【さとあす】桜吹雪の下の恋人 春である。
満開の桜の下、都心の憩いの場たる公園では、ブルーシートを並べた上にビールケースの机を並べた古式ゆかしい花見が行われている。それはもう、あっちでもこっちでも。
そのあっちこっちの一角では、バビル出版の面々も飲めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
発案者の社長は、あれやこれやの差し入れを持ってきて、乾杯の合図だけすると秘書を連れてスマートに去った。あとは編集者達と、招かれた作家たちが無礼講。
――そんな宴会の空気が、排水口の掃除の次くらいには嫌いな有栖がなぜノコノコと顔を出しに来たかと言えば、他でも無い、入間に誘われたからである。
しかし当の入間はといえば、他にも数人抱えているらしい担当作家やら編集長やらの相手に忙しく、なかなか有栖の横に座ってくれない。
かといって他に顔見知りもいない。初対面の相手とすぐに打ち解けて酒を飲めるような社交術も身につけていない。自然、有栖は少しずつ人の輪の外へ外へと移動していく。
結果、入間も他の相手へ挨拶する合間に有栖の相手もする、という器用なことはやりづらくなり、有栖のそばに居られる時間が無くなっていくのだが、有栖はそれに気付かない。
――来るのでは無かったな……
乾杯で渡された生ビールのグラスの底に残った、すっかり気の抜けた黄金色をチビチビと舐めながら、有栖はほう、と溜息を吐いた。
その視線の先では入間が、上司と思しき男性の酌を受けている。普段一緒に食事に行っても、グラスワインを一杯飲むか飲まないかの入間が、上司の酌は断れないのか、随分と飲んでいるらしい。
――時代遅れな――
入間の体調を慮りながら、あまりに度が過ぎるようなら止めに入らねば、或いはそのまま彼を攫って帰ってしまおうか、などと有栖が夢想していると。
不意に、入間と目が合った。
じっと見ていたのがバレるのが恥ずかしくて、思わずすぐに視線を逸らす。だから、有栖は見逃してしまった。
明らかにいつもと違う様子の、入間の表情を。
「有栖」
唐突に。
あまりにも唐突に背後から耳元で囁かれ、有栖の尻は十センチほど空を飛んだ。
有栖、と有栖を呼ぶのは、母親だけである。しかも、とびきり怒っているときの。反射的に身が竦み、はいっ、と畏まった声で答える。しかし、先程聞こえた声は明らかに母のものではなかった。
それは低い、囁くような男の声だ。
誰だ、と数瞬の後ようやく思考がそこにたどり着く。それとほぼ同時、ぽん、と両肩に誰かの手が触れる。ひゃあ、と情けない悲鳴が喉の奥からまろび出そうになるのを何とか堪え、ようとしたが無理だった。
「っ、ふはは、そんなにビビるなよ」
声と共に、肩に置かれた手が離れていく。自由になった肩を水平方向にぐるりと回して振り向くと。
「入、間、くん……?」
入間がいた。
片手にビールの注がれたプラカップを持ち、ケラケラと彼らしからぬ快活で大胆な――それでいてどこか乱暴な――笑顔を浮かべている。普段の、ぽやっとした柔和な様子は面影も無い。堂々と胸を張って、いつも着ているカーディガンを、袖を通さず肩に掛けている様子はどこか、一昔、いや、二昔前の「番長」スタイルを彷彿とさせる。
「なっ、何……?!」
「有栖が寂しそうにこっち見てたからさ」
今度こそ聞き間違いでなく、入間ははっきりと有栖の名前を呼んだ。どころか、それに飽き足らず、すっとその眼差しを細めて、流し目でも送るような仕草で有栖の顔を下から覗き込んで来たかと思うと、その手が有栖の頬に触れる。まるで恋人同士が睦み合うような距離で、頬を撫でられ、顎に指を掛けられるに至り、有栖のキャパシティは限界を超えた。
「なっ……何をっ」
する、と有栖が最後まで言い切るよりも早く。
ゆらり、と入間が有栖の方へと傾ぐ。
「ッ?!」
唇が触れてしまう、と、反射的に目を瞑る。
が、次の瞬間、どさりと重たい衝撃とともに、肩口がずっしり重くなった。慌ててその重さを腕に受け止めながら目を開けると。
そこには、すいよすいよと寝息を立てる入間の穏やかな寝顔があった。
「――はぁっ?!」
有栖が思わず、万感の思いを込めた声を上げると、周囲の視線が一瞬有栖達へと集まった。一瞬の沈黙が落ちる。
「あっ、明日ノ宮……先生……」
見知らぬ編集者らしき男の一人が、佐藤の馬鹿なんてことを、とでも言いたげな渋面で、額に冷や汗を浮かべながら、有栖の機嫌を伺うように震える声で有栖の名を呼ぶ。
有栖は一つ溜め息を吐くと、入間を支えながら立ち上が――ろうとした、が、いくら入間が小柄だといっても、完全に眠り込んだ成人男性をひょいとスマートに持ち上げられるだけの筋力など、引きこもりの小説家にあるわけもなく、諦めた。
「……誰か、タクシーの手配を。彼を連れて帰ります」
ひゃい、と誰かが懐から慌てて携帯電話を取り出すのを視界の端に認めて、ひとまずそれでよしとする。
「今後、彼にはあまり酒を飲ませない方が良いでしょうね」
入間に頻りに飲ませていた男の方へ視線を遣って小言を言ってやると、「そうみたいだねぇ、いやあすまないすまない」と呑気な返事が返ってきた。有栖に臆さないところを見ると、偉いのだろう。そう言えば一度紹介されたことがあった気がした。編集長だったか。億劫になって、有栖はそれ以上文句を言うのを止めた。
そらから暫くしてタクシーがやってくると、えっちらおっちらと入間を背負い、タクシーの後部座席へと押し込み、自分も隣に乗り込む。すみませんでしたぁ、と頭を下げる編集者たちに見送られながら、桜色に包まれた公園を後にした。
「……キミは……酔うと、『ああ』なるのか……」
タクシーの後部座席で、有栖の膝に頭を預けて――有栖がそうなるように乗せたのだが――むにゃむにゃとなんだか幸せそうに口をもぐもぐさせている入間の頭をここぞとばかりに撫でてやりながら、有栖はぽつりと呟いた。
耳の奥に、先ほどの入間の声がまだ残っているような気がする。入間の青みがかった髪には、桜の花びらが数枚羽休めをしていた。