薄いグラスの縁に指を滑らせながら、伏黒が視線を上げる。何から話せば良いのか、いまいちわからなかった。それが俺だけなのか、それとも伏黒もそうなのかは判断がつかない。こうして対面するのはいつぶりなのか考えてみたけれど、恐ろしくて日数を弾き出すのはやめてしまった。二人でよく通っていた、こぢんまりしたバーのテーブル席で、俺たちは静かに向かい合っている。
目の前に座っているその姿を、ひとつひとつ確認する。飾り気のない服装、テーブルの下で思いのほか脚を広げる癖、まず最初にグラスのビールを頼むこと。なにひとつ、変わっていなかった。本当に、なにひとつ。いっそ変わっていてくれればよかったと思う。その方がきっと、未練が減る。
「……二年か」
「うん」
伏黒は足を組んで、その上に肘をついた。視線が外される。流れる沈黙に、俺らってこんな気まずい空気出せたんだ、と他人事みたいに思う。時間は過ぎ去って、二人の間にあった感情はどこか形を変えてしまった。多分大体は、俺のせいで。
二年、海外にいた。長期出張扱いで、というよりもはや駐在では、とも思ったけど。
最初は一年間という予定だったのを、俺が二回延期した。二回だ。期間は一年半に延びて、そこからさらに二年に延びて、どちらも伏黒には事後報告だった。相談すると揺らいでしまいそうだったから。
出張が決まった時も、最初に帰国を延期した時も、もう一度延期した時だって伏黒は怒らなかったし、悲しむこともなかった。お前が過ごしやすいように生きろ、そういう感じのことを伏黒は言っていた。日本や東京に思い出したくない過去があるなら、それを忘れて生きられる場所に。そういうことを。
そこに伏黒も含まれていたことに、気づいていたのかはわからない。俺が伏黒の人生に現れたことで、伏黒の人生自体を変えてしまったという負い目はついぞ消えなかった。俺がいると。俺のせいで。意味のない問答ばかり、繰り返した。
別れたいとは言い出せなかった。本当は別れたくなんかなくて、でも傍にいるという選択を正当化することもできなかった。俺はひとり混乱して、そこにタイミングよく「外に出る」という選択肢が舞い込んできた。
とどのつまり、逃げたのだ。
でももう、今日で。
「まあ、長えなとは思った」
「やー、うん、ごめん。連絡もマメにできんかったし」
「連絡が来たと思えば基本謎の飯の画像だったからな。しかも大体ブレてる」
「なんで俺、撮る写真ぜんぶ飯マズ画像になるんだろう」
「だから俺が代わりに撮ってたんだろ」
「うん、撮るたびに伏黒召喚してえ〜って思ってた」
「そんなことで召喚するな」
あ、これ前の会話のテンポだな、と思う。
伏黒も俺も、不器用な方だった。メッセージや電話だとなんだかうまく喋ることができなくて、段々と頻度も減っていった。一緒にいた頃なら、「家来るついでにシャンプー買ってきてくれ」だとか「任務帰りに土産買ったけど渡しそびれた。申し訳ないですが自分で食います」だとか、そんなどうってことないやりとりもできていたのに。共有する出来事や物、時間がないと途端にどうしていいかわからなくなってしまった。
「頭を冷やすには良い期間だったのかもしれないと俺は思う」
伏黒がそう言って俺を見る。俺は伏黒を見れない。
「日本を出る前、お前がひとりでパニクってたのも知ってる」
「多分、一度整理するタイミングだった」
伏黒は続ける。俺は後に続けられない。
「離れてみて、わかっただろ虎杖」
無言で頷くと、伏黒は小さく息を吐いた。
そうだ、俺たちはわかってしまった。
俺から言わないと。
そう思って口を開きかけたとき、伏黒が「ん」と握った拳を突き出した。
え?このタイミングでグータッチ?と思って、一瞬思考が停止する。さすがにそれはないか、でもわからん。なんだこの手は。伏黒、普通に無表情だし。いや、マジで何? ……手の中になんか握ってんのかな。それだ。
「あー、合鍵? ごめん、俺も返すわ」
「は?」
「え?」
顔を見合わせる。お互い一瞬呆気にとられて、伏黒が先に、何かに気づいたのか表情を変えた。
すう、と目を細めて解読するかのように俺をじっと見ている。スキャンするみたいに見つめられて、俺は固まるしかできない。
数秒後、伏黒は盛大にため息をついた。それはもう、盛大に。小声で「アホ」とも言われた。別れる間際もディスられてんの俺。つら。
「手出せ」
「グータッチ?」
「ここでグータッチはおかしいだろ」
そうじゃない。手のひら。伏黒はそう言って、それから「早くしろ」と促してくる。
俺はおそるおそる、手のひらを差し出した。
「……うそお」
それは何の飾りもない、味気ないくらいのものだった。手のひらに落とされた小さな銀色が間接照明の下で鈍くひかっている。
今までずっと、お互いにこれだけは贈らなかった。
時計にキーケースに香水、マネークリップにマフラー、その他諸々。沢山あげたし貰ったけど、本当に、これだけは。
「一応聞くが、お前今日別れ話するつもりだったか?」
「……………………ハイ」
「後でしばき回す」
「や、だって。なんかもう完全にそういう流れかと……。俺昨日とかお別れソング聴いてちょっと泣いてたし……」
「聴くな。泣くな。雰囲気を作ろうとするな」
あ、これ本当に怒ってる。こんな深い眉間のしわ、久しぶりに見た。
でも同時に、ほっとしている自分がいる。離れている間、俺はバカみたいにひとり怯えていて、逃げたことに対して伏黒が呆れているんじゃないかとか、勝手に海外出張を決めたとき怒っていないように見えて、本当は怒っていたんじゃないかとか、そういうことばかり考えていた。メッセージや電話の対応が素気ないような気が勝手にして、不安になった。
というようなことをぽつぽつと話したら、伏黒は「俺はもともと相当素気ない。忘れてんなよ」とあっさり言った。でも確かにそうだったのだ。俺が一人空回りしていただけで、この二年間、思い返せば伏黒はべつに怒っても、呆れてもいなかった。ただ俺を待っていて、いつも通りだった。
会って顔を見ればわかることが、離れているとわからない。なんて単純なことなんだろう。
「いいか虎杖。お前と離れてみて、俺はよくわかった」
「別に離れて暮らしていようが、俺らは普通に生きていける。お前がいなくても俺は飯を食って仕事して寝て、何事もなく生活を続けられる」
「でも俺は、お前がいないと死ぬほどつまらない」
「そう意味で、わかっただろって聞いたんだ」
「こうだから一緒にいられないだの、一緒にいる意味がどうだの、そういうのはどうでもいい」
わかったか。
そう言って伏黒は最後俺のおでこを小突いた。その加減があまりにも優しかったから、俺は手のひらに指輪をのせたまま頷くしかできなくて、それから少しだけ涙が出た。お別れソングを聴いたときより、数粒多いくらいの涙が。
伏黒はそんな俺の目元をおしぼりでぐいぐい拭いたあと、次の飲み物を頼もうとなんでもないような顔でメニューを開き始めた。
俺は思わず笑ってしまって、そうして俺たちは元の場所へともどる。