはかなり便利だ。いや、そうではなく。
たまたま、ただのお遊びのつもりで口にした言葉だったのだ。最近はとあるご令嬢からのアタックがしんどくて、でも大きな案件に関わる人であるせいで無下にもできない。そんな、ただの与太話のつもりだった。そして彼も最近はそういった縁談を話題にされることが多くてうんざりしていると。この話には乗ってくれるらしいと思ったから、ただの戯れで「僕らが結婚したらその煩わしさは全部解消されそうだね」と口にしたのだ。最近同性婚が正式に認められたと話題になっていたし、方やカンパニーの幹部、方や博識学会の天才ともなれば話題性も完璧だろう、と。ただ、断られるのを前提とした軽口のつもりで。
それが、なんだ? なんでそんな話になっているのだろう。彼とはカンパニーが定めただけのパートナーであるはずで、だからそれ以上の関係なんて結んでない。つまりは恋人とか想いあっているとかそんな、歯が浮くような言葉なんて一切ないはずで。では、何故?
「三日後までにジェイドに話を通しておいてくれ。勿論僕からも連絡は入れるが、僕だけの希望だと思われたらかなわない」
「そう、かなぁ。ジェイドが君との繋がりを持てるっていう利益を、みすみす逃すとは思えないんだけど」
「利益か。……まぁ、いい」
「うん……?」
とにかく、必ず申し伝えるように。レイシオはまるで業務連絡のように淡々とそれを口にする。あぁでも、そうか。これは業務か。それならまだ理解できる気がした。何事にも縁談だの恋愛だのに話を結び付けられると、話したいことさえ遮られてしまうのだ。つまり仕事が進まない。そんな不利益と、『既に婚姻関係を結んだ相手がいるという事実』から得られる利益。相手が元奴隷の死刑囚であるということを差し置いてもお釣りが来るだろう。それこそ、知られて困ることは明かさなければいいだけなのだから。
「……数ヶ月も経てばほとぼりは冷めてくれるかな?」
「どうだろうな。どんなにバカアホマヌケであろうと、勝算がなければ諦めてくれると信じたいが」
既婚者に言い寄れば不倫の誘発にもなりかねないし、身を固めた相手に別の誰かをあてがおうだなんてご法度だ。例えば一夫多妻制であれば話は変わるかもしれないが。同性の場合、どちらが夫とされるのだろう。そもそも一夫多妻制なんてものが適用されるのだろうか。いや、そんなのはどうでもよくて。
とにかく、そんな彼の言う『バカアホマヌケ』が諦めてくれるまでの期間限定だ。そういう仕事。そうだろう。だってかのべリタス・レイシオが、こんな賭博ばかりに興じるアベンチュリンを選んでくれるわけが無いのだ。というより、選ぶべきじゃない。高潔な彼にそんな軽薄な男なんて似合わないにも程がある。
安心、した。心の中で撫で下ろした胸がじんじんと痛む気がして、それはおかしなことに頭を悩ませたせいだと結論づける。期間限定の、お遊びにもならない合理的な関係。うん。これでこそ彼と『アベンチュリン』が結ぶに相応しい関係だ。
そう、思っていたのだけれど。
「却下だ」
「いや、でもさ」
もうほとぼりなんて欠片も残っていないだろう。そう言ったところで、彼は首を左右に振るだけだ。こんな問答が何故かずっと続いている。アベンチュリンがこの書類を持ち帰ってから、ずっと。
「もう僕の方は書いてあるんだ。君が書いてくれれば明日にでも、」
「僕にその気はないと言っている。何度同じことを言わせるつもりだ?」
「それが分かんないんだって。こんな関係、これ以上は君の汚点になるだけだろ」
ソファに座ったままこちらを見あげる赤色。それが鋭く細められている。なにか間違ったことを言っただろうか。いや、言っていないだろう。レイシオが既婚者であるという話は即座に出回って、それがようやく落ち着いた。あとはカモフラージュの為に買った指輪を身につけておきさえすれば、そういった面倒な話題は避けられるだろう。逆に、それを外せばまたスキャンダルとして取り上げられる可能性はあるが。
「今はまだいいさ。相手が僕だって一部の人にしか知られてないし、僕らがそういう利害の一致で籍を入れたって知ってる人もほとんどいない」
でも、今後は? 例えばレイシオの友人に会いたいと言われたり、それこそ調べられてこの計略が露見したりしたら? それはレイシオの『穴』になる。いや、さっきも言ったがもはや『汚点』だ。つまりは彼の不利益になること。それは、アベンチュリンが最も避けるべきことなのだ。だってただのビジネスパートナーに、この先も数多の栄光を受け取るであろう彼に、こんなお荷物を背負わせていい訳がない。
「前に言ってた縁談云々の誘いはもう落ち着いたんだろう? そのほとぼりが冷めたんなら、もう僕と夫婦である必要はないと思うけど」
「……君は利害の一致で僕と籍を入れたんだったな」
立ち上がった彼に、手に持ったその紙を抜き取られる。なんとも含みのある言葉だと思った。それさえなければようやく書く気になってくれたのかと、安心さえしそうなものなのに。実際レイシオはその紙を手に、しかしペンを取り出すでもなく、ただアベンチュリンを見下ろしている。
「な、に」
「僕は一時しのぎのつもりでこの婚姻を結んだわけではない」
「は……?」
言葉がうまく理解できない。どういうことだ。だってあの時はちゃんとそういうつもりで。いや、彼がそう口にしただろうか。アベンチュリンだって相手がレイシオなのだからと、仰々しい契約書なんかは作っていない。つまりは全てが口約束で。
「手の内を明かしてやろう、アベンチュリン。あの時の僕の計略と、今後の展望について」
アベンチュリンが持ち帰ってきたそれが、彼との関係を清算するための書類が、いとも簡単に手放された。机の上に置かれてしまったそれを取りに帰ろうにも、レイシオが迫ってきていて後ずさることしかできない。
「想い人に自分の婚姻さえただの道具のように扱うさまを見せられ、もし相手が僕ではなかったらと気を揉み、そのうえで僕がその提案を受け入れて今に至るまでの心情も含めてな」
―――――あぁ、最初から。そう思ったところでもう遅い。式も上げていないせいで一度も触れられていなかった唇は、今夜彼によって奪われることとなる。