熱闘 アップテンポなBGMに競技内容を知らせるアナウンス、声援、歓声、それから時々のヤジ。ありとあらゆる音から逃げるように校庭を後にし、校舎に戻る。生徒玄関でスニーカーを脱ぎ、1組、2組、3組と規則的に教室がずらりと並ぶ廊下を足早に通り過ぎた。
教室を横目で見れば、自身が在籍するクラスと同様にどの教室にも『一致団結』や『絶対優勝』等の言葉と共に流行りのキャラクターが色とりどりのチョークで黒板に描かれていた。
にぎやかなそれらは朝から晩まで参考書や過去問と向き合う日々を送る学生にとって、今日が珍しく羽目を外せる一大イベントであることを語っていた。
衝動のままに廊下を突き進み、一番端の階段を上る。登り切った先にある渡り廊下をこえて実験室や音楽室のある実習等へ。喧騒から少しでも離れたくて、グラウンドから一番遠い場所へと逃げた先にあったのは、最上階にある図書室だった。閉室中と書かれた立て札を無視してそろそろと引き戸を開いた。
開いていろとの願いが叶ったのか鍵はかかっていなかった。後ろ手で扉を閉めて奥へと進む。ここで本でも読めばこのざわざわと波立った気持ちも落ち着くはずだ。
深く息を吸えば、図書室特有の古い紙の匂いがした。足音を抑えるためにだろうか。他の教室と異なりカーペットが張られた床には窓から差し込む陽光がちらちらと揺れている。さすがにここまでは喧騒は届かない。どこまでも静かな環境にいつの間にか詰めていた息を吐きだした。
そんな静謐な空間に歪みが生じたのは、閲覧用のスペースを越え、書架に差し掛かったところだった。
コトン、と何かがぶつかる音がして心臓が跳ねた。ここには音を立てるものなど自分しかいないはずだというのに。床ばかり眺めていた顔を上げる。
視線の先には本棚にキャスターが付いたカートのようなものに積まれたたくさんの本。そしてその先には階段状の脚立に登った青年の姿があった。
ばちりとお互いにしっかりと視線が合った。青年の黒い瞳が驚きで大きく見開かれる。
お互い言葉もなくしばし見つめあう。急に現れた闖入者に言葉が出ないのだ。たぶん彼もそうなのだろうし、もっと言えば自分の方が闖入者だと言えるのだが……
青年は白い長袖のカッターシャツ。黒地に細いグレーのチェックの入ったスラックスを身にまとっていた。赤いネクタイから同じ2年生だということも分かる。いや、そんなことを推理する前から彼のことは知っていた。
ニコラス・D・ウルフウッド。昨年の秋に転入してきた稀有な青年だ。
中高一貫校の本校では高校からの入学生の数自体が少ない。全体の1割にも満たないほどだ。それが1年生の秋からの転入となれば異例中の異例といえ、非日常を求める学生たちにとっては大きなニュースとなった。
転入できるほどだから成績も家柄もそれなりに良いのだろう。そういうことを売りにした学校なのだから。
彼の独特のなまりやサングラスをかけた見た目から数々の噂がたった。例えば、どこかの財閥の隠し子だとか、暴力沙汰で系列校から追い出されてやってきたのだとか。
目を合わすとカツアゲされる。ふらりといなくなるのはサボって煙草を吸っているからだ等々。いい噂はひとつとしてく聞かず、とりあず近づいてはいけないというのが暗黙の了解のようになっていた。
「なしてここに」
驚いたウルフウッドが身を乗り出した拍子にぐらりと体勢を崩す。ステップを踏み外した彼に駆け寄って背後から抱きとめた。噂の様な煙草の臭いはひとつもしなくて、石鹸のような爽やかで優しい香りがした。
自分と同じくらいの背丈があるはずなのに何故だか胸にぴったりと収まった青年に首をかしげる。
密着した個所から伝わる自分より高い体温とトコトコと聞こえる早い脈拍が、昔動物園のふれあいコーナーで抱かせてもらった小さな生き物のことを思い出した。
「ええかげん離してくれんか」
胸の中でウルフウッドがもがいた。こんなところも似ているなと、脇に手を入れてゆっくりと足を床に下ろしてやる。
「け、怪我はない?」
「あらへん。オドレは?」
「ないよ。ごめん。びっくりさせた」
「別に。怪我してへんしワイも、オドレも」
思いがけずウルフウッドの口調が優しかったのでほっとした。
ウルフウッドはバランスを崩した時に床に落としてしまった本を拾い上げ、優しく撫でるとカートに置き直した。彼は噂の様な悪い男ではない。この短い時間の中で何故だか僕はそう確信した。
「ほんで、なんでここにおんねん。閉室の札出しとったはずや。本を探しに来たってわけでもないやろ? それに今体育祭中や」
彼の矢継ぎ早な指摘にたじろぐ。悪事を働いている自覚はあった。
「ごめん。本を探しにしたわけじゃないんだ。ちょっと静かなところにいたくて」
僕が慌てて弁明すれば、「せやろな」とウルフウッドは笑った。
「ここでいっぺんも見たことあらへん。まぁ、人なんぞこうへんけど」
もう一度脚立を登って今度は無事、本を返したウルフウッドが言う。彼は話しながらも仕事の手を止めることはない。
彼の言葉通り図書室に人が来ないことを読書と縁のない僕でも知っていた。学校の隣に市立の図書館が新設されたのだ。数年前にできた図書館はカフェが併設されていて飲食しながら本を読めることが売りのおしゃれな建物だ。蔵書数もここより遥かに多く、なおかつ広い自習室まで完備されているとなれば図書室に足を運ぶものはほとんどいないのも当たり前のことだった。
「早い話サボりやな」
新しい本を手に取ってウルフウッドが言う。
「ウルフウッド、お前こそどうなのさ?」
僕の問いかけに彼はにんまりと笑ってこれまたカートに載せていた紙を僕の目の前に突き付けた。
体育祭参加免除の一文とその代わりに図書室の蔵書点検を任ずるとの一文が記載されている。横には司書教諭と担任、学年主任の署名もあった。
続けて彼は免除された理由も教えてくれた。太陽光が苦手らしく、長時間外にいると目や頭が痛むとのとのことだった。
「だからサングラスかけてたのか」
ようやく普段彼がサングラスを身にまとっていた理由が分かった。ファッションではなかったらしい。今は室内のため外されているが胸ポケットにはいつも彼が身に着けている色の濃いスクエア型のサングラスがお守りのようにしまわれている。
「なんや、オドレもワイのことチンピラやと思った口か」
ぎくりとした。確かに噂を鵜呑みにしていたことは否定できない。そもそも彼を深く知ろうとしなかったともいえた。
「なんで、否定しないの?」
「聞かれんかったからな。言いたいやつには言わせとったらええ。他にも聞きたいことあったらこたえたるで」
しゃがみ込んで一番低い段に本を戻しながらウルフウッドはこちらを見ることなく言った。僕は少し考えてから気になっていたことを尋ねることにした。
「途中で転校してきた理由は?」
「親の都合で海外におったんや。ここと向こうやと入学時期が違うやろ? せやから変な時期に転入してきたっちうわけや」
「でもなんでこの学校へ?」
「面接みたいなこと聞くやん」
ツッコむ声にはからかいの色が混じっている。
「ごめん。でもお前のことが知りたくて」
「おとんの母校やったから……」
やりとりを続けるうちにいつの間に三段あるカートの一段目は空になっていた。
「そろそろ質問タイムは終わりでええか」
ウルフウッドはおおきく伸びをしてこちらに向き直った。出会って以来視線が絡まるのは二度目の事だった。
「うん。そいえば聞いてばっかりだったね。僕は」
彼に質問を投げつけるばかりで名乗ってさえいなかったと反省する。文系と理系では合同授業もない。僕は彼を知っているけど彼はそうでないはずだ。
「知っとる。ヴァッシュ・セイブレムやろ。理系特進の。知らんやつはおらへんで。世界のセブレムグループの御曹司で双子の弟。勉強もスポーツもできる優しい奴なんやろ。よう女子に追いかけられとる。ワイから言わせればきっしょい笑い方する男や」
「けっこう口悪いね君」
そんな風に言われるのは慣れていた。羨望やら嫉妬やらいろんな視線から逃れたくてここにきたことを思い出す。
いつも道りへらりと笑えば彼は怒ったように眉をひそめて僕の肩を小突いた。
「その顔やその顔。おもんない時は笑わんでええし怒る時は怒れや。今、ワイごっつ失礼なこと言うたで?」
彼の言葉に吊り上げていた口角がゆがむ。虚をつかれるとはこういうことをいうのだろうか。自分でも薄々と勘づいていたことをまさか正面切って指摘されるとは思わなかった。多分、今僕は凄く変な顔をしているという自覚があった。片手で顔を覆う。
込み上げるおかしさに気づけば声を上げて笑っていた。
可笑しくてたまらない。誰もが僕に近づくふりをして、実際には遠巻きに取り囲んでいるだけだったというのにウルフウッドときたら!
ひとしきり笑って彼に向き直る。ウルフウッドは焦ったような顔でこちらを見ていた。
「オドレ悲しいと笑えてくるタイプか?」
「ちがうよ。なんだか嬉しくて」
僕の言葉に彼はますます困惑した表情を浮かべる。
「こんな風に僕のことを怒ってくれる人がいることが嬉しいんだ。ありがとう指摘してくれて」
お礼を言って頭を下げる。
「変な奴」
照れてぷいとそっぽを向いた彼のことが僕はもっと知りたくて手伝いを申し出た。
「ワイは遠慮せぇへんで」
調子を取り戻した彼は、ブックトラック(さっそくカートの名称を教えてもらった)から取り出した本を数冊僕の方へ押し付けて言った。
本はテーマごとに分類分けされ、返すべき場所が定まっているのだという。背面のラベルを指差してウルフウッドはひとつひとつ丁寧に説明してくれた。なんとなく授業で習ったような気もするけれど方程式やら化学式に追われていた僕の頭にはとても新鮮で聞き入ってしまう。
「ほな、残り片付けてしまうか」
彼の言葉に頷いて、気合いを入れようと腕まくりをする。彼の視線が左手に注がれているのが分かった。理由はすぐ分かる。普段は隠している傷跡に驚いたのだろう。でもそれを彼が指摘することはなかった。
「やる気満々やん。ワイもがんばろか」
そう言って彼もシャツの袖をまくり上げた。他の部分よりも色素の薄い滑らかな肌に包まれた上腕二頭筋がちらりと見える。何故だか無性に触れてみたくなった。やわらかいのか硬いのか確かめたい。
突如浮かんだ不埒な考えを追い出そうとカートに目をやった。まだ二段にわたって本が残っている。
「返す本って沢山あるんだね。意外と借りられてるんだ」
「返却もないわけやないけどほとんど補修や」
「壊れた本を直すの? 買い替えるんじゃなくて?」
「直せばまだ読めるやろ? それにもう出回ってないのもようさんあるんや」
図書室の隅に追いやられていた古くページが取れてしまった本や背表紙が破れてしまった本を少しずつ修繕しているのだとウルフウッドは説明してくれた。
「これ見てみ、ワイらが産まれるずっと前からある本や」
ウルフウッドはおもむろにブックトラックに並んでいた本を手に取った。箔押しされたタイトルは僕でも耳にしたことがある有名なものだった。背表紙がうテープで補修されていて、なかなかに年季を感じる代物だ。奥付を彼が開く。そこには僕達が産まれるよりも数十年前に印刷されたことが記されていた。
「なんか凄いやろ? 今までもごっつ人に読まれて、ほんでこれから先も読まれていくん」
生き生きとした様子でウルフウッドは語る。
「ロマンを感じるね」
微笑んで告げれば、彼は自分が熱く語っていたことに気付いたのだろう頬を染めて小さな声でおんと応えた。
僕達は他に人がいないことをいいことにおしゃべりをしながら本を一冊ずつ片付けた。授業の話や趣味の話、進路の話。いつまでたっても話は尽きず、話題より先にブックトラックの本が空になってしまった。
片付いたということは別れの時間が迫っているということだ。とにかく僕はこの空間に、彼といっしょにいたくてひとつお願いをすることにした。
「せっかくだしウルフウッドのおすすめの本を教えてよ」
僕の言葉に嬉しそうにウルフウッドは目を細めると、座って待っとれと指示を出して書架の間に消えていった。
いったい彼はどんな本を進めるのだろうか? ミステリ? SF? それともラブストーリー? どれもしっくりくる気がしたし、どれもしっくりこない気もして彼の理解が足りていないともどかしくなった。
ほどなくしてウルフウッドが持ってきたのは僕の予想のどれにも当てはまらなかった。本の種類からしてそうだ。彼はハードカバーの本でも文庫でもなくそれよりも何周りもある大きな本を抱えていた。
僕の隣の席に腰かけかけたウルフウッドは持ってきたそれを僕達の間に置いた。砂浜が透けて見えるほどの透明な海が表紙だ。
「写真集?」
ウルフウッドはこくんと頷いた。
「オドレいろんな国を旅したいってさっき話しとったやろ? なんや行き先の参考になるかと思って」
先ほどの雑談を思い出す。いつか世界を旅したいと語った僕の話を覚えてくれていたことが嬉しかった。
目次を開けば、いくつもの国と地名が記されている。
ひとつひとつページをめくりながらコメントを出し合った。ジャングルの写真では木がいっぱいだなと見たまんまのことを話し、ペンギンの群れの写真に触り心地はどうかと答えの分からない議論をした。
「写真でこんなに綺麗だったら本物はもっと凄いんだろうな」
「それを確かめに行くのがオドレのこれからだろ?」
僕の言葉に彼は笑って言った。ほんのりと口角を上げただけのその笑顔が眩しくてむずむずとした何かが身体を駆ける。恋に落ちるなんてことに僕は一生縁がないと思ってきたけれどきっと今がそうなのだと僕は確信した。
「なぁ、僕、お前と一緒に旅がしたい」
「なんで」
不思議そうに彼が言う。もっともな反応だった。今日知り合ったばかりの人間からの誘いなど怪しんで当たり前だ。
「君のそばなら本当に笑える気がするんだ。だから隣にいてほしいなって」
「なんや小説みたいな台詞やな」
「冗談じゃないよ。僕の本心だ」
本に添えらえた彼の手に自分のそれを重ねて告げる。
ウルフウッドは僕の顔と手を何度か交互に見た。そうして深い溜息をひとつ。
「考えとく」
僕の右手で覆われた彼の小指が僕の親指をなぞった。それが応えだった。
チャイムが鳴って僕たちはびくりと肩を震わせて時計を見た。そろそろ体育祭も佳境だ。
「ワイはそれそろ帰るで。オドレは戻り」
椅子から立ち上がると貸出カウンターに置かれていた学校指定のスクールバッグを肩にかけながらウルフウッドが言う。
「ホームルームに出ないの?」
「不良やさかい」
ニヤリと笑って彼は言った。
「僕も一緒に帰る」
「アカン。気ぃ晴れたやろ? 戻り」
「まだ話したいのに」
あからさまに落ち込んでいますと項垂れれば、なだめるようにポンポンと頭を叩かれた。
「休み時間はだいたいここにおるからまた来たらええ」
「来てもいいの!!?」
「おしゃべりにちゃうで。本借りにな」
「分かった」
約束だからを念を押して僕たちは図書室の前で別れた。
足取りは軽い。
「探している本がある」
とそう告げてカウンターに座るウルフウッドに話しかける未来を想像するだけで頬が緩む。
なぞられた親指はずっと熱を持ったままだ。
グランドからはひときわ大きな歓声が聞こえた。ピーと勝敗を告げるホイッスルが鳴る。
どこかのクラスが優勝したのだろうが知ったこっちゃない。
多分この学校で今一番浮かれているのはこの僕だ。