明るい明るい火の話「ねぇ、今週の土曜日ひま?」
何気ない会話を装ってヴァッシュはウルフウッドに声をかけた。
いつものことながら利用者のいない図書室ではあったが、大声で話すことは憚られるためなんてことない会話なのに必然的に内緒話のようになる。
平然を装っているものの心臓は早く脈を打っていた。冷房が効いているのに汗が背中を伝う。この週末、関係をひとつ進めると心に決めたヴァッシュにとって今日のデートのお誘いはいつもよりも何倍も勇気が必要だった。
「暇もなにも模試やろ?」
貸出カウンターでヴァッシュから受け取った本の返却処理をしながらウルフウッドは呆れたように言った。彼は大事そうに本を手に取るとバーコードをひとつひとつ読み取っていく。
「模試は昼過ぎに終わるでしょ? その後、夕方というか、夜というか……」
「学校終わってからちうことか。またサボるんかと思った。ならええけど」
またというのは体育祭をサボって図書室にやってきたことを言っているのだろう。あれからもうすぐ1年が経つというのに未だにそのことをウルフウッドにからかう時がある。確かにあれは純然たるサボりであったが後悔はしていない。なんていったって彼と知り合い、ヴァッシュからの熱烈なアプローチにより恋人になれたのだから。
「夏祭りに行かないかなって」
ヴァッシュはポケットからスマートフォンを取り出し、スーパーに貼られていたチラシの写真を見せた。遠方からも客が訪れるような大きな祭りではなく、町の商工会が主催しているこぢんまりとしたものだ。そんな祭りでも歴史はそれなりに古く、幼い頃に家族で行った記憶がある。あの頃は屋台が一番の楽しみでくじ引きや金魚すくいをしたいと兄と共に母親にねだったものだ。
「なにがあるん?」
「たくさん屋台が出てね、盆踊りをしたり、ビンゴ大会があったり。あと花火があがるよ」
チラシを拡大してタイムスケジュールを確認する。会場を訪れるのは夕方の予定なので花火の鑑賞が主になるだろう。チラシによれば海沿いにある公園がメイン会場だという。遊歩道に屋台が並び、その先にある芝生の広場で打ち上げ花火を見ることができるとのことだった。
ウルフウッドは黙って画面を凝視している。サングラスを外しているため彼の顔がよく見えるのに三白眼の瞳からは感情が読み取れない。見た目に反して静かな男なので乗り気ではないのかもしれない。負担をかけてしまっただろうか。だんだんと不安がこみあげてくる。
「ええよ。行こか」
少し間を置いてウルフウッドが応えた。
「ほんと!? ありがとう」
憂いを払拭する色の良い返事に思わずはしゃいだ声を上げてしまう。窘めるように見つめられてヴァッシュは慌てて口をふさいだ。
「ごめん。嬉しすぎてテンション上がっちゃった」
小さく潜めた声で謝ればウルフウッドは呆れを含んだ笑みをたたえて口元を緩ませる。彼はひとりっ子とのことなのに時折、小さな弟妹を見守るような優しい目をする時がある。
「なんや、ほんまに楽しみなんやな」
「うん。ずっと補習か塾でどこにも行ってなかったから。夏らしいことひとつもしてなくてさ。君はどうなの?」
「ワイもまぁ、どこも行ってないな。おどれとおんなじや」
クラスも違えば帰る方向も違う。恋人だというのに平日の逢瀬はこの図書室でのやり取りくらいだ。休日だってここ最近は受験に向けた予定が入っているせいで会える日が少なく、ふたりの関係は遅々として進まない。まだ手を繋いだだけ。友達とさして変わらない関係だ。卒業が見えてきた今、彼とこうやって会える日だってますます減っていくかもしれない。近づいてきた未来にヴァッシュは焦燥感を抱くことが多くなった。
「ウルフウッド、いい思い出にしようね」
色を含んだ声で囁くとウルフウッドはさっと視線を逸らした。
少しでも甘い空気になると彼は決まって居心地が悪そうに身体を強張らせる。曰く、別に嫌なわけではなくただただ恥ずかしいだけらしい。
これ以上、深追いすると照れて手が出てくるのでヴァッシュは深追いすることをやめ図書室を後にした。
「また、連絡するから」
またねと手を振ればウルフウッドもまた小さく手を振り返してくれる。
控えめなそれがひたすら可愛い。週末はもっと可愛い姿が拝めるだろうと考えるとそれだけでわくわくした。
約束の時はすぐにやってきた。今後の予定を思えば憂鬱な模試の時間だってあっという間に過ぎていく。
試験終了のチャイムが鳴ると同時にヴァッシュはペンケースをしまって急いで教室を後にした。
一度帰って着替えをする必要があるので時間を無駄にするわけにはいかない。
待ち合わせは黒猫様像の前だ。この町では定番の待ち合わせ場所であるそこは何人もの人がそわそわと相手を待っていた。祭りに合わせてか浴衣や甚平を着ている人も多い。ヴァッシュもだ。数年前に母親であるレムが買ってきた浴衣がようやく日の目を見た形だ。黒地の浴衣に赤い帯のシンプルなもので、好みのデザインであったが大きな問題点があった。兄であるナイヴスと色違いだったのだ。ふたり同時にラッピングを開けて帯の色が赤と白で色違いであると気づいた時にそっと包装紙を閉じたのだ。もういい歳だというのに兄と色違いの服を着せたがるのは勘弁してほしい。絶対一緒に着ないでおこう。そう兄弟でアイコンタクトを取ってそれっきりクローゼットの奥で眠ったままになっていた浴衣を約束を取り付けたその日に引っ張り出してきたのだ。
夏休みも終わりが近づいてきたことで日没が早まってきている。
あたりは薄暗くなり、街灯に明かりが灯りはじめた。
「トンガリ」
恋人につけられたあだ名を呼ばれてはっと顔を上げる。
「えっ……」
思わず感嘆の声がヴァッシュの口からもれた。ジーンズにTシャツという普段のラフな姿で来るかと思っていたウルフウッドが浴衣を身にまとっているのだ。
灰色の生地に細いストライプが涼し気で、彼によく似合っていた。帯は彼の瞳と同じ墨色だ。
示し合わせたわけではなかったのにウルフウッドも浴衣を着ていたことにヴァッシュは歓喜で身体が震える感覚におちいった。
「ウルフウッド! すっごく似合ってるよ」
「オドレもな。まさか浴衣着てくると思ってへんかったわ」
「レムが買ってきたのがあってさ。君は?」
「ワイは祭り行く言うたら親戚の姉ちゃんが持ってきたんや。なんや着せ替え人形みたいやった」
遠い目をしたウルフウッドが語るには、電話で従妹にちらりと祭りの話をしたらしい。それを好機ととらえたのか、帰宅したとたんやってきた彼女に浴衣を着せられたとのことだった。
「アイロンちうんか? あれ火傷しそうで怖かったわ」
浴衣だけではなく髪の毛もいじられたのだという。言われてみれば前髪は右に流されていて普段隠れている形の良いおでこがしっかりと見えたし、全体的に髪がふわふわしている。思わず手を伸ばせば「ベタベタするで」と制された。ワックスで整えられているとのことだ。
「腹減ったから、屋台見にいこや」
「うん」
早く行こうと促されて、人の流れに乗ることにした。遊歩道をゆったりとした速度で歩く。共に履きなれない下駄を履いているため普段よりも歩みは遅い。
道を進むにつれて人が増えていく。第21回夏祭りという立て看板の先には遊歩道にそって屋台がずらりと並んでいた。
看板横に立っていた制服の上にハッピを羽織った警察官にうちわを渡される。ストップ未成年飲酒・喫煙とか置き引きに注意なんて言葉が書かれた注意喚起のうちわだ。お祭りなのにご苦労様と小さく頭を下げる。
さっそくパタパタと仰げばそれなりに涼しい。暑さ対策のグッズを何も持ってきていなかったのでありがたい。
「ウルフウッド、こっち向いて」
名前を呼んでこちらを振り返ったウルフウッドの顔を仰いだ。
「涼しいっちゃ涼しいな……」
彼の感想もヴァッシュとさほど変わらないものだった。
どこで何を買おうか考えながら華やかに飾り付けられた屋台を見て歩く。たこ焼き、かき氷、綿あめ、くじ引き等々屋台といわれて思いつく店舗はどれも揃っていて目移りしてしまう。
「何食べる?」
「ワイはたこ焼きがええな」
鉢巻を巻いたタコが描かれた屋台を指差して彼が言う。ウルフウッドはたぶん粉もの好き。ヴァッシュは心のメモに書き留めた。
「オドレは?」
逆に問われてヴァッシュあたりをぐるりと見渡す。ウルフウッドの目当てたこ焼き屋の右隣にあるベビーカステラが目に留まった。
「僕はベビーカステラかな」
「オドレ甘いもの好きだよな」
「君は粉もの好きだよね。たこ焼きとかお好み焼きとか」
「せやで。覚えとってや。ほなたこ焼き買うてくるわ」
そう言い残してウルフウッドはひとりでたこ焼きの列に並んでしまった。
言い逃げもいいところだ。こういう風に彼のことをひとつひとつ知るたびに嬉しくなる。心を静めるようにヴァッシュもまた屋台の列に並んだ。
買ったら即食べたくなるのが人間の心情というものだ。紙袋からベビーカステラを取り出し口に運ぶ。
ほんのり甘くてふわふわで予想通り美味しかった。さっそくこの美味しさをシェアしたくてウルフウッドに声をかける。
「ウルフウッドひとつ食べる?」
「おん」
食べさせろとばかりに、かぱりと開かれた口にベビーカステラを投げ込む。
「結構うまいな」
もごもごとほっぺを膨らませながらウルフウッドが言う。
「オドレも食うか?」
お礼にとつまようじを挿したたこ焼きを口元に持ってこられる。これはいわゆるあーんというやつだ。ヴァッシュは内心目を白黒させながらたこ焼きにかぶりついた。思い切ってまるごと口内に入れれば焼けそうな熱さが口内を襲った。吐き出すこともできずにはふはふと口に空気を入れることでやり過ごす。
おおよそ行動を予測していたのだろうウルフウッドが手早くヴァッシュにペットボトルのお茶を渡す。
お茶を呷ればようやくひと心地つくことができた。
「ほかほかやろ?」
「そんな可愛いものじゃないよ。あちあちっていうの! よく平気な顔して食べられるね」
ヴァッシュが指摘する最中もウルフウッドは平然とたこ焼きを口に運んでいく。
「ワイ猫舌やないからな」
ゆっくりとたこ焼きを嚥下し、ニヤリと笑った。
間もなく花火が打ち上げられるとのアナウンスが流れた。次々に協賛する商店名が呼びあげられている。
よく見えるところに行こうと観覧席として指定された広場を目指す。
「そんなにはしゃいだら迷子になるで」
「なら、手を繋いでてよ」
ウルフウッドの言葉を逆手にとって「ん」と手を差しだせば逡巡した後、彼の手が重ねられる。指を絡めればぎゅっと握り返された。
よく見える場所は先客でいっぱいだったので広場の一番後ろの隅にふたりで腰を落とした。
到着を待ちかねていたかのように花火があがり出す。
腹の底から突き上げるような大きな音と共に夜空に火花が散る。金色のもの、赤色のもの、青。
形も見慣れた丸いものから滝のように流れるもの、スマイルマークのものなど様々だ。幼い頃に見たものよりもずっと種類が豊富に感じる。
絶え間なく光の粒が空に散っていく。
「綺麗なもんやな。こんなでっかい花火見るん初めて……」
ウルフウッドが感慨深く呟く。花火の光に顔が照らされて彼の顔がキラキラと光ってみえた。
思わず彼の頬に手を添える。
「ねぇ、キスしてもい?」
問いかければ、ウルフウッドの身体が強張る。そこからが普段と違っていた。いつもなら逸らされる瞳がヴァッシュをしっかりと捉える。小さく頷いて、そうしてそっと瞳が閉じられた。ゆっくりと唇を合わせる。初めてのウルフウッドの唇は思った通りに柔らかくてほんのりと温かかい。角度を変えて何度か口づけを繰り返す。
いっそう大きな打ち上げ音が響いく。
重ねた唇を離して微笑みかける。いつの間にか乱れていたウルフウッドの浴衣の襟元を正してやればぐったりとこちらに凭れ掛かってきた。
「緊張した?」
汗ばんだウルフウッドの髪を梳かしながら尋ねれば「オドレはしてないみたいで腹立つ」と毒づかれた。
「そんなことないよ。ずっと君とこうしたくて緊張してたんだから」
「祭り誘った時から?」
「ううん。もっとずっと前から……」
「ずっとちうしたかったいうことか」
「まぁ、そういうこと」
「トンガリのすけべ……」
顔を上げたウルフウッドがこちらを睨んで言う。うるんだ瞳とつんと尖らせた唇が乗せる音にヴァッシュの心臓が跳ねあがる。
「すけべなのは嫌?」
「嫌とはいうてへん」
「なら、もう一回……」
再度、唇を重ねようとしたところで花火大会の終了を告げるアナウンスが流れた。先ほどの大きな打ち上げ音はフィナーレの花火だったようだ。甘い雰囲気が花火のように弾けて消えてしてしまいお互いくすくすと笑いあう。
「最後の花火見れへんかったな」
「残念だったね」
「まぁ、また来年来たらええやろ」
ウルルウッドがからりと笑う。
「そうだね。また来年」
秋を告げる涼しさを含んだ夜風が頬をなでる。もう夏も終わりだ。
来年、卒業しても一緒にいてくれる。
小さな未来の約束は今日見たものの全てにおいて一番眩しいものだった。