毒を食らわば皿まで「振ってはいけませんよ」
七海が僕に炭酸飲料をくれる時によく言う言葉だ。僕は炭酸飲料(特にコーラ)が好きでよく飲む。それを見ているからか、七海は僕が落ち込んでいる時には寄り添うように、嬉しいことがあった時はともに喜んで僕に炭酸飲料を買ってくれることがあるのだ。
僕は炭酸が喉を通り抜けるあのシュワシュワとした感じが好きだから、むやみに振って炭酸が抜けるようなことはしない。それでも七海は言ってくる。
「振っては」「いけませんよ?」
ある日僕は七海の言葉に被せるように言ってみたんだ。だって僕は七海の前で一度たりとも炭酸飲料を振ったことがないのに、いつも言うから不思議で仕方がなくて。
「っ……」
そうしたら七海は言葉を詰まらせて、そのまま動かなくなってしまった。
「……」
「……」
お互いの間に気まずい沈黙が流れる。
「すいませんでした……。もう言わないから」
そう言って七海は立ち去ってしまった。七海は顔を伏せていたので、僕は七海がどんな表情をしていたのか見ることができなかった。
それでも僕が七海のことを傷つけたんだな、ということだけはわかった。
それから丸々二日が経った。僕と七海の間には依然として気まずい空気が流れている。家入さんには
「悪いもの食べたんだったら反転術式じゃ治せないからな」
と言われてしまった。
ああ、この空気が単なる食当たりによるものだったら答えは簡単なのに!
今日は午後から二人で任務にあたる日だった。補助監督さんから説明を受け、二人で一つの資料を見ると自然と距離が近くなる。ここ二日は必要最低限の会話しかしていなくて、僕はなんだか息苦しい。七海はどう思っているんだろう? 七海の方をチラリと見ると七海は真剣に資料を見ていた。日に透けるまつ毛は長く、髪はキラキラと光っていて、まるで前に美術の教科書で見た絵画のようだと思った。
「なんですか?」
さすがに見過ぎだらしい。七海が怪訝そうな顔をしてこっちを見てきた。
「ううん、なんでもない。ごめんね。任務の打ち合わせしたいと思って」
七海と打ち合わせをする。索敵や戦闘になった場合のこと、どうやって動いたら効率よく呪霊を祓えるか。どうにも空気はぎこちないけどなんとか任務にはあたれるようにはなった。
任務で七海が怪我をした。
お腹に穴が空いちゃったとか腕が取れちゃったとかではなかったけど、七海は瀕死の呪霊の最後の攻撃を躱わすことができずに、足を挫いてしまったのだった。
「七海……」
夕方、先生たちへの報告を済ませて医務室に顔を出すとそこには七海ではなく家入さんが居た。
「七海なら治療が終わって部屋に戻ったよ。お前らちゃんと寝てる? あいつ、いつもならこんな怪我しないだろ」
家入さんは淡々と、でも心配を滲ませながら聞いてくる。
「あっ……、はい! 大丈夫です!」
「七海と何かあったんだろ。ま、答える気がないんだったらいいけど、よく休みなよ」
あくまでも深入りはしないというスタンスの家入さんの心遣いをありがたいと思った。お辞儀をして、僕も部屋に戻ることにした。
家入さんの言うことはもっともだった。二日前から僕たちの様子はおかしいし、実際によく眠れていない。何がいけなかったのかわからない。でも七海を傷つけたんだから謝らなければ。
意を決した僕は廊下に出て七海の部屋のドアをノックする。
「七海、起きてる?」
やや間があってから、小さな、はい、という声が聞こえた。
「入ってもいい?」
また、やや間があってから、どうぞ、というのが聞こえた。
そっとドアを開けると、七海はベッドに座っていた。
「ごめんね、休んでた?」
「いえ、起きようと思っていたのでちょうどよかった」
「寝てたのにごめんね。ありがとう」
「それで、用件はなんですか? 怪我なら問題ありませんよ。夕飯だったら私はあとでいただきます」
七海は目を合わせくれない。
「この前のことなんだけど……」
この前のこと、で七海もピンと来たらしい。俯いてしまった。部屋には重い空気が流れている。
「僕、別に七海のことを揶揄おうと思って言ったんじゃないんだよ。でも傷つけちゃったことは確かだし、仲直りしたいと思って……来ました」
「あれは……、今までのもですけど、忘れてください」
「なんで? 忘れたくないな」
「それこそ何故?」
「だって僕、せっかく七海がかけてくれた言葉を忘れるだなんてしたくないよ。ここ二日ね、僕は僕なりによく考えてみたんだけど僕は七海が居ないとダメみたいなんだ」
七海が息を飲む音がした。それでも僕は尚、喋り続ける。
「一人で食べるご飯はなんだか味気がなかったし、七海と喋らないとよく眠れないし、楽しくないんだ。それに今日七海が怪我した時は僕、胸がギュッとなってすごく苦しかった」
七海が顔を上げる。目が合った。久しぶりに見た七海の目は燃える夕陽に負けないくらい綺麗だった。
「あなた、それ、どういう意味で言ってるんですか?」
七海の声には怒りと戸惑いがのっているように感じられた。
「……わからない。けど、僕、七海のことすごく大切に思うんだ。七海と一緒にいたい。それに…」
「それに?」
「気持ち悪いと思ったら僕から離れて欲しいんだけど、今、僕七海とキスがしたくてたまらないんだ」
七海は呆気に取られた顔をしている。
「……やっぱり気持ち悪いよね。ごめん」
僕は自分の部屋に戻ろうと思って七海に背を向けた。ドアノブに手を掛ける。と、シャツを引っ張られる感覚があった。
「待ってください。まだ私は返事をしていません。勝手に私の気持ちを決めるな」
「でも気持ち悪いよね。友達だと思ってたのに急にキスしたいとか言われてさ、裏切られたと思わない?」
「だから私の気持ちを勝手に決めるなと言っている。こっちを向いてください」
僕が七海の方に向き直ると七海は何かを決意した顔をしていた。
「七海?」
どうしたの? という言葉は続かなかった。一瞬の出来事だったけど、七海が僕にキスしてきたのだ。
「これが私の気持ちです。わかったか」
「えっ? え?」
「つまり私は灰原をそういう意味で好きだと言っているんです」
「待って待って! 本当に?」
「本当です。そうでなければこんなことしない。それとも灰原の知っている私はこういうことを誰にでもするんですか?」
七海の目が不安気に揺れている。
「そんなことない! 絶対ない! けど……僕に都合が良すぎない?」
「それを言うのなら私にだって都合が良すぎる」
「七海…抱きしめてもいい?」
僕の声は震えていたと思う。それでも七海の
「あなたにだったら」
と言う返事を聞いて、僕は七海の体を思いきり抱きしめた。七海の体温を感じる。どちらともないドクドクという心臓の音が聞こえる。
「七海……、僕心臓が爆発しそうだよ」
「私もです」
「ね、キスしてもいい?」
七海は目をつぶってこちらに顔を向ける。七海の顔に自分の顔をゆっくりと近づける。七海の唇は少しカサついていたけど柔らかくて、いつまでもキスしていたいと思った。
「七海、僕、君のこと思った以上に好きみたい」
「私だって、あなたを思う気持ちなら負けません」
「ふふ、嬉しいな。僕たち恋人同士ってことでいいのかな?」
「少なくとも私はそう思ってます」
七海の目は泳ぎ、耳が赤くなっている。七海が照れている証拠だ。
「ねえ七海、この前はごめんね。七海のことだからきっと意味があって僕に言ってくれてたんでしょ? それなのに僕……」
「いいえ」
七海は酷く思い詰めた様子で僕の話を遮る。先程までの夢みたいにふわふわした空気はどこかへ行ってしまった。
「謝らなければならないのは私のほうです。あれは今から考えれば呪いだ」
「呪いなの?」
僕の問いに七海は頷く。
「あんなの呪いですよ。私はあの言葉に、灰原にフラれたくない、フラないでくれ、という意味を込めていた」
伝える勇気もない気持ちを乗せて、と七海は再び下を向いてしまった。
「ああ! それで"振ってはいけません"だったんだね」
「そうです……。軽蔑したでしょう。私は隠れて思いを一方的にぶつけて満足していたんです。気色悪いと思われても仕方ありません」
僕は七海の顔を両手で挟む。七海と目を合わせる。彼の目は不安で揺れ、涙で潤んでいた。
「そんなことない」
その時の僕はどんな時より真剣だったと思う。
「そんなことないよ。僕は七海の言葉も気持ちもすごく、すごーく嬉しかったんだから」
「本当に?」
「本当に。僕言ったよね。七海のことすごく大切に思うって。今だって僕は七海のことが大切だし、七海には自分を大切にして欲しいって思ってる。だから、そんなふうに自分のこと悪く言わないで」
七海の顔から手を離して両手を繋ぐ。七海の手はとても冷たくなっていた。
七海の目からひと粒、涙が流れる。
「ごめんなさい灰原……。すいません……」
「謝らないで七海。そうだ、どうせなら僕、ありがとうって言われたいな」
「ありがとう?」
「そう、ありがとう。なんだか言った方も言われた方も気持ち良くない?」
「ふふ、ありがとう灰原」
「やっと笑ってくれた! ありがとう七海! 僕に気持ちを教えてくれて! キスしてくれて! 恋人になってくれて!」
僕は居ても立っても居られず、七海を抱きしめた。
その日の夕飯は七海と二人で食べたからか、とびきり美味しかった。夜だってよく眠れた。僕、やっぱり七海が居ないとダメみたい。
授業終わり、七海が自販機コーナーのベンチに座っている。僕は自分にコーラを、七海に炭酸水を買って持って行った。
「おつかれさま、七海」
七海にペットボトルを渡す。
「七海、フラないでね」
「灰原こそ、フラないでくださいよ」
真顔で受け答えをした僕たちは、顔を見合わせるとどちらともなく笑い出した。
僕たちはこのくらいの距離感がちょうどいいみたい。