「……出ないですね」
「だな」
伏黒さんはガードレールに座り直し、膝の上で頬杖をついた。俺はその隣に行儀良く腰掛けている。車は引っ切りなしに、それも結構なスピードで橋を抜けていくのに、呪霊の気配は一向に見えない。
伏黒さんの姿を見るのは彼が高専に在学していた以来だった。
そもそも俺が入学したとき伏黒さんたちはもう四年生だったから、校内で出くわすということも数えるくらいにしかなかったように思う。時々同じ任務に駆り出される日もあったけど、彼らが卒業して以来そんな機会にも今日の今日まで恵まれなかった。この人の等級を考えれば、それもそうだろう。
いつ見ても一定の人だな、という印象は久しぶりに会っても変わらなかった。雰囲気や態度に波がなくて、言動も淡々としている。あまり他人に興味がなさそうな、何を考えているのかよくわからない人。
「昔、今日と似たような任務があった。こういう、橋がキーポイントの」
「昔ってどれくらいですか?」
「俺らが一年の頃」
「俺ら」
「釘崎と、虎杖」
「はい」
「ビニール紐で虎杖にバンジージャンプをさせて」
「とんでもないじゃないですか」
「俺は最終的に領域展開を….」
「一年ですよね?」
どういうエピソード?という話に目を白黒させる。伏黒さんと、伏黒さんの同期。俺らの先輩たち。色々と、それはもう色々と大変だった世代。それから。
「虎杖先生、大人気ですよ。若いからかな。おもしろいし」
「“先生“」
「俺も、どう呼べばいいのかわかんないです。先輩だけど、今先生でもあるので」
「あいつが教師なんか世も末だ」
「またまた。でも本当、いつもみんなに囲まれてます」
「囲むほど生徒いねえだろ」
「それはそうなんですけど」
まあ、虎杖はもともと人に好かれやすい、異常に。付け加えるみたいに言って、伏黒さんは黙り込んだ。口数が少ないのも変わっていない。今日高専を出るとき、虎杖さんに「あいつ、テンション低いけど怒ってるわけじゃないから!」と背中をバシバシ叩かれたのを思い出す。
「俺、ああいうタイプの人をこの業界であまり見たことがなくて。なんというか、元気で良い人〜的な」
「……あれは希少種だ。古い言い方をすると、根明」
「なるほど」
四年になって、虎杖さんが「先生」としてひょっこり現れたときは同期共々びっくりだった。先生といっても、虎杖さんいわく見習いというか、教育実習生というか、まだそんな感じではあるらしいけど。下級生たちも、彼の先生らしくなさみたいなものにこれまたびっくりしていて、たしかにあの「ノリのいい近所のお兄ちゃん」とでも表現する方がしっくりくる空気感は、教師として高専をうろつくには少し浮いている。
「俺らもうすぐ卒業なんですけど。通例の、あるじゃないですか」
「モラトリアム期間か」
「です、働き出すまで一年空けるっていう。俺いまだにマジの話なのか疑ってるんですけどね。伏黒さんはどうでした?」
「きっちり空けさせられた。本当はすぐに働くつもりだったが」
「五条先生ですか」
「ああ」
「……一年間、何してました?」
伏黒さんは少しの間押し黙って、それから口を開いた。何もしなかった。……それまでまったく何もないなんて時期がなかったから、何もせず、家で本を読んだり……時間を気にせず寝たりして、そんな感じだ。
俺はまた、なるほど、と繰り返す。
「虎杖は沖縄に移住してたぞ」
「それマジなんですか!? 冗談かと思ってました」
「マジだ。たまにこっちに戻ってきてたが、その度に手のひらサイズのシーサーを押し付けていくからわりと迷惑だった」
「家、めっちゃ守られてるじゃないですか」
「まだある。家に。今度やる」
「や、大丈夫です」
伏黒さんは真顔でそうか、と頷いた。俺はやっぱり、この人のことはよくわからない。でもよく、虎杖さんは彼の話をする。授業の合間や、廊下で雑談しているときなんかに。格好いいとか、尊敬できるとか、頼りになるとか。そういう呪術師の存在を知っているっていうのは大事なことだから、と言って。だから、伏黒さんだけじゃなく他の人の話もよく出てくる。伏黒さんは同期だからなのか、何気ないエピソードの方が多いかもしれない。
「あ、そういえば伏黒さん、元ヤンだって聞いたんですけど」
「……」
「……」
「……」
「健康優良不良少年横断幕に吊るされ事」
「いい、いい。やめろ。そもそも覚えるなそんなこと」
「虎杖さん、黒板に書いて教えてくれたんで」
「ろくなこと教えてねえなあいつ。……虎杖は西中の虎って呼ばれてたらしい」
「えっダサいっすね!」
「今度呼んでみたらいい。おもしろいから」
伏黒さんは小さく笑って、それから橋の下を振り返った。出たな、と言ってガードレールから軽く飛び降りる。その目は真剣だった。俺はその後に続きながら、この人とこんなに喋ったの初めてかもしれない、というようなことを考える。
✳︎
高専に戻ると、虎杖さんが待っていた。移動中、伏黒さんがメッセージで連絡を入れているのがちらっと見えたからそれでだろう。それよりも、そこきちんと連絡するんだ、マメだなという意外性の方が大きかった。
「おつかれー。どうだった? 無事か? 無事そうだな」
「なんか、秒でした」
そう言って伏黒さんの方を見ると、ちら、と視線を返されただけだった。本当に、すぐ終わってしまった。俺が手出しする暇なんかないくらい。高専時代からそうだったけど、伏黒さんは俺ら世代のなかでどうにも頭ひとつ分飛び抜けている。そんな伏黒さんは「お前、後輩の前でカッコつけようとしたんだろ。このこの」などと言われながら虎杖さんに肩を小突かれて、無言で棒立ちになっていた。
その後、伏黒さんは別件で上層部に呼ばれているからと行ってしまい、虎杖さんとふたり残される。
「伏黒、久しぶりだったろ」
「はい。待ち時間長めだったんで、色々話してもらって」
「ならよかった。あれで最近丸くなったのよ」
「あ、たしかに高専いた頃より、なんだろ、ピリピリしてないというか」
「だよなあ」
「…………………西中の虎」
「いや懐かし!」
なになに、なんで!? 同中だっけ? 久々に聞くとあまりのダサさにダメージ喰らうわ……。自称じゃないからね!? と言いながら顔を両手で覆い恥ずかしがる姿を見て、確かにおもしろいなと思った。今度伏黒さんに会ったら言おう。
「あいつ色々バラしやがったな」
「虎杖さんが沖縄住んでた話とかも。俺ほんとに冗談だと思ってて」
「マジマジ。今度写真見る? 俺日焼けして引くくらい黒いよ。飲み会で見せると100パー笑い取れるくらいには黒い」
「みんな見たがるし、聞きたがると思います。その、」
「そうなん? まあなあ、一年ってすぐに見えてけっこう長いしな。好きなことやってみればいいと思う」
卒業を控えた俺に、こちらから言うまでもなくそう助言してくれる姿は十分先生らしい。たとえ見習いだったとしても。
「お土産のシーサー、沢山あるからやるって言われたんですけど。断っちゃいました」
「あー、あれ! そうそう、うちに大量にあるから。でも俺があげたものを勝手に譲渡しようとするなよっていう。全然あげるけど」
「あ、大丈夫です」
虎杖さんはけらけら笑って、ミニサイズでかわいいのに、と言う。でもさあ。
「伏黒、なんだかんだ言ってしっかり飾ってるからね。うちの景観には若干そぐわないな……とか言いながら、玄関のとこにきれーに並べてんの。ウケるよ」
「はあ」
「うん。わりとそういうとこある、あいつ」
「……あの、もしかしてなんですけど。一緒に住んでたりします?」
「あ!」
「なるほど」
つまり今のは惚気ですか?とは聞かなかった。
✳︎
後日、虎杖さんに沖縄にいたときの写真を見せてもらった。予想よりはるかに焼けていて、明るい髪色との組み合わせもあるのか自分も例に漏れずウケてしまった。
結構曇ってる日も多かったんだけど、と言いながら海や砂浜、食べ物の写真をいくつか見せてくれる。お土産じゃない、本物のシーサーも。
それから、伏黒さんが沖縄まで遊びに来たときの写真。真っ青な空と海を背景に、この人びっくりするくらい沖縄似合わないなと思って、でもそこには十九とか二十とかそれくらいの、呪術師ではない若者二人が楽しそうに写っていた。
俺はこんなに目元を緩めた彼らの表情を見たことがないと思うくらいの、本当にただただ楽しそうな、穏やかな表情で。