甘いくて、溶けて「海に行こうぜ」
水曜日の3コマめ。お互いに空きコマの90分間を大学すぐ近くのファミレスで過ごすのがいつの間にか習慣になってしまった。
「なんや急に」
ドリンクバーで作ったアイスコーヒーをくるくるとストローでかき回しながらウルフウッドが首を傾げる。
「だってもうすぐ大学最後の夏休みだろ? 夏っぽいことしようぜ」
バチンとウィンクを飛ばせば呆れたように右手を振ってはじき返された。
「海なぁ……ここからどれくらいかかるんや?」
思ったより色よい返事だ。もしかしたら彼も行ってみたかったのかもしれない。
嬉しくなってリュックに入れっぱなしになっていたスマートフォンを取り出して地図アプリを開く。事前に目星をつけていた海水浴場を彼に見せる。澄んだ海水と白い砂浜が売りの海水浴場だ。
海開きのニュースも放送されるため地元なら誰もが知っている海水浴場であるそこは僕達の住む町から3時間ほどの距離だ。
「けっこうかかるな。車の方が楽か」
車と公共交通機関、両方の経路を見比べてウルフウッドが言う。
「そうかも。レムに車借りようかな?」
「オドレのおかんも仕事で使うやろ? わいに任しとき。ちうか水着あるんか?」
「今から買う! ウルフウッドは?」
「わいも持っとらん」
内陸部に住んでいる僕達にはあまり泳ぐという習慣がない。そのため水着は海やプールに行きたいと思って初めて用意するものだった。
「なら僕がお前の分も用意していい?」
「そりゃええけど。変なのにするなよ」
露出度の高い、セクシーな水着を着用するウルフウッドを想像したことに気付かれたのだろうか。早々に釘を刺されてしまう。
想像しただけだ。そんな水着をまとったウルフウッドを他の誰かが目にするなんて許せるわけがない。
「失敬な! 普通のにするよ普通のに」
海に着ていく水着はの一文を添えることなく僕は宣言する。
「頼むでほんま」
グラスの三分の一ほど残っていたコーヒーを飲み干したウルフウッドはにかりと犬歯を見せながら笑顔で言った。
天気予報の降水確率は0パーセント。空はどこまでも青くて雲のひとかけらも浮いていない。
絶好の海水浴日和だ。混雑を避けるため、夜明け前に出発したかいがあって海水浴場の客足はまばらだった。海の家は開店準備中で開いておらず、せかせかと店員が準備に追われていた。
海はというと数百メートルにわたる真っ白な砂浜が広がっていた。海水は透明度が高く、濁っている様子はない。遊泳可能エリアを示すようにブイが遠くに浮いているのが見えた。
自分たちと同じように早くやってきた家族連れやカップルがぽつりぽつりと距離を取りながら海水浴を楽しんでいる。
羽織っていた遮光タイプのパーカーを脱いで準備運動をする。足がつって溺れるなんて真似は避けたいところだ。同じように身体を解していた隣の男に話しかける。
「晴れてよかったな」
台風が来ないかずっとひやひやしてたと続ければウルフウッドは「せやな。日頃の行いがいいんやろうな」と頷いた。
「俺の?」
「んなわけあるか。わいのや」
胸を張ってウルフウッドが言った。何も羽織ってないせいで彼の美しい上半身が惜しげもなくさらされている。がっしりとした肩幅に綺麗に割れた腹筋。むっちりとはりのある大胸筋。鍛え抜かれた身体は健康的な美しさであるはずなのになぜだか艶めかしい。体格のわりにきゅっと引き締まった細い腰がそうさせているのだろうか。
邪な気持ちを散らすように視線を下げれば自分と色違いの水着が目に入る。無地の黒色のサーフパンツだ。ウエストを縛る赤のひもがアクセントになっている。ひざ丈なのだが、彼が動くたびにちらりと見える太ももがどくかセクシーだ。視線を下げたのは間違いだったばっと顔を上げるとウルフウッドと目が合った。
「水着似合うな」
ごまかすように見目を誉める。
「思ったより普通で安心したわ」
砂浜に敷いていたレジャーシートに座ってウルフウッドは胡坐をかいた。
「まぁ色違いちうんがあれやけど……」
彼に倣って隣に腰かけた僕の水着をじっと眺めながら彼が言う。僕の水着は無地の赤色で紐が黒という彼の水着と色を反転させたものになっている。
「これ紐交換したんやないん?」
ウルフウドが僕の水着の裾を引っ張り、紐穴の縫製を確認しようとするので急いで押さえつけた。
「きゃーエッチ! そうだよ。そうだけど引っ張って確認する奴がいるか!」
「ちろっとめくっただけやろ。別に初めて見るもんでもないし」
「そりゃあそうだけどさ……」
稀にウルフウッドは大胆な行動を起こす。ただ、そこに下心は一切ないのが困るところだ。僕の息子が反応してしまったら海水浴どころではなくなることに気付いていないのか。
頭を冷やすためにも早く海水に浸かってしまおうと海を目指す。
「なんや泳ぐんか?」
ウルフウッドもまたとことこと僕の後をついてきた。
容赦なくサンダルの隙間から入ってくる砂に格闘しながら波打ち際にたどり着いた。
波が寄せて、引いて。足の甲から足首までを濡らす海の水はひんやりとしていて気持ちがいい。
「あそこまで行く?」
遊泳可能範囲を区切る黄色いブイを指差すと驚いた顔をしたウルフウッドがこちらを見た。
「オドレ泳げへんやろ? カナヅチの自覚あるんか?」
「そんなに深くないんじゃない? 歩いていけないかな?」
「無理やろ。わいかてそんな泳げんから一緒に行かれへんで」
僕よりほんの少し泳げるウルフウッドはおよび腰だ。自慢じゃないが僕達は運動神経がいい方だと自負している。それなのに水泳だけは共に苦手なのだ。
このことを知ったのは今日の車の中でだ。
「実は海誘ったけど僕あんまり泳げないんだよな」
「なんやおどれもか。わいも……」
事実を伝えれば、実はと返されて、お互いに泳げないことを隠していたことを知った。
たぶん僕も彼も好きな相手にかっこ悪いところを見せたくなかったのだ。
ふたりであちこち行ったのに、大学四年生になるまで海やプールに近づかなかったのも当たり前といえば当たり前ということだ。
「泳ぐだけが海じゃないやろ」
回想にふけっていた僕を落ち込んでいると勘違いしたのか、元気づけるように右足を大きく蹴り上げてウルフウッドがこちらに水をかけてきた。
大きく水しぶきが跳ね、顔面が海水でびしゃびしゃになった。ワックスで整えていた髪も同様だ。
「お、トンガリがしんなりになっとる」
元凶の男はけらけらと声を上げて笑うのでこちらも負けじと応戦する。
「何するねん」
「水も滴るいい男っていうだろ? 男前度を上げてやったんだよ」
「ならわいもしたるわ」
海の中を走って、走ってお互いに頭の先まで海水でずぶ濡れになる頃にはビーチに海水浴客が続々と押し寄せ始めていた。
「人増えてきたし休憩しよや」
「さんせーい」
ウルフウッドからの停戦の申し出に僕は頷いた。
開店した海の家でかき氷を2つ買ってウルフウッドの元に戻る。
頭からタオルを被ってどうにか日差しを遮りながらウルフウッドはパタパタと両手で顔に風を送っていた。
「大丈夫?」
早起きからの長距離ドライブそして海の中での追いかけっこ。体力のあるウルフウッドでもさすがに疲れたらしい。
両頬にかき氷のカップを押し当ててやれば気持ちよさそうに目を細めた。
「何味買うたん?」
「イチゴとブルーハワイ。どっちがいい?」
「イチゴ」
希望の味を渡してやれば早速小さなスプーンに山盛りのかき氷を掬って口に運び始めた。
ストローの先を平たくしただけのそれでよくもまぁ零さずに食べられるものだと感心してしまう。
「あー冷たくて美味い」
しみじみとした口調でウルフウッドは言った。
「大げさだな」
おじさん臭いとからかえば「オドレはまだ食べてへんから気付かんだけや。はよ食べ」と急かされた。
ブルーハワイってなかなか見ない色味の食べ物だよなと思いつつかき氷を口に含む。冷たさが身体中に染みわたるようだった。甘すぎるかと思ったがそうでもない。しみじみと甘さと冷たさに浸っているとほら見たことかと肘でつつかれた。
「ごめん。お前の言う通りだった」
素直に謝ればウルフウッドはぱちぱちと目を瞬かせる。そうして僕のかき氷のカップを指差した。
「おどれ舌めっちゃ青なっとるで。舌出してみ?」
言われるがままに舌を出せばパシャリとスマートフォンのカメラで写真を撮られた。
「ほら、見てみ」
顔面にずいと近づけられた画面には確かに舌を真っ青にさせた僕が写っていた。
「お前だってそうだろ」
「ワイはイチゴやから変わらへんで」
「いいや。絶対真っ赤になってるぜ。見せてみろよ」
喧嘩にのったとばかりにぺろりと出された舌はいつもよりほんのりと赤い。検分するふりをして、自分のそれを合わせる。ぬるりとした触感と甘いシロップの味がする。無防備に開かれた口内をまさぐればかき氷でひんやりとしていたはずのそこはすぐに熱くなった。どこかまだ冷たいところがあるのではないかと清涼を求めて口の中をくまなく探れば、はやく離れろと背中をバシバシと殴られる。
満足いくまで口内を堪能してから唇を離せばどちらのものか分からない唾液が糸をひいた。
「色、移っちゃったかな?」
「知らん。このアホトンガリ! また暑うなったやろ」
口元をごしごしと拭いながらウルフウッドは抗議した。
「ねぇ、もう一回」
僕のおねだりを無視してウルフウッドはすくっと立ち上がる。
「あほ、続きは家に帰ってからや」
そっぽを向きながら小さく告げられた言葉に僕はごくりとつばを飲み込んだ。
鬼教官の指導の下、帰路は僕が車を運転した。普段彼が好んで乗るSUVタイプの車ではなく、小回りの利く軽自動車を借りたのは僕に運転させるためだったのかと合点がいった。レムの車よりも車幅が狭いおかげもあってどこかに車を擦ることも、ぶつけることもなく無事に家までたどり着いた。
廊下に服を脱ぎ散らかしながらふたりでバスルームに飛び込んでシャワーを浴び、浴槽に溜めた湯につかった。
「やっぱ真水がええな」
そんなことを言いながらウルフウッドは潮風でべたつく髪を鼻歌交じりに洗っている。
頭から落ちた泡の先を辿れば、日焼の跡がくっきりと分かった。水着で守られていた部分だけワントーン明るい色をしている。へそより少し下にある境界線を指先でなぞればウルフウッドはびくりと身体を震わせた。
「何すんねん」
「いやー日焼けしてるなって思って」
そう言ってもう一度今度は太ももの境界線をなぞる。調子に乗るなと頭をはたかれた。
もうちょっと詰めろと言われて浴槽の端によれば、シャンプーを流し終えたウルフウッドが向かい合うような形で僕の足の間に入ってきた。
ざぶんと大きな波がおこり、湯舟のお湯が一気に洗い場へと流れ出た。
「オドレかて焼けとる。痛くなりそうやな」
ピンク色に染まった僕の鼻先をウルフウッドの指が撫でる。
日焼といってもタイプがある。ウルフウッドがこんがり焼けるタイプなら僕は赤くなって皮がむけるタイプだ。
「風呂出たら、保湿した方がええで」
「確か化粧水があったはず。なぁ、お前が塗ってくれる?」
「しゃあなしやな」
額に張り付いた僕の髪をどかしながらウルフウッドは言葉とは裏腹に甘く優しい声で言った。
どちらともなくそっと唇を合わせる。それからいつくしむようにお互い焼けた箇所にバードキスを落としあった。
「いい思い出になったか?」
胸元に額を当てていたウルフウッドが僕に問う。
「一生忘れない思い出になったよ。なぁ、次は何する」
「次なぁ。例えばなんや?」
「うーん。キャンプとか、バーベキューとか」
思いつくままに夏のイベントを上げていく。僕の案にうんうんとウルフウッドは頷いた。
「あとは花火大会とか」
「わいは手持ち花火の方が好きや」
「風情があるよね。風呂出たら買いに行く?」
「今日じゃのうてええ」
僕の提案に彼は首を振り、顔を上げた。熱を孕んだ視線が僕を捉える。
「続きせんでええんか?」
首に腕が伸びてきて、赤い舌が誘うように僕の唇を舐めた。一瞬にして昼間の出来事を思い出す。
「続きがいい!」
誘うように薄く開いた唇に舌をねじ込む。
焼けるように熱い熱に僕等はすぐ夢中になった。