カフェ・ボタニカル 私の行きつけの喫茶店には、花を咲かせるように笑う店員がいる。
だがその男、始終ニコニコとしているわけではなく、どちらかといえば仏頂面を見せていることの方が多い。ただ、目が合うと綻ぶように表情を和らげるし、問い掛けに答えればそれを満開にさせるのだ。
人と触れ合うのが好きなのだろう、私とは違って。
早春、新たな仕事に就くためこの地へ来た。
職場近くにあるその店の外観を気に入って立ち寄ったのがきっかけだったが、出す料理もコーヒーもなかなかに美味い。
それからもう三ヶ月ほど通い詰めているが、今は週に数回、食事や茶を楽しんでいる。
件の店員は二十代半ばといったところだろうか。主な仕事は給仕。
座席数はカウンターの他、テーブル席が十席ほどの店内だ、そこまで広くはない。給仕の男はそのテーブルの間をデカい図体で行ったり来たりする。
その風貌は、おおよそ喫茶店のウエイターらしからぬ逞しい体躯に白いシャツを纏い、臙脂色のカフェエプロンを腰に巻いたというもの。
短い髪はその癖故に遊ぶようにあちこち跳ねているが、そのやんちゃな癖っ毛とは対照的に涼やかな切長の目元が目を引く。一見すると冷たくも感じるその面差しだが、先述の通り、笑えばそんな印象はあっという間に崩れ去る。
客観的に総合判断して、大変に魅力的な男だ。つまり、これを目当てに足を運ぶ客もいるだろう。
ついでに言うと、カウンター奥の厨房にはこの男と瓜二つの、だが雰囲気はまた違った色男が見える。店に出てくることは稀なこのコックの男、黒いキャップをかぶって調理をしているのだが、近くへ行ってその顔を覗き込まなくとも遠目に見て十分にその見た目の良さが分かる。
給仕の男はぼけっとした印象があるが、厨房の男は気が利くようで、この店を仕切っているのはあちらだとすぐに分かった。おまけに愛想がいいときている。
三席しかないカウンターがいつ来ても埋まっている理由は明白だ。
しかしなにより出すものが美味い。それに、この店自体の雰囲気が良い。
先に言った通り、外観に惹かれて訪れたのが最初だ。煉瓦造りの古びた建物を蔦が覆い、店先には手入れの行き届いたガーデニングのプランターや鉢植えが並ぶ。
店内にはエアプランツや多肉植物が多く飾られ、広く取った窓からは陽の光がよく取り込まれている。
命の輝きに満ち満ちた、そんな印象を受ける店構えに惹かれたのだ。
今日は午前中に講演をこなし、残る午後の予定は日々の研究業務のみ。
研究職は忍耐強さが求められるが、現状根を詰めても得られるものが無いため、休憩をと散歩がてら外に出た。
初夏の足音を感じさせる陽気の中、新緑溢れる緑道をゆく。
講演のために本日の装いはスーツだ。ネクタイは外してきたが、ついついジャケットを羽織って出てきてしまった。置いて来ればよかったと、ボタンを外し、袖から腕を抜きながら後悔。
青々とした木の葉の揺れる狭間から、きらきらと降る木漏れ日が美しい。
研究室に籠っていては感じることのできない力強い生命の息吹をこの身に浴びて、ひとつ深呼吸。
およそ二十五億年前、シアノバクテリアの光合成により、水中、次いで大気中に酸素がもたらされた。この地球を今の形に近付けた第一歩は、光合成生物と太陽の力によるもの。
その後誕生したあらゆる生物は、今日まで互いに影響し合い進化を続け、多様性を獲得してきた。
私たちはその多様性の恩恵を受け、この地球に生きている。だが、そんな小難しいことは取っ払っても、森林浴は清々しいし、日光浴は気持ちがいい。
そして、気分よく足が向かう先にはあの喫茶店が見えてきた。
頭に浮かぶのは、花開くように笑うあの男の笑顔。そうだ、木漏れ日にもよく似ている。
そんなことを考えながら店のドアノブを引いた。
ウィークデーのカフェタイム。ランチを過ぎればこの店も少し客足が落ち着く。扉をくぐるといつもの顔に迎えられた。
「いらっしゃ……あ、こんにちは!」
私も所謂常連というやつだ。花咲く笑顔のウエイターも、私の姿を捉えるなりその笑みを深めた。
普段から余計な話はしないが当たり前に顔は覚えられているし、こちらも毎度、会釈くらいは返ようにしている。そのまま勝手知ったる店内を進み、窓際のふたり席へ。
自然と目が行くのは窓辺の多肉植物だ。
あぁ、また鉢が増えているな。株分けをしたのだろうか。よく育っていたものなぁ。
植物たちの世話をしているのがウエイターの方なのかコックの方なのかは分からないが、どの植物もひとつの命として、大切に扱われているのはよく分かる。
この店が穢れの無い健全な命で溢れている理由のひとつはこれだろう。
「今日はスーツなんですね。どこかお出掛けだったんですか?」
そこで不意に声を掛けられ意識を呼び戻された。
振り向くと、テーブルには水の入ったグラス。次いで目に入るのは、向かいの席の椅子を引き、当たり前のような顔をしてそこに座る件のウエイター。予期せぬことに面食らい身構える。
相席を許した覚えはないし、なによりコイツは仕事中のはずだが……その、仕事道具であるメニューをこちらに差し出すことなく閉じたままテーブルに置き、頬杖をついてニコニコとしながら私の返事を待っている。
これまでになかった展開だ。
今まで挨拶程度で世間話もしなかったというのに、スーツを着てきただけで急展開も甚だしい。それに、この笑顔をこんなに真っ直ぐに見たのは初めてのことで、些か戸惑う。
「いや……」
「珍しいですよね、スーツ姿なんて」
「……そこの、大学の」
「学生さん? 就活、って感じじゃないけど」
大きな勘違いを起こしているウエイターは途端に敬語を忘れ、身を乗り出してきた。
学生だぁ? どこをどう取ったら私が学生に見える。馬鹿にしているのか、コイツ。
「お前歳は」
「ん? にじゅうご」
「私より十も下だな」
「えっ」
「私はそこの大学附属の植物園に研究員として勤務している。お前より十も歳上で、この店の客だ」
「同じくらいか年下かと」
「ハズレだったな。さあもう」
「研究ってなにするんだ?」
あしらってやったつもりだったが全く響いていない様子の相手は、更にこちらに興味を示すように目を輝かせ、首を傾げて質問を重ねてきた。
年齢と立場をしっかり伝えたはずだが。何故コイツは未だ敬語を使わず客席に腰を据えたままなのか。
「話を聞いていたか……?」
「うん。だから、貴方が普段どんなことをしてるのか知りたい」
「私の仕事のことはいい。お前は自分の仕事をして、客の私にサービスを提供しろ」
「縁壱」
「あ?」
「お前、じゃなくて縁壱。よろしく」
そう朗らかに笑って臆面もなく手を差し出してくる。それをジト目で見下ろし、逡巡。
この男の名は知っていた。厨房の男がそう呼んでいたからだ。そしてこの男は厨房に向かって「兄さん」と呼び掛ける。瓜二つなのは当たり前だな。
さて、相手は十分に無礼だが、私はいい大人だ。求められた握手には応じ、名乗られれば名乗り返すくらいの礼儀は弁えている。
しかし気乗りしていないというのを表情と声にしっかりと乗せ、軽く握手した後すぐにその手を放した。
「……鬼舞辻だ」
「下の名前は?」
「……」
なんなんだコイツは……笑顔でいれば何でも罷り通ると思っているのだろうか。
どうなっているんだと厨房の方に視線を向けると、コックの男は帽子を外し申し訳なさそうに笑いながら頭を下げる。
甘やかしているんだな……なるほど。だから奔放にすくすくと育ってしまった、と。
ハァ。隠さず溜息を漏らしても相手に気にした様子はない。少しは気にしろ。
「俺はね、継国縁壱です、鬼舞辻さん」
「……無惨」
「無惨!」
今コイツ、呼び捨てにしたか? 嬉しそうに破顔して、呼び捨てにしたよな私のこと⁇
「もういいだろ、あっちいけ」
「まだ注文を聞いてない」
「ホット」
「米粉のシフォンケーキはいかがですか? 今日のは俺も手伝って、美味しく焼けたから食べて欲しいな」
「……じゃあそれも」
「ん、分かった。少々お待ちください」
へらりと崩れた笑顔を置き土産にして席を立つウエイターに、開いた口が塞がらない。しっかりとケーキの注文まで取っていなくなった。
こんな接客を受けたのは初めてだ。
カウンター越しに私の注文を厨房へ伝えるその後ろ姿を睨んでいても仕方がないが、破天荒なウエイターから目が離せなかった。黙っていれば兄に似て精悍な美丈夫風だのに、会話をすると随分と印象が変わる。
あの笑顔の力も相まって、絆され、いいように翻弄されてしまう。それもあの男の魅力のひとつだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、程なくして件の人物がトレーに注文の品を乗せて戻ってきた。
「お待たせしました」
ホットコーヒー、それから、たっぷりの生クリームが添えられたシフォンケーキが目の前に置かれた。
それともうひとつ、頼んでいないアイスコーヒーも。
「よいしょ、っと」
「おい、何故座る」
「俺も休憩」
「何故ここで……」
「だってまだ、無惨が今日スーツを着てる理由を聞いてないから」
いけしゃあしゃあと言うが、理由になっていない。当たり前のように先ほどの席に座り直し、客である私より先にアイスコーヒーを口にしている。
ウエイターの目に余る行動に再び厨房へ抗議の視線を投げる。すると目が合ったコックはすかさずソッポを向いて、何やら忙しそうに手を動かし始めた。
お前の弟が客を困らせているんだぞ、まったく……アイスコーヒー一杯分、相手をするしかなさそうだ。
「それを知ってどうする」
「ただ知りたいだけだよ」
「……午前中、講演会だった」
「講演会って、人の前で難しいこと話すのか?」
「まあそんなところだ」
「へぇ、すごいな。先生なんだ」
パァッと表情を輝かせ、無垢な瞳が見つめてくる。
……参ったな。この笑顔の所為で上手く会話の主導権を握ることができない。どうしてこんなに楽しそうに嬉しそうに笑えるのだろうか。
人と触れ合うのが好きなのだろうとは思った。だが度を越して人懐こい。
私はそういうものに慣れていない。困ってしまう。
「さぁ、もういい加減にしてくれ」
「好きなのか?」
視線を外し会話を打ち切り、シフォンケーキのしっとりしたスポンジにフォークを食い込ませた時だった。また質問が飛んできて、結局流れを引き戻されてしまう。
「何が」
「植物が」
ひと口分切り取ったスポンジに生クリームを乗せ、口へ運ぶ。
歯触りも舌触りも、ほんのりとした甘さも優しい。口の中で溶けるようにして瞬く間に無くなったその味の余韻を感じながら、問い掛けの答えについて考えていた。
植物が好きかどうか、なんてことは考えたことがない。
「うまい?」
「っ、ん……なに?」
「シフォンケーキ、美味いだろ?」
「あぁ……美味いよ。薦めるだけのことはあるな」
「そっか。気に入ってもらえて良かった」
ホッとしたように微笑み、またひと口とアイスコーヒーを飲む質問者を眺めながら思う。
甘味は好きだ。疲れていても作業を続けなければならない時に飴やチョコは重宝するし、この店でもよくケーキの他にパフェなんかも注文する。
だが、植物は甘味とは違う。
決して主張しないのに後を引くその味にフォークを誘われながら、話を戻して質問の答えを返した。
「改めて聞かれると、そうだな……好き嫌いは関係ない。仕事だから」
「でも、好きだから研究者になったんだろ?」
「好きというより、興味を惹かれる」
「好きとは違うのか?」
「興味と好意は必ずしも一致しないだろ」
「俺は無惨に興味がある。それは好きってことだと思うのだが」
本日二度目の急展開に、口に持って行ったフォークの手が止まった。
スキ…? コイツが、私を?
「なんで」
「俺の育てている植物たちに優しくしてくれるから。さっきも、そこのハオルシアのこと見てくれただろ?」
視線で窓辺を指して言う、その表情は目を見張るほど愛情深いものだった。
そうか、外の植栽もこの男が世話を……人だけでなく、生き物全てに愛情を向けることができるのかもしれない。私のことまでも好きと言うのだから、奇特な男だ。
「だから……貴方のことが気になっていた、ずっと。それは俺が貴方を好きというのとは違うのだろうか」
「よく知りもしない人間を好き嫌いで括れるのか、お前は」
「よく知らないから知りたいとは思ったよ」
「だったらそれは好意ではなく興味だ」
私の返答を受けたウエイターは、納得がいかない顔でアイスコーヒーを見下ろし黙ってしまった。
私がそう断言できるのは、この男に対して思う気持ちにも同じことが言えるからだ。
目を引くから、店内を忙しなく行き来するのを視線で追ってしまうこともあった。ふとした時にその笑顔を思い出すこともあった。今日のことを振り返っても、予想のできないコイツの言動には、嫌悪感よりも疑問符が浮かぶばかりだった。
それは全てコイツが興味深い男なだけで、好意的に思っているわけではない。
「例えばそうだな……ラフレシアだ」
「ラフレシア?」
落ちていた視線が再び私に集中するのを確認してフォークを置く。それからコーヒーをひと口、その芳しい香りも味わいながら、ぱちくりと目を瞬かせている男に今度はこちらが質問を投げ掛ける。
「世界一大きな花を咲かせるラフレシア、知っているか?」
「ううん、知らない。どんな花なんだ?」
そう言って首を傾げるウエイター。私は彼に、その〝幻の花〟について話して聞かせた。
「生息地はマレーシアとインドネシアの熱帯雨林のみ。茎も葉も根も持たず、昆虫を媒体に受粉し、他の植物を宿主として栄養を吸い取り育つ寄生植物だ。昆虫を媒体にした受粉は確率も低く、やっと受粉してもつぼみの期間が九ヶ月。しかし、その花が咲き誇るのはたったの七日足らずと儚い命。森林破壊の影響もあって生息地を失いつつあることからも、ラフレシアは幻の花と呼ばれているんだよ」
「へぇ……見てみたいな。どんな花を咲かせてどんな香りがするのか」
「興味が湧くだろ?」
「うん」
素直に頷く様子に頬が緩む。この男には欺瞞がない。ひたすらに純粋で、それ故に困惑もするが、悪意のないことが会話をする上での安心感に繋がる。
応えてやらねばと、スマホを取り出し該当のフォルダをタップ。以前、スマトラで見たラフレシアの写真を表示させ、テーブルの中央に置いた。
それを、互いに身を乗り出し額を寄せて覗き込む。
「受粉を手伝う昆虫はハエ。それを誘う香りはまるで、生き物の死骸の腐敗臭。見た目もこの通り、色、質感共にさながら死肉だ」
「っ……すごい」
「しかしこれがこの花の進化の形。種の保存のために獲得した知恵だろう。素晴らしい」
他にも見たいと言うから好きにしろとスマホを差し出すと、次々と画像をスワイプしては食い入るようにして画面を眺めている。現地でのことを聞かせてやるとあれこれと質問を重ねてくる様は少年のよう。
これではまるで植物園の子ども向けワークショップだ。笑ってしまうな。
「さて、どうだ? 興味は湧くだろうが、ラフレシアのことを好きになれそうか?」
「うーん、店には置きたくないかな」
「ははっ、そうだろうなぁ」
「うんでも、無惨は植物が大好きなんだってことはよく分かった」
言い切られ、そうかもしれないと思い至る。
今この男に花の話を聞かせている間、私は確かに楽しんでいた。ほんのひと時だったが良い時間だった。午前中の講演会より余程、濃く充実していたと思う。
返されたスマホを受け取った時、ほんの少し指先が触れ合った。そこではたと気が付く。
こんなに楽しいと感じられたのは、相手がこの男だったからなのでは、ということに。
「おもしろい話を聞かせてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
「ラフレシアのことは覚えた。無惨は俺の名前、覚えてくれた?」
「縁壱」
自分で聞いたくせに、名を呼んでやると照れ臭そうにして残りのアイスコーヒーを一気に煽っていた。縁壱は勢いそのままに席を立ち、けれど私から視線は外さなかった。
「俺もさ……やっぱり無惨のこと、好きだと思う」
それじゃあごゆっくり、と笑ったその顔。見たことのない類の表情だった。
去っていく背中を見ていると、ぐ、と胸が押し潰されるように苦しくなる。その笑顔が脳裏から消えていかない。
生き物は互いに影響し合い、多様性のもと様々に進化してきた。
それとは全く違う話になるが、私の気持ちも縁壱に影響を受け、これまでとは違う形へ移り変わっていきそうな、そんな予感がした。
それが良いことなのか悪いことなのか、今の私には分からない。
【夏の呼び水】
他者と必要以上に心を通わせるのは好まない。
だから現在プライベートな交友は殆ど無く、人付き合いは仕事上の最低限だけ。
私は自分さえ健全であればそれでいい。然れば他者は正直、どうだっていい。
私が憂う存在であれば尚更、近くには置きたくない。余計なものは排除してシンプルに、それこそ植物のように生きていたい。
だが近頃は、プライベートに於いて少々メンタルの起伏が目立つ。
その原因はたったひとつ。たったの、ひとり。
馴染みのカフェの、あのウエイターだ。
職場である植物園から徒歩で数分。静かな緑道沿いに佇むそのカフェは、研究の息抜きにもってこいの、私の憩いの場所だった。
しかし、あの日を境にそれが一変した。
件のウエイターの名は継国縁壱。歳は二十五。
まだ若いながら、兄とふたりで店を切り盛りしている。
事の起こりは、縁壱が〝鬼舞辻無惨という人間を知った〟ことだろう。
それ以来、奴ときたら私が店に顔を出すと、無垢な笑顔で寄ってきては傍若無人な振る舞いをするようになった。
客と店員という立場ながらも同席を余儀なくされ、何や彼やと話し掛けてくるのを躱すこともできない。この私が若造相手に上手く立ち回れず、翻弄され、奴のいいように場を乱されてしまう。
それで済むならまだいい。
困ったことに、それは店を離れても続くのだ。
奴の笑う顔が、声が、ふとした時に浮かぶことがある。ふたりで話したことを反芻するように思い出すこともあった。
その度、記憶の中のあの男の挙止に心が掻き乱される。
溜息の数が増えた。寝付きも悪くなった。眉間に皺が寄っていることも多くなったように思う。
だのに、あのカフェに足を運ぶのをやめられない。
縁壱は私を〝好き〟だと言った。
そんな風に懐いてくる相手を無下にはできない……だなんて殊勝な気持ちは一切無いが、事実、私は奴をあしらえずにいる。
縁壱が私に関心を寄せるように、私も奴には興味を惹かれる部分があった。それは面倒や無駄を排除して生きたいという私のパーソナリティをも揺るがすほどに。
毎度毎度、飽きもせず寄ってくる。うるさいし、煩わしい。厄介で鬱陶しい。
だが、今日はなんと声を掛けてくるのだろうか。どんな表情を見せてくれるのだろうか。どんな話に興味を持ち、奴はそれをどう捉え、どんな言葉を返してくれるのだろうか——
という具合に、縁壱の無垢なる無礼を補って余りある、あの男への好奇心が私をあの店へ誘うのだ。
それに、あそこには心身を浄化させるような桁外れの居心地の良さがある。出すものも美味いしな。
だから私も柄にもなく、こんな頼まれごとを引き受けてしまったのだろう。
数日前、店を訪れた際に縁壱から、仕事の後に都合をつけられないかと打診を受けた。
新メニュー考案中、とのこと。要は閉店後に試作の味見をしろということだ。
奴の鬱陶しさだけを除けば、まあ悪くない話だ。仕事も比較的落ち着いている今、断る理由はなかった。
承諾した時の縁壱の嬉しそうな顔といったらなかったが、客の立場でない状況となると、奴は私に対してどんな姿を見せるのだろうか。
さて、今夜その答えが出る。お楽しみの新メニューがどんなものなのかも。
仕事の後に予定を入れるなんてことはそうそうないからか、日中はなんだかそわそわとして落ち着かなかった。研究業務に支障をきたすのは御免だったから、普段より小まめに休憩を取ったり気分転換に植物園の中を散歩したりと気を紛らわせた。
それでも時計ばかり気にして一日過ごし、店に着いたのは午後六時を少し過ぎた頃。
閉店後にこの店の扉をくぐるのは、勿論初めてだ。
「無惨!」
若干興奮の様相を見せる縁壱に迎えられ、寄ってきた満面の笑みを見上げて思う。
いつもとは違う状況だ、私も一日、多少は興奮状態にあったのだろう。コイツの顔を見たら思い出したようにドッと疲れが出た。
「来てくれてありがとう」
「ああ」
「疲れてる?」
「……そうだな」
「仕事の後にごめん」
「お前……全然悪いと思ってないだろ」
「そんなことない」
「だったらもっと申し訳なさそうな顔をしろ」
なんとまあ嬉しそうに笑うのだろうか。
お日様に向かって飛び立たんとするタンポポの綿毛を思わせる、そんな縁壱の癖っ毛をわしわしと撫で、そのまま小突く。
すると気恥ずかしそうにして、私が散らかした髪を手櫛で撫で付けていた。
「ええと……席、今日はこっち」
ふい、と視線を逸らして歩き出す縁壱の広い背中を追う。
普段、奴は白シャツのボタンをきっちり上まで留めているのだが、今はいくつか外され寛げられていた。トレードマークのような臙脂のカフェエプロンも外しているため、ラフな印象を受ける。
営業中は小さく洋楽がかかっているのだが今はそれも無い。しんとした穏やかな静けさが心地好い。
案内されたのはカウンター席。ここに座るのも、勿論初めてだった。
カウンター越しに迎えてくれたのはこの店のコック。縁壱の兄だ。
「ご無理をお願いして申し訳ありません、鬼舞辻さん」
「どうせコイツの我儘だろう? 構わないよ。今夜は世話になる」
「お世話になっているのはこちらの方です。本当に、いつもありがとうございます」
弟とは対照的に心底申し訳なさそうに話すが、私の返事を受けるとどこか安心したように笑みをこぼしていた。
そこにすかさず横から文句とも取れる言葉が飛んでくる。「我儘なんて」とか「対応に差がある」とかなんとか。全て聞き流したが。
この兄弟、兄の方は本当によくできた男に思う。
言葉を交わしたことは殆ど無いが、厨房にいながらも店内の様子はしっかりと把握しているようだし、客ばかりか弟にまで気を配り、フォローしているのは一目瞭然。
所作はまるで武道のそれだ。
しっとりとした雰囲気を持ちながら精悍さも見て取れる。だが愛想も良く礼儀も弁え、細やかな心配りもできる。文句の付けようもない、このカフェの主人だ。
名は確か……巌勝だったか。
この男は、真夏の夜に大輪を咲かせるヨルガオを思わせる。
ヨルガオは英名をムーンフラワーというだけあって、純白の花は闇夜に浮かぶ月ように美しい。上品な甘い香りを放ち、妖艶さも纏う花。
厨房を覗くことができるカウンター席が常に埋まっている理由を鑑みれば、このコックをヨルガオに喩えるのは間違いではないだろうな。
そして問題の弟、縁壱だ。
今夜もいつの間にやら私の隣の席に座っている。ちゃっかりと椅子の距離まで詰めて。既に腕がぶつかり合っているというのに更に身体を乗り出してくる始末。
この男も黙っていれば妙な色気を醸しているのだが、話せば途端にその印象が変わる。
兄がムーンフラワーなら、弟は間違いなくサンフラワーであろう。笑うと眩しいほどの大輪を咲かせる愛嬌のある男だ。
素直で飾り気のない真っ直ぐなところには好感が持てる。
だが、若干の一方的な圧を感じることも少なくない。それ故に、扱いづらい。
おそらく兄に大層甘やかされてきたのだろう。この男を甘やかしてやりたくなる気持ちは分からんでもないが、こちらにとっては迷惑千万。
「近い。離れろ」
「俺も無惨と話したい」
「そんなに寄らなくても話せるだろ」
「隣に座れることなんてそうそうない。だからこれがいい」
「よくない」
「いい。俺はこれがいい」
そこに小さな吐息の笑い声。
そちらに視線をやると、両手にプレートを持ったコックが目を細めていた。
「縁壱、勝手ばかり言うと鬼舞辻さんが帰ってしまうぞ」
「帰……っ、らないよな?」
「これ以上お前の相手ばかりさせるなら帰る」
「やだ。黙るから、兄さんのケーキは食べていってくれ」
「そのつもりで来たんだ。お前は私に無駄足を踏ませる気か?」
「ううん……」
兄の言葉で急にしおらしくなった縁壱の頭をポンとひと撫で。それを見届けたコックが私と縁壱の前にそれぞれプレートを置く。
当たり前にふたり分の用意をしているところに感心してしまうな……本当に弟に甘い。
しかし、もしかすると私への配慮もあるのだろうか。ひとりよりもふたりでの方が気負わずに楽しんで試食ができるのではと、考えてくれたのかもしれない。
さて、そんなコックが用意してくれた新メニューの試作品。
縁壱はケーキと言っていたが、出されたものを見下ろしなるほどと独り言つ。奴が私に試食を頼んだ理由はこれか。
白いプレートの中央に、まぁるく花が咲いていた。
「アジサイを模したヨーグルトムースのケーキです。アレルギーや好き嫌いは無いと縁壱から聞いていますが……」
「ああ、問題ない」
「良かった。ではどうぞ、召し上がれ」
所謂、営業スマイルというやつだろう。コックの品のある笑みに、ありがとうとこちらも愛想良く微笑んで返し、フォークを手にケーキを眺め入る。
プレートにはブルーベリーのソースと果実でシンプルに飾り付けがされているのだが、やはり目を引くのはアジサイの花だ。
丸いケーキ本体の上にいくつも重なって咲く、小さな装飾花。淡い紫のグラデーションが美しい。その中央には、雨粒を纏ったようなアラザンの蕾がキラキラと輝く。
見頃を迎えたアジサイの端には、小さくも力強さを感じるミントの葉も添えられていた。
「兄さんのケーキ、綺麗だろ?」
「見事な出来だな」
「ミントは俺が育てた子だよ」
「……だからか」
「だからって、なにが?」
「なんだろうな」
「?」
アジサイの立派な葉脈を持つ肉厚の葉を模すに相応しい、鮮やかで張りのある葉をしたアップルミント。縁壱が育てたと聞けば納得だった。
何故だか途端に愛おしくなるそれをフォークの先で捕まえ、花の上から下ろしてそっとプレートの隅へ。
その時フォークの先に触れたこの装飾花はゼラチンだろう。微かな弾力があった。
そのまま美しい花を掻き分けるように、繊細なムースの生地にフォークを差し入れた。
花の下に隠れたヨーグルトムースは純白で、薄く敷かれたスポンジと二層になっている。
ひと口分切り分け、ゼラチンの花と一緒に口へ。すぐにふわりと溶けて消えた。だが、爽やかな酸味がしっかりと舌を楽しませてくれる。
「花はレモンとライチのゼリーです」
「ん、なるほどライチか。香りが良い」
「ブルーベリーソースとも合いますよ。一緒に食べればまた違った味わいになります」
「俺も、いただきます」
まず私が食べるのを待っていたらしい縁壱もフォークを手にした。
それを視界の端に捉えつつコックの話に頷き、次はムースにソースを絡めてもうひと口。ブルーベリーソースは少量でもきっちりアクセントとなり、うんと舌鼓を打ちながら隣へと視線を動かす。
フォークを扱う大きな手が大切そうにケーキを切り分けて、大きく開けた口には不釣り合いな、ささやかな量がそこに消えていった。
それがなんだかとても愛らしく感じられ、図らずも頬が緩む。
兄に絶賛の言葉を送るその横顔は幸せそうに綻び、見ているこちらまで胸がいっぱいになるようで目が離せなかった。これでは甘やかして当然だな。
「鬼舞辻さん」
「…………」
「鬼舞辻さん?」
「無惨、どうした?」
「っ、悪い。なんでもない」
言い訳さえ浮かばない。ただ、見惚れていた。
やはり縁壱が咲かせる笑みには他者を惹き付ける力がある。他に客がいないことで奴もリラックスしているのか、纏う雰囲気はより柔らかで、甘い。
目の毒だな、と視線をプレートに戻すと同時に、琥珀色が注がれたグラスが視界に入る。
「紅茶……?」
「アールグレイティーです。鬼舞辻さんは普段コーヒーをお飲みになりますが、こちらのケーキには紅茶の方が合うので」
「そうか、ありがとう」
「今日は初夏の陽気でしたのでアイスのご用意ですが、ホットの方がお好みでしたか?」
「いや、冷たいものが欲しかった。しかしお前、コックにしておくのが勿体無いな」
「そうですか? 自分では天職だと……」
「お前のようなよく気が付くアシスタントが欲しいよ」
仕事のぼやきのようになったが、そんな私の言葉にもコックは表情を和らげた。
カウンター越しに交わす雑談を楽しみつつ、出してもらったアイスティーをストレートでいただく。たったひと口で、その芳醇な香りと豊かな風味が気分を変えてくれた。
そうするとムースの味わいもまた姿を変えるから、舌を楽しませるのが巧いと褒めたら照れたのだろうか、コックははにかんで笑みを深めた。
なるほど、これが素の表情か。その笑顔は弟のそれとよく似ていた。
「……なあ、俺は?」
ぶつかった肩。そこにしっかりとした重みを感じる。すると耳元に今し方思い浮かべていた男の不満げな声が届いた。
残り半分もないケーキをまたひと口、パクリといってから声の主へと流し目を送れば、間近に映るのは声色と同じ表情。
目が合うと、少し甘えたようにも見える視線を寄越してくる。
「俺のことも欲しがって」
「はぁ?」
「俺だって無惨のことはよく見てる。一緒に居て損はさせない」
「なんの話だ」
「兄さんのこと、アシスタントにしたいくらいだって……俺は?」
視線同様に甘えた仕草で身体を寄せ、肩を押し付けてくる。強請り方が丸切り子どもだ。
窘める意図を持ってデカい図体をぐっと押し返し、はっきりと言ってやった。
「お前のような餓鬼と仕事はしたくない」
「でも友人にはなれるだろ?」
だがこの男はちょっとやそっとでは折れない。
距離は僅か離れたものの、視線は残したままトンだ駄々を口にした。呆れてしまう。
「お前と私がぁ? 無理だな」
「なんでっ……俺最近、もっと植物に詳しくなりたくて本を読んだり、植物園にも」
「来たのか?」
「うん。会えるかもしれないとも思って……」
言葉尻を小さくさせながらそう言う縁壱は急にこちらから視線を外し、プレートの上の、いつの間にやら残り少なくなっているアジサイのカケラを見つめた。
——常とは違った状況である今夜、縁壱はどんな姿を見せるのか。
その答えがこれか。
これは……参ったな。関係性を変えたい、と。ここまで懐かれていたのは想定外だった。
「どうしてそこまで私に拘る」
「拘ってるわけじゃない。俺も植物は好きだし、縁を繋ぐきっかけなんて些細なことだ」
「悪いが、私はもうトモダチ作りをするような年齢ではない」
「歳は関係ない。俺は無惨が好きだ。もっと話したい」
「……あのなぁ、」
この男はまったく……欲しがれだとか損はさせないだとか、好きだとか。言葉の選び方がストレートで、分かり易いが困惑する。
「話ならしているだろ。普段、ここで」
「俺は仕事中だし、短い時間だ。足りない。全然」
「十分だよ。それに、お前と私で楽しくおしゃべりだなんて想像できない」
「俺は今日も、これまでも楽しかった。無惨と話すのが、一緒にいるのが好きだ。貴方のことが好きだから」
縁壱は私を見ないままに、しかし強い意志を窺わせる言葉をこぼした。
それはあまりにも真っ直ぐで誤魔化しの無い本心だった。これ以上こちらが何を言おうとも、無駄だろうことは明白だ。
胸が騒ぐのを落ち着けようと深い呼吸をひとつ。そんなものでこの胸の痛みがどうこうなるのなら困らないのだがな。
暫し、言葉を探して沈黙。
カウンターの向こうからの居た堪れないという空気を察してチラと視線を送ると、また一段と申し訳なさそうにしてコックがこちらに目配せした。何か言おうとしてくれたのを首を横に振って制し、落花したように項垂れる縁壱の横顔に声を掛ける。
「私には植物しかない。他に興味も趣味もない。だから私にできるのは植物の話だけだ」
答えない縁壱は視線を落としたまま、フォークの先にゼラチンの装飾花を一枚乗せた。
「……地球上に、植物って何種類あるんだ?」
「既知の維管束植物は約二十七万種だが、それがどうした」
「じゃ、話すことたくさんあるな」
落花した花はこちらに視線を戻すなりまたすぐに蕾を付け、それを綻ばせた。
開いた口が塞がらない。実の兄であるコックまで吹き出して笑う始末。
まったく、なんという男だよ。
「それに、俺だって教わるばかりじゃなく知ってることもある。例えばアジサイの、この花のようなものは花弁ではなくて萼が発達したものだってこととか」
縁壱は得意げに言ってフォークの先を咥えた。それから続けて残りも平らげ、プレートの上には奴が育てたというミントの葉だけが残っている。
それを聞きながら私も一緒にもうひと口。唇に付いたムースを舌先で舐め取り、ひとつ縁壱へ問い掛けた。
「では、アジサイ属には毒性を持つものもあることは知っているか?」
「毒? あんなに綺麗なのに?」
「自然界にはそうしたものも多い。アジサイの毒の成分は未だ不明だが中毒を起こすのは確かだ。お前はなんでも食いそうだからな、忠告しておく」
「流石に野草は食べない」
「どうだかなぁ?」
茶化すと納得のいかないような顔をするのが可笑しくて、またひとつ笑い声を重ねる。
本物のアジサイは食えんが、プレートの上のこのアジサイは最後のひと口まで楽しんだ。
終いにアイスティーを口に含むと、これでいよいよ完食となった。美味かった分、名残惜しい。今夜も縁壱には振り回されたが、久方振りに気分が良い。
アールグレイの残り香と共にその余韻に浸っていたかった。だが、そうはさせないのがこの男。縁壱が首を傾げてこちらを見ている。
「なあ、毒があるなら、でんでんむしは? 葉を食べて平気なのか?」
「カタツムリをアジサイの葉の上で見たことがあるのか?」
「んー……ある、と思う」
「だとしたらそれは時期的なものだろ。専門外だが、摂食はしないはずだ」
「そっか。棲み家にしているとばかり」
「ああ、だがアジサイの立派な葉はカタツムリが風雨や天敵から身を隠すにはもってこいのはず。雨の日に葉の裏を探せば雨宿りをするカタツムリとの出会いがあるかもな」
縁壱は私の話を聞きながら、皿の端に寄せていた小さなミントに意識を向けている。
そうだ、見事に咲き誇るアジサイのケーキにも、それに相応しい葉が付いていた。
「お前のアップルミントも立派だよ。兄が咲かせたアジサイに彩りと命を与えている」
言いながら、皿の上からひょいと摘み上げ互いの間に掲げて眺める。それから、重なる葉を一枚唇で挟み、摘み取るようにして食べた。
途端に弾けるように香る、フルーティーな爽やかさ。
「ん、やはり良い香りだ……」
甘くまろやかな清涼感が鼻腔を抜けていく。育てた者の深い優しさを感じるようだった。
しかし……恥ずかしいくらいうっとりとした声が出てしまった。取り繕おうと、咳払い。
褒めてやったというのに縁壱は何も言ってこない。ただ、視線だけは強く感じた。私も私で柄にもないことを言ってしまった気まずさがあり、奴の方を見ることはできなかった。
ばつの悪い思いから逃れようとミントをプレートに戻し、視線はカウンターの向こうへ。
「ジメジメと雨の続く嫌な季節に、見て良し食して良しのケーキだな。美味かったよ」
「ありがとうございます。お口に合って良かった」
「無事メニューに加わった時はまた頼む」
コックはもう一輪、弟によく似た笑みを咲かせ「ごゆっくりどうぞ」と空いたプレートふたつを持って奥へと引っ込む。
するとここまでダンマリだった縁壱が横からシャツの袖をついと引いた。
「無惨」
静かに、何か探るような雰囲気を持った声だった。そんな風に呼ばれて、一体どんな顔をすればいいのか。
曖昧さは弱みだ、他者には見せたくない。だから視線だけを縁壱へ。しかしそれもすぐ逸らすことになった。
「ミント、褒めてくれてありがとう」
「……ああ」
目が合った縁壱の表情はあまりにも穏やかだった。私の曖昧な感情を有した顔とは違う。
見ていられない。だから、グラスの中で溶け出す氷だけを視界に入れて、縁壱のことは追い出す。けれどまたノックをするように袖を引かれてしまう。いつだってそうだ。追い出せたことなどない。
ただの好奇心のはずだ。興味と好意は違う。好意なんてものは——
「無惨は、」
「私は……」
「?」
「ミントを褒めたのではなく、縁壱、お前を褒めたんだ」
「そ、っか……嬉しい」
——好意なんてものは、私には必要ない。関係ないもの——
「兄さんも嬉しそうだった。今夜は本当にありがとう」
「お前は?」
「え、俺?」
「随分と楽しそうにしていたし、嬉しそうだったな」
「だって、無惨の隣に座って一緒に兄さんのケーキを食えるだなんて、最高だろ?」
「……そうか、そうだな。私も楽しかった」
「良かった! それが聞きたかった」
——関係ないもの、だった。
今もまた一際鮮やかに咲いた縁壱の花。それを見ているだけで胸が潰れるほど痛む。
もう、認めざるを得ない。
「まあ今夜は役得といったところだろうな。こればっかりはお前に感謝するよ」
「役得? なんの?」
「子守りの」
「子守り? 誰の?」
「お前の」
縁壱は見開いた目をパチパチと幾度か瞬かせた。それからハッとした後、ムッとした顔を作る。その百面相が可笑しくて可笑しくて、久方振りに声を上げて笑った。
それを止めるように袖をぐいぐい引っ張る縁壱が、不満いっぱいというのがよく現れた突き出た唇を開いて強請るように言う。
「子守じゃなくて、友人がいい」
「私だって子守など御免だ。話をするなら対等な関係がいい」
「! じゃあ」
「考えておく」
戯れ合うような気安い会話が弾む。時間が過ぎゆくのが惜しい。
縁壱が笑えば自然と手が伸びて、良くないこととは自覚しつつも髪を撫で回すのを止められなかった。
後悔するかもしれない。きっと、そうだろうと思う。それでも私はもっと縁壱のことを知りたい。傍で見ていたい。
「梅雨の間も顔を見せてくれるか?」
「ああ、そのつもりだ」
「約束な?」
眼前でぴょこっと立てられた小指。その向こうから、首を傾げてこちらを覗き込まれた。
同じように小指だけ立ててそれに絡ませる。攫うように引き寄せて、微笑みで答えた。
そろそろ入梅となるが、この店はいつ訪れても明るく爽やかだ。
雨は生き物に恵みを与えるが、太陽無くして命を育むことはできない。どんな生き物もきっと、梅雨の長雨に打たれながら太陽を待ち侘びている。
私もやはり、日の光を浴びて過ごしたい。
縁壱の傍はまるで快晴の空の下のようだ。夏を先取りするように、大輪のヒマワリまでも拝むことができる。
とても眩い。あたたかく、心地好い。だから手を伸ばしてしまう、どうしても。
考えなしの欲深い行為だ。だが縁壱はそれを許してくれている。
餓鬼なのも甘えているのも、私の方だ。