5.光芒(キーワード:手を伸ばす、白昼夢、天使のような)
二人が結ばれてから、三度目の春が巡ってきた。
物理的な距離に妨げられての交際は、それでもまずまず順調に進展しているらしい。ただし時折、感情や思惑の行き違いが発生しているようだが。
――例えば、本日も。
「もうっ! 起きてください!」
はばたき駅から徒歩五分ほどの高級ホテル、五階の客室にて。
角を突き出し、カンカンに怒っている美奈子の前で、彼女の恋人は大の字になり、眠りこけている。
御影 小次郎。故郷に戻り、家業を継ぐ予定の若き御曹司は、普段ならば長い髪に整った目鼻立ち、長身痩躯とあって、どこぞの国の王子様かと見間違うほど立派な青年なのだが。しかし今ベッドの上で手足を投げ出し、ぽかんと間抜けに口を開けて爆睡しているその姿を見れば、彼を支持する乙女たちの、百年の恋も冷めるかもしれなかった。
時刻は正午。太陽はとっくに真南に収まり、さんさんと輝いている。
「小次郎さん! 小次郎さん! ――御影先生!」
体をいくら揺さぶっても反応がないから、美奈子は最後には大声で、三年前まで散々口にしていた呼び名を叫んだ。するとようやく御影の眉はぴくりと動き、のんびり瞼が上がり始まる。
「やっと起きた!」
美奈子は口をへの字に曲げる。
はば学卒業直後、気持ちを伝え合い、二人は結ばれた。そこからいわゆる遠距離恋愛の状態になり、互いの土地を行き来するようになったのだ。そして今回、美奈子が大学三年生に進級する直前の春休みは、御影がはばたき市を訪ねてくれた。
滞在期間は五日間。本日はその四日目だ。
昨晩、御影は教師時代に昵懇の仲だった元生徒の、柊 夜ノ介と氷室 一紀と酒を酌み交わすと言っていた。
美奈子は先約があったので、残念ながら彼らの集いには加わらなかったのだが。夜ノ介たちと会う前に、「やっとイノリも一緒に呑めるぞ!」とやたらはしゃいでいた御影が、今日こうやって醜態を晒すだろうことはなんとなく予想がついていた。
「呑み過ぎたんでしょ! 今日は少し遠出するから、ほどほどにしといてくださいって言っといたのに!」
本来なら今日は「敵情視察」と銘打って、はばたき牧場に遊びに行く予定だったのだ。
「……二日酔い? 気持ち悪くないですか? なにか飲みものでも持ってきます?」
口調こそキツイが、それでも美奈子はずり落ちた羽毛布団を拾い上げ、つま先がベッドの端から少し出ている恋人の大きな図体に、甲斐甲斐しくかけてやった。
「……………」
「先生?」
目覚めたようだが、御影はぼうっとしたまま動かない。訝んだ美奈子は、天井に向けられっぱなしの紫の視線を遮るように顔を出し、恋人を見下ろした。
「美奈子。なんでおまえ、ここに? 飛行機、乗ってきたのか?」
――ダメだ、寝ぼけている。
もしかしたら、昨晩のアルコールがまだ残っているのかもしれない。
恋人の愚昧な問いかけのせいで苛立ちも消えて、美奈子は無言で彼の頭を撫でた。くるくると丸まる癖のある栗毛。頭頂部付近のその手触りは思ったより硬く、コシが強いのが意外だった。
「!?」
犬か猫を愛でるように動かしていたその手を、急にがしっと掴まれて、美奈子はギョッとする。
寝起きだからか、少し燻っている恋人の紫の瞳。その焦点が、みるみるうちに美奈子に定まっていく。
「おお、俺の天使……」
「ハア!?」
戸惑いと怒り、半々の声で聞き返す。デートの約束を反故にしておいて、なんだそのふざけた台詞は。
鋭角にギリギリ眉を吊り上げる美奈子を、しかし御影は意に介さず、それどころか掴んだ彼女の手を引き寄せた。
よろめき、ぐんぐん引きずられて、部屋の入り口で靴と履き替えたスリッパが足から落ちる。そしてとうとう、美奈子はベッドの上へ乗せられてしまった。
「ちょ、ちょっと!?」
「美奈子……」
御影は美奈子を布団の中に連れ込み、不埒な真似をしようと仕掛けてくる。
まるっきり捕食者だ。力づくで獲物を巣に引きずり込んで、骨の髄までしゃぶろうとする――。
そうなってはデートどころではないだろう。美奈子は手足をバタつかせ、必死に抗った。
「起きたなら、お出かけしましょうよお! 前から約束してたでしょ!?」
「あー、いい匂いだ……。たまんねぇ……」
無視……というよりは、煩悩が鼓膜の蓋となって、御影には恋人の声が聞こえていないのだろう。マイペースに強引に、彼は美奈子の頬に口づけ、豊かな胸を揉み始めた。
「ぎゃっ!? やだっ! スケベ!」
軽くて温かい羽毛布団に囲われた空間には、御影の体臭がこもっていて、クラクラした。嫌な匂いではないが、ともかく濃いのだ。
全身から力が抜けそうになる……。が、美奈子はなんとか己を奮い立たせた。
いつもこうやって、自分の主張は聞いてもらえず、彼のペースに巻き込まれて。昨晩だって心配して何度かメッセージを送ったのに、恐らくベロベロに酔っていたのだろう、返事もくれなかった。
「離してください! 出かけないなら、今日はもう帰る!」
ふつふつと怒りが湧いてきて、美奈子はなんとか御影の腕の中から逃れ、ベッドから下りようとした。――が。背中を見せた一瞬を突かれて、ガバッと後ろから伸し掛かられる。
「わっ!?」
うつ伏せの状態でぺしゃんこに潰された。その耳に、掠れた声が注がれる。
「今日はおひさまが沈むまで、ずーっとベッドの中だ……」
いけしゃあしゃあと確定事項のように、御影は美奈子に言い渡した。
「お出かけするって言った……! 言ったのに……!」
いや別に、美奈子だってそこまで牧場に行きたいわけではないのだが。
だが、まず第一に四日間も一緒にいるのに、どこへ行くでもなく部屋にこもって、連日セックスセックスセックス……。あまりに不健全過ぎる。
そしてなにより御影は美奈子との約束を平気で破り、なおかつそのことに対して微塵も罪悪感を持っていない。自分がなにを言い、なにをしても、恋人は受け入れるだろうし、従うだろう。そういった傲慢さが透けて見えて腹が立ち、美奈子は彼の提案を拒否せずにはいられないのだ。
「外デートは明日にしよう。朝から晩までたっぷり遊ぼうぜ? ――だから」
「やだっ! ずっとずっとエッチなことばっかなんだもん!」
「いやあ、昨日、夜ノ介たちにおまえのこと自慢してたら、改めて惚れ直しちまって。ムラムラが止まらねえんだよぉ」
「バカなんですか!?」
高校時代はもっと倫理観が強く、慎み深い男性だったはずなのに。
おかしい。美奈子とつき合うようになってから、御影の知能は著しく劣化している……。それが恋というものなのだろうか。
「ともかく離して!」
美奈子は後ろに貼りついている御影を肘で突っ張り、遠ざけようとした。強情な彼女のうなじに、御影がぱくっと噛みつく。
「やあっ……!」
痛みを与えないよう加減して、御影は何度もがじがじと美奈子の肌に歯を沈ませた。まるで親猫が、子猫に躾をしているかのようだ。
「美味いな、おまえ」
「んっ、う……!」
牙を突き立てられた箇所が痺れて、同時に粟立ち、甘美な痛みが全身に伝播する。
――ダメだ。今度こそ脱力してしまう。くたっと美奈子がシーツの上に伏せると、御影はますます彼女との距離を詰め、自分がかじって赤く染めた肌を舐めた。
「ううーっ!」
悔しい、悔しい、悔しい。また負けた。
背後でふ、と息を吐くような笑い声を聞いた気がした。またそれが美奈子の怒りを煽る。
なんとか捕食者の下から這い出ようと、往生際悪く片腕を前に伸ばせば、少し先に置いた拳の甲に大きな手の平が重なる。指を組み合わされて――。ああ、これで完全に捕まってしまった。
御影にのしっと体重をかけられれば、わずかも動けない。身長の割にはかなり細いだろう恋人の体は、しかししなやかな筋肉の鎧を纏っているから、力を入れれば岩のように重くなる。
まだ明るいうちに、こんないかがわしいことをしているなんて、まるで悪い白昼夢のようだ。
美奈子は自分自身が嫌になった。
弱い自分、本当はこうされるのがまんざらではない自分、なにをされても結局許してしまう自分。
いや、違う。違わないけど、違うのだ。
「こんなの……っ。誰でもいいわけじゃないんだから!」
上体を捻ると、精一杯の虚勢を張って、背後の恋人に怒鳴る。
御影は目を丸くしたのち、にやーっと大きな口を歪ませて笑った。
「そりゃ光栄だな、べっぴんさん」
体を起こすと、御影は頭まで布団を引き上げ、その状態で美奈子に覆いかぶさった。
二人を包み、膨らんだ布団が、でこぼこと激しく波打つ。時折ぎゃあぎゃあと、傷害事件もかくやと思われるような怒声が響いた。が、そのうち、ぺたっと布団が平らに伸びたかと思うと、その隙間からは艶やかな鳴き声が漏れてくるのみとなった。
四時間に渡る試合の結果は、三ラウンド・テクニカルノックアウト。
「おーい。そろそろ起きろー」
試合終了後、一時間ほど泥のように眠った美奈子は、軽妙な声に起こされた。のそのそと起き上がったその頭に、ぽんと大きな手が乗る。
「ほら、シャワー浴びて来いよ」
そう声をかけてきた御影はしゃっきりしており、明らかに朝の様子とは異なる。
それに引き換え、自分はボロ雑巾のようだ。なんだか理不尽というか……。美奈子は半目で御影を睨んだ。
「ん、どうした?」
「……………」
相手にはこちらの鬱憤も通じていないようだし、確かにこのままの状態で留まっていても埒が明かないし。
渋々美奈子はベッドから下りて、スリッパを引きずりながら、バスルームへ向かおうとした。
「あ、着替えはそこだ」
後ろから声をかけられて、御影が指したソファを見れば、ショップの大きな紙袋が置いてあった。
振り返れば、御影はいたずらっ子のように笑っている。
「いっぱい運動したから、腹減ったろ? 十九時に最上階のレストランを予約してるから、それ着て行こうぜ」
御影が用意してくれたのは、マキシ丈のワンピースだ。濃紺の生地の首元から鎖骨の下までにチュール布が使われており、シックで落ち着いた雰囲気に加えて、大人の色気も感じさせるデザインだった。
「細かいサイズが分かんねえから、ワンピースにしちまったけど、めちゃめちゃ似合うな! 夜ノ介とイノリも、一緒に選んでくれたんだぜ」
自分が買い与えた服を着た美奈子を眺めながら、御影はうんうんと満足そうに頷いている。
「……………」
褒められれば悪い気はしない。先ほどの恋人の蛮行は脇に置いておくことにして、美奈子は気合いを入れて身支度を整え始めた。
メイクをし直して、髪もキリッと結い上げる。全身鏡の前で身なりを確かめて、贈られたワンピースの素晴らしさにうっとりしつつ、だが少し首元が寂しいか……などと思っていると、ふと背後に御影が立ち、ネックレスを着けてくれた。
「こ、こんなすごいの、いただけません……! 服も靴も買ってもらったのに!」
大粒のダイヤモンドが一粒ついたネックレスのヘッド部分を持ち、美奈子はしきりに恐縮する。
「俺がおめかしして欲しいんだからいいの。毎日会ってたら、もっともっと貢いでたぜ? 遠距離恋愛ってやつは、金が貯まっちまうなあ」
「でも」
尚も食い下がろうとする美奈子の顎を、御影はひょいと持ち上げ、キスで反論を封じた。
「ほら時間だ」
「~~~っ」
ぺろりと舌なめずりをして、不敵に微笑む――自分の恋人は基本的にヒドイ人なのに、優しく甘くスマートで……。美奈子は唇を噛む。
この人は自分の魅力を十分理解しているのだ。どこまでが許されて、どこまでが許されないか。その範囲を越えないよう、振る舞っている。
だから美奈子は彼に対する不満を抱き続けることができない。ついどこかで許してしまう。
――ズルい大人。
「なんか……。先生との差が、全然埋まらない気がします……」
手にした宝石の中には、虹が閉じ込められている。ネックレスの神秘的なその輝きに目を落としながら、美奈子は寂しそうにつぶやいた。
「差、って。俺はそんなたいした男じゃねえよ」
「経験が違い過ぎるんですよね。先生はきっと、今までいろんな女性とつき合ってきたから……」
途中で、美奈子は言葉を打ち切る。――しまった。過去を詮索するなんて、悪趣味だった。
顔を上げれば、御影は困ったように笑っている。
「さ。行こうぜ」
「はい……」
御影が差し出した手を、美奈子が取る。
こうして二人は、ほんの少し気まずい空気が漂う部屋をあとにしたのだった。
連れて行ってもらった最上階、十五階にあるレストランは、和食割烹のお店だった。店構えからして、格の高さが伺える。入り口横の看板に目をやれば、海鮮料理がウリのようだ。
意外である。その率直な感想が美奈子の顔に出ていたのか、御影はさらりと説明した。
「ほら、肉は自分んとこでいくらでも食えるからさ」
店内へ足を踏み入れれば、すぐに対応してくれた店員に、窓際の席へ案内された。
「コースでいいか? なに呑む?」
「あ、はい。ええと……ビールを」
壁一面の窓の外側、眼下に広がるはばたき市の夜景に見惚れながら、美奈子は答えた。
「ほら、ビール来たぞ。――ああ、美味いなあ」
御影も一杯目はビールにしたようだ。ぐっとグラスを傾ける彼の姿は堂々としており、高級店の趣にすっかり馴染んでいる。
店内はほぼ満席だというのに静かだ。人々はにこやかに会食している。彼らの上品で落ち着いた話し声がさわさわと潮騒のように聞こえて、美奈子は自分が海にいるような錯覚を覚えた。
ワンピースといい、高いヒールのサンダルといい、きらびやかなネックレスといい……。慣れない格好をしている自分は、浮いていないだろうか。美奈子は気もそぞろに、細やかな泡が乗ったビールを口にする。だが緊張のせいで張り詰めていたその気持ちは、順々に運ばれてくる素晴らしい料理を前にして解れていった。
ミニ碗に盛られた煮物や、小さなカクテルグラスに入った和風のガスパチョなど、色とりどりの趣向に凝った先付け。
新鮮な魚介と旬の野菜のカルパッチョは、酸味や塩分、わずかな甘みなどが完璧なバランスのドレッシングで彩られている。
さくっと香ばしく軽い食感の、むしろ主役は衣なのではと思わせるような天ぷらは、だが噛み締めれば、素材の濃厚な風味が口いっぱいに広がった。
焼きものは、真鯛の塩焼きだ。脂が乗っていて旨味がぎゅっと詰まった身は、口の中へ入れればほろりと溶けてしまい、食べ終わるのが寂しくなるほど美味だった。
そうそうたる逸品を胃に収めたあと、運ばれてきたのは茶碗蒸しだ。出汁の良い香りが漂う蒸された卵液は、ほこほこと温かく、いかにも臓腑に優しい。なにより素朴で素直な味に心がホッと落ち着き、美奈子と御影は目を合わせてにっこり笑った。
御影は途中から日本酒に切り替えている。アクアブルーのガラスでできた徳利から、揃えのお猪口へ冷酒を注ぎ、ちびちび静かに飲んでいる。
最後に小ぶりの寿司五貫、いくら、大トロ、うに、マグロ、カニを平らげて、豪華な晩餐は終了となった。
「美味かったなー」
「はい。お腹いっぱいです」
一度、窓の外に目をやって、御影はふうと鼻から息を吐く。そして美奈子と向き合い、唐突に切り出した。
「な、美奈子。大学出たら、俺と結婚してくれないか?」
「えっ!? ええっ!?」
濃いほうじ茶と共に出てきた水菓子の、皮を剥いていた巨峰を、美奈子は驚きのあまり、ぽろりと皿に落とす。
「そろそろ就活だろ? 内定出る前に言っとかねえとって」
口調はいつもどおりだが、御影は真剣な顔をして、美奈子の目をまっすぐ見詰めている。
「……………!」
美奈子は口をぱくぱくさせた。
考えたことは、実はたくさん……いっぱい……めちゃくちゃ、ある。御影とこれからどうなるのだろう、と。ぶっちゃけ、彼のお嫁さんになりたいな、と……。
美奈子は自分の就職先を、御影の地元にしようとまで考えていたのだ。そんな彼女が、御影からのプロポーズに異論などあるわけがなく。
ただびっくりし過ぎて、言葉が喉に詰まっている。なにしろ、ここにくる直前まで御影はいつもどおり飄々としていたから、まさか彼からこんな爆弾発言が飛び出してくるとは想定外だったのだ。
「あ、え、あ」
「ええと……」
御影はジャケットのポケットに手を突っ込むと、隠し持っていたらしいジュエリーケースを取り出し、真っ赤になっている美奈子の前にそっと差し出した。それを、上下に開く。
「手ぶらっていうのも締まらねえから、とりあえず、な」
ケースの台座には、大きく透明な石を戴く、プラチナの指輪が鎮座していた。
「……!」
美奈子は震える手で指輪を抜き取り、そのずしっとした重さに仰天しつつも、左手の薬指に着けた。
御影ははあっと大きく息を吐き、強張っていたらしい体から力を抜いた。もしかしたら彼も彼なりに、気を張っていたのかもしれない。
「もう戻れねえぞ? おまえは俺のもんだ……!」
眉間にシワを寄せて、照れ隠しなのか意地悪な顔を作り、御影は言った。
「はい……。先生、ありがとう……! すごく嬉しい!」
まなじりに涙を滲ませ、美奈子は微笑む。
「私、幸せです……!」
そしてこの夜、美奈子は御影の部屋に泊まり、二人で抱き合って眠った。
しかし。
目が覚めれば、御影は教師時代、はばたき市で暮らしていたマンションの、自分の部屋にいた。
――ひとりきりで。
そして時は、三年前に戻っていたのだ。
幸せの絶頂、光り輝く日々より――光芒一閃。
御影 小次郎はこれより、絶望の鳥かごの中に取り残されることになる。
~ 終 ~