【夏五】だって、「猫でも飼おうかな」
あるとき突然、ぽつりと、何の脈略もなく男は言った。
ただの独り言だろうが、新聞を捲る手が思わず止まる。特段疑問にも思わない内容であるが、それが「五条悟」となれば話は別だ。
「猫、ですか。貴方が」
言外に何を不可能なことをと付け加えて、紙面越しに向かい側で踏ん反り返る男を見る。
天井を向いていた視線をこちらへ戻し、拗ねたように唇を尖らせた。ひとつ年上のはずだが、幼い仕草が妙に様になる。
「別にいいでしょ。そういう気分だってだけ」
無理なことは1番僕が知ってる。小さく息をついて、再び背もたれに頭を預けた。
本気じゃないことなんてわかっている。なぜそんなことを言い出したのか、少しばかり気にはなったが、すぐに思い直して紙面に意識を戻した。
関わったって碌なことにはならないことも、よくわかっている。
「なんてことを言ってましたよ」
久しぶりに顔を合わせた後輩との会話は、自然と共通の知人が話題となる。言った後で、自らに呪詛でも吐きそうな顔をするのだから面白い。
話を聞いて、そういえばしばらく会っていなかったと思い出す。半年――いやそれ以上だろうか。
別々の界隈で生きると決めて、それぞれ全く異なる仕事に追われる日々だった。それまでほとんど毎日顔を合わせていたのに、電話すら繋がらない、ごく稀にメッセージアプリでやり取りするだけの日々への違和感は、時間の経過とともに薄れていく。
きっと向こうもそうなのだろうと思っていた。
そんな中、今日は久しぶりに母校を訪れていた。元担任――夜蛾に呼び出されたからである。いつでも、都合がいいときにという、特に切羽詰まった用事ではなさそうだったので、延ばし延ばしにしていたら遅くなった。
どうせなら彼がいるときにと予定を尋ねたことに深い意味はない。久しく会っていなかったらたまには顔を、というそれだけのことだ。
本人には連絡がつかなかったので夜蛾に確認した。今日は午後なら高専に居るはずである。
そうしてまずは夜蛾の話を聞こうと、使い慣れた――しかし記憶よりは少しずつ変わっている談話室で待っていると、出戻ったと聞いていた後輩に会ったのである。
社畜やってた時代はたまに会って一緒に飲むこともあったが、今では同じ理由でほとんど会うことがなかった。こちらもまた、半年ぶりくらいである。
「ええ…悟には無理でしょ」
忙しくてほとんど自宅に帰らない男である。ペットの世話なんて、どう考えてもできそうにない。
「本人も冗談のつもりだったんでしょうが――やはりあの人も人の子ですね。当たり前のことですが」
続けられた言葉に、首を捻った。
「というと?」
「さあ、それはご自分で考えてください」
タイミングを見計らったかのように、補助監督が後輩を呼びに来る。では失礼と、新聞を折りたたんで、記憶よりも逞しくなった気がする後輩はあっさり去っていった。
ひとり残されて、どうにも落ち着かない。
10年前まで確かにここで暮らしていたはずなのに、全くよそのお宅に入り込んでしまった感が拭えなかった。
在学中、特に最後の2年間はたびたび上と衝突していたので無理もない。今こうして平穏に訪ねることができるのは奇跡みたいなものだった。
夜蛾からまだ連絡はないが、立ち上がって談話室を出る。グラウンドの方にでも行ってみようかと思ったのだ。
歩くたびに軋む廊下を進み、記憶を辿ってグラウンドへ1番近い出口を探していたとき。
反対方向から近づいてくる姿に思わず足を止める。
「珍しい人がいるね」
顔の半分を黒い布で覆っているため表情の変化はわからないが、驚いているらしいことは伝わってくる。
今日来ること、夜蛾に聞いていなかったのか。
「どうしたの、何かあった?」
ちょうど長い足で一歩分空いたところで相手の足も止まる。
「久しぶりだね」
互いの視線が絡んだ――実際は見えなかったが――ときに感じた驚きと戸惑いは、今は微塵もない。相変わらず妙に艶やかな唇を歪めて笑みを作り、首を傾げる。
「や…学長に呼ばれてね。今日は空いていたから」
ついでに君もいると聞いたから、とはなんとなく続けられなかった。
「へぇ?何だろうね。何かやらかした?」
「まさか。ちゃんと大人しくしてるだろう?」
もしなにかあれば、最初に気づくのはこの男なのだ。笑みを崩さないまま小さく肩をすくめて、ひらりと手を振る。
「そ。ま、頑張って」
久しぶりに会えてよかった。そのまま去ってしまいそうな手を、思わず掴んでいた。
「悟!」
掴んでから――戸惑った。咄嗟の行動なので、脳みそが言い訳を考えていなかった。
「その、このあと久しぶりに食事でもどうだい?」
結果、下手なナンパのようなセリフが口をついて出た。出てから、後悔する。
私はなぜこんなに必死なんだろうか。
だってなんだか――拒絶されたように感じたのだ。気のせいかもしれないけれど。
黒い目隠しの下で、あの青い目が大きく開かれているに違いない。かつて驚いたときに見せた高専生時代の表情が目に浮かぶ。
「君も、このあと予定はないって聞いた」
言い訳じみた言葉がなおも続く。返事をしてくれない相手に、焦れていた。
しばらくの沈黙は、相手が吹き出した声で破られる。
「お前、なんでそんな必死なの」
お誘いの返事ではなかったが、笑ってくれたことに内心ホッとした。
「…さあ、なんでだろうね」
君が離れようとしている気がして、とはやっぱり言えなかった。
「――いいよ。ひとつ片付けることがあるから、1時間くらい待っててくれるんなら」
「もちろん、待つよ」
ポケットのスマホが震える。夜蛾からの連絡だ。どうやら予定より早くこれから会えるらしい。すでに到着していることを、誰かに聞いたのかもしれない。
「じゃあ、1時間後に談話室で」
「わかった」
「待ってるよ」
上機嫌に応えると、指定された応接室を目指す。なんとなく浮かれていたことは、否めない。
だから、相手の心境なんて想像もできなかった。
「――離れようとしてんのは、お前だろ」