あいおいてせんせぇ、と呼ぶ舌っ足らずな可愛い声が耳に届き、伊作は薬研を碾く手を止めて顔を上げた。
「やあ、いつものお使いだね」
常に開きっぱなしの戸に通じる土間に目をやれば、五、六歳程の幼子がじっと伊作を見上げている。
すっかりここの常連と化している子どもの目的は、今更問うまでもない。
伊作は薬研を脇にやって立ち上がると、注文の入った品を保管している棚に手を伸ばした。
両手のひらに一抱えほどの薬の入った布包みを取り、代金と引き換えに子どもの手の上にそっと優しく置いてやる。
手渡されたものをさも大事そうに抱え込み、ありがとうございます、と子どもがぺこりとお辞儀をした。
十日に一度、こうしてこの子どもは伊作から薬を受け取りにやってくる。
以前は月に一度、それがやがて半月に一度と頻度は狭まり、もうすぐ週に一度となるのも近いのではないかと伊作は踏んでいる。
最もそのことを、目の前のこの幼子に告げるつもりは毛頭ないが。
御加減はどうかな、と尋ねれば、とても元気です、せんせいのおくすりのおかげとはにかみ笑う子ども。
その笑顔が胸の奥に棘となって刺さったような気持ちを隠し、伊作は玄関から出ていく子どもを見送る。
と、走り出る子どもとちょうどかち合うように、大きな影が入り口に立つ。
影は子どもが出ていくのを脇で待ち、姿が見えなくなると同時に入り口の敷居を跨いだ。
「おかえり、お疲れ様」
「…ただいま」
土間に立つ影へ労るように声をかける伊作に、影も被っていた笠を脱ぐ。
大分白髪の割合の増えた黒髪に、厳ついながらも年相応に落ち着いた相貌はようやく顔に年齢が追いついた、と会うたびにかつての学友に誂われている。
もう出会う前よりずっと、長い月日を伊作と共に過ごし歩んできた男。
久々に帰宅した伴侶の変わりない姿に、若かりし頃よりずっと優しく緩んだ目元を撓ませて伊作は微笑んだ。
「調子はどうだい?」
「相変わらず振り回されまくりで参ったもんだ。何せ体力が有り余ってる小さいのが、揃いも揃って一秒たりともじっとしてねえと来た。この歳になると子どもの相手は難儀なもんだぜ」
「その割には、ちっとも疲れたって感じの顔じゃないけどなあ」
「もう疲れてる暇もねえよ…おまけに、たまに本気で怒れば口から魂抜けて話にならねえしよ」
「あっははは!流石学園一ギンギンに怖い、鬼も裸足で逃げ出す地獄のゴリラ先生だ」
「茶化すなっつーの!」
笑いの止まらない伴侶に男の眉間と目尻の皺がますます深くなるが、生徒にそんな馬鹿げたあだ名で畏怖されているのは事実なので反論はできない。
互いに忍術学園を卒業し既に三十数年。五十の大台も見え始めたこの年になって、かつての学び舎に教師として戻ってくることになろうとは思わなかった。
少なくとも男─伊作の伴侶で同期の桜でもある潮江文次郎─は、文武ともに優秀な一流の忍びとしてどこへ行っても重宝がられ、命を終えるのはまかり間違っても畳や布団の上ではないだろうと思い切っていた。
その運命を変えたのが他ならぬ、文次郎に今も寄り添う積年の恋仲である善法寺伊作だ。
元々戦場医として長年活躍したのち、文次郎より一足先に新野先生の後釜としてお声がかかり、校医になるべく母校へと戻っていた。
そんな伊作がある日、伴侶に会うべく母校の門を潜った文次郎に言ったのだ。忍術学園の教師にならないか、と。
はじめは勿論断った。不惑を過ぎて久しいとはいえまだまだ最前線で現役バリバリの忍びだ。後進の育成をするつもりなど毛頭ないと言い捨てたが、伊作は引かなかった。
「まだ若いつもりなのは頭の中だけだ。文次郎お前、この前と同じところをまた負傷しただろう」
「…毎度思うけど何で服の上から見ただけで判るんだよ。こえーわ!」
「前回の時と同じような体の庇い方や歩き方をしてるんだからわからいでか、だよ。勿論今でもお前に敵う忍びなんてそうそう居やしない。けど、綻びは確実に出てきているってことさ」
「それを言われると反論のしようはないが…しかし…」
「お前、昔は学園長になりたいって言ってたらしいじゃないか。今ならまさにそのためのステップアップにぴったりな時期だと思うよ」
「ばっ、いつの話してやがんだ…!とにかく俺はまだまだ現役だ。多少の衰えなんぞギンギンに鍛錬し直せばいくらでもリカバリ可能!引退する気は更々ない!」
「ふ〜ん…」
それならそれでいいけど、果たしていつまで保つかな?
帰る直前に伊作が呟いたそんな言葉を、間もなく文次郎は身を持って思い知ることとなる。
善法寺伊作の最大の強みとも言える『人脈』、これを最大限に駆使され利用され、気付けば文次郎は学園の門の前に教員になるため紹介状を持って立っていた。
優秀な忍びであるお前を失うのは痛いが、あの善法寺殿の頼みとあらば断るわけにはいかぬと、現職場の上司に涙ながらに送り出されたときは、伴侶ながらに底知れぬものを持つ空恐ろしさに、密かに震えたものだった…
そこからはあれよあれよと話がトントン拍子に進み、現在は下級生を中心に教科担当の教師として日々子どもたちの相手に明け暮れているのであった。
「…伊作、さっきの子ども」
「ん、ああ…いつものやつだよ」
「お袋さんの『常備薬』のお使い、か」
「そう」
子どもの相手をするようになったからか。こうして長い休みのたびに学園から伊作の営む小さな薬局に戻ってくるようになった文次郎は、時折見かける子どもの客の様子も気にかけるようになった。
「本当のことは」
「知らないさ。彼のお母さんとも話し合って、彼が解る時が来るまで真実は知らせないって。今はまだ理解のできる年齢じゃないしな」
「まあ、そりゃそうか。お袋さんのためにと買いに行ってる薬が、まさか末期状態の病からくる痛みを止めるための、強力な麻薬だとは、な…」
「今年いっぱい持つかどうか。それでも子どもには弱った姿を、死に怯える様を見せたくないという、本人の強い希望だからね…」
昔ならきっと、子どものために諦めないでほしいと必死で懇願しただろうと伊作はポツリと呟く。
上がり框に座って草鞋を脱ぎながら、文次郎は同じく伊作にポツリと呟いた。
「…伊作、学園に戻ってくる気はもうないか」
「ないよ。僕の全てはもう乱太郎に引き継いである。あとはこうして外部で彼らの助けになれるよう動くだけさ」
「そう、か」
文次郎が学園に教師として戻ってきて程なくして、今度は伊作が逆に学園を突如去っていったのだ。
最も、去ったといっても学園の一番近くにある街に居を構え、薬局を営みつつ学園との提携や連絡も変わらず密に行っており、いうなれば活動内容はそのままに、拠点が学園内部から外部に移っただけのようなものだ。
校医を辞す際にはかつての後輩…伊作の一番の後継者と言われ彼と同じく名高い戦場医となっていた猪名寺乱太郎を召喚し、半ば強引にその座を譲り渡している。
「外にいた方が何かと便利なんだよ。市井の情報もすぐに入ってくるし、学園の名前を使って手に入れられるものも多い。…それに、外にいればこうして、文次郎が帰ってきてくれるから」
「その辺は学園内にいたって同じことだろ」
「気分の問題だよ、気分の」
そう言って伊作は、草鞋を脱ぎ終え立ち上がろうとした文次郎を引き止めるかのようにその肩に品垂れる。
明るく色素の薄い癖のある髪は今も文次郎と違って白髪も少なく、跳ねる毛先は昔のままにふわふわとその鼻先を擽っていた。
戸、開いてるがいいのかよと思いはしたが、久々に甘えてくる伴侶に勿論悪い気がするわけもなく。好きなようにさせる。
「学園でお前と暮らしていくのも、勿論悪くはないんだけど。でも僕にはこの生活が性に合ってるよ」
学園は一見平和を謳歌しつつ、その性質上どこか死の影が常に付き纏う。
だから街の人々の生活の息吹が、戦とは関係のない日常を生きる人々の力が強く漲る空気の中の方が、僕は好きだ。
文次郎は肩に寄りかかる伊作の頭を、そっと抱き寄せた。
「戦と死の臭いには飽いたか、伊作」
「そうかも、しれないな」
「この戦国の世に一際名高き戦場医と謳われた男が、全く腑抜けたことだ」
「そうだな、返す言葉もないよ」
「だがそんなお前だからこそ、俺はこの歳まで飽くことなく惚れて惚れて、惚れ抜いたのだろう。惨たらしい世の中に慣れきってそれを当たり前とせず、決して人の心を失うことなく痛みを忘れず傷つくことが出来る…強い心を持ったお前に」
一寸先のことも解らぬこの世の中だからこそ、悔いのないよう二人で生きると決心し、男同士ながらに妹背に相成ろうと誓い合って幾年か。
時に不運に見舞われて消息不明になり、時に激しすぎる戦に巻き込まれ離れ離れになり、順風満帆とは程遠い道程だった。
けれどそれでもどうにか二人生き延び歳を重ね、若く力に漲った日々はすでに遠い昔の思い出。互いに頭に霜を起き、目尻や口元に刻まれる皺も増えた。
老いぼれと呼ばれるにはまだ早いけれど、それもそう遠くない未来の話だろう。
「恥ずかしいことを当たり前のように言うようになったね、文次郎…」
「ま、それも年の功だ。…口にせずにいたがための後悔は、嫌というほど味わってきたからな」
「そうだな…文次郎には苦労をかけっぱなしだ」
「ふ、そこはお互い様だろう」
いつまでも店先でじゃれ合うのも如何なものかとは思うが、この優しい温もりを手放すのはどうにも惜しくてならない。
こういうところも歳のせいかね、と文次郎は密かに自嘲する。
生涯現役のつもりで、死ぬのは戦場の真っ只中だと信じて疑わぬ忍者のたまごだったあの頃には、想像もしなかった穏やかな今。
そして隣にはあの頃と変わらず、惚れたその瞬間から伴侶と決めた男がいる。
現役とは比べ物にならない刺激もなく生温い世界で、それでも文次郎はもう二度と戦場に戻ろうとは思わない。
そんな生き様も好ましいものだと思えるように、なってしまったから。
いっそこのまま高砂住吉の翁媼を目指すのも悪くはないなと笑う文次郎に、もうとっくにそのつもりだったのだけれどねと笑い返す伊作。
その後も暫く、開け放しの薬局の中から甘い忍び笑いが耐えることはなかった。
戦の絶えぬこの世の中の片隅で、共に相生、相老いて。