夏五版ワンドロワンライ第69回お題「終わりの日」 全ての始まりの日は、いつだろうか。
この世界に生まれ落ちた日か。初めて家の隅に漂う呪いを視認した日か。
それとも――満開の桜の下で、君と初めて出会った瞬間だろうか。
「素晴らしい、素晴らしいよ」
一歩、また一歩。壁にほとんど凭れるように、ゆっくりと、しかし確実に前へ進んでいく。
「正に世界を変える力だ」
片方の腕が吹き飛ばされたせいで、うまくバランスが取れない。しかし麻痺しかけてはいるが痛覚によって、今にも飛びそうになる意識を、まだ辛うじて留めることができていた。
ここで立ち止まって倒れ込んで、目を閉じてしまえば、すぐに楽になれるとわかっていた。
それでも、夏油自身がそれをよしとはしない。
まだ、なにも成し遂げてはいない。
まだ、諦めていない。
どんなに低い勝率だろうと、夏油は本気だった。あの強大な呪いを手に入れれば、必ず大義を成し遂げられると――世界を変えられると信じていた。
ただあの少年が、乙骨憂太が、夏油の想定以上の能力者だったというだけで。
――いや、もうひとつ。
彼の、彼らの「愛」とやらが、とても強固だったのだ。
それは、今の夏油には持ちえないものだ。
それでも。
夏油はまだ、生きている。
「次だ、次こそ手に入れる!」
砂利を踏み締める音がする。肌に馴染んだ、しかし今は遠い存在となった呪力を全身で感じる。
帳が溶けた空は、まもなく来る朝の色に染まり始めている。
その瞬間、ほんの数秒前まで燻り保っていたすべてが、凪いて消えていく。
この世でひとりだけ、それが可能な相手。
「――遅かったじゃないか、悟」
最期に、見た光景は。
とても美しい色をしていたと、素直に思った。
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「――――から!頼むよ」
妙に、騒がしい。
「びょういん?いやだってさ、連れてけねぇじゃん、こんな怪しいやつ」
誰かが、ひとりで騒いでいる。微かに聞こえる声だけでも、妙に焦った様子で、何かを必死に訴えていた。
「や、警察はもっとダメでしょ。――いやだってさ、ほら…あまりにソックリだから」
その声には、聞き覚えがあった。
というより、ついさっきまで会話をしていた。最期に見た色。最期に与えられた言葉。
あれで、私は終わったはず…なの、だが?
「それはない。だってあいつがここにいるはずない。それは断言できる。別人のはず――なんだけどさ、あまりにその、似てるんだって!」
試しに重い瞼を持ち上げてみる。眩しさにすぐにまた閉じて、再び開ける。そうして瞬きを何度か繰り返すうちに、徐々に目が慣れてくる。
最初に見えたのは真っ白な灯り。太陽とか、月とか、そういうものではない。丸型は丸型だが、自宅の天井にもあった、ごく普通のシーリングライトである。
ライトはもちろん、天井にくっついていて、そこから視線だけを移動させていくと壁に至り、青いカーテンに到達する。
――なんだ、これは。
天国ではありえないが、地獄にしたって奇妙すぎる。これはまるで――ただの部屋の中だ。
それに、すぐ近くで聞こえるこの声。
「汚れてたからとりあえず着物も脱がせたんだけどさ、すっげぇ高そうで…これこのまま洗濯機突っ込んでいいと思う?――あ、やっぱり?でもクリーニング持ってったら怪しまれない?ネタで使うには上等すぎるっしょ」
恐る恐る、そちらへ視線を動かす。
案の定見えたのは、灯りに照らされてキラキラと輝く銀色の後頭部である。最期に見たときより、襟足が少し長い。
立っているせいで――さらに私は寝転んでいるようなので――長身がさらに際立ち、なぜか美々子と菜々子に強請られて連れて行ったスカイツリーを思い出した。
「待てって、な?頼むよ。見た感じ怪我はしてなさそうだけど、頭とか打ってたらやばいじゃん?ちょーっとだけ寄ってちょーっとだけ診てよ、頼む」
右手には、薄型のスマートフォン。そこでようやく、盛大な独り言ではなく、電話の向こうの誰かと話しているのだと気づく。
しかし、ひとりで喚いているヤバいヤツじゃなかったとわかったところで、疑問と不安は1mmも消えない。
この状況は、一体なんなんだ。
いや状況はわかる。どこかの部屋のフローリングの上に寝かされていて、傍らには元親友が誰かに捲し立てている。
問題は、一体なぜこうなったのかということだ。
あの瞬間、私は終わったはずだ。他ならぬ彼の手によって、大義も、夢も、すべてを失ってしまったはずなのだ。
体はひどく怠く、重い。指先を動かすのさえ億劫である。本当ならお決まりに、頰を抓ってみたいところだが、これでも十分わかる。
これは夢ではないのだろう。そもそも、死人は夢など見ないだろう。
「わかったわかった、ダッサイでもダッタンでも買ってきてあげるから!――サンキュ、待ってるね!」
いや獺祭は買うとすればかなり高い――などとどうでもいいことに逃避しそうになった瞬間、通話が終わった。
くるりと、長身が振り向く。
最期に見たときと同じ、遮るもののない青が、私に気づいて大きく見開かれた。
終わりの日は、新たな始まりの日。