休憩時間、あまりの暑さに机で伸びている釘崎に虎杖の居場所をたずねる。怠そうに「知らない」とだけ言われ、軽いため息をついた。虎杖の書いた報告書が再提出をくらったらしく、その伝言を頼まれている。が、本人がどこにもいない。メッセージを送っても応答なし。高専に入るまで持っていなかったからなのか、虎杖はスマホを携帯していないことが多かった。今日もおそらく、教室に置かれたままのリュックのポケットで震えているんだろう。
仕方なく、返却された報告書を片手に校舎をうろついて回る。少し捜して見つからなかったら、諦めて次の授業終わりにでも渡すつもりだった。別に急ぎではない。夏の終わりかけ、山の中だから都心のあの嫌な暑さではないとはいえ、十分に気温は高かった。まさか外にでも出ているのか? と予想したところに、そのまさか、窓の向こうで日差しに照らされているシャツ姿の背中が目に入った。普段あまり寄り付かない、校舎裏の花壇の前でしゃがみこんでいる。
行儀が悪いのを承知で、低い窓枠を乗り越えて外に出る。
「虎杖」
ん?と呑気な声とともに茶色がかった目がこちらを向いた。近づくと、霧のような水飛沫が足元にかかりそうになる。虎杖がホースを握っているせいだ。花壇に水やりをしているらしい。そもそも、こんなところに花壇があることすら知らなかった。
「どういう状況」
「代打で水やり」
「誰の」
「田中さん」
「誰だ」
聞けば、用務員的存在の老人で昔は補助監督をしていたという。虎杖の話にはたまに知らない人間が登場する。いつの間に知り合っているのか、未だによくわからない。田中さん? とは校内で会うと世間話をする仲らしかった。謎のネットワーク。
「田中さんぎっくり腰で休みだから代わりに」
「……暑いから気をつけろよ」
「うん。普通に暑すぎてこの水かぶりたい」
「まだ授業あるからやめとけ。これ、報告書」
「まさかの……?」
「再提出だ」
「出た!」
「出た!じゃねえ。ギリギリに書いて出すからだろ、そろそろ学べ」
おれこういう堅苦しいの無理ーと言いながら、ホースを振り回す。やめろ。うだうだと言い訳をしていた虎杖は、「あ、みて虹」と言ってぴたりと動きを止めた。この角度か? と言いながらホースの位置を調節している。
しばらく二人で小さな虹を見つめる。そこそこでかい男が並んで、傍から見れば奇妙な光景だろう。思わず「平和か」と突っ込みを入れてしまう。
「な。でもまあ、平和がいちばんですよ〜って田中さんも言ってた」
君たちみたいな若い子を、生き死にのかかわる場所に行かせるのがつらいって。昔も今も。
「伏黒のことも知ってたよ。あの、ちょっと目つきの良くない子でしょう、つって」
「……」
「俺、そうそう! て笑っちゃったもん」
「笑うな」
苦い顔になる。虎杖はそんな俺を見て笑っている。
多分、これまで何度もすれ違っていたんだろう。俺がなにも思わず行き違っている人々の存在を、虎杖は拾い上げる。拾い上げてから、判断する。どちらが正しいとかではない、物の見方の違いだ。
「田中さんにさ。今はそんな暇もないだろうけど、小さいもの? に目を向けられるようになるといいですねみたいなことを言われて。たとえば飯がうまいとか、花の名前とか、」
君たちがそういう、ちょっとしたものに気がつけるくらいの余裕があるというのが多分平和だということなんでしょう、的な話を。なんか、人生の先輩感? あった。水飛沫を見つめながら、ぽつぽつと虎杖が話す。
「ちなみにあの黄色いのはマリーゴールドだって。あいみょんのあれですって田中さんが急に言い出してさ、おじいちゃんが言う”あいみょん”、かなりおもろい」
人生の先輩と言っておいて「おもろい」に終着するなよと思うが、虎杖らしいともいえた。それにおそらく、言われたこともそれなりに咀嚼している。ホースの水で出来た虹に気づくくらいには。
小さなものにいつも目を向けられる日々がこの先やってくるのかはわからない。その前に死んでいる気もする。
「田中さんカラオケ好きだから若い子の曲も色々チェックしてんだって。今度一緒にカラ館行こうぜ」
「いや相当気まずいだろ」
そう? 楽しそうじゃない? と言いながら虎杖は立ち上がった。ホースをたぐりよせ、慣れた手つきでらせん状に巻いていく。
「てか、暑くね!?」
「死ぬほど暑い。終わったなら戻るぞ」
虎杖は多分、田中さんが復帰してもこうして手伝うんだろう。夏は暑いから、冬は寒いから。そういった理由をつけて。人を助ける。手の届く範囲で。感謝されても、されなくても。
校舎まで戻ろうと歩き始めた虎杖の頭に手を乗せる。しばらく日差しに晒されていたせいで、髪が熱くなっている。不思議そうな顔をするので「労わり」と言うと「いたわり」と小さく復唱して、ありがとう? と首を傾げた。