コール、コール、コール 電話が鳴る
ウルフウッドの暮らしに影がさす時、それは必ず訪れる。
ウルフウッドがひとりの時を見計らうように電話が鳴る。
聞きなれたコール音がたわんだように、多方向から強烈な圧力をかけ無理やり歪ませたように聞こえたらそれが合図だ。
鳴り響く歪なコール音は今すぐ逃げ出したいような、逆に音の元に走りたくなるような焦燥感をウルフウッドに与えた。
始めは無視しようと頑張るのだが、どうにも我慢できなくて受話器を取る。
そんなことの繰り返しだ。
この電話について誰かに話したことがない。話したかった相手とは電話を取った後、必ず会えなくなるためだ。
ウルフウッドはしがないサラリーマンだ。主に大きな工場や病院向けの薬品を取り扱っている、いわゆるBtoBの企業である。それなりのシェアを占めているため業界の人であれば社名を知っている人も多いだろう。それ以外にも、これは社にとってみれば大変不本意なことであろうがブラック企業ということでも有名であった。
噂は事実であり、入った後輩は現状にすぐに見切りをつけ辞め、最近では中堅社員も引き抜きを受けてどんどんと辞めていく。そんなわけでニコラスは入社3年目を終え、4年目に突入しても未だに部署のメンバーの中で最年少ままでであった。
電話を取るのは若手の仕事。そんな社風もあってかコール音が鳴れば何をしていてもすぐさま電話を取らなくてはならなかった。
入社してから一層ニコラスはコール音に敏感になった。訓練された犬のように音が鳴れば急いで受話器を上げてしまうのだ。
ただ、それは仕事上の電話に限られる。そこを間違ってはならない。
静まり返ったオフィスの天井からフロアの床にわたるまで、歪なコール音が部屋の隅から隅にまで響き渡った。
ウルフウッドはちらりと目の前に設置された電話を見た。ディスプレイは着信を知らせるようにぼんやりと光っている。
相手先のナンバーは表示されていなかった。非通知という表示すらもない。ただ、コール音が、光るディスプレイが、着信中であることを知らせている。
いつものやつや。ウルフウッドは確信した。
もうすぐ日付が変わる、夜中といって間違いがない時間帯だ。こんな時間に電話をかけてくる取引先などいない。
それに、このコール音はあの着信に間違いない。
名づけることのできない不安と緊張と少しの恐怖。よくない感情がそろそろと背筋を登ってくる。
「怖くなんてあらへん。けったいな嫌がらせか電話の不調や……」
自分に言い聞かせるようにもう何度もつぶやいてきた言葉を唱えて頬を叩く。まだまだ仕事は山積みなのだ。帰りたくたって帰れない。ウルフウッドは鳴り続けている電話機から目をそらし、パソコンに向き直った。
明日までにと夕方投げつけられた新商品のプレゼン資料はまだ未完成のままだ。
デスクの端にも、足共にも参考にしようと持ってきた分厚いファイルが山のように積もっている。ディスプレイを見続けたせいで鈍く痛む眉間を揉む。眼精疲労は社会人になってからずっとだ。
遅くまで残業していると電気代の無駄だと怒鳴られる。そのため、フロア全体ではなくウルフウッドのデスク付近のみ電気をつけている。長時間のパソコン作業に暗い中の作業。年中悩まされている視力の低下と慢性的な頭痛や肩こりの原因のひとつだろう。それに胃痛も。資料の山に埋もれていた紙コップを見つけて一気に呷った。昼休みにコンビニで買ってきたコーヒーはすっかり冷え切っていて、ただでさえ痛む胃をますます刺激した。
「はよ家に帰りたい」
あの古い家に本当に帰りたいのだろうか。自ら零した言葉に自虐の笑みが浮かぶ。帰る先は社宅として与えられた古いアパートの一室だ。建付けが悪く、エアコンさえ備え付けらていないアパートの唯一の長所は会社から徒歩10分ということだけだ。つまるところ、終電を気にすることなくいつまでだって仕事ができるという会社からの優しさに他ならなかった。
疲れて帰って寝るだけのそこがウルフウッドにとって家だとは思えなかった。
そもそも自分に家があるのだろうか……
生家も孤児院も今現在住んでいる社宅だってウルフウッドの帰るべき家であったはずなのにそのすべてが嘘のように思えてならない。
どこに帰りたいんやろうな。誰もいないフロアでひとりごちる。
なんでもいいからはよ休まなな。そう気持ちを切り替えて資料をめくる手の速度をあげた。
ようやく資料が完成したと深い溜息をつく。後は明日上司に提出して、訂正ともいえない思い付きのコメントが殴り書かれた資料をつき返されるのを待つばかりだ。なんにしても一応形になったのだから良しとするほかない。
データを上書き保存してパソコンを閉じる。時計を見るとずいぶん前に日付は変わっていた。
家に帰ってシャワーを浴びて、常備しているシリアルバーを食べたとしても4時間。いや3時間は眠れるはずだ。
ふと電話が目に入った。あのコール音を無視せずに取ってしまえばよかったなと少し後悔する。話せばまた何かが変わるかもしれないのに。
電話がかかってきたのはずっと昔、母親と暮らしていた頃に遡る。
母親が様々なお友達と夜の街に繰り出し、狭いワンルームにひとりになると決まってそれはかかってきた。
誰が来てもドアを開けるな、電話に出るな。いないふりをしろと言い聞かせられえていたのでニコラスは母親の言いつけをきちんと守り電話を無視していた。
だがある日、一晩経っても二晩経っても母親が帰ってこなかった夜、とうとうかかってきた電話に出てみたのだ。
「もしもし?」
母親を真似て背伸びをして受話器を取り耳に当てて、応答する。
「ウルフウッド久しぶり! いったいいつぶりかな。元気だった!? お前に話したいことがいろいろあるんだ……」
明るく弾んだ男の声だった。息をつく暇も与えないくらいの勢いで言葉が続く。夜中に付けたテレビの砂嵐のようにノイズ音が混じってきて内容がよく聞こえない。ただ、この電話の先の男がウルフウッドという男と話していると思い込んでいることがニコラスには分かった。
「ワイ、ウルフウッドやけどオドレの事知らへん。ちゃう人に電話しとるよ」
きっと名前が同じだから間違って電話をかけてきたのだろう。もっと早くに電話を取って教えてやればよかったと後悔しながらニコラスは困りきった声で告げた。
「ううん。そんなことないよ。お前は僕のウルフウッドだ」
否定を許さない優しい声がはっきりとニコラスの鼓膜を揺らす。
「ちゃう、ワイは」
「僕のウルフウッドだよ。ねぇ、今辛くない? お母さん帰ってきた?」
「帰って来とらん」
この電話だってもしかしたら母親ではないかと思って取ったくらいだ。ぬか喜びさせおって。段々と電話の主に腹が立ってくる。
「用ないなら切るで」
よく分からない男との会話が怖くなって受話器を置こうとすれば焦ったように男が言う。
「まてまて! せっかちだなお前! なぁ、俺と来ない?」
「いやや。知らん人になんぞついてかへん。それにおかんがもう帰ってくる」
「そう。残念。またかけるね」
ぷつりと電話は切れた。ニコラスの予言の通りその晩、母は戻ってきた。
電話の男の話を伝えたかったがそんな暇もなく、帰ってきたやけに上機嫌な母に手をひかれて孤児院へと連れていかれた。
「今からここがあなたの家よ。元気でね」
道中語った母の話にによると新しい男と暮らすのだという。だからもうニコラスとは暮らせないのだと母は語った。早い話、彼女に自分はいらなくなったのだ。
次は孤児院だった。孤児院は常に職員や子供がいるのでひとりの時間もなく、電話がかかってくることはなかった。
電話のことさえにぎやかな暮らしの中で忘れてしまっていた。
ある日、職員も子供達も遠足で出かけてることになった。もちろんウルフウッドも参加する予定だったが、体育の授業で足を怪我したため出かけることができなかったのだ。
心配する兄弟や職員には大丈夫だと伝えて留守番を自ら請け負った。そのころにはウルフウッドは小学生高学年だった。松葉杖で身体を支えながら孤児院の入口に停められた大型バスに乗り込んだみんなが見えなくなるまで手を振った。
そうして、恐ろしいほど静かになった孤児院に戻った時、電話が鳴ったのだ。
「ウルフウッド足はどう? 痛くない?」
いつかの男が電話の先にいた。なぜ名前だけでなく自分が怪我したことを知っているのかあの頃よりも成長したウルフウッドには疑問と恐怖がまとわりついた。
「なんでワイの足の事知っとん? オドレストーカーちうやつか!?」
「酷いな。お前のことが心配なんだよ」
問いただしても男はのらりくらりと質問をかわすばかりだ。そうして最後にまた同じ言葉を口にした。
「なぁ、俺と来ない?」とだ。返事もせずに勢いよく受話器を置いて電話を切った。
バスは帰ってこなかった。というよりも帰ってくる前に令状をもってやってきた警察に保護された。
なんでも理事長が子供を使って違法に儲けようと画策していたらしく、すんでのところで捜査の手が入ったのだと後に知った。孤児院は解散され、善良な職員や他の子供たちは新たな施設へと散り散りに離れていった。ウルフウッドは遠縁の親戚に引き取られることとなったため、バスを見送ったのを最後に孤児院の誰とも会っていない。
親戚宅でも同じようなことが起きた。
次の孤児院でも同じようなことが起きた。
同じことが何度も続くと怖くなってくる。それっきり電話には出なかった。出たらきっと生活がぐるりと変わるのだ。
重いため息をついて唯一頭上に灯っていた蛍光灯を消す。通勤カバンから懐中電灯を取り出し明かりを点して、セキュリティをかけて部屋を出た。
ウルフウッドの働く部署はエレベーターから一番遠い場所にある。総務課、営業三課、営業二課……他の部署の前を通るも誰もいない。いつものことだ。社内は闇に包まれ静まり返っていた。
電話が鳴る。
思いがけないコール音にウルフウッドは飛び上がった。音の元はちょうど通り過ぎようとした会議室からだ。
「追いかけてきとるちうんか……」
いったいなんだというのか。さすがに腹が立ってきた。扉を開けて受話器をひっつかむ。
「オドレええ加減にせえよ」
電話の主を怒鳴りつける。
「やっと出てくれた! ウルフウッド。ねぇ、もうそこにいる理由ないよね? 今度こそ一緒に来ない?」
何度目かの、何故だか耳になじむようになってしまった声の主はいつものように言う。もう断るのもうんざりしてウルフウッドはやけっぱちな大声をあげた。
「ええで。ほな迎えにこい!」
それだけ伝えて受話器を置く。
通話が途切れてしまえばふつふつと湧いた熱気が急速に冷めていく。
応えてしまった。勢いのままにストーカーか愉快犯かなんにしても得体の知れないものに返事をしてしまったことに後悔の波が襲い掛かる。
早く家に帰って休もう。きっと以前の電話も先ほどのやり取りも全ては疲れた脳が見せた幻想に違いない。
先ほどより足早に、なかば小走りでエレベーターへと向かう。
ポーンと音が鳴る。
聞きなれたそれはエレベーターからだ。
今いるフロアの階にランプが光る。
エレベーターがウルフウッドのいる階で止まったのだ。
もちろんボタンなんて押していない。電気の落とされた周辺を見る限り他の社員もいない。
恐怖に悲鳴にもならない声がウルフウッドの口から洩れた。
逃げなくては! じりじりと後ずさる。数歩後ずさるとふくらはぎに衝撃が走り視界が揺れる。
気づいた時には床に尻をしたたかに打ち付けていた。打ち所が悪かったのか、腰が抜けたのか、もがいても立ち上がれない。懐中電灯は遠くに転がっていて手が届かない。明かりなしには誰か降りたのかさえ分からなかった。
「大丈夫!!?」
焦った声と共に廊下の電気がついた。急な光に目が眩む。何度か瞬きをして目を開けば足元に段ボールが転がっていた。どうやらこれに引っかかったらしい。顔を上げれば、男が駆け寄ってくるのが見えた。
ダークグレーのビジネススーツには不釣り合いほどの派手な赤い色のネクタイをした男だった。ただ、目が覚めそうなほど眩しい金髪に優し気な青い瞳を持つ整った顔のせいで違和感を感じることはない。
「大丈夫? 手、貸して」
すぐさま伸ばされた手を握り返すとぐいと力強い力で起こされた。
「すまん、助かったわ」
礼を告げれば「気にすんなよ」と返される。まだ痛みを引きずるウルフウッドの代わりに男は転がったバッグと懐中電灯を拾ってくれた。
名前、と問えば「ヴァッシュ」とパスケースから社員証を出されて名乗られた。
第一営業部、会社の中でも一番の花形部署だ。こんな男がいただろうか? 社内人事に興味のない自分でもここまで見た目の良い男がいたら噂くらい耳に入るだろうにと首をひねる。
「こんな遅くまで残業?」
ヴァッシュの問いにウルフウッドは素直に頷く。
「せや。ワイの部署人が足りんから。オドレは残業……じゃないよな」
「うん。大事なものを取りに来たんだ」
「こんな夜中にか」
「そう! もうなくしたくないからさ」
大げさな身振り手振りでヴァッシュは大事なものについて語ってみせた。
「そんなに大切なんやったら、これからは肌身離さず持っておいたほうがええで」
「もちろんそうするつもり。じゃあ行こうか」
カバンを奪い取られその代わりに手を繋がれた。
「会ったら絶対手を繋ぎたかったんだよな」
機嫌よさそうにヴァッシュが言う。
「まてまて! なんでワイ、オドレと一緒に行く感じになっとん?」
「迎えに来いって言ったのはお前だろ? ボケるにはまだ早いぜ」
呆れたようにヴァッシュは肩をすくめた。
その声でウルフウッドはようやく電話の主がこの男だったのだと理解した。なぜ気付かなかったのだろう。こいつに誘われていたのだとなんだか急に腑に落ちた。
なんだか可笑しくて笑い声がいつの間にか零れた。声を上げて笑ったのはいったいいつぶりだろう。隣の男を見ると嬉しそうにこちらを眺めている。
「ほんでトンガリはん、どこ行くんや? ワイを連れて行くんやからええとこに決まっとるやろうな?」
「ウルフウッドお前!!!」
隣の男が感極まったように顔をゆがめ、こちらに抱きついてきた。今度は体幹を崩すことなく難なく抱きしめ返す。そうだ、こいつのウルフウッドでこいつはワイのトンガリや。今まで何をぼんやりしていたのだろう。霞がかっていた思考がクリアになっていく。今まで足りなかった酸素が急に脳にめぐってくるような感覚だ。そりゃあ帰る場所がどこもしっくりこなかったはずだと納得する。こいつの隣が帰る場所たのだから。
「なんや気付くの遅なってすまんかった」
「ほんとだぜこの鈍感牧師!」
「今牧師ちゃうで」
「それもそうか。でももう会社員でもないしな…… この鈍感ウルフウッド!」
「そない怒るなよ。これから先は一緒におるんやから」
もう一度、どちらともなく手を繋いで今か今かと乗車をまっていたエレベーターにふたりで乗り込んだ。
無遅刻無欠席だった男がいつまでたっても出社してこない。
事件に巻き込まれたのかと連絡先を調べるも彼の緊急連絡先は空白だった。
担当部署に話して監視カメラの映像を確認してもらったところ彼が独りでエレベーターに乗り込む姿が写っていた。
引き出しを開ければ引継ぎと退職に必要な書類が一式綺麗にまとめられてしまわれていた。
「黙って辞めやがって。これだから最近の若いやつは」
そんな一言でウルフウッドの退職は処理され、次の日にはデスクの中身が段ボールに詰められた。
心配して電話をかけた同僚曰く、3コール目で応答があったが問いかけ反応はなく砂嵐の様なノイズ音が聞こえるばかりだったという。