ヒアアナ 俺は今、かなり焦っている。今日中に提出しなければならない課題のことをすっかり忘れて、友人たちと遊び呆けてしまっていたからだ。幸い、課題自体は終わらせていてあとは提出するだけだからよかったものの、授業時間はとうに過ぎた樹庭に足を運ぶのは少々勇気がいった。
何故って朝から晩まで研究に没頭しているような学者たちが、時には笑いながら、時には怖い顔をしながら神悟の樹庭を練り歩いていたり、隅で一人ぶつぶつと何かの詠唱をしていたり、とにかく学者ってやつは何をするか分からなくて恐ろしい。
そしてその代表でもあるのが、俺の所属している「知種学派」の創始者であり七賢人の一人でもあるアナイーーアナクサゴラス教授だ。講義中に突然笑い出し授業を放棄したことも数知れず、変人と言っていいのか、とにかく授業内容からは考えられないほど教授自身のことは未だにあまり理解できていない。
だからといって勉強に困っているわけではないから、学生の自分としてはそれでいいのかもしれないけれど。
「おや、お疲れ様です。課題の提出にいらしたのですか」
なんて、ぼうっとしながら教室のドアを開けた俺を真っ先に出迎えたのがそのアナクサゴラス教授で、俺は文字通りひっくり返りそうになってしまった。だって、教授の机に置いて終わりだとしか思っていなかったから。
そんな俺に教授は不思議そうな顔をして「何を驚いているのですか、ここは私の教室でしょう」と教壇を降りる。
「あっ、その、まさかまだいらっしゃるとは思っていなくて…」
「それはあなたを待っていたからですよ」
「えッ」
変に息を吸った。喉がつっかかってゴホゴホと咳が出る。
「大丈夫ですか? 風邪なら丁度ヒアンシーがいるのでついでに診てもらえばいいでしょう」
「い、いえ大丈夫です」
決して風邪ではないので。しかし俺を待っていたなどと言われ不覚にもときめいてしまったなどと素直に言えるわけもないため、曖昧に笑って誤魔化した。今は教授がこういう時に深追いするような人ではなくて本当に助かったとホッとしている。
「それでその、俺を待っていたというのは……」
「はい、珍しく課題の提出がされていなかったのですぐに戻ってくるかと思っていましたが……随分と遊んでいたようで」
推定五時間ほどは待たせている事実にピン、と背筋が伸びる。だってまさか、そんな自分一人の課題のために教授が教室で待っていてくれるシチュエーションなど、夢に見たことすらなかったもので。
「すっ、すみません!! うっかりしていて……」
「ええ、分かっていますよ。むしろ提出期限を守ることができてよかったではないですか、私もあなたが落第する姿は見たくありませんからね」
かけられている言葉は優しい気がするが、実のところ脅されているのではないか。しかし教授の厳しさも生徒への愛情だと思っている、いや、思いたい。主席卒業をしたキャストリスさんも教授のことを純粋に慕っていたようだし、尊敬に値する人だということは確かなのだ。だから俺も「地種学派」を選んだわけだし。
「期限を当日中、とすると日付が変わる直前まで粘る生徒が多い中、あなたはいつも授業終わりに直接提出をしてくれますから、ヒアンシーと何かあったのかと話していたのですよ」
「ご心配をおかけしてしまったようで……でも課題はしっかりやりました、評価を楽しみにしています!」
「ふ。勤勉なのはよいことです。さあ、早く帰りなさい、風邪は拗らせないように」
「はっ、はい! お先に失礼します!」
慌てて一礼してから教室から逃げるように飛び出した。そういえば風邪をひいていると勘違いさせてしまったな。でもとにかく提出が間に合ってよかった、教授の言う通り今日はもう帰ろう。いやに緊張して、なんだか疲れてしまった。
「……ヒアンシー? 戻ったのですか」
「はい、少し前に。ですがお話中でしたので、待機してました」
「そうでしたか、彼はあなたの生徒でもあるので遠慮せずともよかったのに。まあいいでしょう。……それはそこの机に置いておいてください。明日の朝、授業前に実験準備を行います」
「分かりました、わたしもお手伝いしますね」
ふと聞こえてきた会話に、俺は思わず耳を教室の壁に寄せてしまった。こんなことをして、バレたら絶対にアナクサゴラス教授に怒られるに決まっている!
だというのに、俺の体は頑なにここを離れようとはしなかった。授業外の二人がどんな会話をするのか、その好奇心の方が勝ってしまったのだ。
「あら? 先生、少しお疲れですか?」
「はあ……あなたの目にそう見えるのなら、きっとそうなのでしょうね。確かに最近は各学派と議論を交わすことも多く、少々疲れているかもしれません」
「そうですよ〜、先生、忙しくなると普段以上に食べなくなりますし……あ、そうだ! 久しぶりにわたしのヒーリング治療、受けていきませんか?」
ヒーリング治療? ヒアンシー助教のそんなものを直接受けられるだなんて、正直羨ましい。くそ、風邪だと嘘をつけばよかった。
「せっかくですし、お言葉に甘えても……よろしいですか」
「はい! ……でも、少しだけ待っていてくださいね〜」
ヒーリング治療って実際どんなことをするんだろうか。そんなことを考えていた俺は、自分の存在を感知されていたことに気づくのが遅れてしまった。
「……いい子は早くお家に帰れます、よね?」
「ーーッ!?」
いつの間にか隣まで来ていたヒアンシー助教に耳元で囁かれ、俺は声にならない悲鳴をあげた。心臓がかつてないほどドクドクと跳ね、にこりと天使の微笑みを向けるヒアンシー助教と目が合い、ある種の恐怖に力が抜けた俺は恥ずかしいことに情けなく尻餅をついて彼女を見上げる。
「ダメですよ〜、盗み聞きなんてしちゃ」
ヒアンシー助教の声はこんな時でも大変可愛らしく、でもそれには有無を言わさぬ圧が隠れていた。完全に悪いのはこっちであるし、言い訳するつもりは鼻からなくて、だけど何故か口から「ただここを通っただけで……」などと言葉が漏れそうになって、ぶんぶんと首を縦に振って誤魔化した。今はただ何も言わずにお家に帰ることが、最善手だ。
「あっ、転んじゃいますから、慌てずに!」
すみません! と、立ち上がり走り出した俺の背に声をかけてくれたヒアンシー助教のことは振り返らず、俺は言葉通り真っ直ぐ家に帰った。
もう絶対に、深淵を覗くようなことはしないと誓います!
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「何かあったのですか」
「いえ、外から音が聞こえた気がして様子を見に行ったのですが、特に何もありませんでした! さあ先生、わたしの隣に来てください〜」
ヒアンシーが後ろ手でドアに鍵をかけると、普段は荷物置き場になっている端のソファーに座るようアナイクスを促した。ふらりと、ヒアンシーの手招きにつられるようにアナイクスがふかふかのソファーに腰つける。
「先生、目を閉じてください」
そっとヒアンシーの小さな手がアナイクスの眼前に翳されて、彼は目を閉じた。「ゆっくり深呼吸をしましょう〜」ヒアンシーの声に従い、スー、ハー、と彼女が奏でるリズムに乗って呼吸を繰り返す。ただそれだけで、彼の耳には木々のざわめきが流れ、優しく甘い香りが鼻を掠めていた。
それをしばらく繰り返していると、その心地好さにアナイクスはすっかり全身から力を抜き、隣の彼女の方に倒れ込んだ。
「ふふ。効果が出てるみたいですね」
すりすりとヒアンシーに身を寄せるアナイクスは、撫でろと言わんばかりに彼女の肩口に頭を埋め、まるで猫のように彼の助教に甘えていた。それに応えるように、ヒアンシーは彼の髪に触れながら静かにエネルギーを送る。これで全てが良くなるわけではないけれど、倒れる前に自分の元に来て欲しいというのがヒアンシーの本音だった。それも口酸っぱく伝えてはいるのだが、ご覧の通り、限界が近くなってようやく強制的に引き込むしか今のところ方法がない。
「まったく、自身のことも大切にしてください先生」
癒しを与えることが仕事であるヒアンシーにとって、アナイクスの治療はもう慣れたものであるが、彼の原動力にはいつも驚かされていた。大袈裟に言えば、エネルギーが0でも元気に高笑いしながら数日何も食べずに研究室にこもって倒れずにいられるような、そんなバイタリティがアナイクスにはあるのだ。
「……ヒアンシー、もっと」
「は〜い、気持ちいいですね〜」
アナイクスのこんな姿は誰にも見せるわけにはいかない。だからヒアンシーは誰の目にも入らぬよういつも周囲に気を配っていた。既に恥ずかしげもなく色んな姿を見せているアナイクスではあるけれど、治療中は誰だって無防備になるものだ。患者を守ることも医師の勤めだと、ヒアンシーは心得ている。
「仕上げに一つ、とっておきです」
されるがままになっているアナイクスの両頬を両手でふわりと包みこみ、ヒアンシーは彼に顔を近づけるとちゅ、と彼の唇に軽く口付けた。癒しの力を口先に集中させて、触れた一瞬でそれを全身に巡らせる。
実はこれが一番効率がいいエネルギー供給の方法なのだが、簡単にさせてくれるわけではないので今回は運が良かった。これでしばらく治療は必要ないだろう。
「あの、」不意に、アナイクスがヒアンシーの手に触れた。
「ん? どうしましたか、先生」
「今のは、もう終わり……ですか」
アナイクスの縋るような上目遣いにヒアンシーの喉がこくりと動く。まさかキスをおねだりをされるとは想定していなくて、しかし少し眉を下げてヒアンシーは微笑んだ。
「先生ってば、甘えんぼさんですね〜」
掴まれた右手はそのままに、逆の手をアナイクスの頬に添えると、ヒアンシーは「もう一回だけ、ですよ?」と、だらしなく口を開けて待つアナイクスの舌に自分のものを絡ませ、長い長い一回を、彼が満足するまで施したのだった。