風邪をひいた受けを看病する話「えっ、ウルフウッドが熱だしたって?」
起き抜けにもたらされた思いもよらないニュースに僕は驚いて素っ頓狂な声を上げた。そういえばダイナーにウルフウッドの姿がない。焦ってきょろきょろと店内を見渡せば、メリルに袖を引かれ窘められた。
「ヴァッシュさん、声が大きいですわよ。お静かに」
彼女の言う通りだ。急いで「ごめん、びっくりしちゃって……」と声を潜めて謝った。朝食の手を止め、または新聞の文字を追うのをやめてこちらを迷惑そうに睨むいくつかの視線に謝罪の笑みを浮かべて、ぺこぺこと頭を下げながら記者の二人が座るテーブルに僕もまた腰を下ろした。
「どういうこと? あんなに頑丈そうなのに?」
昼間の灼熱の砂漠でも、凍えるような夜でもシャツとジャケット一枚で過ごすような男だ。体調不良の姿が想像できなくて、隣に座るロベルトに説明を求める。
「それは俺も思ったんだが熱があるのは間違いない。実際に確かめたからな」
ロベルト曰く、僕よりも少し前にダイナーへとやってきたウルフウッドはどこか気だるげで普段よりもずっと口数が少なかったらしい。今日の予定を伝えても心ここにあらずと言う感じで焦点の定まっていない目でどこか遠くを眺めていたという。
おまけに注文したモーニングセットも一口食べただけで首を振り「もう、いらん。トンガリに食うてもらう」と皿をロベルトに押し付けたのだとメリルが補足した。普段なら僕やロベルトのベーコンや卵を狙うというのにだ。
普段からかけ離れた様子に不信感を抱いたロベルトがウルフウッドの額に触れるとかなりの熱を持っていたため、今すぐ休めと部屋に返したのだという。
反論せずにのろのろと客室へと帰って行ったところを見るに体調がすこぶる悪いのではないかと記者二人は推測した。
「風邪でしょうか? 心配ですわ」
客室へと続く階段を心配そうに見つめながらメリルが言う。
彼らは向かいのワンランク上のホテルに部屋を取っている関係で、一階にあるこのダイナー以外は立ち入ることができないのだ。
「僕が様子を見てくるよ」
ウルフウッドと同じこのホテルに泊まっている僕が看病役に適任だと自ら申し出る。
ふたりには隠しているが僕とウルフウッドは恋人同士なのだ。辛い時には傍にいてあげたい。
そもそも、隣室の自分に助けを求めてくれたっていいのにと肩を落とす。信用されていないのかなんなのか……
いやいや。頑張り屋のウルフウッドのことだ。言うに言えなかったのかもしれないと思い直す。
「心配だし僕行くね」
ウルフウッドが残したという朝食を急いで平らげて僕は席を立つ。
「悪いが、頼んだぞ」
「よろしくお願いします」
僕はふたりの言葉にひとつ頷いた。
休んでいるのならノックで起こしてしまわないほうがいいか。フロントでスペアキーを借りてくるべきかを思案しながらウルフウッドの部屋を訪ねる。ダメもとでドアノブをひねってみれば、すんなりと扉を開くことができた。不用心なことに部屋には鍵がかかっていなかったのだ。
ウルフウッド姿はすぐに見つかった。音に驚いてこちらを振り向いた彼は、マットレスに腰を掛け、枕元の窓ガラスに凭れ掛かっていた。眠るどころか身体を横たえてさえいない。
「風邪を引いて目元がうるうるしてて、ちょっと赤らんで弱ってる君が見れると聞いて!」
わざとおどけた口調で話しつつ彼の元へと向かえば、抗議するように枕が飛んできた。ポスンと顔面に的中したそれが床に落ちる前に右手でキャッチし、ズレてしまったサングラスを直す。枕を投げるくらいの元気は残っているらしい。
「何しに来たんや。帰り……」
あからさまにげんなりとした顔で告げた彼の声に覇気はない。普段なら手や足のひとつくらいは出てくるというのに。これは確実に弱っている。
「ひどいな。君が風邪ひいたって聞いたから看病に来たのに」
「おっさんらの差し金か。オドレの看病なんかいらへん」
しっしと追い払うような手振りまで添えられる。あんまりな言いざまにきゅっと自分の眉が寄るのが分かった。僕等が心配していることがウルフウッドはどうやら分かっていないらしい。
「それに、風邪やない」
反論した後はぷいとそっぽを向いて黙ってしまった。ウルフウッドをじっと見つめる。彼の口から漏れた吐息が窓ガラスを白く曇らせている。
嘘つきと口の中だけで呟いて僕はウルフウッドの言葉を無視して足を進めると対面するように彼の前に立った。
「じゃあこっち向いて」
いやいやと逃げるように首を振るウルフウッドの頬を両手で包んで無理やり自分の方に向かせる。
半ば冗談で言ったのだが、入室時の言葉のとおりウルフウッドの頬は熱で赤らんでいた。グレーの瞳も薄い涙の膜が張ったようにうるんでいて目元はほんのりと赤く染まっている。苦しそうに漏れる浅い呼吸が気にかかる。
邪魔な前髪を払ってついでにサングラスも外して枕元に置く。プラントと会話をする時のようにおでこをこつんとくっつければ焼けそうな熱を感じた。
「まって! 思ったよりも熱あるよ」
「測って」とフロントで借りてきた体温計を突き付けるもウルフウッドは受け取ろうとしない。
「熱やない。オドレらの勘違いや」
「いいやあるね」
「ない」
不毛な押し問答の末、「なら証明してみて」とすごむ。それでもなお抵抗するものだから、ベッドに乗り上げてウルフウッドを後ろから羽交い絞めにして無理やり体温計を脇に挟んでやる。密着した部分が熱い。普段の抱擁とはまた違う熱さだ。
ウルフウッドは観念したのか、体力が尽きたのか。ぐったりと僕の胸に背を預けていた。慰めるように形のいい頭を撫でながら結果を待つ。
ピピと検温の終了を告げるアラームが鳴ったので、服に手を突っ込んで引っ張り出した。
「ほら! あるじゃないか」
ウルフウッドに検温結果の画面を見せる。ヒトの体温なんてあんまり詳しくはないけれど平均的なものは知っている。確かこの結果より2、3度低いはずだから多分これはけっこう高い。
「さんじゅうくど…… ワイほんまに熱あるんか?」
弱弱しい声で結果を読み上げたウルフウッドの身体からふっと力が抜け、辛そうに眼を閉じた。熱がある事実を突き付けられたしたことでどうにか保っていた緊張の糸が切れたらしい。
はじき出された体温とウルフウッドから伝わる燃えるような熱に不安が募っていく。
まずは寝かさなくてはとウルフウッドの背をゆっくりとマットレスに横たえて、体勢を整えてやる。投げつけられた枕に頭をのせ、履いたままだった靴を脱がせて、ついでにジャケットも脱がす。
普段から着ている彼のグレーのシャツはぐっしょりと汗で湿っていた。
「パジャマは……ないよね」
彼の荷物を探してみようかと考えてすぐにやめた。何度かツインで部屋を取ったこともあるがウルフウッドがこの服以外を着用していた記憶はない。
「待ってて」
看病に必要なものを頭の中でリストアップして急いで部屋から飛び出した。
時間にして十分といったところだろうか。必要なものを集めて部屋に帰ってきた。ウルフウッド眠っているようだった。
早速着替えさせるためにウルフウッドのシャツを脱がしにかかる。頬だけではなく胸もほんのりと赤く、呼吸が苦しいのかせわしなく上下していた。
乾いたタオルで汗を拭って、隣室から取ってきた僕の部屋着を着せてやる。同じくらいの背丈だから服のサイズもぴったりだろうと思っていたのに着せたシャツは大きかった。胸は薄っぺらくて、腰回りも僕よりもひと回り以上小さい。この細身でどうやってあんな大きな銃器を振り回しているのか不思議になってしまうほどだ。元気になったらもっと食べさせた方がいいと心の手帳に書き記す。
濡らしたタオルを額に置いて、汗で束になった髪を梳いてやれば、うっすらと開いた瞳と目が合った。
「どこいっとったん?」
「今、君が着ている服を取りに行ってたの。あとロベルトから薬預かってきたよ」
ロベルトから渡された解熱剤の瓶を揺らす。小指の先よりも小さく丸い錠剤がカラカラと高い音を立てる。
手元の瓶を見つめたウルフウッドがうげ、とあからさまに嫌そうな顔をする。
「ワイは飲まへんからな」
毛布を頭まで被って逃げようとするので往生際が悪いと毛布を引っ張り返す。
「駄々をこねても駄目。薬飲まないと治らないでしょ? いったい何が嫌なの?」
僕は促すように理由を尋ねた。
「苦いのいやや……」
ウルフウッドの言葉に僕は面食らった。理由があまりにも当たり前で、そうして小さな子供みたいだったからだ。
意地っ張りな彼がこんな風に自分の心情を素直に吐露することがあっただろうか。熱は彼を素直にするらしい。
「治らないのは嫌だろ? ちゃんと飲めたらいいものあげるから」
「いいもの?」
「そう。とっておきのもの買ってきたから」
とっておきの言葉につられてか、上体を起こしたウルフウッドの手元にすかさず薬を持たせる。口に含んだのを確認して今度は水の入ったグラスを渡した。しぶしぶといった体で服薬したウルフウッドの頭をよくできましたと撫でてやる。
「頑張ったウルフウッドにはこれをあげる」
冷蔵庫からカップに入ったアイスクリームを取り出した。
一階のダイナーのデザート欄に載っていたこれを頼み込んでテイクアウトさせてもらったのだ。
プラントで潤っているとはいえ、大衆の店でアイスクリームが置いてあるのは本当に珍しい。お値段はなかなかに張るがそんなことは気にならなかった。恋人にならなんだってしてあげたいそういうものだろう?
「なんこれ?」
案の定食べたことがないのだろうウルフウッドは不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせている。
「アイスクリーム。甘くて冷たいお菓子だよ」
蓋を開けて銀色のスプーンでアイスクリームを掬って彼の口に持っていく。
「自分で食える」
アイスと僕の顔を何度か見比べて困ったようにウルフウッドが言った。
「だめ。お前をうんと甘やかしたい気分なの。だから、口開けて」
優しく促せばウルフウッドがそろそろと口を開けた。
赤い口内の粘膜がぬらり光る。なんだか倒錯的でいけないことをしている気分になってくる。
恐る恐るスプーンをくわえたウルフウッドが目をまあるく開いた。
「なんやこれ? うま……」
吐息と共に漏れた彼の言葉に笑みがこぼれた。よかったお気に召したらしい。
数度カップと口を行き来すればウルフウッドがきゅっと口を結んだ。
「もうおなかいっぱい?」
問えば違うと首を振られた。
「こんなええもんワイばっか食べたらあかん。オドレは食べへんの?」
「僕はいいの。君に食べて欲しくて買ったから」
「でも」
納得いかないとじっとこちらを見つめてくる視線に耐えかねて自分も一口アイスを食べた。予想通りの甘さと冷たさがじんわりと舌に広がっていく。
「美味しいね」
ウルフウッドの言葉に同意してあげれば、「おん」と彼がふんわりと笑った。
毒気のない笑顔が可愛くてこんな状況じゃなければ押し倒していたかもしれない。理性を総動員してどうにか耐え抜いた。
「なんや変な顔して。オドレも体調悪いんか」
僕の態度に勘違いしたのだろう慌てだし、泣きそうな彼の誤解を急いでときにかかる。ただでさえ熱で不安定なのだ。これ以上不安要素を与えるわけにはいかなかった。
「大丈夫、君が可愛すぎてどうにかなりそうだっただけ。僕にはうつらないから安心して」
プラントだから人の病気にはかからないよとはさすがにまだ言えなかった。
なだめるように頬を撫でれば「オドレの手も冷たくて気持ちええなと」と猫のように擦り付けられた。もっととねだってくるので求められるままに熱で火照った頬や首筋を撫でてやる。
「ねぇ、他にしてほしいことない?」
ウルフウッドの瞳がうろうろと揺れる。口が開いて、閉じてを繰り返して。小さな声で呟いた。
「ぎゅってして」
自分が恥ずかしいことを言っている自覚があるのだろう。熱とは違う赤が頬をさしている。
耳打ちされた可愛らしいお願いに僕は応えるべく大きく手を広げ、毛布ごとウルフウッドを抱きしめた。痛くないように、大事に、大事に、だ。
胸の中の愛しい人が機嫌よさげに笑う。薬が効いてきたのか瞳がゆるんで眠そうだった。
「ほら、もう寝よう」
ポスンと寝かせて毛布を掛ける。子供を寝かしつけるようにぽんぽんと叩けば「トンガリ」と名を呼ばれたので「なあに」と返事をした。
「なぁ、治ったらオドレのしてほしいことなんでもしたるから期待しとってや」
そう耳打ちするや否や「寝る」と宣言の元、すっぽりと毛布の繭に潜り込んでしまったウルフウッドを見つめてしゃがみ込む。
風邪はうつらないはずだ。けれどもこの頬の熱は彼からもたらされたもので間違いなかった。