狂月 一夜ノクス……ダスクとアルバの幼なじみでダスクの義兄
ラー……ダスクの婚約者、事故により死亡
カルラ……ダスクの姉、ノクスに裏切られ自殺
*
「貴方も……貴方を恨む私も……私を裏切った彼も……それでも彼を愛してる私も……全部、全部が憎い……」
そう言い残した姉の口から黒く淀んだ血が溢れ出る。その症状から自ら服毒したのは明確だった。
何故、どうして。理由を問いただしても亡骸が答えるわけがない。
再びあげることになるとは思いたくもなかった、喉が裂けるほどの慟哭は己の無力さを誇張するだけだった。
カルラの死は群れ中にすぐ知れ渡り、立て続けに起こる身内の死にダスクを憐れむ声があがるとともに、彼に不信感を抱く者も少なくはなかった。やがてダスクに関わると命を落とすという噂まで流れ、耳に入る度にアルバが一喝するが効果は表面上だけのものだ。
「でも実際、アルバさんだって肺が……」
「ッ……!それ、本気で言ってんのか?」
ヒィッとアルバが睨みつければ、蜘蛛の子を散らすように狼達は逃げていく。自分の病がダスクのせいだと?戯言でもその侮辱を許すことは到底できなかった。
「アルバ……言わせておけ……」
墓標の前で悲嘆に暮れていたダスクは立ち上がるが、丸一日水や食事が喉を通らなかったためふらりとよろめく。そんな彼の肩を咄嗟に支えたのはノクスだった。
「辛いのは俺も同じだけどさ……せめてなんか食わねーと身が持たないぞ」
「いらない……」
「そう言うなって、俺もアルバもお前のことが心配……」
「放っといてくれ!」
肩を支えるノクスの手を振りほどき、ふらつく体に鞭を打って一人になれる場所へ歩を進める。去り際、ノクスに駆け寄る小さな複数の足音と無邪気な声が耳に入った。
「ノクスにいちゃーん、あそぼー」
周りの状況を理解できておらず、暇を持て余していた子狼に母親が叱りつける。
「こらっ!ノクス君は今遊べないの!」
「ああ、いいっすよ。逆にチビらと遊んでた方が気が紛れるっつーか……」
「そ、そう?でも無理はしないでね……?」
ノクスの気立ての良さは子供達からの人気が何よりも証明していた。遠目から見ても駆けて遊ぶ様子は本当の家族のようで、周囲は微笑ましく彼らを眺めている。
しかし自分を慰め、抱くように触れるあの手に安堵することなど無く、感じたのはジリジリと焼かれるような重圧感。
「裏切られた」……死の間際に姉が残した言葉を何度も反芻し、その度に疑惑の念が膨れ上がる。何故カルラは自分を恨みながら死を選んだのか、裏切りとはなんなのか、真実を知るには違和感と向き合わなければならない。
ノクスが妻の死に、一筋の涙も見せたことが無かったからだ。
日が暮れ、風が冷たくなる前に帰路へつく。群れの大半は狩りに出ていて昼間より静けさが増していた。
「おかえり」
「……」
住処である洞窟の奥にはノクスがダスクの帰りを待っていた。
姉がいなくなった今、こうして一緒に過ごす必要はないのかもしれない。しかしこちらからわざわざ提案することもないだろうと、居住地についてはノクスの好きにさせた。結果彼はここに留まることに決めたらしい。
「果物なら食えるだろ?」
ノクスは果物よりも肉を好む。落葉樹の葉の上に並べられている果物は食が細くなった自分のために用意されたものだろう。現に今の胃に肉は受け付けない。
「……いただこう」
葡萄を房のまま持ち、口へ運ぶ。久方ぶりの水分が口内に広がり喉が鳴った。喉が乾いていたことにすら気づけないとは情けない話だ。過酷な環境で生きる上で身内の死など当たり前のことだろうに、いつまで悔やんでいるのか。
竹から作られた容器に手を伸ばす。注がれている液体を飲もうとした際、独特な匂いが鼻を掠めた。
「これは……酒か?」
「水の方がよければあるぞ」
「いや……いい……」
酒を飲んで忘れられるのならどれだけ楽だろうか。酔いにくい体であるため、入眠剤まで至らなくとも陰鬱が紛れるくらいにはなるだろう。
「ほら、酒だけじゃなくて胃になにか入れないと」
差し出されたのは切り分けられた彩りのある果実達。果物を好んで食べる者が少ないとはいえ、虫に食われていない良品を揃えるのは簡単なことではないだろう。ノクスがどれだけダスクを気遣っているのかがみてとれる。礼を言い、果実と酒を交互に口に運んだ。
「……ノクス、……姉さんとなにかあったのか」
「ん?」
酒の力を借りられたからなのか、なかなか口に出すことが出来なかった疑惑がするりと喉から出ていった。
結婚に至るまで、少なくとも一年は正式に付き合っていた二人だ。その間喧嘩らしい事などもなく、円満な関係を築いていたと記憶している。
「死に際……姉さんはお前に裏切られたと言っていた……」
「あー、」
自分が疑われているというのに、ノクスはバツを悪そうにするわけでもなく、ただ「そんなことか」とさも興味無さそうな態度を示した。
「子供が欲しいと言われて断っただけだ」
その返答にダスクは呆然とノクスを見やり、沈黙が流れる。聞き間違いだったかと耳を疑ったがいつも笑っているノクスの表情は消えていて、冗談とも受け取れない。
「そんな……じゃあ、なんで結婚したんだ……!?」
「同じことカルラも聞いてきたなあ」
まるで他人事のように呟き、ぐいっと酒を煽る。
「お前と家族になりたかったから」
真っ直ぐダスクを見るその目は、獲物を捉えた捕食者の眼だった。
「……どういう……意味だ……」
「お前の事が好きだから。好きでもない奴と交尾なんかできるかよ」
初めて聞く事実に動揺を隠せないでいると、腕に確かな熱を感じた。ノクスが目の前にいて、腕を掴まれた事にすら気づかなかった。
「カルラが自殺するとは俺も思わなかった。でもまあ……邪魔な奴が消えて損は無い」
自身に向けられた異常なまでの執着と、冷酷な発言。
「まさか……ラーが死んだのは……っ」
それにより浮上した疑念に、本人からの否定の言葉を切望した。
「お前の名前を出したら意気揚々と着いてきたっけなー。軽い体だった」
ラーの死因は、崖からの転落死だった。知っているのはその場に居合わせた自分だけのはず。
怒りと激昂に身を任せ、拳を振り上げた。相手の顔面を粉砕しても構わないと思うほどに怨みを込めた拳だったが、ノクスに届くことは無かった。
視界がぐらりと歪み、気がつけば地面の上に伏せるように倒れていた。意識ははっきりしているというのに身体は大蛇に絞められているかのように言うことを聞かない。
「ッ……なん……」
「お前が得意げに教えてくれただろ?毒草の種類や薬の作り方。酒に混ぜたら効力があがって味もなくなるの知らなかったか?知識があるのはお前だけじゃないんだぜ」
幼い頃、自分で得た知識をアルバとノクスに教えていた記憶が断片的に蘇る。
「私が憎いなら私を殺せばいいだろう……っ何故、どうして……!!」
「なんでそうなるかなぁー……俺はお前以外どうでもいいだけだ」
肩を掴まれ、うつ伏せの状態から仰向けに反転させられる。視界に入る男の顔は、最早知り親しんだノクスではなかった。
「それなのによー……ダスクはどうでもいい奴ばっか見て、隣に立とうとお前は俺を見ようとしない」
この場から逃げられないという自信があるのだろう。ノクスはダスクから目を離すと、ひとつの果実を手に取った。
「俺が今一番殺したいのは誰だか分かるか?ガキの頃から俺たちにべったりで、人の気も知らず尻尾を振っちゃ緩みきった間抜け面……なのにお前はいつもアルバ、アルバアルバと……!!」
熟れているとはいえ、それなりの固さと質量のある果実をノクスはいとも簡単に握り潰した。崩壊した果実の影に親友が重なり、背筋が凍りつく。
「や、やめろ……アルバは……お前を信頼しているんだぞ……っ!」
「ああ、だから殺しやすいだろうなあ」
ラーのように。と、わざわざ言われなくても理解出来る。警戒心の強かった彼女は信頼していたお前だからこそ簡単に殺せたのだから。
「お前のことは、友としてちゃんと見てきた…!狩りに優れ、仲間に信頼されているお前に心配の余地がどこにある?アルバの境遇を重んじて当然だろう…!」
「俺が今聞きたいのはそれじゃない」
今までにない低い声音にびくりと体が慄く。弁解など全て言い訳にすぎず、聞く気など微塵も無いと眼光が代弁する。
「何が……望みなんだ……っ」
「生娘じゃあるまいし、言葉にしなくても分かるだろ?」
甘い匂いのする手が自身の頬に触れ、指が喉を滑り落ちる。
恐怖が身体中を血液のように巡った。私利私欲のために簡単に仲間を殺し、素知らぬ顔でダスクを慰め、手中に収めようとするノクスに。
凶行を繰り返そうと画策するこの男に、ろくに動かない体で拒否することなどできるはずもなかった。