一から十までことの始まりは一冊のフリーペーパー。
誰もいないリビングのテーブルに、無造作に投げ出されていたそれに反応したのは天彦だった。
「天彦、何読んでんの?」
目を細めながらページを捲っている天彦に、通りかかったふみやが声をかける。
「フリーペーパーです。僕のものではありませんが」
「なんか楽しそうだね」
「以前旅行した場所が特集されているんです。懐かしくなってつい」
天彦は当時のことに思いを馳せる。
あの頃の自分は、自身の膨大なリビドーの赴くままに恋人達と忙しなくも濃密な日々を過ごしていた。
恋人「達」というのはお察しの通り、
『ゆうべはあのひと 明日(あした)はあのこ だけど今夜はあなただけ』というやつだ。
ときに友達同士のように、ときに熟年夫婦のように、ときにお忍び旅行のように全国各地へ赴いた。
刹那的だっだが、どれも天彦にとっては鮮やかな思い出だ。
今では嵐のようなリビドーも既に落ち着き、恋人といえばふみや一人だ。それはとても心地よく、十分に満たされている。
しかし、そこまで考えていた天彦は、はたと、今までふみやと二人きりで遠出したことがないという事実に気づいた。急に沸き起こった気まずさのような焦りのような気持ちが、天彦をチクチクと責め立てる。
そんな天彦の肩越しにフリーペーパーの特集記事を目で追っていたふみやの、「ここ行ってみたい」の一言は、天彦のクレジットカードから多めの旅行代金を引き落とすのに十分だった。
「おぉー、すごい。良い眺めだね」
「えぇ本当に」
ロープウェイで辿り着いた山頂。ふみやは興味津々といった様子で街を見下ろしている。
その背中を天彦は微笑ましく眺めていた。
以前きたときもこんな晴れた日で心地の良い天候だった。
あの人もふみやさんと同じように柵に手をかけてたっけ。
「う、わっ!」
「ふみやさん!?」
前に出過ぎたのか、ふみやの体が柵の向こうへ倒れそうになるのを慌てて天彦が掴んで引き戻す。
「もー。びっくりさせないでください」
流石にあの人はこんなハプニングはありませんでしたね。
「ははは、ごめんごめん。次はあの双眼鏡?覗いてみたい」
「はいはい」
天彦は心の中で苦笑した。
次に二人で出かけたのはそれから2か月ほど経った頃だ。
スマホを弄っていたふみやが「これ美味そう」と天彦に見せたのはご当地スイーツの紹介ページ。その地方で取れる果物をふんだんに使用した様々なスイーツが宝石のように並んでいる。
「天彦、今度休みいつとれる?」
「なる早で?」
「なる早で」
隠しているつもりなのか声は務めて冷静で、しかしキラキラした瞳でもって画面を食い入るように見つめるふみやに、天彦もまた頬が緩むのを隠すことはできなかった。
「ああいお、おえあいあ、えあうあ(天彦、俺は今、めちゃくちゃ)……」
「ふみやさん、気持ちは充分伝わってますから」
目的の店に着く前だというのに、ふみやの口にはイチゴ大福が詰め込まれていた。
ポケットには先ほどまで食べていたソフトクリームの紙くずが2つほど。
そして視線は数メートル先の団子屋の看板をぴたりと見据えている。
『若さって怖い』
特集の店についたころには、天彦は食べてもいないのにお腹いっぱいになっていた。
「何にしようかな」
「一応聞きますけど、まだお腹に入るんですか?」
「え、勿論」
「あはは、セクシーどころか怖いなぁ」
「何が?」
本当にわからないという顔をするふみやにまぁまぁまぁ、なんて言いながら案内されたのはテラス席。
そういえばあの子とここに来たときもこの席だったっけ。
僕があんみつを注文してあの子はフルーツタルト。美味しそうに食べてたなぁ。
ふみやさんだったらパフェかな。
「決めた、これがいいな」
ふみやがメニューの写真を指差す。
「タルト?パフェじゃないんですか」
「うん、それも迷った。でも今はこっちのほうが食べたい気分なんだよね。天彦は?」
「僕はコーヒーで」
「え、何も食べないの?何か食べたらいいじゃん」
ほらこれとか、と指をさされたのは『今月のオススメ!』という文字が張り付いたあんみつ。
「今月のおすすめって書いてあるし」
おや、以前来たときも「今月のおすすめ」になっていたような。なんて、それは野暮ですね。
「では、あんみつも」
すみません、と緩やかに手をあげ、
「天彦、この店QRコード注文だよ」
素早く下ろす。
「本当に美味しそうに食べますね」
「うん、美味いからね」
何種類ものフルーツがふんだんに飾り付けられたそれに、ふみやは深深とフォークを沈めては途切れることなく口元へと運んでいく。
あっという間にタルトは小さくなり、皿にはひときわ大きく輝くイチゴのみ。
天彦のあんみつはまだ半分以上も残っている。
ふみやは迷わず最後のイチゴにフォークを突き刺す。
「天彦全然減ってないね」
「ふみやさんが早すぎるんですよ。僕はいたって普通のペースです」
葛切りを掬っていたスプーンを置き、天彦は上品な仕草でコーヒーに口を付けている。ふみやはそんな天彦を、正確には天彦の手元のあんみつを熱く見つめていた。
「なぁ天彦、それ一口……」
それ、と腕をわずかに動かしたのが悪かったのか。
事件は起きた。
ふみやのフォークにしっかり刺さっていると思われたイチゴが、予想を裏切りそこから抜けだすと、あっという間に重力を味方につけ地面へ着地し数回転がってみせたのだ。
「あ」
「あ」
「……あ……ああ、あああ……アアアアア……」
「ふみやさん、気をしっかり!」
何も刺さっていないフォークを握ったまま震えるふみやを天彦は必死でなだめる。
床ならまだしもテラス席だったのが災いした。イチゴはすでに砂利や埃や汚れをふんだんに纏わりつかせており、再度口に入れるのは難しいだろう。
「最後の、最後の一口……」
「ぼ、僕のあんみつを全部差し上げましょう。あ!そうだ、このあとクレープも買いましょう?ほら、さっき来るとき気になってたお店があったじゃないですか、ね?」
「……ソフトクリームも」
「勿論です」
たまに抜けてて抜け目ない、うっかりもののちゃっかりさん。そこがまた可愛くて仕方がないのだ。
◇◆◇
「天彦、あんた最近また遊んでる?」
馴染みの店のオーナーは、天彦からの土産を手に怪訝そうな顔をした。
「はい?」
「なんか、またいろんなとこ行ってるから」
「あぁ、そういうことですか」
この世界に飛び込んですぐのころからお世話になっているオーナーは、派手にやっていた当時の天彦のことを知っている数少ない人物のうちの1人だ。
「同一人物。たった一人の恋人ですよ」
「あぁそうなの。お土産があの頃といちいち同じだから妙な気分になっちゃってさ」
「同じ場所に行ってますからねぇ。そこでオーナーの好きそうなお土産を探すとやっぱり同じになっちゃいまして」
「あーそっか、変な事言って悪かったね」
「いえいえ」
「お土産はほんと嬉しいから。この間のクッキーも好きな感じのやつだし。そういえばあのクッキー貰ったの、前もこれぐらいの季節のときじゃなかった?」
「言われてみれば。懐かしいなぁ、当時あそこに行ったときなんですけどね、普段落ち着いている彼が珍しく柵から身を乗り出して、そうしたら体制崩して落ちそうになって、それで僕は慌てて……あれ?」
「何?」
「これは今回のエピソードでした。あはは」
「もしかして今惚気られた?そういうのうちのマネージャーでお腹いっぱだから」
「マネージャー?」
「奥さんが妊娠したんだって、もうデレッデレ。まだ生まれてもないのにさ」
「あの強面の方ですよね」
「そう。あんたが前に持ってきたフルーツゼリーも『これなら嫁も食べられそうです!』って嬉しそうに持って帰ってたよ」
「あーあれですか」
「あれも昔、同じの買ってきてくれたよね。その時はダンサーの子と行ったんだっけ?」
「そうそう。その子が『同僚に美味しいタルトの店を教えてもらったから一緒に行きたい』って。でも彼女、お店でタルトの最後の一口を落としちゃって……あれ?これも先日の話だ」
「はいはい」
◆◇◆
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
ショーを終えた帰り道、天彦はぼんやりと記憶をを遡る。
『ふみやさんが落ちかけたあの山、前に行った人とは確か……ええと……そう、なにかの話で盛り上がって、そのあとお土産にクッキーを買って……そういえばクッキーはふみやさんも買ってたっけ』
『タルトを食べに行ったのは、二葉さんとだったはず。期間限定の……じゃない、友達に美味しいお店を教えてもらったからって。それでテラスで、あれ、これはふみやさん?いや、彼女のときもテラスだ。そのあと……』
『□□高原は三上ちゃんだっけ。近くに牧場があるって聞いたから行こうよって、違う、それはふみやさんだ。彼女は先に地図で牧場を見つけてて、えーっとそれで馬に乗れるって言うから、でも全然馬がしゃがんでくれなくて、あぁしゃがんでくれなかったのはふみやさんのときか……』
『四谷さんとは酷使した体を温泉で癒そうって。どっちが長く露天風呂に浸かれるかなんて言い出したのは彼……じゃなくて、あれ、僕?いや、僕はそういうのはあまり思いつかないし。それでマッサージ機はお金入れたのに壊れてて、これならアイスクリームにしとけば良かったって拗ねちゃってでもそれ僕のお金ですけどって……んん?』
考え事をしていると家につくのはあっという間だ。
月明かりの下、ハウスのドアをそっと引いて中へと滑り込む。
足音を忍ばせ階段を上がれば、自室のドアから明かりが漏れていた。
消し忘れ?
いえいえ。
天彦の頬が緩む。
「ん、お帰り」
「ただいま帰りました。待っていてくださったんですか?」
「そんなとこ」
天彦のベッドには、うつぶせでスマホを眺めるふみやがいた。
「嬉しいです。今日は読書じゃないんですね」
「いや、読書。今日は漫画」
着替えを終えた天彦が隣に横たわっても、ふみやの視線は相変わらずスマホに釘付けだ。
「何かに夢中な貴方もセクシーです。そんなに面白いんですか?」
「まぁまぁってとこ」
「おや、でも……」
天彦がふみやのえくぼを優しくつつく。
「うん。確かにこのシーンは面白いよ、ほら」
ふみやが天彦にスマホの画面を見せる。
その漫画の見せ場なのだろう、他よりも大きなコマ。
もう起きてしまったことだからと項垂れる人物と、その肩を叩き『過去は変えられない、だけど未来なら変えられる!』と励ますもう1人の人物。
そんなシーンが描かれていた。
「これは……少年漫画でしょうか」
「さぁ。でも笑えると思わない?」
「笑える?」
ふみと天彦の視線が交わる。
「確定してる過去ほど塗りつぶしやすいものは無いのに」
そのときのふみやの言葉と表情は、やけに天彦の頭に残ることとなった。
◆◇◆
『おめでとうございます、三等です』
商店街のケーキ屋でせっかく大量にもらったからと寄ってみた福引。
あの時のカランカランと響き渡る派手な音は少し恥ずかしかったなと、天彦は船の上から外の景色を眺める。
「三等ならもう少し控えめでも良かったよね」
同じことを考えていたのだろう、隣に立っていたふみやがポツリと呟く。
「ふふ、本当に。まぁその分楽しませてもらってますから」
「うん、そうだね」
景品は遊覧船での某湖1時間クルーズ。
ああこの景色を前に見たのは六本木さんとだったか。
不思議には思っている。
こんな偶然ってあるものかしらと。
例え2人で出かけたその全てが、
季節も日付も場所も天候も、おそらく時刻も同じだったとしても。
でも、どうしたって意図してできる事じゃない。
このクルーズだってそうだ。
第一、ふみやさんに過去の話をしたことがないのだから。
だから、きっと、全部偶然。
少しずつ、忘れていく。
「天彦、俺、この寝台列車ってやつ乗ってみたい」
七瀬さん
思い出せなくなっている。
「天彦、俺、サーカスって初めて見た。空中ブランコ凄かったな」
八雲さん
塗りつぶされていく。
「天彦、座禅ってマジで身が引き締まるね。集中してたら甘いもの食べたくなった」
「え、この寺?ここで体験できるって書いてあったから選んだ」
九重さん
仕方ないじゃないか。
だって、こんなにもふみやさんとの日々は楽しいのだから。
仕事を終えハウスに帰ると、机の上には一冊のフリーペーパー。
誰かがまた持って帰ってきたのだろうか。
表紙に映っている景色が、懐かしい記憶を呼び起こす。
当時恋人だった子に、実家に忘れ物を取りに行くついでに旅行しようと誘われたっけ。
暑い夏の日だった。
一緒に彼女の実家に寄ったら、娘が結婚相手を連れてきたなんてちょっとした騒ぎになって、
二人して慌てて否定して。
ーー恋人なんだろ?
そうだけど、でもこれは一時的というか。
一時的?
あ、いや、なんでもないですーー
逃げるようにお暇して、抜けるような青空の下、バス停で顔を見合わせ大笑い。蝉の声より煩いんじゃないかって。
そんなこともあったっけ。
思い出し笑いをしながらパラパラとページをめくる。
「天彦、お帰り」
「ふみやさん!?た、ただいま帰りまし、た」
いつの間にいたのか、突如背中越しに聞こえた声にびっくりして声が裏返る。
「俺さ、今度ここ行きたいんだ」
開いたフリーペーパーの特集の上に、そっと置かれた一枚の写真。
映っていたのは、一軒の古い民家。
あの子の、実家。
「どう、して」
「もうすぐ夏だね。きっといい天気になるよ」
ふみやが楽しそうに笑う。
あの日の彼女の笑顔が重なった。
終