おうち居酒屋 始まりはほんの些細なことだった。
SNSでバズっていた居酒屋風絶品料理。材料はたった三つで、調味料もどの家庭にもある物で作れるのだそうだ。ポイントは調味料の比率と、とある隠し味らしい。それの材料は、普段料理をほとんどしない霊幻の一人住まいのキッチンにもある物とちょっと買い足すくらいだった。あんまりバズっているしそんなに美味しいなら、と軽い気持ちから作ってみることにした。
ただ、軽量スプーンは必須だと料理を紹介している料理研究家が、パフォーマンスも兼ねて頭を下げてまで買ってくださいと視聴者にお願いをしていた。黄金比率なのできっちり計量してもらいたいらしい。霊幻も料理をほとんどしない類の一人として、今後使うかわからない軽量スプーンを買うのもどうかと一瞬だけ作るのをためらったが、それでもそれを買う気になったのは他ならぬアイツを思い浮かべたからだった。
家に帰れば一人だった少し前ならばきっと道具を買い足す料理なんて作る気にならなかっただろう。けれど今ならちょっと声をかけられるエクボがいる。
「そりゃあなんだつまり外で呑ませずに家で呑ませて安上がりにしようってことか?」
「違うって言ってんだろ」
「まあなんだっていいさ、ビール呑ませてくれればよ。お、俺様はこれにする」
エクボが憑代にしている、爪の守衛をしていた男の身体を借りてきての仕事終わり。エクボには金銭の報酬が発生しないので身体付きの時に呑み屋で一杯ご馳走するのがそれの代わりになっていた。しかし、今日の一杯は呑み屋ではなく霊幻の自宅アパートで、ということを伝えると、まるで呑み代を渋っているように捉えられてしまった。
事務所から霊幻の部屋への帰路の途中、買い出しにスーパーへ入ったところでエクボにそんなセリフを吐かれたが、まあそう言われても仕方がない。例の料理の件を説明もしたのにエクボはあまり信じていない様子で、普段から霊幻が節約できるとこはしっかり絞っているのを目の当たりにしているからだろう。
口ではそう言うものの、エクボは気に入ったビールを見つけたようだ。上段にあるいかにも高そうなラベルの缶ビールを取ると霊幻が持っている買い物カゴにポンと入れた。続けて、あれもこれもと乾き物も入れてきたので、霊幻は待ったをかける。
「だから、作るって言っただろ。チーかまもさきイカもいらねーの」
エクボが入れた物を次々と棚に戻していくが、ピーナッツだけはあからさまに表情が曇ったので、そういえばエクボの好物だったな、とカゴに戻してやった。
エクボは酔って意識のない霊幻をアパートまで送ってきたことはあるが、ベッドに転がすまでしかしたことがなく、ゆっくりと部屋に上がるのは今日が初めてである。
先にピーナッツで一杯やってろ、と霊幻に言われてワンルームの真ん中に通されたが、ちょっと見回しただけでも家具以外何も無い実に殺風景な部屋だ。清潔感があるというより、何も無くてつまらないという印象を受ける。
「おい、あんま部屋ジロジロ見るなよ」
「見るなって、何もねーじゃねえか」
エクボがそう言うと、霊幻はお前が一番分かってんだろ、とほとんど独り言のような声で返した。
霊幻は何か始めても長続きせずに結局部屋には何も残らない。だから自分というのを見透かされそうで、部屋に他人を上げるのは苦手だった。けれどエクボは別だ。もう無能力だのなんだのとバレているのだから。
「もー、いいだろ。すぐ作るから大人しくしとけ」
霊幻はしかめっ面しながらキッチンへ姿を消した。キッチンとは言ってもワンルームのキッチンなど作業スペースもほとんどないので、料理が億劫になるのはそのせいもある。いつぶりに使うだろうか、上の棚にしまい込んでいたまな板を取り出す。その上にさっき買ってきたきゅうりを転がし、これまたいつぶりに使うだろう包丁で薄切りにしていった。霊幻は料理をしないだけでできないわけではない。久しぶりに包丁握っても薄切りくらいわけなかった。
「なんだ、まな板も包丁もちゃんとあるじゃねえか。ほう、手つきもまあまあだな。お前さん、面倒で料理しないだけか」
一杯やってろと言ったはずなのに横からにゅっと現れたエクボがあちこち見遣って、最後にきゅうりを切る霊幻の手元で止まった。
「だって、一人分を作るなんて非効率だろ。材料余るし、料理の分の家事も増えるし」
「美味い飯屋ならたくさんあるしなァ」
「おい、今から作るのレシピ通りだからな」
まだ振る舞ってもいないのに、暗に料理の腕を甘く見られた事を霊幻は見逃さなかった。
からかわれている、と思う。
エクボは霊幻より年上で、(元の年齢は知らないが悪霊歴が長いのは確かだ)やたらとガキ扱いされるのだ。けれど嫌な気持ちにはならなかった。付き合いは短いが、エクボは人を馬鹿にしないのを知っている。むしろガキ扱いされることで霊幻は妙に肩の力が抜けることがあった。社会人ぶらなくても、大人ぶらなくてもいい、エクボといると気楽だった。
「そういうお前は料理とは無縁だよな」
「縁遠いのは確かだ。だがやったことがないわけじゃねえ」
「じゃあやってみろよ。薄切りにしたきゅうりを今度は細くしてってくれ」
人のことをとやかく言うのなら多少はできるのだろうな、という圧も込めて包丁をエクボに渡すと霊幻はその所作に目を丸くした。手つきにたどたどしさはまるで無く、トントンとリズム良くきゅうりがどんどん細切りになっていく。
「おいおい、何が縁遠いだよ。毎日やってるみたいな手つきじゃないか」
「俺様は見て覚えるタイプだからな。何事もよく観察してれば大抵のことはできるってもんよ。おら、細く切れたぞ、コレどうするんだ」
「ああ、その豆腐の上に全部乗せてくれ」
いつの間にか豆腐を乗せた皿があって、きゅうりは一本の半分ほど切ったがそれを全部乗せるとなると多いような気もする。
「多くねえか?」
「だって作り方にそう書いてあった。んで塩ダレな」
エクボが豆腐にきゅうりの細切りをこんもりと盛り付けている横で、霊幻は事前に頭に入れておいたレシピ通りに調味料を軽量スプーンできっちり計っていく。
「中華スープのペーストと、ごま油とにんにくと、えっとなんだったかな。ああ、さっき買ったレモン汁か」
霊幻は床の置きっぱなしだったスーパーのビニール袋に手を突っ込みレモン型の容器を探り当てる。
「後は砂糖を小さじ二分の一、っと」
スプーンを調味料の入った深皿の縁にあてて砂糖を落とす。カツッと小気味良い音が響いた。
「料理しねえのに軽量スプーンがあるってどういうことだよ」
「これも買っておいたんだよ」
霊幻がなんとはなしにエクボの方へ振り返ると、エクボはなんとも言えず柔らかな表情を浮かべていた。
「なんだ本当だったのか」
「家飲みの誘い? だから言っただろケチってんじゃないって」
「そりゃあそうか、わざわざ無い物買い足すくらいだし」
エクボは、そうかそうかと機嫌良さそうに霊幻の頭をくしゃくしゃに撫でた。霊体時にもあの小さな手で時々されるのと同じそれは、見た目が違っていてもやっぱりエクボなのだと分かって少し安心する。
塩ダレが出来上がれば豆腐ときゅうりの上に回しかけ、SNSでバズっていた品の完成だ。これだけではさすがに少ないので、別で買ってあった惣菜のメンチカツも温めてテーブルに並べる。
その気はなかったが、エクボが突然顔を出したことで、結局最初から最後まで二人で準備することになったのを霊幻は楽しく感じた。エクボは仕事の手伝いと同じくよく気が付き、霊幻の配膳中に調理道具はすっかり洗われていた。
「よし、じゃあ飲むか! 今日も一日お疲れさん」
「おー、お疲れ!」
小さなローテーブルを挟み缶ビールで乾杯をする。そうして二人して本日のメインである一品にようやく口をつけるとすぐに顔を見合わせ、うんうんと頷きあった。言葉を失うとはまさにこの事で、口に出さずとも分かり合える美味しさだった。
「この塩ダレうっま……、マジで店の味だ」
「あと引くものがあるな」
「隠し味の砂糖が決め手だって書いてあった」
それを確かめるためにもう一口、もう一口と箸が進む。砂糖が入っているから甘いというわけでもなく、塩味の調味料を上手くまとめてまろやかになって舌にすっと馴染むようだった。
そのせいで豆腐料理はあっという間になくなってしまって、けれどまだ食べたいと舌が疼く。
「足りねえ。おい霊幻、きゅうりまだ残ってたな。豆腐なしでいいからきゅうりを塩ダレ和えにして食おうぜ」
「ん、あ? なんて?」
エクボの問いかけに、霊幻から随分とあやふやな返事が返ってきたものだから、ふっと目を向けると、霊幻はもう酔い始めていた。
「おい、まだ十五分しか経ってねーだろ、潰れんのは早ぇぞ。もう酒は終いだ。塩ダレの追加作りにいくぞ。分量知ってるのはお前さんなんだからな」
そう言ってエクボに腕を掴まれて霊幻はキッチンに連行された。
ほんの些細な気持ちで決めた家飲みと手料理が、まさかこんな事になるなんて思ってもいなくて、酒が回った霊幻のふわふわした思考は、胸の真ん中をむずむずとくすぐった。
「エクボ、楽しいなあ」
「おーおー、これを機に自炊してしっかりした飯食え」
料理をするのが楽しいと思われたのだろう。けれど、霊幻はエクボと何かをするのが楽しいと言いたかったのだった。