夜が明ける「お前、ちゃんと寝てないだろう?」
「……寝てるよ?」
艦内の照明が夜間に切り替えられ、少し薄暗いミレニアム。その自室で、こっそりキーボードを叩いていたキラの背に、不機嫌そうな声がかかる。
振り返れば入室なんて許可してないのに、当たり前のように勝手にロックを解除したアスラン・ザラが今からお説教しますよと言わんばかりのしかめっ面で仁王立ちしている。
「何時間?」
「…………そんなの、いちいち覚えてないよ」
「昨夜は何時に寝て、何時に起きた?」
答えたくない。と言うより答えられないキラはそっと視線を逸らし、どうすればこの執拗な幼馴染の尋問から逃れられるか必死に考えてた。口ではおそらく勝てない。物理的に逃走……ダメだ。退路を断たれている。……もしかして、詰んだ?キラの背中に冷や汗と絶望が走る。
「キーラ?」
「……零時には布団に入ったよ」
にこやかに圧をかけてくるアスランから頑張って目を逸らし、キラは何とか悪あがきをしてみるけど、アスランは眉間のシワを深くするだけだった。
「だけど、寝付けなかったのか?」
「……だって」
黙秘権を行使したい。だけどアスランが物理的に距離を詰め、座っていた椅子にキラを押し付けるように肩を押さえてるので動けない。
あ、PCの電源切られた。ちゃんと保存してくれてたから良いけど。勝手にそういうことするの良くないと思う。そんなことを考えて現実逃避をしているキラの顔を掴んで、アスランが無理やり目線を合わせてくる。
「だって、何?」
笑ってるけど、目が笑ってないよ、アスラン。正直に話すまで絶対に放さないと言う雰囲気のアスランに、キラが渋々と口を開く。
「…………だって、怖い夢、見るし。それで起きちゃうし。……ちゃんと布団で、横になってるし、ちゃんと寝てるもん」
「それは寝てるって言わないぞ?……それで、どんな夢見るんだ?」
「……それは」
どうせ通用しないと思ってたキラの屁理屈はあっさり流されて、アスランに問いただされる。
思い出したくもない悪夢を、わざわざ口に出したくなんてない。でもアスランは他人の機微に疎いから、何がなんでも言わせようとするだろう。
キラはため息をついて、色々なことを諦めた。
「黙ってちゃわかんないだろ?キラ?」
「…………僕が、殺した人達が、守れなかった人達が、こっちに来いって。……血がいっぱいで、ドロドロした地面に、僕のこと引きずり込もうとして来るんだ。……本当は、僕も早くそっちに行ったほうが良いんだろうけど」
俯いたキラは死だけを見詰めている。今度はアスランがため息をつく番だった。
「お前が死んだって、お前が殺した人間は生き返らないぞ?」
「……そうだね」
「生きて、戦うことを選んだんだろう?俺も、お前も」
「……うん、それはそうなんだけど」
「戦い続けるには補給と整備が重要だ。人間の補給は食事で、整備は睡眠だ。お前だってわかってるんだろう?」
「……うん」
アスランが言っていることは正論だ。でも、いつだって人を動かすのは正論じゃない。
キラだって、出来るならそうしている。それが出来ないから困ってるんじゃないか。みんながみんなアスランみたいに優秀なわけがない。
そう思ってふてくされているキラの頭を乱暴に撫でると、アスランはキラを引っ張って無理矢理立たせる。
「じゃあほら、寝るぞ。お前が自分で整備出来ないなら、俺が代わりにやってやる」
「え?ちょっとアスラン!?」
勝手にベルトを外して制服を脱がして来るアスランに、キラはろくな抵抗も出来ずに服をむかれ、サイドチェストにあった部屋着を投げつけられる。
「一緒に寝てやるから。だからちょっとでも寝ろ」
「君がいたって変わんないだろ?夢なんだから」
アスランしかいない自室とはいえ、いつまでも下着姿でいる訳にもいかず、仕方なくキラが投げつけられた部屋着に着替える。すると、上着を脱いで襟を緩めたアスランにベッドの方に押しやられる。
「夢の中だろうが何処だろうが助けに行ってやる。だから寝ろ」
無理矢理押し込められた布団の中でアスランに抱き込まれて、逃げようのないキラはゆっくりと背中を撫でられながら身をよじる。
「……アスラン。こんなことしても無駄だよ」
「いいから、お前は黙って目をつぶってろ」
アスランにぽんぽんと背中を叩かれているうちに、キラもうとうとし始めてまぶたが落ちる。よく知っている匂いと体温は無条件にキラを安心させてしまう。コペルニクスにいたあの頃のように。
しばらくしてキラが寝息を立てているのを確認したアスランは電気を消して自分も目を閉じた。
あたたかなちょうどいい抱き枕に、自分もよく眠れそうだと焦げ茶の髪に顔を埋めた。
ぴちゃり、と粘りのある水音がする。
粘度の高い赤黒い液体、血溜まりの上に立ったキラが僅かに動くだけで、血臭と波紋が周囲に広がる。
鉄錆の匂いが満ちた、不気味で寂しい場所に誰かの骨や肉片が浮かんでいる。
自分にはここがお似合いだ。
キラはそうこらえるように拳を握り、孤独を噛み締めた。
「キラ。おいで」
いつもは自分と死者しかいないここに、アスランが立ってキラに手を差し伸べる。
「アスラン……。でも……」
キラが自分の両手に目をやれば、拭っても拭いきれない血がべっとりとこびりついている。こんな血塗れの手じゃあ、誰の手も握れない。そう躊躇しているキラにアスランは再び声をかける。
「キラ、よく見ろ。俺も同じだ」
差し出されたアスランの手もキラと同じか、それ以上に血で汚れている。銃でもナイフでも戦えるアスランの方が、浴びている返り血が多い。よく見れば服にも顔にも血が飛んでいる。
「ほら、行くぞ。キラ」
自身も血溜まりに立ちながら、アスランがキラに向かって優しく笑う。地獄に似つかわしくない穏やかな表情だ。時折アスランに伸ばされる亡者の手を、骨を、彼は視線もやることも無く無造作に蹴り払っている。
「でも……」
名前も知らないザフト軍人がキラの足首を掴み、ヘリオポリスの民間人にふくらはぎを掴まれる。ファウンデーションで死んだ地球連邦軍も、モスクワの一般人もいる。
それらを振り払って前に進むことは、キラには難しくて、黙って目を伏せた。
「俺だって人殺しだし、罪人の息子だ。今だって人を殺してるし、これからも殺す。お前は、俺も死ぬべきだと思うか?」
「そんなこと!」
そんなことを思ったこともない。
アスランや、シンに、ルナマリアに、アグネス。ムウさんにマリューさん、イザークにディアッカ、バルトフェルドさん。他にも何人もの軍人を、人を殺している人達をキラは知っている。
コンパスだって、言い方を変えれば人殺しの集団だ。
でも、その人達が死ぬべきだと思ったことなんて一度もない。
「俺もだよ。お前に死んで欲しいなんて、思ったことも無い。一度殺そうとしておいて、説得力ないかもしれないけど」
「……それは」
それはお互い様だ。仕方なかった。あの時はああするしかなかった。キラもアスランもそんなことはわかっている。
恨んでも、憎んでもいない。もうとっくに許している。
だけど、いざとなったら自分は兄弟のように育った親友でも殺せる。あんなに仲良かった親友だって、理由があれば自分を殺そうとする。
それは抜けない棘となって、キラの心の隅の方にずっと刺さっている。
「あの時だって、お前に死んで欲しかったわけじゃないんだ。自分で殺しておいて、あれだけど。お前を殺すしかないって、そうするしかないって思って、実際に殺した。だけど、死んで欲しかったわけじゃない。わかるだろ?お前だってそうだったはずだ」
「アスラン。でも……」
その通りだ。アスランを殺すことも、アスランに殺されることも、本当はないって思ってた。だからイージスに組み付かれても、まさか自爆するなんて思わなかった。そこまでするとは思わなかった。
アスランを殺したかったことも、アスランが死んでもいいと思ったことも、ましてやアスランが死んだ方がいいなんて考えたことなんて一度もない。
アスランだけじゃなくて、キラは誰かを殺したかったことも、死んで欲しかったことも一度もない。
だからこそ、今、こうして動けなくなってしまっているんじゃないか。
自分の罪に対する罰を受けなければならない。いっそ裁かれて楽になりたい。そんな想いでキラは視線を逸らした。
アスランの手を取って、自分だけ助けて貰ってしまうのは、なんだかとてもずるい気がした。
「キラ、いいから早くこっちに来い!今度こそ俺の手を取れ。……取ってくれ」
「……っ!」
いつものように居丈高に叫ぶアスランの語尾がかすれる。言うことを聞かないキラにしかめるアスランの顔は、キラには寂しそうで、辛そうで、泣き出す一歩手前に見えた。
アスランが泣いちゃう。
そう思ったら、しがみついてくる無数の手を振り払って、走り出していた。
血溜まりを靴底で跳ね上げ、凝固しかけた血に足を取られそうになっても、端正な顔を歪めて、泣き出しそうになってるアスランの。傷だらけで孤独に立っているアスランの。それでもキラに伸ばしてくれている手を掴まなくてはとキラは走る。
あの時は掴めなかったアスランの手を、今なら掴める。
誰かの亡骸を、想いを踏み潰してでも、アスランの元に駆け寄る方が大事だった。
「……アスラン!」
差し出された血塗れの手を、同じく血塗れの両手で握り締めた。お互いの返り血が混ざり合って、もう、どちらの汚れかわからない。
「キラ」
引き寄せられて、抱きしめられる。背中にも髪にもアスランの手から血が移る。自分の汚れが増えても気にならなかった。
「アスラン」
その背中に手を回す。自分がその背を汚してしまっても構わなかった。
血の匂いに慣れ過ぎた鼻が馬鹿になって、アスランの匂いしかわからなくなる。
罪も、後悔も、傷も、なくなるわけではないけれど。同じものを抱えて一緒に歩いてくれる人がいるなら、それは生きる理由になり得る。
いつだって守ってくれて、どこにいたって助けに来てくれる。一緒に汚れて、戦ってくれる。そんなアスランを、ただ自分がその手を取るだけで助けられるなら、キラは何度でもその手を選ぶだろう。
結局自分は、自分の大切な人を守りたくて、側にいたいだけなんだ。
例えそれで、知らない誰かが不幸になっても、自分の大事な人を優先してしまう。
それは罪深いことだし、許されないことなのかもしれない。だけど、誰だってそうなんだとあらためて思った。
「本当に夢の中まで助けに来てくれて、ありがとう」
縋るようにアスランに抱き着いたキラは、その胸板に涙を吸わせた。
「よく眠ってたな?」
目が覚めて、真っ先にキラの目に入ったのはアスランの顔だ。そのしたり顔に苛立ちを覚えたキラは、思わずその顔面に拳を叩き込む。
しかし、寝起きの拳はアスランの手で難なく受け止められて、キラは頬を膨らませた。
「ふふふ、お前、フグみたいになってるぞ?」
むくれてるキラの頬をアスランに楽しそうに突いて来るから、キラは苛立たしげにそれを振り払う。
「やめてよ、もう」
「はは、悪い、悪い。ふふふ」
こっちは怒っているのに、それすら楽しそうにしてるアスランに、キラは馬鹿にされてるようでますます機嫌が悪くなった。
だけど、アスランが珍しく声まで上げて笑ってるから、なんだか毒気を抜かれてしまった。
「もういいよ。確かによく眠れたから。……ちょっと悔しいけど」
「そうだろう?今夜も一緒に寝るからな?」
「はいはい」
どうせすぐにどっかに行っちゃう癖に。君がいなきゃ本当に眠れなくなっちゃったらどうしてくれる。そう思って、少しの不安と苛立ちと、そしてそれ以上の安堵を抱えてキラが洗面所で顔を洗う。
鏡に映る自分が、昨日より明らかに顔色が良いことに苦笑しかない。
いつもの一人部屋に、家族より近い他人の気配を感じながら、窓の無い戦艦の一室で夜が明けた。