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    teimo27

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    teimo27

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    夏油が呪術師を辞める話です。離反しません。

    Infinite Possibilities 呪霊は人の負の感情から生まれる。
     世の中の情勢が不安定になれば負の感情を持つ人は必然的に多くなる。
     昨年頻発に発生した災害もまた、人の心に負の感情を生み出す。
     今年の夏は例年に比べると呪霊の発生は多く、夏油は連日任務に駆り出されていた。
     術師の多くは準一級呪術師もしくは二級呪術師だ。一級呪術師になれるのは僅かである。夏油は一級呪術師のさらに上の三人しかいない特級呪術師だ。他の術師達では歯がたたない一級呪霊や準一級呪霊の任務を当てられることが多く、またその強さから短時間で呪霊を祓うことができるため、一日に何件も任務を担当することもあり、他の術師達よりも稼働率が高い。
     体力に自信のある夏油でも、連日の任務に疲労を感じていた。
     夏油は本日の任務を終えると迎えに来た補助監督の車の後部座席に乗り込むと背もたれに身体を預けた。今日の任務はこれで終了だ。今日は明日の任務先の近くのホテルで泊まることになっている。先月から特に呪霊の発生頻度が高くなり、最近は呪術高専の寮で眠るよりも任務先で過ごすことが多くなってきた。
     もう、一週間以上同級生である五条悟の顔を見ていない。
     去年の今頃はどこに行くにも隣に五条はいた。任務の時も高専にいるときも、五条と馬鹿なことをやって笑いあっていた。だが、五条が最強になってから、任務は別々で行動することが多くなった。五条が単独で任務に就いている間、夏油もまた一人で呪霊を祓いに行くことになり、夏油が一人で過ごす時間が増えて行った。
     ひとりの時間が増えて、思考することが多くなった。
     呪霊と術師。そして、非術師。
     術師は呪霊から非術師を守る。強者が弱者を守ることを当たり前のことだ。非術師は呪霊への対抗手段を持っていない。呪霊を祓えるのは術師だけ。だから、術師は人々を守るために呪霊を祓う。
     術師と呪霊の闘いは千年以上続いている。夏油はその大きな歯車の中の一つなのだ。この先も夏油が死んだ後も非術師が存在する限り術師と呪霊の戦いはずっと続いていく。この世界の平和は、術師達の犠牲の元成り立っている。
     夏油は人々を守るために術師になった。それが正しいことだと思ったからだ。
     非術師達の醜い一面を見ても、彼らは守るべき対象なのだと言い続けた。醜い面を持つ者は一部のみ。この世界の全ての非術師が醜いわけではない。善人の方が圧倒的に多い。
     彼らを守るために術師になった。それは、この先も変わらない。
     だが、術師として正しい道を進めと自分に言い聞かせる度に、心の奥でそれを否定する自分がいる。
     非術師に守るべき価値があるのか、術師の命よりも尊いものなのか、と考える自分に嫌気する。
     非術師を淘汰されることはいけないことだとわかっていても、その考えを捨てることができない。
     思考の渦に飲み込まれないように窓の外の景色を眺めていると、胃から不快感が生じた。呪霊を取り込む数が増えてから、胃の調子が日に日に悪くなっている。一日に数回呪霊を取り込んだ日は、その後に食事を取る気が失せることもあった。
     呪霊はまずい。それを取り込むことがストレスになっているのだ。ストレスを軽減するならば、呪霊を取り込まないことだが、連日の任務がそれを許してくれない。
     それが原因なのか、最近寝つきも悪くなっていて十分な睡眠がとれない日もあった。
    「――大丈夫ですか?」
     声に驚き前を見ると、運転中の補助監督が心配そうな目がフロントガラスに映った。
    「ええ、大丈夫です」
     安心させるように少し微笑みながら言えば、補助監督がほっとしたような顔を浮かべた。
    「最近、夏油君の任務が多くなってすみません」
    「気にしないでください。それに、体力には自信があるので」
     夏油の派遣を決めているのは、呪術高専の上層部で補助監督ではない。彼も上からの指示で夏油についているにすぎないのだ。だから、彼が夏油に謝る必要はないのだが、学生を戦わせていることへの良心の呵責に苛まれているのだろう。この補助監督は良い人だ。
     特級呪術師とはいえ、夏油の身分は呪術高専の学生だ。本来ならば、守る立場ではなく守られる立場だ。先輩の術師と共に任務に就いて、経験を増やしていく時期なのだ。だが、夏油は他の術師よりも強い。そのため、強い呪霊が出れば真っ先に指名されてしまう。
     特級呪術師ゆえに、仕方のないことだと夏油は割り切っているが、運転中の補助監督は大人故に割り切れていない。
     まだ、心配そうな目を夏油に向ける。
    「……ですが、最近疲れているように見えます……連日あれだけの任務をしていたら疲れますよね……これが終わったら夏油君が休めるように上に掛けあってみます」
    「はは、それは助かります」
    「任せてください。あっ、ホテルまで時間がかかるので、休んでいてください」
    「それじゃあ、お言葉に甘えて休みます」
     夏油は瞼を閉じて視界をシャットアウトする。
     補助監督に顔色が悪いことを指摘されるほど、表情に疲れが出ていたのは夏油の落ち度だ。
     疲れていると見えないようにやってきたつもりだったが取り繕えないほど疲労が溜まっている。連日の任務で身体は疲れているのに、不眠で十分な睡眠がとれないため疲労は蓄積する一方だ。最近すれ違いになっていた同級生たちにこの顔色で会ったら、しかめっ面されるのが想像できた。
     眠れないなら余計なことを考えなければいい。だけど、どうしても頭から離れず、呪霊を取り込むたびに思い出してしまうのだ。
     夏油の術式は呪霊操術だ。文字通り、呪霊を式神のように操って呪霊を祓う。呪霊が完全に払われる前に、術式で呪霊を数センチの黒い円形に圧縮し、それを飲み込むことで呪霊を取り込むことができる。
     一級や準一級の呪霊は術式を持ち強い。強い呪霊を取り込めば、夏油は呪霊を操作することで準一級呪霊以上の術式を使うことができる。手持ちの強い呪霊が多いほど、手数を増やすことができ、夏油には有利な状況となる。
     そのため、夏油は術師になってから、自分で祓った呪霊は可能な限り取り込むようにしていた。
     だが、呪霊を取り込むことは容易ではない。呪霊はまずいのだ。まるで、吐瀉物を処理した雑巾を丸飲みしたような味がする。数えるのが馬鹿らしく程呪霊を取り込んできたが、慣れたことはない。いっそ味覚がなくなってしまったら、幸せだったのかもしれないが、どれほど呪霊を取り込んでも夏油の味覚は正常だった。
     正常だから、苦しい。
     今年は特に呪霊が多く発生したため、取り込んだ呪霊の数も去年や昨年の今頃よりも大幅に超えていた。
     呪霊を取り込むたびになぜ苦しまなければいけないのかと思うときがある。術師になって非術師を呪霊から守っても、非術師は新たな呪霊を生み出し、術師が祓う。この循環に終わりはなく、術師である限り夏油がこの苦しみから解放されることもない。
     死ねば解放されるが、術師として生きた自分の人生にどんな意味があるのか、よくわからない。
    (きっと、灰原ならこんなことを考えることなく、人を守れて本望ですと言っていたんだろうな……)
     数週間前に亡くなった後輩のことを思い出した。純粋で人が好きな男だった。夏油のことを慕ってくれて、可愛がっていた後輩だった。
     彼は二級呪霊討伐任務について、帰らぬ人となった。任務に赴く前に、お土産は何がいいか無邪気に聞いてきた顔が浮かんでくる。あれが最後なると思っていなかった。
     術師と呪霊のデスゲームは永遠に繰り返される。この先に術師の明るい未来があるのだろうか?
     呪霊がいない世の中を創らなくては、術師に未来がない。
     では、呪霊がない世の中とは?
     ――■■■がいなければ、呪霊が生み出されることはない。そうなれば術師が死ぬこともない。
     その時、突然ブーブーと振動が肌に響いた。夏油がはっとなり目を開けてみると、補助監督が自分の携帯電話を確認しているのが見えた。補助監督の様子からどうやら彼の携帯電話ではないらしい。夏油が制服のポケットに入れていた携帯電話を取り出せば、着信を表示している。出るか出ないか迷っていると、補助監督からどうぞと控えめに言われた。
     この電話を出たところで、彼に聞かれて困ることはないと判断すると、通話ボタンを押す。そこから懐かしい声が聞こえた。
    『やっと、出たの?』
    「久しぶり、母さん」
    『元気にしてる? 最近全然連絡くれないから心配してたのよ』
    「ごめん、最近忙しくて連絡するのを忘れてた」
    『傑はしっかりしてるし、便りがないのは元気な証拠だと思うけど、たまには連絡をしなさい』
    「わかったよ」
    『あと、いつまで忙しいの? お盆は帰ってこれなかったけど、年末まで帰れないの?』
     息子が呪術高専に通うことになったとき、両親が戸惑いながらも呪術師を理解して送り出してくれた。だが、呪術師の仕事内容をすべて伝えているわけではなかった。まさか、命がけで呪霊を討伐しているなど夢にも思わないだろう。
     学生なのだから授業の課題や部活で忙しいと思っている両親にとって、お盆は用事があって帰れないと告げた時、東京で友達と遊ぶから帰ってこないと思われている節があった。夏油も面倒であえて訂正しなかったが、お盆は呪霊を祓っていたのだ。
    「……落ち着いたら一度そっちに帰るよ」
    『いつ帰れるのかわかったら連絡しなさい。食べたいものあったら連絡してね』
     わかったというと母親は満足したのか、身体には気を付けねと言って通話を切った。
     先月から何回か母親からメールや着信があったが、忙しくて返信するのを忘れていたのだ。どちらかと放任主義の母親でも、全く連絡が帰ってこない息子のことが心配になったのだろう。
     夏油達の働きにより少しずつであるが呪霊の発生が落ち着いてきている。特級呪術師でなければ対応できない呪霊も早々に出てこないだろう。
     そのとき、「あのー」と申し訳なさそうな声が届いた。前を見るとフロントガラス越しに、補助監督がやけに真剣な顔をしている。
    「今月、夏油君が数日休めるように調整しますから!」
     会話の断片から母親からの帰省の催促と察した補助監督が声を張る。
     気合の入った顔がおかしくて、悪いと思いながらも夏油がプッと吹き出す。普段は学生の我儘に振り回されていることが多く、学生たちを苦手にしている補助監督が夏油のために真剣に何かしてくれる、その気遣いが嬉しい。初めて彼が年上の大人であることを実感した夏油は、今度五条がわがままを言った時は助けてあげようと思った。
    「……夏油君、私は真面目に言ってます」
     笑われてぶすっとした声に、夏油がすみませんと素直に謝る。
    「……ありがとうございます。休み、頼りにしてますよ」
    「任せてください」
     本当に休みが取れるかどうかわからないが、補助監督の頼もしい言葉に少しだけ心が温かくなる。今日は久しぶりに眠れそうな気がした。

     §§§

    「傑、何やってんの?」
     自室の隅にある机の前で座っていたところ、突然真横から声が聞こえ振り向けば数センチ先に頭からタオルを被った端正な男の顔があった。いつもはサングラスに隠れている碧眼がじっと夏油を見ている。タオルの隙間から見えた白髪はしっとりと濡れていて、毛先から一粒の雫が落ちて夏油の肩を濡らす。
     夏油は、はあと深い溜息を吐くと椅子の向きを変えて五条と向き合うと、タオルに手を伸ばし、ごしごしとふき取り始めた。
    「夏だからって、濡れたままにするな」
    「ちょっと、もう少し優しくしてよ」
    「悟の髪を乾かしてあげてるんだから、十分優しいだろ」
    「優しくない」
    「嫌なら、ドライヤーは自分でやれ」
     夏油が冷たく言い放つと五条は唇を尖らせるだけで、言い返さなかった。同級生の幼稚園児みたいな反応に夏油の口元が緩む。
     夏油は立ち上がると五条に椅子に座る様にいうと、棚に置いてあったドライヤーを手にして戻ってきた。
     ドライヤーのスイッチを入れて温風が出るのを確認すると、五条の頭からタオルと取り、白髪にドライヤーの風を当てていく。髪を乾かすことに専念していると風の温度が心地良いのか五条の瞼が徐々に重くなっていく。
     寝るなよと意味を込めて頭を軽く叩けば、邪魔された五条が不機嫌そうに頬を膨らませていた。
     五条が小学生くらいの年齢だったら、微笑ましく思えるが、残念ながら五条は自分よりも大きい同い年の男だ。最上級の美しい顔でも可愛いと思えない。この姿をもう一人の同級生に見られたらドン引きされること間違いないだろう。
     夏油は毎回五条の髪を乾かしているわけでない。五条もある程度身の回りのことが自分で何とか出来る。ただ、生粋の名家の嫡男は、なぜか夏油に世話をされることを大変気に入り、かなりの確率で甘えてくることがあった。
     入学式の日に出会って数分後に喧嘩を吹っ掛けられて、殴り合いの喧嘩をしたことが五条と仲良くなったきっかけだったが、その後五条が夏油に懐くのは早かった。夏油も当初は警戒していたが、五条がただ夏油と仲良くなりたいと思っていることを知ると、心の壁を取って我儘で世間知らずな同級生の世話を焼き始め、夏油が五条に絆されたのは、それからすぐのことだった。
     一緒に馬鹿なことをやったり、諫めたり、喧嘩したり。五条と過ごした日々は全く飽きることがない楽しいことの連続だった。
     俺たちは二人で最強なんだと疑っていなかったあの日。唯一無二の親友で肩を並べていたあの時のことを忘れる日はやってこないだろう。
     夏油は近頃よく考えるのだ。
     いつまで、私たちは隣に居られるのだろう。
     最強となった五条悟の隣に立っていられるのだろうか。
    「傑?」
     止まった手を不思議に思った五条が問う。
    「ああ、すまない」
     夏油は思考を外へ追いやると、ドライヤーを持つ手を動かし、白髪の根元から丁寧に乾かしていく。数分温風を当ててブラシで整えれば、できあがりだ。このブラシは以前五条が夏油の部屋に置いていった高級ブラシである。これで髪を梳かすと艶が出てくれるので夏油も愛用している。
    「悟、終わった」
    「んー、ありがとう」
     夏油がドライヤーとブラシを棚に片づけていると、五条は椅子から立ち上がり両腕を天井にあげて伸ばしていた。髪を乾かし終わったので自室に戻ると思いきや、夏油のベッドの縁に座るとそのまま上半身を後ろに倒して寝転がった。
     夏油は五条の隣に腰掛けると、親友のベッドを占領している男の顔を見ながら口を開く。
    「ここで寝るなよ」
    「えー、俺もう疲れて一歩も動けない」
    「疲れるほど働いてないだろ?」
    「いーや、働いてる。学生なのに週七連勤っておかしだろ。ブラック企業かよ」
    「私も似たようなものだよ。今年は特に呪霊の発生が多かったからね」
     呪術高専に入学してから一番忙しい夏だなと夏油が呟いていると、じっと向けられる視線に気付いた。視線の持ち主は隣に居る五条だ。
    「何?」
     横になっていた五条は上半身を起こすと、そのまま夏油の方へ顔を寄せる。至近距離で六眼を向けられて、たじろいだ夏油が距離を取ろうと後ろに反ろうとしたときに、心配そうな声が耳に入りピタッと止まる。
    「傑、やっぱり痩せたろ?」
     夏油は一瞬目を見開いた後、すぐに薄い笑みを浮かべた。五条にこの質問をされるのは二回目だ。前回は夏油の言うことをあっさりと信じてくれた。今回も同じ嘘をつく。
    「前にも言っただろう。夏バテだ」
    「本当かよ」
     五条は前回のようにすんなりと信じる気はないようだ。他人のことをほとんど気にしない五条でも夏油の不調に気付いているのだろう。疑うような視線が突き刺さる。
    「本当さ」
     夏油は肩をすくめて信じてもらえずに困っている顔をしていると、先に五条の方が折れた。
    「夏はもう終わるし、ちゃんと食べろよ」
    「わかってる。それにしても、悟が人の心配をするなんて、感慨深いよ」
     初めて会った時の五条は、唯我独尊の四文字を思い浮かべるような態度をしていた。
     数百年ぶりに生まれた六眼と無下限呪術の両方を持つ五条家の待望の子供だ。幼い頃から大切に育てられて我儘な子供になってしまったのは想像がつく。そのうえ、五条は最強の術式を持つ最強の呪術師だ。強すぎる力は他者から畏怖の対象となる。五条は意味もなく人に暴力を振るう男ではないが、お世辞にも良いとは言えない性格を考えると、幸せな家庭で愛情深く育ったと夏油は思っていない。
     今でこそ五条と夏油は親友と呼べるほど仲が良いが、出会って直ぐの五条であれば夏油が足手まといになるようだったら即座に見捨てていた。術師として興味の対象外で、生きようが死のうがどうでもいい存在だったのだ。
     そんな五条が夏油のことを気にかけて心配するようになった。まるで我が子の内面の成長を垣間見ているようで、心の中は歓喜の一色に染まってくる。
     五条の人間性の成長を喜んでいると、五条が何とも言えない顔をしていた。
    「お前は俺の母親か」
    「私はこんなに大きな子供を産んだ覚えはないけどね」
     だが、世間の常識を持っていなかった五条に教えたのは夏油だ。そういう意味では、親代わりといえるのかもしれない。
    「悟が私を心配してくれて会いに来てくれたのは嬉しいよ」
     ありがとうと伝えると照れているのか五条はそっぽを向いた。そして、ぼそっと呟く。
    「……最近、傑と一緒に居ないなって思って」
    「私たち、最近単独任務が多いからね。それに、悟は術式のことで忙しかっただろう」
     呪力の核心を掴み、五条は術式の範囲が格段に広がった。おもちゃを与えられた子供の様に五条は術式の可能性を試することに夢中になった。実験に付き合ったことがあるからその成果を夏油は良く知っている。
     一年前は五条と夏油の二人で最強だったが、今では五条一人で最強になった。隣居たのに、たった一年で遠い存在になったのだ。
     夏油のことよりも術式で実験していたことを指摘されると五条は、ばつが悪そうな顔をした。夏油と過ごすよりも術式を試すこと優先していた自覚があるのだ。五条はわざとらしく「あー」と言うと、話を無理やり変えた。
    「北海道に行きたい。この間まで新宿のデパートやってた北海道物産展の限定スイーツ食べ損ねた」
    「この先の北海道は雪が大変だよ」
    「問題ねえよ。俺が雪に負けると思ってんの?」
    「勝ち負けじゃなくて。悟、冬の北海道に行ったことある?」
    「ない」
     テレビで冬の北海道の映像を見たことがあるからある程度知識を持っているはずだ。それを見たうえで、自分なら雪ぐらいどうにかなると思っているのだろう。実際に五条だったら吹雪の中でも死ぬこともないと思うが、初めての極寒の地で鼻水が凍るとはしゃいだ後寒いと喚く姿が浮かんだ。
    「……まあいいや。私もスノボしたいからいいよ」
     毎年と冬になるとスノーボードをして遊んでいたが、呪術高専に入学してからはスキー場に行けていない。せっかく北海道に行くのなら、久しぶりにスノーボードで楽しみたい。
    「それって楽しい?」
    「楽しいよ。悟ならすぐに滑れるようになる」
    「じゃあ決まりだな」
     夏油と遊ぶ約束ができて嬉しかったのか五条の口角が上がる。五条は再びベッドの上で横になると枕に顔を埋めた。完全に寝る態勢である。
    「悟、そこで寝るなよ」
    「帰るの面倒」
    「隣の部屋だろ」
     夏油は白けた目をした後、はあとため息を吐いた。
     隣の部屋まで帰るのに十秒かからない。それが面倒とは、面倒くさがりすぎるだろう。
    「もう、動けない」
     子供かと夏油が心の中で呟く。幸い夏油の身体の大きさに合わせて、ベッドのサイズも一般よりも大きく、詰めれば二人並んで眠れないこともない。それでも、五条も夏油も一般的な学生よりもデカいため狭いことは否めない。
     わざわざ窮屈な思いをしながらもどうして夏油と一緒に眠りたがるのか。恐らく初めてできた友達に浮かれているのだろう。五条は、自分を一人の人間として見てくれて背中を任せられて、バカ騒ぎにも付き合ってくれる友達は夏油が初めてなのだ。小さい頃に経験できなかったことを、取り戻すように今やろうとしている。夏油は五条が呪術高専に入学する前の状況を察して、好きにさせていた。
     百八十センチオーバーの男二人が並んで寝る趣味はないが、不思議なことに五条相手だと嫌だと思わなかったのだ。
    「もう少し横に詰めろ。私の寝る場所がない」
     そういうと五条は這いつくばりながら横に移動して夏油が寝るためのスペースを作った。
     寝るには少し早い時間だったが、五条に合わせることにした。電気を消して開けてくれたベッドのスペースに横になると案の定狭かったが、夏油は何も言わなかった。
    「そういや、センセイに聞いたけど、傑今度実家に帰るの?」
    「ああ、休みの調整をしてもらってるところだ。帰ったら、お土産に甘いものを買ってくるよ」
    「なら、前に買ってきてくれたのがいい」
    「わかった」
     おやすみと告げると、同じ言葉が返ってくる。しばらくすると、隣から寝息が聴こえてきた。顔を横に向けると腹正しいくらいに整った顔があった。眠っているときは幼く見えたりするものだが、五条の場合は普段の子供じみた言動のせいか大人びて見えた。
     五条と夏油は親友だ。五条が最強になった今でも変わらない。先ほど自分と一緒に遊びに行きたいと言われて嬉しかったのだ。五条は今も夏油が隣にいてくれることを望んでいる。
     だから、自分の中に潜む醜い感情は知られたくない。
     夏油は五条の方へ背を向けると瞼を硬く閉じた。五条がいる今だけは術師のことも非術師のことも何も考えずに眠りにつきたい。
     そんな自分の背中を碧眼が見ていたことに、夏油が気付くことはなかった。

     §§§

     補助監督が頑張ってくれたことと、呪霊の発生頻度が減少したこともあり、約束通り夏油は数日の休暇が与えられた。呪術高専の寮でゆっくり休んでも良かったが、担任にたまには両親に顔を見せて来いと追い出されたため、夏油は数ヶ月ぶりに実家に向かった。
     帰省当日、通勤時間に重なりターミナル駅には大勢の人がいた。最近非術師に会うと不快な気分になる。夏油は一刻も早く人混みから離れようと駅の中を足早に移動した。
     目的のホームに到着すると深く息を吐いた。その時、胃に不快感が生じて、夏油は思わず顔を顰める。最近、呪霊を取り込まない時も胃が不調だと訴えてくることが多くなった。夏油は左右を見渡すと歩き出した。数メートル進んだところに自動販売機がある。そこでミネラルウォーターを購入すると、ペットボトルの蓋を開けて数口飲んだ。冷たい水が喉から胃へ流れていくのが分かった。
    「この年で胃が不調って、ブラック企業か……」
     メンタルは強い方だと思っていたが、そうではなかったらしい。
     夏油はペットボトルの蓋をするとそのまま鞄の中に乱暴に放り込むとチケットを取り出して覗き込んだ。そして顔を上げて看板を見る。指定された席の車両に乗り込むにはもう少し歩かなくてはいけない。長い脚を動かして進む途中にコンビニが見えた。夏油は朝から何も食べていないが、空腹感はなく、無理やり食べても体調はさらに悪化するだけだろう。何も買わずにホームを歩き目的の場所に到着すると先発乗車の列に並んだ。
     暫く待っていると新幹線がホームに入ってきた。
     清掃が終わり車内に入ると淀んだ空気に眉をひそめる。指定された席に進み、足元に荷物を置くと席に深く腰掛ける。普段よりも座り心地の良い椅子と長身の夏油が足を延ばしても寛げる広いスペースに、さすがグリーン車だなと小さく呟いた。
     この席を用意してくれたのは夜蛾だった。夏油が盆休みに帰省できなかったことを申し訳なく思っていたらしく、新幹線のチケットは自分が用意すると言ってきた。その際に夏油はグリーン車がいいとリクエストしたら、甘えるなと言っていたのに当日渡されたチケットはグリーン車だった。思わずチケットと夜蛾の顔を真顔で二度見していると、夏油に突っ込まれるのが嫌だったのか、夏油の実家用の東京土産を持たせると早く帰れと追い出した。
     夜蛾は非術師の家系である夏油の両親に何かと気を使っている。呪術師という特殊な仕事の内容を全て伝えられるわけではないが、息子を預かっている以上夏油の両親には常に誠実に対応していた。
     きっと今回の休暇も補助監督からの申し入れもあったと思うが、夜蛾の意向も反映しているのだろう。
     乗車を促すベルが鳴り、暫くすると車両が進み始めた。平日の時間もあってグリーン車には夏油を含めて数人しか乗車していなかった。夏油の前後に人はいない。途中で乗車する客がいるかもしれないが、暫くの間は静かに過ごせるだろう。
     夏油の実家まで到着するのに数時間かかる。昨夜も浅い眠りを繰り返すばかりで、十分な休息は取れていない。眠れなくても、体力は回復したい。夏油は、座席を倒し大きな欠伸をすると上半身の力を抜いて瞼を閉じた。

     §§§

    「本当に大丈夫なの? 一度病院に行ったほうがいいんじゃない?」
    「大丈夫だよ。自分の身体のことは私が一番よくわかっている」
    「でも……」
    「それよりも、そろそろ出かける時間だよ?」
     母親が時計を見て急いで出掛ける準備を始める。今日は平日で夏油が休暇中でも、両親には仕事がある。勤務先の関係で三十分ほど前に父親は出て行った。そろそろ母親も出勤しないといけない時間である。
     終始心配そうに息子を見ている母親を玄関先で見送くったあと、夏油は深い溜息を吐いた。
     夏油の実家での生活はおおむね順調だった。
     だが、青白い顔の息子を久しぶりに見た時から母親は少し過保護になった。夏バテで食欲が落ちたことが原因で心配はいらないと説明したものの、納得をした様子はなかった。いつまでも顔色が良くならないため、母親に心配されるのだ。
     母親が息子のことを不安がるには他にも理由があった。
     体格の良い十代の息子が肉よりも蕎麦を好んで食べる姿に不安を覚えたのだ。それに、せっかく地元に戻って来ているのに地元の友達と遊んでいるように見えない。かつての息子の姿と今の姿が重ならないことが、母親を不安にさせるのだ。
     蕎麦は夏油が術師になってから好んで食べるようになった。呪霊を取り込んだ後に、美味しく食べたものが蕎麦だったのだ。蕎麦を食べるようになってから、五条にさっぱりしたものが好きっておじいちゃんかと突っ込まれて殴り合いの喧嘩になったことがある。あの頃はまだ五条は術式対象の自動選択をマニュアルでやっていたので、無下限術式に阻まれることなく殴ることができた。
     あの頃は今と違い余計なことを考えずにいることができた。ただ、二人で最強なんだと本気で信じていた。
     あの時が、夏油が呪術師になってから、最も楽しいと言えていたのかもしれない。
     何のために術師をしているのか。あの頃は非術師を助けるためだと躊躇わずに言えたことが今はできない。
     非術師に会うと守る価値があるのかとどうしても考えてしまう。
     地元の友人に会いたいと思えないのも、それが原因だった。家に引きこもっていると不審がられるので外出はしていたが、友達と会っていないことは勘の良い母親にはバレていた。
     正直に言って、思っていたよりも体調が回復しないのは夏油にとっても予想外だったのだ。ストレスの原因は呪霊を取り込むことだから、それがなくなれば良くなるものだと思っていたが、思っていたよりも改善されない。
     それだけ今まで蓄積していたストレスが大きいということだが、一般人よりもはるかに身体もメンタルも強い夏油はわかっていなかった。呪霊の発生も落ち着いてきた。もう少ししたら良くなるだろうと軽く考えていた。
     夏油がその考えが間違っていることに気付いたのは翌日のことだった。
     
     東京に戻るための準備を終えた後、夏油が母親と話しているときにそれは起こった。
     急に胃から何かが込み上げてきて、口に右手を当てて激しくせき込む。喉の奥から鉄の味が広がっていく。咳が収まった後、口から手を放して掌を確認すると、そこは血で汚れていた。
     術師になってから自分の血を見る機会は多くなった。吐血したことも初めてではないため、突然の事態でも夏油は冷静でいられたが、すぐ傍にいた母親はそうではなかった。
     夏油が不味いものを見られたと思った時は、時すでに遅し。
     母親は息子の手を凝視していた。夏油がそれを隠そうとするよりも早く、母の手に捕まれる。思っていたよりも強い力で引っ張られて、夏油は掌を上にして開かされる。改めて夏油が吐血したことを認識した母親が焦りだす。
    「何してるの! やだ、血っ! 大変、病院に、救急車呼ばなきゃ!」
    「大丈夫だから、落ち着いて……」
    「大丈夫じゃないから血を吐くんでしょ! 早く、病院に行くわよ!」
     明日、夏油は東京に戻る。胃の中の血管が切れて出血したのならば、家入の反転術式で治療してもらうことも可能だろう。吐血の原因が怪我ではないことに笑われるが、病院で治療を受けるよりも治りは早い。
     母親を宥めるのは骨が折れるが、なんとか言い訳をして夏油はこの場を収めようとしたが、冷静さを失っている母親を説得することができず、夏油は母親に連れられて、近所の総合病院で処置をすることになった。

    「君、よく我慢できたね」
     処置後、担当医から告げられたのは、夏油の状態は本人が考えていた以上に悪かった。
    「他の人ならここまで悪化する前に医療機関を受診するよ」
    「ははは、そうなんですか? そこまで酷いと思ってなくて」
     夏油が誤魔化すように乾いた笑みを浮かべていると
    「笑い事じゃないでしょ! だから、早く病院に行きなさいと言ったのに! 反省してるの?」
     と母親に怒られる。
     体調管理ができなかったことへの反省はしているが、これを言ったらまた母親に怒られそうだなと夏油が考えていると、担当医から二週間程の入院を告げられた。
    「私は都内の学校に通っているため、明日戻る予定だったんですが……」
    「暫く絶対に安静です。学校は退院後に戻ってください。それと――」
     医師は夏油と母親を交互に見た後、少しボリュームを落として続けた。
    「最近強いストレスを感じていますか?」
    「……ええ、まあ」
     呪霊の取り込みにより日常的にストレスを受けているが、今年は例年よりも呪霊発生の頻度が増えたため、ストレスをより強く感じたのは事実だ。
     詳細を伏せながら伝えると、医師はそのストレスが原因の可能性がだと言った。ストレスの原因を解決しないと治ってもまた同じことを繰り返してしまう。学業で悩みがあるのならば、カウンセリングを受けることも考えてほしい。
     医師が病室から去ったあとに、母親が静かに夏油を見つめていた。そして、言いにくそうに思い口を開く。
    「呪術師の仕事が大変なんでしょ?」
    「……」
    「辞めなさい」
     盆に帰省できなくなったとき、仕事が忙しいからだと正直に話したことを失敗したなと思った。多少やんちゃな時もあったが、親元にいた時の夏油は人当たりがよい優等生だった。対人関係でトラブルは起こしたことはない。
     母親も呪術高専の生徒数が少ないことを知っているため、夏油のストレスの原因が学校関係だとは考えていない。
     両親は夏油が呪術高専に進学するときに呪術師の説明を高専関係者から受けている。学生でも呪霊討伐をすることがあり、それは呪術師の仕事の一環のため給料が支払われることも知っている。母親は学生が呪霊を祓うことを告げられた時、夏油に危険はないのかと高専関係者に詰め寄っていたのだ。
     だから、夏油の忙しいの理由が呪術師としての仕事であることを両親は知っている。
     そしてそれがストレスの原因であることに気付いている。
    「傑が人の役に立ちたいと言った時、とても立派だと思った。でも、傑が辛い思いをしてまでするのは反対よ」
    「……今辞めると周りに迷惑がかかる……」
    「学生が辞めて迷惑がかかることないわよ。あなたが辞めても、他に呪術師はいるんでしょ?」 
     母親は夏油が特級呪術師であることを知らない。呪術高専は呪術師を育てる機関だ。学生の息子が現場に出たとしても、他の呪術師のサポートくらいだと思っている。特級呪術師として一歩間違えれば死ぬかもしれない危険な任務に就いているとは夢にも思っていないのだ。
    「あなただけが頑張らないといけない仕事なんて辞めなさい。傑はまだ若いから、呪術師以外の道を進んでもいいじゃない。これから大学に行って、ゆっくりと別の仕事を考えてもいいわ」
     まずは身体を治すことを考えてと告げる慈愛に満ちた眼差しに夏油は居心地が悪くなる。
     両親は、いつも夏油のやりたい事をやらせてくれた。あれこれ口煩く言うのではなく、我が子を信じて息子の選択を尊重してくれたのだ。放任ともとらえられるが、そこに息子への愛情が存在していることを夏油はわかっている。
     呪術師になると決めた時も快く東京へ送り出してくれた。今回も夏油が母親の前で血を吐くことがなければ、心配しながらも見送ってくれただろう。
     両親は善人だ。息子を愛して大切にしている。
     そんな彼らを不安にさせたくない気持ちもあるが、ヘマをして煩わしいことにならないために気を付けてきたのに、こんなところでしくじるなんて思ってもなかった。
    「きちんと考えるから」
     夏油は母親を安心させるように無理やり微笑んだ。

     母が家に帰りひとりになってから、夏油は病室の天井をぼんやりと眺めていた。
     術師を辞める。
     その道を考えたことはなかった。
     術師になろうと思ったのは、自分に呪いを祓う力があったことと、その力は非術師を守るために持って生まれたと信じたからだ。だが、夏油の中で非術師の価値観が揺らいでいる今、術師であり続ける意味もまた揺らぎつつあった。
    「私は術師であるべきか……」
     非術師を見下す自分。それを否定する自分。
     正しいのは後者であることはわかっている。それでも、それを受け入れたくない自分がいるのだ。非術師を見下す自分が、心の深いところに根付いているのだ。
     ストレスの原因はわかっていた。
     呪霊を取り込むことが苦痛だ。なぜ非術師のために苦しい思いをしなくてはいけないのか。そもそもの呪霊の発生原因は非術師にあるのに、なぜ自分が苦しんで呪いを祓わなくてはいけないのか。
    「あ、術死を辞めれば、もう、呪霊を取り込まなくていいのか……」
     あの苦しみがなくなることは、今の夏油にとって、とても魅力的に思えた。
     夏油の術式は呪霊操術で、文字通り取り込んだ呪霊を操作して戦う。呪霊を取り込まなくなれば、手持ちの呪霊がなくなりいずれ戦えなくなるだろう。
     術師を続ければ、呪いを祓って、苦しい思いをして取り込んで、呪いを祓って取り込んでの繰り返しの日々が永遠に続く。そんな状況の中、術師として生きて、その先に明るい未来があるのだろうか。術師としての正しい道を選択することができるのだろうか。
     瞼を閉じるともっと皆と一緒にいたいと泣いた星漿体の少女の死を喜ぶ教徒の顔が浮かんできた。醜い心を持つ人間は一定数いる。そして、それ以上に優しい心を持った人間がいる。夏油の親のように善人は大勢いる。それでも、彼らは呪いを生み出すのだ。
     夏油は右手で両目を覆うと、ハハハと乾いた笑い声を上げた。
    「もう、悟に諭すことはできないな……」
     指先の隙間から虚ろなまなざしが見えた。

     §§§

    「はあ?」
     夜蛾の言葉が信じられなくて、五条は盛大に顔を顰めた。
    「今なんて言いました?」
    「傑が倒れて入院した」
    「それはさっき聞いた。その後」
     苛立ちを隠さずに五条が強く言うと、落ち着けというように夜蛾が右手を上げた。夜蛾にとっても寝耳に水だったのだろう。冷静に振舞っているが焦りが隠しきれていない。夜蛾は静かに空気を吸うとはっきりと言った。
    「傑が退学届を出した」
    「なんで? あいつ、特級だろ?」
     現役の特級呪術師が辞めるなど前代未聞のことである。まだ夜蛾の方で止めているが、このことが学長の、呪術高専の耳に入ったらと思うと今から胃が痛くなりそうだ。
    「傑の携帯に電話したが、出なくて本人から話を聞けていない。詳細はわからないが、傑が倒れたことと関係しているのだと思う」
     帰省する夏油を送り出したとき、彼は酷く疲れているように見えた。連日の呪霊討伐で無理をさせてしまったから、実家でゆっくり休んでほしいと思っていた矢先の出来事だった。
     夏油の倒れた原因は彼の母親から詳しく聞いていないし、本人とも話していないが、疲労以外にも他に原因があるとしたら、見過ごした夜蛾の失態である。
     夏油は問題児であるものの、五条と比べたら聞き分けも良く手のかからない優秀な生徒だった。だから、無意識のうちに夏油ならば大丈夫だと後回ししていたことを今更ながら悔やまれる。
     あの五条とすぐに仲良くなり、彼と肩を並べるほど強い術師になったから忘れてしまいそうになるが、夏油は高専に入学してから術師になった。非術師の家系で育った子供なのだ。
     五条と一緒に居て、楽しそうにしていたから術師として問題なくやっていけると思っていた。
     最近の五条と夏油は同じ任務を担当していない。
    ここ最近の任務は全て夏油一人だ。
     あの時の夏油がどのような顔をしていたのか、追い詰めたような顔をしていなかっただろうか、思い出そうとしても思い出せない。
     そこに、何か大切なものを見落としている気がする。
    「先生、傑の実家の住所教えて。今から、あいつに会いに行ってくる」
     夜蛾は五条に落ち着いて夏油の状況のことを考えてから行動をしろと言えなかった。
     サングラスの隙間から見えた瞳が、何を言っても五条が止まらないことを良く知っていたからだ。
    「わかった。すぐに調べて携帯に連絡する」
     直後、五条が玄関の方へと走り出す。五条の足なら最寄りの駅まですぐに着くが、夏油の実家へは都内の主要なターミナル駅を経由しないといけない。それまでに五条に夏油の実家の住所を伝えなくてはいけない。
     夜蛾は五条を見送ることなく、職員室へ急いだ。

     §§§

     術師を辞めると決めてから夏油の心は穏やかだった。経過観察も順調で数日中に退院できるらしい。
     入院生活は退屈だった。もともと身体を動かすことが好きな夏油が大人しく寝ているのは性に合わなくて、親に無理を言って個室にしてもらい、上京してから遠のいていた音楽を聴き、読書をして退屈をしのいでいた。
     ちょうど一冊の本を読み終わったときだった。外から足音が聞こえたと思った瞬間に病室の扉がダンと音を立てて一気に開いた。何事かと驚いて扉の方を向くと、そこには不機嫌そうな五条が立っていた。
    「やあ、悟。久しぶり。ここは病院だから、あんまり音を立てるな」
     再会早々に夏油は注意した。あまり大きな音を立てると病院の関係者に不審がられる。ここは呪術高専が懇意にしている病院ではないのだから、波風を立てないほうがいい。
     夏油の忠告を右から左に流した五条は、乱雑に扉を閉めると夏油の方へ歩いてきた。そして目の前で止まり、上から見下ろした。
    「どういうことだ?」
    「何が?」
    「高専を辞めるってどういうことだ! 説明しろ」
    「母から説明が言ってると思うけど、聞いてない?」
    「聞いてねえよ! なんで術師辞めるんだよ!」
     興奮して声が大きくなる五条に対して、夏油は冷静だった。
    「ここは病院だから大きな音を立てるなと言っただろう。そこに座りなよ」
     ベッドの横に置いてある来客用の椅子を指さすと、五条は雑に背の部分を自分の方へ引っ張るとそこにダンと音を立てて座った。大きな音を立てるなと二度も注意されたにもかかわらず、聞く耳持たずの態度に夏油は顔を顰めたが、溜息を吐くだけで何も言わなかった。
     いつもなら小言の一つでも言われるのに、それがないことで五条の苛立ちが増していることに気付いたが、それでも夏油は何も言わない。五条が長い脚を左右で組んで、話すように剣呑な視線を向けると、夏油は口を開いた。
    「私は術師に向いていない」
    「……はあ?」
     想像してなかったことを言われたのか、五条が何言ってるんだこいつは、という顔をする。
     夏油だってこんな言い方で五条が納得してくれると思っていないが、向いていないのは事実なのだ。
    「私は術師として正しい道を歩めない。正しい道を正しいと心の底から思えない自分がいる」
     だから辞めるんだよと自嘲するように呟くと、五条は信じられないものをみているかのように目を見開いていた。
    「傑が術師に向いていない? 特級術師が向いてないってなんだそれ……? 意味わかんねえ、だって、お前は強いだろ! 俺たちは――」
    「最強は、悟だけだろ」
     五条の言葉を遮る様に、夏油が放った一言は、病室内に響いた。夏油からの拒絶の言葉に五条が一瞬固まり息を呑む。
    「……本気で言ってるんのか?」
    「本気も何も本当のことだろ」
     夏油が五条と視線を合わせると、今すぐに爆発しそうな感情を必死に抑えているかのように五条は両手を腹の前で強く握りしめていた。白く長い睫毛が小刻みに揺れながら、強い眼差しがまっすぐに夏油を貫いている。
     五条が激高するのも、夏油を親友だと思っているからだ。親友が、自分の認めた人間が術師を辞めることが許せない。これが他の術師ならば、彼らの進退など、五条は歯牙にもかけないだろう。
     夏油は五条の特別なのだ。
     でも、それももう終わる。
     術師を辞めることは五条との決別を意味する。もう、隣にいることはない。
     だから、五条が心置きなく夏油を過去のものにできるように、夏油は五条へ毒を吐く。
    「最強は君だ。悟がいればいいだろう。私は……不要だ」
     夏油が言い終わるとガチャンと椅子が倒れる音がした。そして、夏油が抗うことなく胸元を強い力で引かれると、拳を振り上げている五条が見えた。抵抗しようとは思わなかった。五条が殴って気が済むなら、殴られても良かった。
     だが、ここが病院であることに気付いたのか、それとも夏油が病人だと言うことを思い出したのか、拳が夏油の元に届くことはなく、震えたままゆっくりと落とされる。
     そのとき、夏油の目に映ったのは、親友に裏切られて激高している顔ではなく、悲しく苦しんで泣くのを耐えているように見えた。今まで見せたことのない五条の表情に夏油に動揺が広がる。
     夏油が五条に手を伸ばそうとするよりも早く、五条は掴んでいた胸倉を突き飛ばすと、背を向けて走って病室を出ていく。
    「悟っ!」
     夏油がすぐに追いかけようとベッドから飛び降りたときは、五条はもう見えなくなっていた。夏油は一歩も前に進むことなくその場にずるずると崩れ落ち、小さく呟いた。
    「私は馬鹿だな…」
     五条を傷つけた。五条から離れるのだから、五条がもう夏油をいらないと思わせるために、伝えた言葉は、夏油が考える以上の凶器だったようだ。
     夏油がいなくなっても五条はすぐに忘れて、夏油に出会う前に戻るだけだと思っていた。五条がそんなに薄情な男ではないと知っていたのに、そう思いたかった。
    「簡単に、忘れられるわけがない……」
     夏油の中で五条の存在が大きいように、五条もまた同じなのだ。
     親友と呼び合い、肩を組んで俺たち最強と笑いあった日々は、遠い昔のことではない。二人が出会って過ごした時間は、二人の人生で最も輝いていた青い春なのだから。
     次第に目頭が熱くなり、夏油は天井を仰いだ。蛍光灯の光が眩しくて、右腕で両目を覆う。
     夏油が術師を辞めれば、五条と道が交わることはない。数年経てば疎遠になって、呪術高専で仲の良かった同級生の位置づけになる。過去の存在になるのだ。だから、夏油が五条を突き放したことは正しいことなのだ。年月が過ぎれば、この時の選択が正しいことを証明してくれる。
     正しい選択をしている。それなのに、夏油の心が晴れることなく、後悔が積もっていく。どれだけ時間が経過してもこの想いが消える日はなく、夏油はこの日のことを一生後悔するのだ。これが夏油の罪ならば甘んじで受けるべきだ。
     ズキズキと痛む胸に左手を当てながら、夏油は心の中で親友にごめんと告げた。

     §§§

     五条が夏油の元を訪れてから一日経った。その間、夏油は何もやる気が起きず、愛想笑いを作ることも面倒で、見舞いに来た母親が酷く心配していたが、そのことも良く覚えていなかった。
     ベッドに横たわりながら、夏油の視線は充電器につながった携帯電話に向けられていた。入院してから放置していた携帯電話は、電池がなくなり電源がつかなくなっていた。数日前に母親に充電器を持ってきてもらい数日ぶりに復活したのだ。
     夏油は携帯電話に手を伸ばすと仰向けになりながら携帯電話を操作する。写真が格納されているフォルダを選択すると、最後に撮影した写真が先頭で出てきた。それは先月久しぶり同級生三人が揃った際に撮影されたものだった。表情がいつもよりも乏しくなっている自分を見た後、夏油は携帯電話を操作して、画像を次々と開いていく。過去に戻るにつれ、自分の笑顔が増えていくことに気付く。
     そして、夏油が笑っているときは、五条もまた笑顔なのだ。
     輝いていた日々は遠い昔の記憶ではない。そのことがまた夏油を苦しめるが、いつまでも腐っているわけにはいかないのだ。夏油はもう術師として生きない人生を選んでしまったのだから、これからのことを考えなくてはならない。
     いい加減過去に未練がましくしているわけにもいかないのだ。
     もう、やめようと画像を閉じようとしたときに、不意に電話がかかってきた。突然のことに、出るつもりがなかったのについ通話ボタンを押してしまう。画面に表示された担任の名前を見て、眉を寄せながら切ろうか考えるよりも早く、相手の方が話しかけてきた。
    「傑か?」
     応えなくても問題はないと思いつつ、最期に会った夜蛾の申し訳なさそうな顔を思い出す。夏油は夜蛾のことが嫌いではない。むしろ、問題児だった自分にも正面から向き合ってくれた夜蛾のことは好きだった。
     これが最後かもしれないと思うと、挨拶くらいはしておこうという気になった。
    「……ええそうですよ。お久しぶりです」
    「そうか……傑とずっと話したいと思っていたのに、いざ話すとなると何も出てこない。いや、何を言ったらいいのかわからない。これでは教師失格だな」
     電話口からでも夜蛾は後悔しているように思えた。夜蛾が説得を試みても、夏油は応じる気はない。夏油の中に術師を続ける選択肢がなくなってしまったのだから。用件がそれだけなら、すぐに電話を切ろうと思った。
    「……話の内容はそれだけですか?」
    「いや、話をしたいことも本当だが……悟がそっちに行ってないか?」
    「昨日に来ましたけど」
    「そうか、来たんだな……その後、悟から連絡があったか?」
    「ありませんけど、悟がどうかしたんですか?」
    「実は、昨日に傑に会いに行くと出て行ってから悟と連絡が取れない」
    「え? 悟はまだ高専に戻ってないということですか?」
    「そうだ。悟のことだから大丈夫だと思うが、今補助監督が悟の足取りと追っているところだ。もし、悟と連絡が取れたら教えてほしい」
     夜蛾の言う通り、最強の現代術師に危害を加えることができる人間はいない。五条は無事だろう。だが、今まで五条が無断でいなくなることはほとんどなかったのだ。三日も連絡が取れないとなると異常事態と言えるだろう。五条は御三家の一つである五条家の嫡男だ。いなくなったことが伝われば、実家が騒ぎだす。
    「……」
    「……傑? 聞いているのか?」
    「聞いています」
    「入院中なのにすまんが、頼む」
     向こう側でも夜蛾が頭を下げているような気がした。夏油を訪れた後に五条がいなくなったのならば、原因は夏油にある。知らないふりなどできなかった。
    「……わかりました」
     夜蛾はありがとうと礼を言うと、改めて夏油と話をしたいと言いにくそうに伝える。それにあいまいに答えると夏油は通話を切った。
     夏油は直ぐに五条に連絡する。機械音が数回なった後、無情にもアナウンス音が流れるだけで繋がらなかった。
     クソッと舌打ちをして、夏油は五条がどこにいるのか考える。
     夏油の地元は、五条に馴染みのない場所だ。土地勘のない場所に長居していると思えなかった。田舎は都会と異なり独自のルールがある。都会で当たり前でも、田舎では違うことなど多々あるのだ。都会育ちで、温室育ちの五条がこの地に居続けている可能性は低いが、なぜか夏油まだ五条がここに居るような気がした。
     もし、五条がここに居るのだとしたら、どこにいるのか。この地は広く、五条が目立つ容姿をしているとはいえ、人ひとり見つけるのは容易ではない。五条が何らかの理由でこの場に留まっているとしたら、そこには意味がある。そして、それは夏油にしかわからないことだ。
     夏油は財布と携帯電話を手にすると、スニーカーに履き替えて急いで病室を出ると、人気のない通路を選びながら足早に進み、一階の病室の窓から外に出ると駆け出した。とりあえず、五条がいそうな場所を片っ端から行ってみる。駅周辺の五条が好きなスイーツを食べれるカフェを中心に探したが五条はどこにもいなかった。
    「カフェじゃない?」
     自分の好きなものではないなら、一体五条はどこに行ったのか。
     夏油は過去に五条に話した地元の記憶を辿っていた。
     実家の裏山には地元を一望できる開けたエリアがある。その場所は、地元ではいわくつきの場所であり、あまり訪れる人がいなかった。そこ一本の大きな杉の木があった。その杉の木の根が複雑に入り組んでいて、そこにたまたま子供が入れるくらいのスペースがあり、幼い夏油はそこを秘密基地にして遊んでいたのだ。成長してもう木の根元に入れなくなっても、閑散としたその場所は一人になりたいときに度々訪れていたのだ。そこは夏油にとって思い出の場所であり、仲の良かった地元の友達にも話したことがなかった。
     以前、五条と一緒に見ていたバラエティー番組で、子供の頃の秘密基地の特集をやっていたことがあった。そのときに、五条にその話をしたのだ。
     五条に地元の話をしたことは何回かある。ただ、秘密基地の話をしたときに、誰かに話をしたのは初めてだと伝えると、ふーんなんて興味のない態度を取っていたが、その顔が嬉しそうだったのを覚えている。
     勘だけど、五条がいるとしたらそこだと思った。

     その裏山で呪術高専の黒い制服を着た白髪でサングラスをつけた五条を見つけた時、夏油の地面を蹴る脚に力が入った。さらにスピードを速めて、五条の名前を呼ぶと、洋菓子を食べながら傑の方を向いた。
    「おせーよ、傑。もっと、早く来いよな」
     五条はそう言うと、夏油が毎回地元のお土産として買って帰る菓子を箱から一つ取り出すと、パッケージを破いて菓子を口の中に運んだ。傍には、ジュースの入ったペットボトルが数本転がっている。
     あまりにも緊張感のない五条の様子に、五条を見つけた安堵よりも振り回されたことへの怒りが夏油の中に湧いてくる。
     病院からこの場所まで数キロ離れている。そこをほぼ全力で走ってきた夏油からすれば、呑気に菓子を食っている五条に腹が立つのも仕方がない。
     しかも、もっと早く来いと、夏油が追いかけてくること前提の言い方に、怒るなと言う方が、無理がある。
    「悟と連絡が取れなくなったって、高専は騒いでるけど、君はここでなにをしてたんだ?」
    「傑を待ってた」
    「……私が来なかったらどうするつもりだったんだ」
    「お前、来たじゃん」
     五条の言い方に、夏油が額に手を当てながら、深い溜息を吐く。
     五条は傑に会いに行くと言ったきり、連絡が取れなくなった。その後夏油の元に五条が訪れたのか確認の電話があり、そこで夏油は五条がいなくなったことを聞かされた。夏油が五条を心配して探しに行く。この一連の流れを予想していたのだろうか。
     もし、夏油が探しに来なかったとしてもいずれ、五条は呪術高専のスタッフに見つかるだろう。それまでが、タイムリミットだと考えていたのかもしれないが、五条に振り回されていることには変わりがない。ムカつく。
     夏油は右手を強く握り締めると極力笑顔を作りながら優しい声で言った。
    「とりあえず、一発……いや、十発殴らせろ」
    「嫌に決まってんだろ」
     一瞬で夏油の顔が真顔になり、術式を使って手持ちの呪霊の中で最も強い呪霊を呼び出す。その様子を見ていた五条の口角が上がり、迎え撃とうと準備する。呪霊が顔を出そうとしたときに、突如夏油が術式を解いた。
     夏油とやり合うと思っていた、五条があっけにとられる。
    「やらねーの?」
    「術師を辞めると言ってるのに、術式を使う馬鹿がいるか」
    「つまんねえの」
     夏油はさらに挑発しようとする五条を無視して、地面に置いてあったオレンジジュースのペットボトルを一つ取ると、蓋を開けて飲む。口の中に少しの酸味と甘みが広がり、夏油が眉寄せる。夏油は五条と違って全く食べないわけではないが、甘いものが得意ではない。水分補給するならばお茶か、スポーツドリンクの方が良かったが、なかったので一番の見やすいオレンジジュースを選んだ。
     オレンジジュースを半分ほど飲み干すと夏油はペットボトルを口から離した。右手の親指で口元を拭う。口内に残る甘い味に不快感は残るもの、喉を潤す方を優先させた。
     夏油は五条の隣に座るとそのまま背を倒して大の字で寝転がった。深呼吸をすると、植物の匂いがして、ふんわりと吹いた風が汗でべたついた前髪を揺らす。真上を見上げると、夏油の心情とは正反対の雲一つない晴天が広がっていて、太陽の光がサンサンと照らしていた。
    「悟のせいで、疲れた」
    「俺じゃなくて、傑が悪い」
     悔しいけど、五条の言い分は正しい。五条がこんな手段を取ったのは、夏油が原因だ。でも、やっぱりムカつくのだ。
    「悟、術式を解いて一発殴らせろ。呪力は込めない」
    「……お前さ、自分がゴリラだって自覚ある?」
     ゴリラ呼びに夏油がムッとする。ゴリラとはまるで夏油が脳筋みたいではないか。考えながら行動している夏油にとって、以前脳筋呼びした担任と同列にされたことは腹正しい。
    「私がゴリラなら、悟だってゴリラだろう」
     身長は五条の方が数センチ高いが、体格もほとんど変わらないし体重も大きな差はない。夏油は趣味で格闘技を嗜んでいるが、五条も体術は相当なものである。二人の間で筋肉量もほぼ同じだ。
    「俺は傑と違って繊細でか弱いんだよ。今だって傑のせいで傷ついてる」
    「君のその態度のどこが傷ついてるん――」
     途中で夏油が言葉に詰まった。下から覗いた五条の憂いを帯びた瞳に夏油の胸が苦しくなる。夏油はすまないと口から出かけた言葉を必死に飲み込み、とっさに五条から視線を逸らす。
     居心地の悪い沈黙が続き、何を言うのが正解なのか夏油がわからなくなった。自分はもっとスマートに物事を進められると思っていたが、その認識を改めなくてはならないと現実逃避をしそうになったときに、先に沈黙を破ったのは五条だった。
    「傑は術師本当に辞めんの?」
    「ああ」
    「俺と……友達やめんの?」
     ああと即答することができなかった。喉の奥にものが詰まっているように言葉が出てこない夏油に対して、五条は続けて静かに言う。
    「もう、俺はいらない?」
    「……たしは……私は術師を辞める……悟の隣に私は不要だ」
     五条は勢いよく両腕を伸ばすと夏油の胸ぐらを掴んで声を張った。
    「俺がいつお前のこといらないって言った? 間違えんな、俺が傑を捨てるんじゃない。傑が俺を捨てるんだ!」
    「……術師でない私に何の価値がある」
     夏油が五条と仲良くなったのは、術師としての才能に恵まれ、五条と隣に並べる同等な強さを持っていたからだ。術師でなくなれば、隣に立つ資格を失う。
     いや、もう失ってるのかもしれないなと夏油は思った。同じ特級術師でも最強となった五条と夏油の力量差は、今後広がっていくだろう。夏油がいなくても五条さえいれば、呪術界の均衡は保たれる。呪術界の規定に背く可能性のある夏油はいない方が呪術界のためなのだ。だから、夏油は術師を辞める。
     目を合わせようとしない夏油に、五条が力尽くに引き自分の方を向けさせると、声を上げて言った。
    「ふざけんな! 俺の価値をお前が決めんな!」
     いつも涼しげな碧眼が怒りのこもった眼差しをしていた。
    「術師辞めたぐらいで、俺がお前を嫌いになると思ってんのかよ! それくらいで、なるわけないだろ!」
    「……ならないのか?」
     呆気にとられている夏油が思わず聞き返す。
     五条が自らから絡みに行くのは呪術高専の関係者で、一般人と仲良くしているところを見たことがなかった。だから、一般人には興味がないと思っていた。
    「傑は、俺が術師辞めたら、友達もやめんの?」
     術師でない五条の姿がなかなか想像できないが、五条から術師を取ったら年上を敬えない性格の悪い生意気な子供だけが残る。
    「君みたいな面倒な男の友達をできるのは私くらいだろうな」
     夏油が思わずそう呟くと、五条は両腕を外して夏油を解放するとその肩に顔を埋めた。夏油の視界に、太陽に照らされた綺麗な白髪が映った。柔らかな毛が首元に落ちてくると、五条が耳元で懇願するように囁いた。
    「だったら、離れていくな……」
    「本当に離れなくてもいいのか……」
    「傑は一生俺の傍にいればいいんだよ!」
     術師じゃなくても、ただの夏油傑として傍にいてもいい。
     その一言が心に開いた穴を埋めてくれる。冷めていた心が暖かくなっていく。
     こんなにも心が揺さぶられる。その感情に友情以外の名前を付けてはいけないとブレーキがかかる。これ以上気持ちを育ててはいけない。親友だから傍にいられるのだ。
    「悟、嬉しいけど、そういうのは好きな女性に言ったほうがいい。一生傍にって、プロポーズみたいだ。男に向けて言う言葉じゃない」
     夏油は自分に言い聞かせるように言った。
    「はあ? 何に言って――」
    「悟?」
     話している途中で五条が言い淀んだ。いつもはっきりと口にする五条にしては珍しく、夏油が訝しげに見つめていると徐々に五条の頬が赤く染まっていく。
     照れる要素が今の会話に存在したか? ないから別の何かが原因だろうと夏油が思っていると、五条と目が合って直ぐに逸らされる。もじもじとしている五条の姿に、好きな子と目が合って恥ずかしがっている女子の姿と重なるように見えて、夏油が頭を左右に振った。
     ここまで全力疾走で来たから疲れて思考がおかしくなっているのかもしれない。。
     女子は五条と正反対の守ってあげたくなる、か弱くて可愛い生き物だ。五条を女子と重ねるなど、女子に失礼である。家入に知られたら、夏油の頭沸いてると言う蔑んだ目をされるのか眼科に行けと言われるのかどちらだろうかと考えていると五条が爆弾発言をした。
    「俺、傑のことが好きかもしれない」
    「かも? 心外だな。私は悟のことが好きなのに」
     君は親友だからねと続ける。
     五条の感情は勘違いだと思った。だから、その前に先手を打つ。
    「ちげーよ。友達じゃなくて、恋愛感情の方」
    「……友情を恋愛感情と勘違いしているんじゃないか?」
     五条は呪術高専に入学する前は、友達と呼べる人がいなかった。下の名前で呼ばれることも呼ぶことも初めてなのだ。初めての友達、初めての友情をはき違えているのだ。
     五条の勘違いをどのように正すべきなのかと悩んでいると五条が両手で夏油の顔を挟んだ。
    「だから、違うって! ……もう面倒くさいから、確かめる」
     何をと言う前に夏油の唇がサングラスを外した五条のそれに塞がれる。唇に触れている柔らかなモノ。五条にキスされていると夏油が認識するよりも早く、僅かに開いていた唇の隙間から五条の舌が入ってきた。それが強引に絡んできたときに、ようやく夏油が止めさせようと離れようとしたが、五条の術式に阻まれてできなかった。
     五条の気が済むまで口付けをして離れた後、夏油が互いの唾液で汚れた口元を右手の甲で拭う。手の甲に残る濡れたそれを見て、かっとなった夏油が声を張った。
    「いきなりキスするやつがあるか!」
    「手っ取り早くわかっていいじゃん。やっぱ、俺は傑のことが好きだ」
     五条がムードガン無視の告白をする。
    「マジ?」
    「マジ。傑だったら余裕で勃つから……あ、傑のこと抱きたくなったからこのあとセックスしよーぜ」
     聞いてもない親友の下半身事情に夏油が頭を抱えた。少なくない今までの経験上、抱かれたいと言われたことはあっても夏油を抱きたい男はいなかった。小さくて可愛い男の子ならともかく、自分と同じくらいでかくてごつい男を抱きたいという五条がどこまで本気で言っているのか、測りかねていた。
    「私は男だ」
    「それで?」
    「いやいや、問題あるだろ。悟は五条家の嫡男だろ!? どう考えても恋人が男って不味い」
    「なんで?」
    「いや、なんでって……悟はいずれ結婚するし……」
    「結婚は傑とすればいいじゃん」
    「……いや、日本はまだ同性婚できないから……そうじゃなくて、跡継ぎ作れって言われるだろ」
    「別の俺がガキ作らなくても五条には他にもガキいるから、そのうちの誰かが後継げばいい。俺のガキだからって、相伝持って生まれる保証はない」
     五条家の相伝である無下限呪術を受け継ぐ可能性はあるが、五条がいる限り六眼を持つ子供が誕生することはない。無下限呪術は緻密な呪力操作が必要になるので、六眼を持たないと意味のない術式ともいえる。
     だから、五条の息子が必ずしも次の五条家当主でなくてもいいのだ。
    「だから、俺と結婚しよ」
     真面目な顔で懇願するように五条は言った。
     何でその結論になったんだと突っ込みたかったが、真剣な眼差しの六眼に見つめられると心を見透かされて言葉を失う。
     変顔や残念な言動が多いため忘れがちだが、五条の顔は非常に端正なのだ。雄臭さを感じさせない繊細な美しさがそこにある。
     夏油も世間ではイケメンと言われることがあるが、単純な容姿だけを比べるなら五条の方に圧倒的な差で軍配が上がる。
     さらに残念なことに、夏油は五条の本気のお願いに弱かった。つい分かったと根負けして言いそうになるのをぐっと堪える。
     これは簡単に答えていいものではない。
    「……高専を卒業した後も同じ気持ちなら、結婚するよ」
     それが今の夏油に出せるぎりぎりの答えだった。
     キスをされたのは嫌ではなかった。五条に対して恋愛感情が芽生えているのも気付いている。一生五条の傍にいられるのは夏油にとって幸せなことだろう。
     だが、もともと五条と夏油の距離は近くスキンシップも頻繁にしている。キスはその延長の可能性もあるのだ。時間をおいて少し冷静になったほうがいい。
     だが、五条がその提案に納得するはずがなく。
    「はあ!? なんだ、それ! オマエなもっと男らしくはっきりしろよ!」
    「仕方ないだろ! あとでやっぱりなしとか言われたら私だってへこむぞ!」
    「もうそれ、俺が好きだって言ってるものじゃん! 傑、今からホテルに行くぞ」
     今、ホテルに連れ込まれたら確実に五条に抱かれる。五条の目がマジだった。夏油は女性を抱いた経験はあっても抱かれる経験はない。新しい扉を開くことへの葛藤はまだあるのだ。何とか後回しにしようと頭を回転させる。
    「私まだ入院中だ」
    「なら、退院してから行く。それで腹くくれよ!」
    「わかった」
     夏油が諦めて頷けば、五条の機嫌が急に良くなった。その反応の速さに、夏油は早まったかもしれないと考えながらも、まあいいかと思うのであった。

     二人が一応の決着をした後、不意に夏油の携帯電話が着信音を鳴らした。画面を見れば、そこにあるのは見慣れない番号だったが、市内局番でどこから発信されたのかすぐに検討が付いた。
    「あ、病院抜け出してきたんだった」
     恐らく病院側が、夏油がいないことに気付いてかけてきたのだ。保護者にも連絡が届いていて、戻ったら看護師と母親の両方から説教が待っていると思うと、憂鬱になる。でも、これから五条と過ごす日々のことを思えば、説教も甘んじて受けようという気になった。
     夏油は立ち上がり、服の汚れを軽く落とすと憑き物が落ちた顔でほほ笑んだ。
    「悟、戻るよ。あ、先生には自分から連絡するように」
     担任が心配していたと伝えると、五条は説教と拳骨を思い浮かべてげえと引きつった顔をする。
     その表情を可哀想に思った夏油が
    「今回だけは私のせいだから、一緒に謝るよ」
     と言うと、一人でないことが嬉しかったのか五条が両手を上げて喜んでいた。
     病院に戻った二人が夏油の母親からきっちりと怒られることになるのは、数十分後のことだった。

     §§§

     夏油の退学騒動から半年後。夏油は呪術高専から徒歩五分の家屋にいた。ここは五条家が所有している建物で、現在の夏油の住まいだった。
     どうして夏油がここに暮らしているかというと、夏油の退学届けが認められて呪術師を辞めたからだ。だが、特級術師が止めるという前代未聞の出来事に、上層部が簡単に退学を認めることなく保留扱いとなったのだ。その後夏油が受診したカウンセリングで、危険思想の兆候があったことで、五条がしゃしゃり出て、「俺が傑を監視する」と申し込んで夏油の退学を認めさせたのだ。
    「ここが今日から俺と傑が暮らす家だから」
     退学が認められて呪術高専の寮から荷物を引き払った時に、夏油は次の住居先を紹介された。二人で暮らすには広すぎる住居を前にして、夏油は頭を抱える。
    「……呪術高専を退学した私がここに住むのは百歩譲って理解できるが、どうして悟まで寮を出る必要がある?」
    「傑がいないと面白くねーし。それに、俺が傑を監視する約束で傑の退学が認められたから、一緒に暮らすのは当然だろ」
    「監視の件はわかったけど、ここは私と悟が二人で暮らす家なんだよね?」
    「傑ボケたの? さっきそう言ったじゃん」
    「私はボケてない! この家はどうみても、二人で暮らすには広すぎるだろうが!」
     目の前にある住居は屋敷と呼べるほどの庭付きの日本家屋だった。夏油の実家の五倍くらいの敷地面積はある。映画の撮影で使われそうな豪邸だ。
    「仕方ねーじゃん。高専から一番近いところがここしかなかったんだから」
     夏油は辞めても、五条は東京校の生徒なのだ。学校から一番近い引っ越し先を探したら、この建物だったというわけだ。
    「……そうだとしても、家が広いと掃除とか色々大変だろう。庭の管理の仕方もわからないし」
     夏油としてはもう少しコンパクトな住居に住むと思っていたのだ。庭と日本家屋の手入れの仕方なんて知らない。掃除は嫌いじゃないがまめな方でもない。汚さないように管理ができる自信が全くなかった。だが、五条は夏油の心配をよそにあっけらかんとしている。
    「庭と掃除は別の奴にさせればいいじゃん。傑は何に悩んでんだよ」
    「……」
     これだからお坊ちゃんは。夏油は軽蔑するような目を五条に向ける。
     家を借りる以上、夏油は自分がきちんと管理する必要があると思っている。少なくてもそれが夏油の中の常識なのだ。だけど、世話をしてくれる人が当たり前のようにいる家庭で育った五条の考えは全く違うわけで。
     呪術高専で五条に出会ってから、一人暮らしに必要なことは夏油が教えてきた。自分でできることは自分でする。当たり前のことだが五条には伝わっていなかったようだ。
    「私は他人を上がらせるのは嫌だ。悟はやっぱり高専に戻ったほうがいい」
    「はあ? なんでそうなるんだよ」
    「ここで暮らせば、今まで以上に家事を担当することになる。食事も自分で作らないといけない。そうなると悟の負担が増えるだろ? 少なくても高専だったら、サポートはあるんだからここよりも住みやすいはずだ」
    「オマエこそ俺の話を聞いてた? 俺と傑がここに暮らすのは決定なの。傑が他の奴を家に入れたくないなら、面倒くさいけど二人でやればいいんだろ」
    「二人でやればって簡単にいうけど、悟にできるのか?」
    「高専でもできたんだからよゆー」
     寮暮らしに必要なことを夏油が根気強く教えてようやく五条はできるようになったのだ。あの時の労力を思い出しもう一度行うのかと考えると夏油の気が重くなる。
    「傑は俺と一緒に暮らすのが嫌なわけ?」
     五条は他人の気持ちにまったく興味がないのに、夏油のことに関しては敏感なのだ。特別なんだと態度で示してくれるから、絆されて我儘も許してしまう。
    「まさか、悟と一緒に暮らせるのは嬉しい」
    「だったらそれでいいじゃん。先のことをあれこれ考えても仕方ないし、なにかあったらその時に考えればいい」
     夏油が伝えたことが全く反映されていない、無計画な行き当たりばったりの言葉だ。夏油はいつものように小言を言いかけて唇を閉じた。呪術師として、人としてこうあるべきと説く資格は今の夏油にはないのだ。善悪の定義があいまいになり自分が正しいと思ったことが崩れかかっている。五条は気にしないと思うが、そんな状態の自分が親友にものを申すことを躊躇った。
    「傑?」
     五条が怪訝そうな目で見る。
    「……それもそうだな。たまにはそう言うのもいいかもね」
     夏油が退学できるように五条が尽力してくれたのだ。そのうえ、退学した後も夏油の監視を買って出てくれた。呪術高専に入学したころと比べたらすごく成長している。五条だって考えていないようできちんと考えている。彼の言うことを信じてみるのもいいかもしれない。
     今日から小言を言うのは極力少なくしよう。夏油は五条に説教をしたいわけでも、ケンカしたいわけでもない。できる限り静かで穏やかに過ごしたい。
     だが、五条と一緒に暮らして静かに穏やかに暮らせる日が来るはずもなく。
     結局夏油のその誓いは、三日後に破られることになるのだが、喧嘩をしながらも夏油の笑顔が絶えることはなかった。
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