仮②Side・R
一ヶ月ぶりだろうか、霊幻はエクボの労いとやらによってぐっすりと眠れた。途中で起きることもなく、夢を見る事もなく。次の日の朝起きた時にはいつにない充足感が胸にあってホッとしたほどだ。
いつもの時間に設定してあるケータイのアラームによって目を覚ました霊幻は何度か目を瞬かせて、瞼が重くしょぼついていたのでよく眠れたのをさらに実感した。
よく眠れない時は瞼は軽いのだ。ああまた眠れなかったとすぐわかる。そうして、疲れの取れなかった頭には午後になると睡魔がやって来るのだ。
正直霊幻はエクボの労いの真意が全く分からなかった。エクボは自分の事をきっと良く思っていないだろうに、なぜとういう気持ちでいっぱいだ。
対して霊幻はエクボの事は良いのか、悪いのかもよくわかっていなかった。モブの周りをうろちょろしている存在という認識で、仕事の時に知っている事があれば答えてくれるその口ぶりはずいぶんと知識を蓄えているのだな、と一目置くようにはなっていたが。
いや、やっぱりわかっていない訳ではない。どちらかと言えば好印象のほうが勝っている。
仕事以外で話す時もやり取りが楽なのだ。たぶん、お互いに遠慮がない。エクボはどうだか知らないが、霊幻は間違いなくそうだ。自分を良く見せようと繕うのが常なのに、悪霊にそんな事をして何になる、と開き直って肩肘を張ることがない。
労ってくれるくらいなのだから、仮にエクボも霊幻に好印象があるとして、だけどどうして寝かしつけまでするだろうか。
霊幻はようやくベッドから下りて顔を洗いに行った。
今日も仕事がある。
職場の相手への労いなんて呑みに誘い奢ってやるくらいで、寝かしつけだなんてもし人間ならあまりに踏み込みすぎだ。やはり悪霊というのはその辺りの感覚が違うのかもしれない。
エクボなら現代の社会常識が知識としてあるだろうが、それをエクボと霊幻の間に適用させる必要などどこにもなく、エクボのやり方があるのだろう。
それは髪を洗ってもらった時にも感じた事だった。髪を洗うのは悪霊流の労いなのか? と聞こうとしたが、その時のエクボはやけに楽しそうに笑っていたので、まあ好きにさせてやるか、と頭を預けたのだった。
顔を洗い終えた霊幻は、冷蔵庫から昨日エクボが作ってくれたカレー鍋を取り出した。朝にも食えよ、と言われた通りしっかり残っている。
鍋を火にかけると、冷えて塊になっていたカレーが溶けだしふつふつと踊り始める。
昨夜これを食べた時は、市販のルーを使っていて誰でも知っている味だというのに、エクボが作ったというだけでまるで未知の食べ物のように感じて少し緊張していた。
今朝になってみればもう知っている物なのでただのカレーだけど、そうか、アイツがこれを作ったのか、としげしげと見つめてしまう。悪霊が作ったカレーだなん物珍しいに決まっているが、そういうわけではなく霊幻にとってどこか特別なもののようにも感じた。
ご丁寧に、今朝の分も買っておいてくれたレトルトのご飯も温め、真ん中を割って縁に寄せ、その空いたところへカレーをたっぷり注いだ。
霊幻は朝の情報番組を流し見ながらカレーを頬張った。こんなにきちんとした朝食はいつぶりだろうか。なんだか丁寧な生活というのをしている気分になってくすぐったくなった。
それにしたって、と思って霊幻はカレーを飲み下す喉がきゅっと狭くなって急いで水を流し込む。
なんとか詰まるのをまぬがれたが、それにしたって、どうして昨夜はエクボがいたのに眠れたのだろうかという疑問が大きすぎて嚥下が疎かになったのだ。
霊幻は誰かがいると気が落ち着かなくて寝入るのも遅いし、眠りも浅くなる。学生時代の林間学習や修学旅行での宿泊時もそうだった。
なのに昨夜は、いいからいいから、といなしてくるエクボを拒みきれなかった。だから霊幻は、結局眠れなくて、ほらな、と言おうと思っていたのだ。
灯りを消した部屋で布団に包まるっていると、エクボは時間つぶしにと音を消したテレビを見ていた。画面の灯りが壁に反射して真っ暗でない薄暗さが部屋を包んだ。
それからどれくらい時間が経ったがわからないが、眠りはまだやってこなくてだけど意識はどことなくぼんやりしている。このぼんやりのまま何時間コースというのもままあった。
だからちょうど、ほらな、眠れないだろ。と言おうと思ったその時だった。エクボが身動いで服の擦れる音が聞こえると、なぜかふっと瞼が落ちた。すると意識は耳だけになって、続けて床に直に座っている足を組み替えているだろうエクボの動きが聞いて取れる。
霊幻はそれが妙に心地良かった。
エクボがこちらを気にして、眠りを邪魔しないようにそっと動いている、そのささやかな物音に頭の内側を直接撫でられているようだった。
と思った瞬間、夢うつつに落ちた。
ここは自分の部屋のベッドの上だとわかるのに、体は浮遊感があって、ひどくぬるいお湯に揺蕩っているようでもあった。このまま深いところまで身を沈めたくなるようにうっとりとして、気付いて起きた時にはすっかり朝になっていた。
こんなにも誰かを感じたというのにどうして眠れたのだろう。エクボは霊だから“誰か”ではなく“ナニか”だと感じたのだろうか。
霊幻は食べ終わる頃になってもちっとも答えが出てこなくて、もう相談所を開けないといけない時間が迫っていたので考えるのはそこで止めにしておいた。
【このあとは、誰も側に置きたくなかった霊幻が、エクボには側にいてほしいと思うようになっていく。のを考えていました。】