むざより沖縄紀行(仮)空
◇
出発は羽田発十時四十一分の便。
年下の恋人と連れ立って、空港の出発ロビーを行く。
縁壱は学生最後の夏。最後の長い夏休みだ。
どこか旅行しようかと提案したら、嬉しそうにしながらもその返事は「無惨の行きたいところでいい」とお決まりの文句。だが我が儘を聞いてやると言えば、それなら海へと即答された。
長期で仕事の休暇を取るのが難しく、海外旅行は断念せざるを得なかった。国内で、奮発して……と考えると、安易だが行き先は沖縄になった。
縁壱とは二年ほど前から一緒に暮らしている。だから私は、奴が旅行の予約確定直後にパッキングを始めたことを知っている。
口にはしなくともその行動からこの旅行を楽しみに思っているのはよく分かって、呆れよりも先に胸がむず痒くなるのを感じていた。
そんな奴と暮らしていればこの私とて柄にもなく、沖縄旅行なんてものを待ち侘びてしまうのも無理はないだろ?
けれどやはりそれも、縁壱には負ける。
昨日、縁壱は仕事終わりの私の帰宅を待って「先に寝る。おやすみ」と、そそくさと寝室へ消えた。いよいよ出発前夜となり眠れないとでも言い出すかと思っていたのに、あまりに素っ気なくて拍子抜けしたほどだった。
しかし今朝、日の出と共に起き出した彼奴めにやいのやいのとせっつかれ、予定よりだいぶ早く自宅を出る羽目になったのだ。
空港内を行く今この時も見た目には普段と変わらないが、縁壱なりに興奮しているのだろうか。
こちらのペースを崩されるのは迷惑な話だが、これまでの行動全て、可愛いといえば可愛い。ついつい甘やかして言うことを聞いてやりたくなる。
◆
ほんの百年ほど前まで、私は人喰いの鬼だった。
死後、地獄での責苦は永劫のように感じたが、再び人に転生してみれば現世での時の経過は元号がふたつばかり変わっただけ。あっという間の脱獄だった。
否、釈放だろうか。年々薄れゆくとはいえ地獄の記憶まで持ったまま今を生きている。これはきっと、神だか仏だかの戒めなのだろう。あまり意味を為してはいないがな。
私は変わらず私のままだ。
だが今は人の世のしがらみさえ愉悦と感じる程度には充実した一生を送っていた。前世はあまりに山あり谷ありであったが、それで言えば千年生きようが数十年ぽっち生きようが、たいして変わらないと言えるだろう。
人の短い生には、鬼として生きた千年にはなかった濃密且つ急激な面白みがある。今は今、これはこれで良いものだ。
なんせ今生ではあの化け物と恋仲なのだからな。これが笑わずにいられるか?
私にとってみれば天地創造級の珍事だ。まさに出鱈目な御伽話を地で行っている。
こんなに面白い人生を送れるのなら人の寿命も満更悪くもない。全く腹立たしいことだが、縁壱に感謝だな。
◇
さて、オンラインチェックインは済ませた。しかし手荷物を預けなくてはならない。
私のトランクと縁壱のバックパック。機内持ち込みができる大きさではあるが、優先的に受け取れることを考えれば預けた方が賢明だ。
しかし……搭乗までまだ一時間以上ある。
「ラウンジで時間を潰すか」
「ラウンジ?」
那覇への空の旅は約三時間。シートはファーストクラスを取った。
つまり保安検査場を抜けた後、出発まで専用のラウンジで寛ぐことができる。
「無駄に早く起こされてもう疲れた。昼食は機内で出るから、軽く何か飲もう」
「機内食が出るのか? 国内線なのに?」
「ファーストクラスだと言わなかったか?」
「え、俺も?」
「どうして一緒に旅行するのにお前だけエコノミーを取ると思うんだ」
目をパチパチさせるアホヅラに阿呆と告げて、ファーストクラス専用のカウンターを目指す。
その短い道すがら、被っている白のストローハットを直すフリをして横目で隣を盗み見た。
縁壱はこの旅行のために買ったというオーカーのシンプルなキャップを被っている。
つまり、奴のトレードマークのような長い髪をバッサリと切ったのだ。
理由は簡単。海で泳ぐのに邪魔だから、とのこと。
いつも頭高くで結い上げていた、背中を隠すほど長さのあった髪。それは奴の前世の姿を思い起こさせる大きな材料でもあった。
全く忌々しいと思うことも度々あったが、しかし今となっては、癖はあっても手触りの良い、あの豊かな髪を愛おしいと感じるようになっていた。
縁壱と恋仲になって以来、奴の前髪が伸びてくると切ってやるのが私の仕事になった。その時に後ろ髪の毛先も少し整えてやっていたのだが、それも先月が最後になってしまった。
切ってしまうのは惜しいと伝えたからか肩より短くはしてこなかったが、今の長さで私がハサミを入れればきっと粗が出てしまう。切ってやるのは難しいだろうな。
今は襟足のところで短く結える程度。くるりと巻かれたその小さな尻尾が、奴の歩調に合わせてひょこひょこ揺れるようになった。
その様がなんとも言えず心を擽るから、少し寂しいが、まあ良しとしよう。
過ぎたことに想いを馳せても始まるまい。
さあ手荷物は問題なく預けることができた。こちらもまたファーストクラス専用となる保安検査場をスムーズに抜け、いざ、そのまま繋がるラウンジへ——と、その前に。
「縁壱、一服してくるから先に行って適当な所に座ってろ」
「待ってる」
「ここでか?」
「ん」
喫煙室の前での問答。
縁壱は落ち着かない緊張の面持ちでこちらを見据えている。そんな顔をする必要がどこにある。ただの、空港のラウンジだぞ?
「子どもじゃあるまいし、先に行け」
「……待ってる」
「行け」
「……」
「じゃあそこに突っ立ってろ」
「そうする」
もしやコイツ、この旅行中こうやってずっと私にくっついて過ごすつもりなのか?
縁壱は元々、私と距離の近いのを好む男だ。普段なら鬱陶しくてたまったもんじゃないが、思い返せばこれまでの旅行先でもこんな様子だったかもしれない。それでも喫煙の間、近くで待たれたことなど一度もなかった。
悄然として、何をそんなに臆することがあるのか。このフィジカルをしてメンタルは案外細やかだということは前世では知り得なかったことだが、それにしたってこのトンだ甘えっぷり。可愛いにも程があるだろ。
「急がなくていいからな」
「これまでお前のために私が急ぎで事に当たったことがあったか?」
「今朝、予定より早く家を出てくれた」
「…………だな」
「だから、ゆっくりでいいよ」
「当たり前だ。私を振り回している自覚があるならこの先は慎め」
「うん」
神妙に頷くのを見届け喫煙室へ入室。早速と電子タバコの電源を入れつつ思うのは、己のどうしようもなく手緩い言行のこと。
縁壱にとってそうなのだから、当然、私にとってもこの旅は特別なものになりそうな予感がしていた。普段は奥ゆかしく従順な奴だ、旅の間くらい多少の見苦しい駄々にも目を瞑ってやろうという気にもなる。
こうやって、奴より私の方が見苦しい姿を晒す羽目になるのだ。一服の間に脳裏に浮かぶのも縁壱のことばかり。
私というパーソナリティーを揺るがすほどの奴の存在感、その影響力には、互いにただの人に生まれ変わろうとも抗えない。
思い煩うように一服済ませて喫煙室を出ると、ピタッと横に寄り添って歩く縁壱に思わず口元が緩んでしまうのだから、我ながら全く、救いようがない。
◇
国内線のファーストクラスは導入されている路線が限られていることから、利用するのは私も初めてだった。
ラウンジは国際線ほど広くはないが、それなりに盛況の様子。バーエリアもちらほら席は埋まっていた。
「飲み物と……軽食!」
「お前、私の話を聞いていたか?」
「機内食だろ? 分かってるよ」
「では何故パンに手を伸ばす」
「早起きしたから腹減った。軽食だし、問題無い」
縁壱はやや歩調を早めてフードコーナーに近付き、早速トレーを手に取った。
軽食と言いながらまさか麺類やカレーに手を伸ばすのではと思わず行動を見張ってしまったが、アイスコーヒーと、それからラウンジ特製のパンふたつを控えめに皿の上に乗せていた。
御満悦を絵に描いたような顔でこちらを振り向く縁壱に呆れた溜息が出る。先程まで居た堪れない様子だったのに、食い物を前にした途端にこれだ。
斯く言う私の手にもグラスがひとつ。ウイスキーの海に浮かぶ氷が揺れている。つまみにアミューズやアペタイザーを二、三、縁壱のトレーに邪魔させてもらった。
昼間から酒が飲めるのは休暇の醍醐味。私も多少浮き立つ心地で空いた席を探し、辺りをざっと見渡した。
そこで目に留まったのは、大きなガラス張りの窓際の席。
「……お子様には丁度いいか」
「何がだ?」
「そこの、カウンター席が空いてる」
「! 駐機場が見える」
ほら、やはり目を輝かせた。
縁壱のこういう素直な反応を見せるところが好ましい。繕わず、欺瞞のないこの男の隣は居心地が好い。疑心暗鬼を生まぬ安心できる場所だ。
共に据え付けのカウンターチェアに座り、被っていたハットを取る。一度髪を掻き上げ軽く整えながら、視線は窓の外へ。
見えるのは別段珍しい景色でもない。だから私の視線は早々に逸れ、隣へと移った。
縁壱はトレーの上の見るからに美味そうなパンには手を付けず、未だ興味津々といった具合に飛行機の行き交う駐機場を眺めていた。その横顔は見ていて飽きない。
「どうして見飽きないんだろうなぁ」
「だって、飛行機に乗ることなんて久しく無かったから」
「お前の話じゃない」
「無惨はよく乗るだろ」
「ん? あぁ飛行機?」
「うん。出張も多いし、旅行だって」
「仕事はな。だが誰かと共に空路で旅するのは初めてだ」
頬杖をつき、グラスを揺らしながらそう告げた。
するとやっと駐機場から外れた視線がこちらを向く。その目は見開かれ、瞬きも忘れていた。
縁壱の驚いたような様子にこちらも首を傾げて見つめるが、奴も見つめ返してくるばかりで何も言わない。
「どうした?」
「あちこち行った話を聞くから、その……誰かと一緒に、かと」
「仕事と、気兼ねないひとり旅ばかりだな。そもそも他人と旅行だなんて面倒なことは御免だ」
「でも、俺とはこの二年で何度か行った」
「そうだな……あぁほら、一昨年お前と付き合ってすぐ温泉に行っただろ。あれが初めてのふたり旅だった」
「へぇ、そうなんだ」
「お前とだけだ、縁壱」
「フゥン」
そう伝えるや否や、縁壱の視線はふいっと逸れて再び正面を向く。矢庭にキャップの鍔を掴み、ぐっと深く被り直した。それから大きな手でパンを掴み、ひと口大にちぎって口に運ぶ。そして噛まずにコーヒーで流し込む。
その慌てた様子と言ったら。それに加えて、目元から耳たぶまでほんのり赤く色付いている。素っ気ない返事の後にそんなものを見せられてしまうと、愛おしさでどうにかなりそうだった。
しかしこちらも照れ臭い。互いに知らん振りできるのもまた、縁壱との心地好い関係性だからこそだろう。
「パン、美味い」
「食事が出るのだから、おかわりも程々にな」
「ん……しかしファーストクラスだなんて、やはり俺には身に余るよ」
「何事も経験だ。それに、長時間お前のデカい図体と窮屈なエコノミーシートで隣り合って座るなど論外」
「座席は広いのか?」
「私も国内線での利用は初めてだが、エコノミーと比べればシートだけでなくサービスも良い」
「なんだか気後れするなぁ」
「機内食を食う気も失せるか?」
「それはない。機内食は初めてだから、楽しみだ」
駐機場を移動する機体をときめくような眼差しで追いながら、縁壱はまたパンを頬張った。些か血色の良くなったその横顔を眺めているだけでこちらも酒が進む。
グラスが空になった後も、やはり縁壱の横顔に見飽きることはなかった。
◇
優先搭乗を経て、やっとシートに腰を据えられた。
別段何かしたわけでもないし、まだ目的地に着いてもいない。だというのに、もう一日分の気力と体力を消耗したような気がする。
普段と違うことをするのは疲れる。それも特別なことといえば聞こえはいいが、体力と食欲だけは未だ化け物じみている縁壱と共に行動するのは骨が折れる。
「顔が見えない」
隣のシートから仕切り越しにこちらを覗き込んでくる縁壱の相手など到底していられない。寝たい。
国際線でのファーストクラス利用経験は何度もあるが、ひと席ごとにプライベートが保たれていて良かったと、この時ほど思ったことはない。ベルトを締め、用意されているクッションを抱えて、さっさとドリンクのオーダーに来てはくれないだろうかと目を瞑った。
「無惨、寝るの?」
「……」
「なあ」
「……」
「お前、食事と一緒にまた酒を飲むのか?」
「……」
「飲み過ぎはよくないよ。あ、でもノンアルのビールがある」
「……」
「俺も飲もうかな。あとで乾杯する?」
「……」
「なあ無惨てば」
「うるさい……酒は飲む。乾杯もする。分かったら少し口を閉じて窓の外でも見ていろ」
「さっきラウンジでずっと見ていたし」
「……」
「腹減ったなぁ」
「……」
「なあ、無ざ」
「口を」
「ン」
「閉じたか?」
「……」
「良い子だ」
睡眠で人生の三分の一を消費してしまうのは大変に惜しいが、眠るだけである程度の体力回復を図れるのは素晴らしいことだ。それに、居眠りの心地好さは何ものにも代え難いだろう。
ウトウトしていたことでウェルカムドリンクの声掛けは気を遣われたようだ。夢と現を行き来する意識の合間、遠く遠くにジェット音を聞きながら結局そのまま暫しの居眠り。ベルト着用サインが消えた音で目を覚ました。
あくびを噛み殺しながら腕時計を確認。どうやら定刻で出発したらしい。
機内食の準備を始めたCAから改めてドリンクのオーダーを聞かれたことで縁壱も私の覚醒に気が付いたようで、また隣からひょこっと顔を覗かせて「眠れたか?」と尋ねてくる。
それを無視して食事を待つ。喉が渇いた。早くよく冷えたシャンパンが飲みたい。
「無惨」
「ん」
「乾杯するんだからな」
「分かってる。はしゃぐな、鬱陶しい」
「はしゃいでない」
「どこがだ」
他所の迷惑にならないようにという配慮なのかジェット音に掻き消されそうな声量だが、それでもこちらを覗き込んでやいのやいのと煩いのを視線もやらずにあしらう。
と、CAが配膳にやってきた。さあ漸く手元にシャンパンが届いた。笑顔を作り、CAに謝辞を。
続いてCAは縁壱の配膳に取り掛かった。すると奴が顔を引っ込めたのを視界の端に捉えたが、飽きもせずまだ仕切りの向こうから声を掛けてくる。
「無惨こそ、はしゃいで飲みすぎるなよ」
「ガキと一緒にするな」
「わ、美味そう……ありがとうございます。いただ」
「おい、乾杯はどうした縁壱」
「あ、忘れてた。ごめん」
配膳を終え、私たちのやりとりに失笑を漏らして去っていくCA。それを気まずい思いで見送り、深い溜息。
再びひょっこり顔を出す縁壱にアイコンタクト。シャンパングラスを掲げて見せた。
「乾杯」
「乾杯。旅行、楽しもうな」
「お前は既にこの上なく楽しそうだが」
「無惨だってそうじゃないか」
縁壱はそう言ってふんわりと微笑み、仕切りの向こうに姿を収めた。
直後、隣席から届いたのは控えめな「いただきます」の声。そしてそれきり何も聞こえなくなった。
鬱陶しいのも困りものだが、なんだか途端に物足りなくなったのも事実だ。縁壱の穏やかな笑顔の余韻は胸に灼き付くようで、愛おしさのあまり痛いほどに胸を切なくさせる。
私にこんな思いをさせることができるのは、後にも先にも奴だけだろう。そんなことを考えながら肩を竦め、顔の見えない隣席に向かってもう一度、ひとりグラスを掲げて乾杯を送った。
弾ける黄金色を目で楽しみ、爽やかで豊かな香りと滑らかな飲み口に舌鼓を打つ。私と縁壱、ふたりの旅の無事を祈りつつ、空の上の美酒を堪能した。
◇
私が空港や機内で当然のように飲酒していたのは勿論、縁壱がドライバー担当だからだ。
縁壱と暮らし始めてからはひとりの頃よりも出掛ける頻度が格段に増え、車でとなれば私が運転することが多かった。ドライバー歴を鑑みても運転慣れしているのは圧倒的に私なのだが、今回の旅行では奴が運転手を買って出た。
さて、レンタカーは那覇の市街地を北へ向けて走行中。助手席の車窓を通り過ぎていく景色には沖縄らしさというものをまだ然程感じない。
しかしふと頭を過ぎるのは、沖縄が歩んできた歴史の一片だった。
沖縄は第二次世界大戦後、三十年近く米国の統治下にあった。その頃の車道は米国同様に右側通行だったが、本土復帰後、現在の左側通行へ反転されたという。
更に戦時中まで遡れば、ここは地上戦のあった地域だ。今、目の前を過ぎゆく景色の中にそれを垣間見ることはないが、そういった歴史の片鱗は今もこの地に色濃く残り、一部は未だ続いている。
カーステレオから聞こえてくるのは地元ローカル局のラジオ番組。流れている音楽はどこか物悲しい三線の音色だ。こうして人々の想いもまた形となり、後の世へと絶えず繋がってゆく。
私が己の範疇とは縁遠い事柄で感傷に浸ることは、まず無い。それでもひとつの心当たりに視線が揺らぎ、泳ぎ着いた先の己の掌を見つめた。
——この手で千年、人と戦をした。
それが前世でのこととはいえ、縁壱は私の手を平気で取る。出来うる限り繋いでいたいのだと、あっけらかんと笑って言う。
鬼として生きたことに懺悔や後悔があるわけでもないのに、私は今、確かに縁壱の博愛の掌に救われている。仮に世界中が私の敵に回ろうとも、この手は私を突き放したりしない。そう言い切れる。
そんな慈しみの塊のようなこの男はきっと、この地にも深く想いを寄せるのだろう。
一曲終わり、ラジオDJは沖縄特有の話し口調で軽妙に番組を進行する。続いて流れてきた曲もまた三線の音色だったが、今度は指笛も混じる陽気なアップテンポ。
これもまた沖縄という土地や人をよく表しているように思う。穏やかで朗らかで、間違いなく縁壱と相性の良い土地柄だ。
そんなことをつらつらと考えながらふと視線を隣へやると、丁度赤信号で停止したタイミングで縁壱もこちらへ視線を寄越した。
「無惨、大丈夫か?」
「何が」
「ずっと黙ってるから」
「人の心配より自分の心配をしたらどうだ?」
「俺? なに?」
「知らない場所での運転だろ。余所見をするな」
「しかし今は赤信号だ」
「すぐ変わる。前を見てろ」
顎で示せばそれに釣られる縁壱の視線。程なくして、車は再び走り出す。
緩やかにスピードを上げるその揺れに合わせて頭をシートに預け、密かに息を吐いた。
気取られたく無い時ほどこうやって人の機微を感じ取るのが縁壱だ。鈍感そうな顔をしているくせに、全く小憎たらしいったらない。
「手を繋いでやれたらいいのだが、運転中だから……ごめんな」
「は?」
「手を繋ぎたいんだろ?」
「何でそうなる」
「だって無惨、自分の手、じーっと見ていたじゃないか」
「見てない」
「見てたよ」
「お前……脇見運転をしてたのか」
「してない。気になって、チラッと見ただけだ。無惨を隣に乗せてるのだから、誠心誠意、安全運転に努めてる」
「だったらこの先も無駄口を叩かず前だけ見て運転しろ」
そうは言ったが、私は縁壱の運転が好きだ。
ドアの開け閉めに始まり運転中の他者への気配り思い遣りまで、若干焦ったく感じるほど細やかで穏やかな、この男そのもののような運転をするから。滑らかな発進と停止にはあくびを誘われることもままある。
レンタカーではあるが、縁壱のドライビングのおかげで助手席の居心地は良かった。
「……なあ、本当に大丈夫なんだな?」
「ああ。早朝からお前の相手をして疲弊している。それだけだ」
「それはっ……悪かったと思ってる。無惨との遠出の旅行が嬉しくて、つい」
「媚びるな、気色悪い」
「媚びてない。どうしてそうすぐ威嚇するんだ」
「前世の名残りじゃないか?」
「またそういう意地悪を言う」
「本当のことだろ」
「それなら俺が言うことだってそうだ。好きな人との旅行が楽しくて仕方ない。そこに媚びも嘘も無い」
きっぱりと言い切るその言葉を受け横目で見遣れば、不貞腐れたような口振りとは裏腹に痴話喧嘩を楽しむような顔をしていた。
化け物が人間味を獲得するとこうも分かり易くなるのかと、未だ前世とのギャップに驚かされる。本当に呆れるほど透明度の高い男だ。だのに見透かされているのはこちらときている。
私が何を考えていたのかなんて奴は知り得ないはずなのに、こうやってまんまと良い雰囲気にされてしまうのだから空恐ろしいよ。
「……ただでさえ暑いんだ、言うことまで暑苦しいのは勘弁してくれ」
「そうだなぁ……確かに暑い。海に囲まれてるからかな、湿度が高い」
話題が変わり、縁壱は思い出したかのように気怠げな声を出した。
暑さには強い質のはずだが、モンスター級の代謝による熱量に加えてこの気候だ。まあ暑いだろうな。
エアコンの風を少し強めてやり、窓の外、鮮やかな青の夏空を眺める。ちらほら雲が浮かんではいるが、いい天気だ。
「日差しの強さも別物だな」
太陽は天頂付近から力強く照り付けている。
車内だからまだマシなのだろうが、フロントガラスから差し込んでくる太陽光の強さは経験にないものだった。
私とて寒さよりも暑さの方が身体には堪える。しかしやけに清々しい気分。
市街地を抜ければ、この国道は海岸沿いへ出るのだろうか。窓を開け放って潮風を感じるのが楽しみだ。
順調に車を走らせること三十分ほど。
那覇市内を抜けて少しした辺りで縁壱はスピードを緩め、とある場所に車を停めた。
「……おい」
「さ、降りよう」
サイドブレーキを引きエンジンを切って、意気揚々とシートベルトを外している縁壱を見遣る。
停めた理由は分かりきっていた。だが問い質さずにはいられなかった。
「何故停めた」
「デカいアイス、目立ってたから」
奴が言っているのは、フロントガラスの向こうに見える巨大なアイスクリームの看板のこと。日が落ちれば煌々とネオンが輝くのだろうが、今は燦々と照る太陽の光を浴びてトロピカルにその存在を主張している。
それが、この食いしん坊を招き寄せたのだ。
「行こうよ?」
「ついさっき『悪いと思ってる』と言ったよな?」
「うん。でも、それとこれとは別の話だろ?」
「……ハァ。まあいいか」
急ぐ旅ではない。別段予定も決めていない。それに、この男に「食うな」と言う方が無理な話だ。
しかし食った分を即消費できるコイツと違って、こちらは食えば食っただけ身になってしまう。体型維持や健康管理を怠ればあっという間に健やかな身体と縁切れになるのだから、人間とは本当に難儀なものだ。
おまけに現代の食事は格別ときている。斯く言う私も普段の生活に於いては酒だけでなく食にも重きを置いていた。
とはいえ化け物の胃袋に合わせて飲み食いするのは避けたいのだが……自宅ならともかく、旅先で常に共に過ごしていればそれも仕方のないこと。毎度のことだがこれも縁壱との旅の一興だと、観念して車を降りた。
国道沿いにあるこの店は縁壱曰く、沖縄では名の通ったアイスクリームショップだそうな。私はこの店の名すら聞いたことがないのに、何故縁壱がそんなことを知っているのか疑問だった。看板に引き寄せられたと言っていたが、全く怪しいものだな。
ご機嫌な縁壱をジト目で見遣りながら店の扉をくぐる。車を降りてからここまですぐだったが、冷房の風に迎えられるとほっとする心地すらある。
平日ということもあってか客足はまばらだ。店内の装飾や調度品はアメリカンな雰囲気を持ち、まるでダイナーさながらの様相。ご丁寧にも座席のひとつには米兵と思しきマネキンまで。
縁壱はそれらに目もくれず、アイスクリームが並ぶ冷凍ケースに釘付けだ。そこには二十種ほどのフレーバーが並び、アイスといえばの定番フレーバーから、沖縄県産素材を使用したものまで様々。
「無惨はどれにする?」
「ソフトクリームもあるのか」
そんな会話をしていると、横から店員が「アイスの上にソフトクリームを乗せることもできますよ」と提案してきた。
その時の縁壱の、宝物を見つけた子どものような顔といったら。口では「へぇ」と平坦に返すが、目の煌めきが興奮を物語っていた。
「で、どうするんだ?」
「んー……どうしようかな、迷う」
視線を彼方へ此方へと忙しなく動かしながらフレーバーを吟味する様もまた幼子のようで、横に立っている私からすればアイスより余程、縁壱の方が興味深い。
縁壱は大概即決で食いたいものを選ぶが、一度悩み始めると決断までに時間を要することが度々ある。それは縁壱にとってきっと大事な時間だろう。
好きなだけ悩ませてやるか。
急かす必要はない。だが待つ理由もない。それではひと足お先にと、縁壱の背中をポンポン叩き、注文へ。
私のチョイスはレギュラーサイズのシングルカップ、フレーバーは『ブルーウェーブ』。
その名前通り鮮やかな蒼海と白波を思わせるマーブルは、きっと人気のフレーバーなのだろうと想像できた。
受け取ったカップに橙色のスプーンを刺して——うん、なかなか美味そうだ。
さて、やっと注文に移った縁壱に向き直る。
「ワッフルコーン、トリプルで」
「トリプル⁉︎」
奴の注文内容に驚くあまり声量を誤った。慌てて咳払いで誤魔化す私を見て、会計を済ませた縁壱が財布をしまいながら照れ臭そうにして笑う。
トリプルとはつまり、トリプルということだ。トリプルだと……⁉︎
「ソフトクリームも魅力的だがアイスもどれも美味そうで……」
「それでソフトクリームを諦めて、アイスをみっつも盛ったのか」
「みっつに絞るのだって苦労したんだ」
「あぁ、そう……」
「無惨のも美味そう」
じっ。
私の手元を見つめ、唇の隙間から顔を覗かせた舌先がぺろりと舌舐めずりをした。
「なあそれ、ひと口くれるか?」
みっつも頼んでおいて、私のブルーウェーブまで食おうというのかコイツは。
流石に呆れて言葉も出てこない。そんな視線を向ければ情けない顔と声で畳み掛けてくる。
「ひと口でいいんだ。な?」
トリプルにすると自動的にジュニアサイズとなる。とはいえ、あまりに欲の皮が張った発言だ。
それにコイツのひと口は大口のひと口。持ち前の謙虚さが食い物にも働くかといったら、この旅先に於いては甚だ疑問だった。最悪の場合このアイスの半分は行かれてしまう、かもしれない。
アイス如きでケチケチしたくはないが、そうこうしている間に出来上がったワッフルコーンに三段重ねで盛られたアイスクリームを見ると、なんでひと口やらなきゃいけないのか、という気分にもなる。
だから、私が縁壱に示した答えは〝ノー〟だ。
上から『シークヮーサーシャーベット』『サンフランシスコミントチョコ』『塩ちんすこう』のフレーバー、とのこと。
南国の空の下で食うのが良いのだと、パラソルが日陰を作るテラス席に連れ出された。向かいに座る縁壱は、直接アイスに食らい付くことはせずに大きな手には不釣り合いの小さいスプーンでそれを掬い、そのひと口ごとに美味い美味いと満足げだ。
それを何枚かスマホで写真に収めた後、これもまた前世から縁のあるコイツの兄・巌勝にその画像を送信。それから漸く、飛行機の窓から見えた美しい海に想いを馳せて、手の中の小さな海を頂く。
……なるほど、美味いな。しっかりとした味わいなのに、後味は爽やかですっきりしている。
スプーンを口に運ぶ手は止まらず、合間にこめかみから滴る汗を指先で拭う。
どんな味? 美味い? まだひと口貰うのを諦めていないらしい縁壱の言葉は無視。しかし視線だけは向けていた。
外の熱気で溶け出したアイスをスプーンの先に掬い、食らい付く。口の中ですぐに溶けてしまうから、またすぐ次を口へ持っていく。
黙々と食べ進める縁壱の頬は暑さで上気している。なんとも美味そうに食うものだと眺めていたら、私のカップの中もあっという間に残り僅かとなった。
そこへ視線を落とす。あるのは溶けかけの、最後のひと口。
「……縁壱」
「?」
「ん」
「! いいのか?」
敢えて返事せずカップを突き出せば、次の瞬間、中身は攫われ奴の口の中へと消えた。
「んっ、ソーダと……パイナップルの味だ。おいしい」
へらぁっと、色付いた頬を緩ませ「ありがとう」と笑っている。
図らずも胸が打ち震える。所謂これはトキメキというやつだ。
こんなことひとつでこれほど幸せそうに笑うのだから、毎度毎度、全く参ってしまう。こちらまでつられて微笑んでしまうのを止められない。
私はやはりどうしたって、この男には勝てないのだろうなぁ。
つづく