Black or White「夏油、こんなところで何をやってるんだ?」
夏油が食堂にいると話しかけてきたのは同級生の家入だった。家入は呪術高専の制服姿ではなくラフな部屋着で、その手には見覚えのあるトートバックを持っていた。そのトートバックは家入がいつも風呂場に行くときに持ち歩いているバックである。そこに行く途中に夏油を見つけて話しかけてきたのだろう。夏油もまた少し前に入浴を済ませたばかりで、日中いつもお団子にしてまとめている黒髪を肩付近まで下ろしていた。
「悟を待ってるんだよ」
「五条? ああ、そういやあいつ、今日は任務だっけ?」
「そう」
「待つんならここじゃなくて部屋で待ったら?」
「悟に一緒にご飯が食いたいって言われてね。お願いして用意してもらったんだ」
夏油は食堂のキッチンスペースの方へ視線を向ける。そこにある冷蔵庫の中に、五条と夏油の夕飯が準備されていた。
基本的に寮の食堂は営業時間が決まっているが、事前に申請すれば食事を用意してくれるのだ。自分で温めなおす手間はあるものの、任務で遅くなったときには助かる仕組みだった。
東京都立呪術高等専門学校は都内にあるものの、周囲に民家はなくここは本当に都内なのかと驚かれるほど何もないところにあった。秘匿性の高い情報と呪いを扱うため郊外に建設されるのは仕方のないことだが、周辺に人がいないということはコンビニなどの店もないということだ。夕飯を食べ損ねたからコンビニで買ってこようとしても最寄りのコンビニまで三十分以上かかるため、夏油は直ぐに食べれるカップラーメンを常備している。
「ふーん、そういえばお前等最近一緒に居るところ見ないな」
「……最近悟も私も単独任務が多いからね。最後に悟と一緒に任務に行ったのは一ヶ月くらい前じゃないか」
五条は特級呪術師で、夏油は一級術師である。今年の春頃までは二人で任務にあたることが多かったが、夏になるにつれ呪霊の出現が増加すると呪術師の数が足りなくなり単独任務になることが増えていった。夏油はまだ二年目の呪術師であるが、実力は高く夏油と肩を並べられる術師は少ない。同じ一級術師であっても、夏油はすでに一級呪霊を使役しておりどちらかというと特級よりの一級術師になるため実力は折り紙つきだった。
「……硝子?」
家入は浴場に向かう途中だ。すぐに立ち去ると思っていたのに、なぜか家入は夏油の向かいの席に座った。そして、探る様な視線で夏油の方を見つめる。
「夏油、顔色悪くない?」
「……そうかい?」
夏油は張り付けたような笑みを浮かべて否定するが、医学に精通している同級生は騙されてくれなかった。
「最近は任務も落ち着いてきたんだろ? ゆっくり休めてる?」
「……休めてるよ。ただ、最近は夏バテ気味なんだ」
「そういえば、去年もバテてたな」
北国出身の夏油からすると東京の夏は暑すぎるのだ。日中は猛暑日になることもあり、夜になっても気温は下がらずに熱帯夜が続くことが多くここ数日間は寝苦しい日々が続いた。寮にはエアコンが完備されているが、呪術高専の建物は古くエアコンがない場所もある。そういうところで過ごすと数十分いるだけで汗だくになる。夏油が東京に来て二年目だが、この暑さにはまだ慣れなかった。
「その内慣れると思うけど、東京は暑すぎる」
「まあ、気持ちはわかるけどな。もうしばらくは暑い日も続く。熱中症にならないように気を付けろよ」
「わかってるよ。でも、もし熱中症で倒れたら硝子が助けてくれるんだろう」
「助けねえよ。自分でどうにかしろ」
熱中症は重度になると死に至ることもある。口では否定しても、家入は同級生を見捨てるような人間ではない。もし倒れるなら家入の傍だなと夏油が考えていると、廊下の方が騒がしくなった。バタバタと足音がする方へ目を向けると、待ち人である五条が涼しい顔をしながら食堂へ入ってくる。
「傑、ただいま。あれ、硝子がいる」
「お帰り、悟。さっき硝子と会って話をしてたんだ」
家入がよおと手を挙げれば、五条もそれに応じる。そして、五条は夏油の隣の席に座るとそのまま身体を夏油の方へ倒した。
「今日も働いたー。疲れたー」
「悟、重いんだけど」
「俺、今日も頑張って働いたんだからもう少し労われよ」
「はいはい、悟君は頑張りましたね。よしよし」
夏油は棒読みをしながら自分の右肩にへばりついている五条の頭をポンポンと撫でた。
五条はその扱いが不服だったのか、ムッと唇を尖らせながら我儘を言う。
「心が籠ってない! そういうのじゃなくてもっとこう、優しくしろよ!」
「十分優しくしてるだろう。今日だって悟の帰りを待ってたんだ。それに私だって仕事はしてる。悟の理屈なら私も労わってもらわないといけなくなるけど……悟、どうかした?」
五条が言い返さずに大人しくしていることを不思議に思った夏油は、親友の方を向くと五条が夏油の後頭部をガン見していた。そして、五条は後頭部に指を伸ばすと少しして、夏油の頭皮が引っ張られた後にプチッと何かが抜ける音がした。
「悟、いきなり何をするんだ!」
夏油が急いで後頭部に手を当てる。皮膚の引っ張り具合から、恐らく抜けた髪は数本のみのはずだ。手で触って確かめるが、きちんと髪の感触があることに安堵した。
それにしてもいきなり人の髪を抜くなんて、いくら親友の間柄とはいえ失礼である。夏油の脳内が説教モードに変わる。そのとき、夏油の視界には五条の手が飛び込んできた。
五条は右手の人差し指と親指で何かを挟んでいるような形をしていた。その下に左手を広げると、右手の親指と人差し指を離した。そこから抜かれたばかりの髪の毛が揺れながら、五条の左手のひらの上に落ちた。その手に三人の視線が突き刺さる。それを見た五条と家入が呟いた。
「白だ」
「白いな」
「……」
ありえない。きっと目が疲れているのだ。夏油は一度瞼を閉じてから、再度二度見する。だが、五条の左の掌の上にあるのは、何度見ても一本の白い毛である。
ありえない。夏油の背中に冷たい汗が流れた。
「悟、いたずらはやめろ」
五条の髪は白髪だ。自分の髪を抜いて、夏油の髪のように見せかけたのだと、夏油は思うことにした。
「いたずらなんかしてねえよ。それにこの長さ俺のじゃないし」
五条の掌に乗っている髪は、五条の髪の長さよりも明らかに長かった。
「私ずっと見てたけど、五条は小細工してなかったぞ」
家入は二人の正面に座っていたため、五条がしたことをずっと見ていたのだ。五条が何もしていないのは本当だろう。だが、夏油はそのことを認めるわけにいかなかった。
すると、家入が口を開いた。
「ぷっ、夏油。若白髪は一定数いるから気にすることはないぞ」
苦笑はいつも通りだが、家入は口元に手を当てながら笑いを堪えている。
それに五条が便乗する。
「傑、若白髪おめでとう! あははは!」
「全然おめでたくない!」
夏油はまだ十六歳だ。実年齢よりも落ち着いているところがあるが、さすがに今回のことはシャレにならなかった。白髪が生えるにはまだ早いし、自分に白髪があるなんて認めたくない。
「悟、私は急用を思い出した。先に失礼する」
夏油は急に立ち上がると、言い残すと駆け足でその場から離れた。
「逃げた」
「逃げたな」
「傑と飯食う約束してたのに。硝子、飯がどこにあるのか知らない?」
「さっき、夏油があっちの方見てたから、冷蔵庫の中じゃない?」
五条がキッチンスペースに行きそこ置いてある業務用の冷蔵庫の扉を開けるとそこには二人分の夕食が準備されていた。五条はそれをじっと見つめると二人分の夕食を取り出した。
食堂を飛び出した夏油は洗面台の前にいた。鏡の前で真剣な顔をしながら頭部をチェックする。目に見える範囲に白髪はない。
恐る恐る右腕を上げて後頭部付近の髪を掴むと持ち上げた。五条に引っ張られた辺りを入念にチェックする。手の向きを変えながら調べる。目に入るのは艶やかな黒髪がほとんどだが時々色素の薄い毛が混ざっているような気もする。それが光の加減でそう見えているのか、それとも白髪なのか。
「いやいや、私はまだ十六だ」
口では否定するが、夏油は知識として若白髪の存在は知っていた。若い十代でも白髪が生えることもあるのだ。
夏油は急いでスウェットパンツのポケットに入れていた携帯電話を取り出すと、若白髪の原因とキーワードを入れて検索をした。すると早速ページがヒットする。検索結果の一番上に出てきたリンクをクリックすると、そこに書いてある文字を読んだ。
若白髪の原因は遺伝的な要素があるらしい。夏油は自分の両親の髪を思い浮かべた。父親も母親も年相応に老いているが白い毛はまだそんなに目立っていない。親戚も同様だ。遺伝的な要素は却下する。
次の原因がストレスだった。これには思い当たる節があった。呪術師は呪いを祓うことが仕事だ。それにはリスクがあり、最悪命を落とすこともある危険な仕事である。だが、幸い夏油は呪術師として非常に優秀で、呪術師の道を進んで一年と数ヶ月の間に死にそうな目にあったのは一度しかない。しかも相手は呪いではなく、生身の人間だった。エリート呪術師の家系主審にもかかわらず、呪力を一切持たなかった相手に負けたのだ。夏油の人生の中で手も足も出ずに敗北したのはその時の一度だけだ。
ただ、夏油にとって呪術師を続けていれば本当に死ぬかもしれないという恐怖はストレス源ではなかった。
では何か?
それは、夏油の術式だ。
夏油の術式は呪霊操術といい、降伏した呪霊を取り込んで操ることができる。降伏すると呪霊は黒い球体になる。それを口からのみ込むことで取り込むことができるのだが、この作業が苦痛だった。なぜなら、呪霊は腐った吐瀉物を拭いた後の雑巾を丸飲みしているような味がするからだ。実際は腐った吐瀉物がついた雑巾を丸飲みしたことはないため想像でしかないが、クソ不味いのだ。夏油の中でこの作業が最も大きなストレスだった。
さらにページを読んでいくと、その他には生活習慣も関わってくるらしい。睡眠時間が足りない不規則な生活・偏った食事も白髪が生える原因の一つのようだ。
呪術高専は呪術師が足りないからと夏油に任務を多く割り合えた。そのため睡眠不足や不規則な生活をせざるを得ない状態にもなった。呪術高専に帰ってくる時間が遅くなることも多く、そうなると面倒で食事をカップラーメンで済ませてしまうこともあった。そのうえ、最近は夏バテで食欲が落ちていた。
つまり、生活習慣は良いとはいえない。
「……呪術師は白髪が生える可能性が高くないか?」
このページに書かれていることが本当ならば、夏油が呪術師を続ける限り白髪が生える確率が高くなる。
念のため、他のページも見てみたが、書かれている内容はすべて同じだった。そして、どのページにも白髪を改善する方法は原因を取り除くこと。すなわち、ストレスの削減と生活習慣の改善である。
生活習慣は夏油が頑張れば何とかなるかもしれないが、ストレスの方はそうはいかない。
なぜならば、呪霊を取り込むのをやめることは、夏油にとって手札が増えないことになるため、呪霊操術の特性を最大限発揮できないことになるからだ。呪霊を取り込むのをやめるのはでいない。
詰んだ。
夏油が悲壮感を浮かべながら両手で顔を覆う。
「無理だ……」
夏油の中に呪霊を取り込まないと言う選択肢がない。だが、そうすればストレスにより夏油の髪は白髪へと変化していく。
呪霊を取るか髪を取るか。
夏油は約一分間両手に顔を埋めると、むくっと顔を上げてか髪に映る自分の顔を見た。
瞳に映る自分の顔色は良くない。少し頬がこけているようにも見えるし、いつもよりも肌がカサカサして顔の血色も良くないような気がする。
そのとき、夏油の脳裏に社畜の二文字が浮かんだ。
――呪術高専は、私を働かせすぎじゃないか?
呪術高専は呪術師を育成する専門学校である。夏油はそこに在籍する学生なのだ。それなのに、一級術師になってしまったため、危険な任務に割り当てられることが多く、複数の任務を掛け持ちすることもあり呪霊の討伐数は学生の中では五条と夏油がトップに並んでいる。昨年の夏油の呪術師一年目の討伐数もそこそこ多かった。夏油の討伐数によりも少ない社会人呪術師は多くいる。
そう、夏油は学生にもかかわらず、まるでブラック企業に所属しているかのように働かされている。
去年から呪術師の門をくぐったとは思えない。
このような扱いになったのは、夏油の隣にいた五条の存在が少ながらず影響していたが、その大部分は夏油が呪術師として非常に優秀だったからだ。
夏油はたった一年未満で一級呪術師になった。隣に五条がいるため評価されにくいが、五条に並べる才能を秘めているのだ。だから、夏油の元にも多くの任務を与えられているのだが、優秀故に夏油が呪術高専に入学してまだ二年未満であることを多くの人が失念していた。
夏油は非術師家庭の出身だ。そのため基本的な考えは今まで育った、非術師家庭で得たものになる。
だからブラック企業、社畜という言葉も当然知っていた。
呪術師は適性があり数が少ない。そのため、呪術師を育成する機関として呪術高専が存在する。夏油はそこに所属する学生だ。そう、既に一級呪術師という身分を持っていても夏油はまだ学生なのだ。
学生が現場を知るために実習というカリキュラムが組まれているのことは別におかしいことではない。他の高専でも似たような授業はあるだろう。だが、夏油に与えられた任務の数々は学生という立場から逸脱している。そして夏油の常識は、この事態が異常事態であると告げていた。
学生のみでありながら社会人呪術師以上と才能を認められて任務を与えられている、と夏油の後輩である灰原ならば、前向きにとらえることもできただろう。だが、残念ながら夏油はリアリストだった。
故に、考えれば考えるほどこの状況が異常であるとしか思えない。
呪術師がこの世界を維持するために必要なことはわかる。だが、世間から称賛されることも理解されることのない職業だ。陰ながら人々を守る孤独な仕事でもある。だからこそ呪いを知っている国や仕事仲間に気遣ってほしいのだが、メンタルケアのフォローもない。死と隣り合わせにも関わらずだ。
(……呪術師の働き方は異常だ)
夏油がどれだけストレスをためながら人々を守っても、それに対しての見返りはほとんどなくほぼ放置である。
果たして、夏油の頭皮を犠牲にしてまで頑張らなくてはいけないことなのだろうか?
学生を酷使する職場である。卒業したらさらに任務を割り与えられることになるだろう。なぜなら、夏油は他の呪術師よりも強いからだ。
そのくせ、夏油が活躍していることを面白くないと考えている者も一定数いる。古くからの家柄はその考えが強い。五条と一緒に居る時に嫌みを言いに来る命知らずはほとんどいないが、夏油が一人でいる時は集団で嫌味を言いに来るのだ。
夏油は紳士な振る舞いを心掛けているので手を出されない限りやり返すことはない。度が過ぎた場合は言い返すこともあるが、基本的に波風を立てないようにしている。それは結局夏油に我慢を強いることになるため、これもまたストレスのたまる行為なのだ。
嫌みな術師達。彼らが使えないから夏油が代わりに任務を受け持つことになるのだ。
彼らがもっと強ければ夏油が働く回数も減る。
彼らは呪術師の家系に育ち、呪術師としての恩恵を受けてきた。それにもかかわらず、努力を怠り、非術師家系出身の優秀な夏油を嫉んで邪険に扱う。それならば、彼らのリクエストに応えて目の前から消える選択肢もありだろう。
一級呪術師は他にもいるし、夏油一人が抜けたところで大した戦力ダウンにはならない。
その状況下で夏油が呪術師である必要が本当にあるのだろうか?
夏油には呪術師にこだわる理由がない。
呪術師は人々を守るためにある。その信条でいままでやってきたが、正義感だけで務まるほど夏油は高尚な人物ではなかった。
だから彼の中には呪術師を辞めるという選択肢もあるのだ。
これからの呪術師を続ける未来を想い描いてみても明るい未来が全く見えない。だが、白髪が増える未来が見える。
(よし、やめよう)
即座に結論を出した夏油は直ぐに部屋に戻ることにした。
担任である夜蛾に呪術師を辞めたいと伝えてもすぐ受け入れてもらえると思えない。考え直せと説得させられるだろう。そうなる前にさっさと退散しよう。
決行するならば今夜だ。明日になったら新しい任務を言われるかもしれないのだ。やめると決めたならば、面倒な呪霊討伐は行いたくない。
必要最低限の荷物だけ持って、寝静まったところに抜けだせば、夏油がいなくなっていることに気付くのは早くて明日の朝だ。そのころにはもう始発は動いているし、東京から離れられているだろう。
五条辺りが騒ぎだそうだから、実家に戻るのではなくしばらく海外をぶらついて身を隠すのもいいかもしれない。高校生からやり直すことになったら転入することになるが、夏油は呪術高専で高等教育をほとんど受けていない。一年生からやり直すとなると、周囲の目も少し気になる。高校は止めて高卒認定試験を受けて大学を目指す方がいいかもしれないなと考えているうちに、夏油は寮の自室の前に着いた。
ポケットから鍵を取り出し、鍵を開けようとするがなぜか閉まる。あれと思いながらサイド鍵を回すと、ガチャッと音と共にロックが外れた。
鍵をかけ忘れたのだろうとあまり深く考えずに扉を開けると、中から「おかえりー」と声がする。
部屋の中央にあるソファーで先程別れた五条が堂々と座りながら夏油の方を向いて片手をひらひらさせていたのだ。
「悟、君何をやってるんだ」
「なにって、傑が戻ってくるのを待ってた。だって、これ食ってないだろ?」
五条が視線でこれを伝える。ソファーの前にあるテーブルには、食堂のおばちゃんに用意してもらった定食が二つ置かれていたのだ。
夏油が途中でいなくなって結局食べずにいた定食を五条が持ってきてくれたのだろう。少し前には白髪を散々馬鹿にしたのに。初めてあった頃は、クソガキで今もクソガキだけど、少しだけ他人を思いやることができた五条の成長に、夏油は素直に感動して自然に口元が緩んでくる。
夏油が視線をテーブルから五条に移すと、「早く、食おうぜ」と急かされる。
近づくとおかずから漂う美味しそうな匂いに、空腹感が増してくる。荷物の整理をしてここを出る準備がしたかったけれど、それよりも腹ごしらえが先である。
「悟、持ってきてくれたのか。助かったよ」
「傑が拗ねていなくなっちゃうからさー」
「あれはどう考えても悟と硝子が悪い」
「なに? まだ怒ってんの?」
「……」
笑顔が消え無表情になった夏油を見て、五条が少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「いい加減、飯でも食って機嫌直せよ」
そんな簡単に直せるなら、そもそもストレスなんて溜まらない。五条はストレス無縁の生活をしているため、夏油の気持ちが全く理解できないのだろう。
成長している面もあるけれど、五条は人間としてまだまだ全然ダメなのだ。それでも、陰でぐちぐちいう奴等よりもずっと好感は持てる。
ごはんには罪はない。とりあえず、夏油は遅くなった夕飯を食べることにした。
そして、食べ終わると録画していたお笑い番組を五条と共に観た。ゲラゲラ笑いながらだらだらと過ごす。
こうやって五条と一緒に過ごすのは数日ぶりだった。去年までは当たり前のように隣にいたのに最近は夜も一人でいることが多くなった。
夏油が呪術師を辞めようとしていることを知らない五条は隣で爆笑している。
サングラスを外した素の五条は、爆笑していても顔立ちが整っていて綺麗だった。同じ男の顔を称賛する趣味はないが、五条の顔だけなら誰が何を言おうとも間違いなくイケメンだった。
この顔とも見納めなのだ。
初めて会った時は夏油のことを見下していた五条が、すぐに夏油に興味を持って一気に距離を詰めてきた時、懐かなかったネコが心を許して懐いてくれたようで嬉しかった。
呪術高専に入学して、呪術師になって嫌なことも色々あったが、五条と過ごした日々は間違いなく楽しい出来事だった。
一年と数ヵ月は夏油の人生を色鮮やかなものにしてくれた。
(ありがとう、悟)
感謝の言葉を心の中で呟く。お笑い番組に夢中になっている五条の隣で、笑いながら夏油は明日の算段を考えていた。
その日の深夜に夏油は呪術高専を抜け出した。
§§§
雲一つない青空。透明感のあるエメラルドグリーンの海。気温は高いが海風は涼しくカラッとした暑さ。日本のじめじめとした夏を知っている夏油にとって、この場所は過ごしやすかった。
南国のフルーツをふんだんに使ったトロピカルジュースを一口飲む。果汁100%のしぼりたてジュースは人工的な甘さが一切なく後味もすっきりしていて美味しかった。
パラソルの下、リクライニングチェアで寝転がっていると、日本で過ごした日々が夢のように思えてくる。遠い昔の出来事のようだ。
「私に必要なのはバカンスだったな」
そう、夏油は今ストレスにさらされた身体を休養する名目で、ハワイにきていた。
日本と異なる文化にいるだけで非日常を過ごしているようだ。時間に追われている観光客ではないので、今日のようにビーチでゆっくりと過ごすのもありだし、買い物や観光を楽しむのもありだ。
呪術高専に入学してから一年と数ヵ月しか経っていないが、一級呪術師である夏油の呪霊討伐数は呪術師の中でもトップクラスだ。その報奨金は夏油が数年ぶらぶら遊んでも過ごせるくらいは溜まっていた。
飽きるまでハワイにいて飽きたら次の場所に移動すればいい。海外を一年程ぶらぶらして日本に戻ろうと思っている。両親にはハワイから絵葉書を送った。事後承諾になってしまうが、夏油を呪術高専という怪しい学校に送り出してくれた両親ならば、夏油が生きていることを連絡しておけば好きにさせてくれる。
海外は呪霊が少ない。ハワイは観光地であることも関係しているのか、負の感情が少ない。ハワイに来てから一度も低級呪霊にすら出会っていないのだ。夏油は非常に快適な日々を過ごしていた。
そんな時、突然夏油の視界の先に見知った顔が現れた。
視線だけで人を殺せそうなほど殺気立てている翡翠の瞳と目が合うと夏油は作り笑いを浮かべた。
「やあ、悟。元気だったかい?」
数年ぶりに再会した級友のように話しかける。
「やあ、じゃねぇよ! 傑、なんでいきなりいなくなった」
「……わからないか?」
「わかるか! 朝起きたら傑がいなくて、高専の周りにも実家にもいねぇし、パスポートがなくなってたからダメもとで調べたら日本から出国してるし、もう意味わかんねー!」
先ほどまで怒っていた五条は、途中から置いていかれたことが相当堪えたのか泣きそうな顔をする。
可哀想だなと思いつつ、夏油はいなくなった理由を告げた。
「悟、どうして私に白髪ができたと思う?」
「はあ? 白髪?」
「白髪はストレスによるものだ。つまり私は高ストレス状態にあった。呪術師である以上、私がストレスから解放されることはない。このまま続けたら私の髪は白いものばかりになる。だから呪術師を辞めることにした」
夏油は舞台俳優のように芝居がかった口調で説明する。
「呪術師を辞める……?」
「そうだ。全ては私の黒髪のために」
大真面目で言い切った夏油に、五条は絶句した。マジこいつ正気か? という目で見られても夏油はいたって正気である。
「髪ってそんな理由で辞めるか普通……」
「辞めるに決まってるだろう。私はまだ十六だぞ。十代で私の髪が全部真っ白になってしまったら……想像もしたくないな」
最悪の未来を思い浮かべた夏油が顔を顰めた。
「いーじゃん、髪が真っ白になっても」
「良くない。十代で白髪なんて冗談じゃない」
嫌悪感を隠そうともしない夏油が目の前にいる生まれた時から白髪の親友に向かって言い放つ。
「俺とおそろいだぞ!」
「悟の場合は生まれつき白髪だろう。私は生まれた時から黒髪なんだ。私は六十過ぎるまでは白髪になる予定はない」
「ああ? 傑はストレスで白髪になる様な可愛い性格してないだろ!」
「現に私はストレスで白髪になったんだ。繊細な性格なんだよ」
本当に繊細な人間は、自分から繊細だとアピールしないだろと五条は思った。それを口にする。
「どこが繊細なんだよ。母親の腹の中で繊細さを置き忘れてきた図太い性格のくせに」
「それは悟の性格だろう? それとも、私の白髪が遺伝性のものだとでもいう気か? 言っておくが、私の両親も祖父母も若白髪はいなかった。だから私の白髪はストレスによるものだ」
夏油が絶対の自信をもって断言する。
「呪術高専は私を働かせすぎなんだ。私も人々の役に立つために頑張ったが、ついに身体に限界が来た……白髪ができた……」
夏油が悲痛な面持ちを浮かべた。芝居じみた表情に五条は白目を向けた。
「たかが一本できただけだろ」
「一本でも白髪は白髪だ。これは私の身体が限界だと悲鳴を上げているサインだ」
「本当に限界の奴がバカンスを楽しむか?」
五条の発言をスルーする。
「というわけで私は呪術師を辞めることにした」
「……はあ?」
「それに、私よりも弱いくせに偉そうにする上層部の連中と御三家の連中を相手にするのはいい加減飽きた。毎回同じような嫌がらせに沸点の高い私でもそろそろ我慢の限界に達しそうなんだ。それに私の呪術は非常にストレスが溜まる。ストレスの原因を排除すること――つまり呪術師を辞めることが私の黒髪を守ることにつながる」
「本気で言ってんのか?」
「当たり前だろう。こんな嘘を私は言わない」
「俺から離れる気かよ!」
五条にとって夏油は初めてできた対等の友達なのだ。初めて一緒に居たいと思えた術師でもある。そんなかけがえのない存在である夏油が離れていくのを簡単に認めることができない。
「……私が呪術師を辞めたら悟と過ごす時間は減るだろうね」
「っ――! だったら、呪術師を辞めんなよ!」
「でも、私と悟の関係性が変わるわけじゃない」
「……え?」
五条は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「悟は呪術師を辞めた私は、もう友達じゃないというつもりか? 私は呪術師を辞めた後でも悟のことは友達だと思っているのに、薄情すぎないか?」
「な、友達に決まってるじゃん!」
「だったら、それでいいだろう。寮生活をしていたように一緒に居ることは減ることになるが、私が呪術師を辞めた後も会いたかったらいつでも会える。数ヵ月は海外を放浪しようと思ってるけど、その内帰国するよ」
「それだといつでも会えないじゃん!」
「私が帰国したら会えるようになる」
「却下。俺は会いたいときに傑に会えないのはやだ」
「やだって君は子供か……子供だったな」
図体は大きくても五条は小学生並みの子供だった。五条家の中で最も尊い相伝を持って生まれた五条は、一族から大事に育てられ、どんな我儘も許された。その結果、天上天下唯我独尊を地で行く男になったのだ。
「大体最近の悟は、呪術に夢中で私のことは二の次だっただろう? この数ヵ月は単独任務で会えないことも多かったし、毎日会えなくても問題ないはずだ」
二人で最強だったのは去年までの話。五条は一人で最強になったから、もう夏油と一緒に居なくても大丈夫なのだ。元々友達も少なく五条は一人でも平気な質だ。むしろ過干渉の気味の一族の人間を煙たがっている節がある。監視されるよりも一人でいた方が気は楽のはずだ。
「問題大ありだろ! 寮に戻っても傑がいないのは嫌だ!」
「……暫くの間は寂しいかもしれないけど、直ぐに慣れるよ。それに悟は私以外の術師とも交流を持ったほうがいい」
「いらないって言ったんだろ! 傑のわからずや!」
「誰がわからずやだ。私はもう決めたんだ。呪術師を辞めて海外でゆっくり過ごす」
「だったら、俺も行く」
「行けるわけないだろ。いくら大抵の我儘は叶ったとしても、悟が長期で海外に行くのを許可がでるのか?」
五条は基本我儘だが、今まで家の用事には渋々従っていた。海外に長期滞在したところで五条が身体に傷を負う可能性は低い。最強の現代術師を傷つけられる人間はこの世にいないのだから。とはいえ、五条家の嫡男を海外で好き勝手にさせるわけにはいかない。数百年ぶりに誕生した奇跡の子供を自分たちの手の届かないところで遊ばせるほど、五条家は放任ではないのだ。
だから、夏油は絶対に無理だと思った。
「できるに決まってんだろ」
自分の意見が通らないわけないと五条が自信満々に言う。
本当かと夏油が突っ込みそうになるのを寸前で止めた。
「後で悟を連れ出した誘拐犯と言われたりしないだろうな」
「俺を誘拐できる奴なんてこの世にいねーよ」
現代術師最強の男を誘拐できるものがいると思っていないが、五条家から難癖付けられるのだけは避けたかった。五条家は数百年以上続く由緒正しい名家なのだ。呪術界はもちろん、日本の至る所で顔は効くのだ。子供一人を誘拐犯にするのは造作もないことだろう。
「……わかった。悟も一緒に行こう」
誘拐犯にされる可能性もあったが、夏油は五条を連れて行くことを選んだ。五条の肩に乗っているモノを少しでも軽くしてやりたいと思ったからだ。五条は強い。夏油が他の術師のフォローに駆り出されることは頻繁にあったが、それは五条も同じだ。
我儘大魔王な男ではあるが術師としての仕事はきっちりとやっていた。夏油がいなくなればその分の負担は五条にいく。それを簡単に遂行する実力が五条にはあるが、五条ばかりに負担が増えるのは夏油の望むところではない。
五条はまだ子供なのだ。
子供でいられるうちは五条はもっと遊ぶべきなのだ。
青春は今しかないのだから。
「それで悟はどこに行きたいんだ?」
五条がいそいそとガイドブックを取り出した。いなくなった親友を探しに来たはずなのに、ガイドブックを用意していることを考えると夏油を見つけた後は遊ぶ気満々だったのだろう。仕方ないと思いながら五条を見つめる夏油の眼差しは優しい。
あれもこれもやりたいと言い出す五条に、はいはいと言いながら夏油は全力で遊んでリフレッシュをした。
§§§
夏油が五条に見つかってから十日後、夏油は都内にあるマンションの一室にいた。広々としたリビングは十六歳が暮らすには不釣り合いだったが、夏油は気にせずに広いソファーで寝そべっていた。好きな蕎麦を食べて腹を満たして眠くなったので堂々と昼寝をする。
海外を放浪する予定だった夏油がなぜ都内にいるのかというと、話は数日前までさかのぼる。
五条と一緒に海外に滞在することに決めたが、当然のごとく五条家の許可は下りなかった。だが、五条たちはそれを無視して遊んでいると一族の者が嫡男を連れ戻しにやってきたのだ。
でも、夏油と遊びたい五条が言うことを聞くはずもない。さらに、五条一族の者は大事な嫡男をたぶらかした夏油に対して高圧的な態度を取ったため、我慢することを辞めた夏油の返り討ちにあった。
その二日後、今度は別の者がやってきた。この者は五条をスルーして夏油にターゲットを絞り下手に出ながら説得し始めたのだ。いままで高慢な五条一族しか知らなかった夏油はあっけにとられてつい話を聞いてしまったのだ。さらに彼の口は巧妙でセールストークを仕掛けてきた。
夏油が呪術師を辞めるに辺り、呪術高専が手を出させないようにする。
ストレス過多の夏油がゆっくりと休息できるようにサポートする。
高校への編入の支援や学費、住居、生活費のサポート、頭皮ケア等至れり尽くせりのフォローをすると明言したのだ。
俗物だった夏油は直ぐにこの申し出をいい笑顔で承諾して、帰国することになった。当初五条は面白くなさそうにもっと遊びたいと不満を口にしていたが、支援の条件の中に五条と一緒に暮らすことが入っているのを知ると、直ぐに帰国することに同意したのだ。
今夏油が滞在しているマンションは、五条家に用意されたマンションである。
五条は呪術高専に出向いていて不在だった。
帰国してから入家や元担任の夜蛾に会う機会があった。五条家が呪術高専に手を出させないようにすると言ったのは本当だったようで、夜蛾は何か言いたそうな顔をしていたが引き留めることなく、心配をかけた罰だと一発殴った後に元気にするようにと一言残して去っていった。入家は夏油が呪術師を辞めることを興味なさそうにしていたのに、心配かけた罰だと高い酒を奢らせて帰っていった。
それが数日前の出来事だ。
それから夏油は高校への編入に向けて時々勉強や頭皮ケアをしながらスポーツで汗を流し程よく遊んでよく食べてよく眠る充実した日々を過ごしていた。進められたカウンセリングを受けたところ夏油のストレス耐性は高く心身への影響がみられなかったが、長期間高ストレスにさらされていたことが問題視されすぐに休む様に診断が出たのだ。
そんな状況なので勉強を遅らせても問題はなかったのだが、暇だったので自主的に始めることにした。
今日も午前中に勉強をして昼休憩をした後ジムで汗を流した夏油がマンションの部屋に戻って夕飯の準備をしていると、五条が帰ってきた。
キッチンで料理をする夏油を見つけると、五条が笑顔になる。
「傑、ただいま」
「おかえり、悟」
夏油は五条の方を見ずにフライパンで炒め物をしていると、相手をしてもらえなかったことが面白くなかったのか五条は背後からくっついてきた。夏油の方に顎を乗せて「今日の夕飯なに?」と尋ねてきた。
「悟、火を扱ってるときは危ないから離れろ」
五歳児に言い聞かせるように言っても五条はくっついたままだ。
「もうすぐできるから先に風呂でも入ってろ」
邪魔だ、あっちに行っていろ、しっしと追い払うような仕草をすればしぶしぶ離れて風呂へと向かうためにリビングから出ようとした。
その時、扉の前で五条が足を止めて振り返った。
「デザート買ってきたから、飯食い終わったら食おーぜ」
リビングのテーブルの上には見慣れないパッケージの紙袋が置いてあった。恐らくそれが、五条が買ってきたデザートだろう。二人分にしては大きすぎるように見えるが、夏油が食べれなくても甘党の五条は全部ぺろりと平らげてしまう。
「わかった」
夏油が返すと、五条はリビングの向こうへと消えていった。
呪術師を辞めると決めて約二週間。この間に夏油の生活はがらりと変わった。単調な毎日は退屈だが、五条と二人で暮らす生活も悪くない。当初の予定とはだいぶ異なってしまったが、ストレスから解放されて黒髪を保てる今の日常を夏油は満足していた。