手のひらだけが僕の通う中学校には真しやかに囁かれている怪談七不思議、みたいなものがある。
僕自身は超常現象とか幽霊とか、そういうものは見たことないから信じてない。もう中学生だっていうのに、そんなもので盛り上がるなんてくだらない。
「ほんとに見たの! なんで信じてくれないのよバカシンジィ!!」
「……だってその〝カヲルさん〟は男子トイレに出るとかいうオバケでしょ。アスカは男子トイレに入ったの?」
「ちっがーーう! あのチカン幽霊……壁をすり抜けて女子トイレに出没したのよ。信じらんない!」
「そうだね、信じられない。綾波も見たの?」
「一緒にいたけど、見てない」
「ほらぁ……」
「んもぉ〜! 絶対にいたんだから! 見たのよ!」
「ハイハイ。もういい? 僕、帰るよ」
まだ何事かをギャアギャア喚いてるクラスメイトを放って席を立つ。背を向けたら飛んできた消しゴムかなにかが後頭部に直撃したけど、無視。
放課後の、ガヤガヤ活気ある教室を出て、足を向けるのは校舎の玄関……ではなくて、僕の目的地は別の場所。
目指すのは音楽室。そこにも例の七不思議に数えられる怪談がある。
さっき話題に上がった〝トイレのカヲルさん〟も、そのひとつだ。
他には、理科準備室のホルマリン液に浮かぶ生首の標本とか、廊下を浮遊して進む人影と禍か。それから、音楽室のピアノで『第九』を弾くベートーヴェンだ。
各学年の教室が並ぶのとは別の棟にある音楽室。放課後の喧騒からは離れてひっそりとしている。
目的の場所へ到着。迷わず遮音の扉を引く。漏れ出してくるのは噂に聞く『第九』の調べ。
だけど、弾いているのはベートーヴェンなんかじゃない。
「渚」
「あっシンジ君! 授業おつかれさま〜」
声を掛けるとピアノの音は止まり、代わりに飛んでくるのは間延びした挨拶。
窓から差し込む斜陽を受けて、橙色の光の中、逆光の笑顔をこちらへ向ける男の子——彼の名前は渚カヲル。
「おつかれさま〜、じゃなくて」
「えー、じゃあ何。愛してる〜とか?」
ニッコニコ、何がそんなに楽しいのか分からないけど笑顔いっぱい、声を弾ませておどける渚にジト目を送る。ピアノの椅子に座る彼の隣に「ちょっと詰めて」と声を掛けながら半ば強引に腰を下ろた。
じっと睨みをきかせて見つめると、返ってくるのは空気を読まない笑顔、笑顔笑顔笑顔。
「ヘラヘラするな」
「なんだよ。登場、秒で〝怒り〟シンジ君?」
「……君、女子トイレ覗いただろ」
「あ」
渚はカパッと口を開け、目もまん丸にして僕を見て、それからすぐに逸らしやがった。
コイツ、クロだ。
「最低だな……」
「ち、違うよ! あれは、くしゃみした拍子に壁をすり抜けちゃっただけで……」
「オバケのくせにくしゃみするの?」
「僕はオバケじゃないって言っただろ」
「じゃあなんなんだよ」
「だぁかぁらぁ! 僕も僕がなんなのかよく分かんないんだってば!」
「だったらオバケかもしれないじゃないか」
「オバケじゃないのは確かだよ。絶対」
「ふーん……まあ、トイレにも行くしね」
「トイレにはいつも、シンジ君いないかなーって見に行ってるだけ」
「……チカン幽霊」
「幽霊でもオバケでもない!」
「チカンの方を否定しろよ」
「ところで、チカンって何?」
という具合に、コイツと話していても埒があかない。
渚カヲルは一体ナニモノなんだろう。
僕らと同じ、この中学の制服を着ているし、こうやって話しているだけなら普通の同年代の男の子だ。すっごく変なヤツだけど。
ただその容姿は、七不思議にされてしまうだけあって人間離れしていた。
無駄にキラキラした眼差しで僕を見る瞳は、この夕日色に溶けてしまいそうに真っ赤。髪の毛だって変わった色だ。今も夕日を透かして輝く渚の髪は、青空の下でも僕の目を奪う。太陽の色を反射して煌めき、風に揺れるその銀糸を見ているだけで、いつだって昼休み終了のチャイムまであっという間だった。
幽霊でもオバケでもない。それはそうだろう、こんなに綺麗なんだもの。
会話できるし、ハッキリ見える。それに、触ることができた。
「てゆーか君、壁、すり抜けられたんだね」
手を伸ばしたら眉を寄せて困り顔をされたけど、構わず間近の頬に手のひらを添える。いつも通り、柔らかいしあったかい。これが壁をすり抜ける?
「っ……うん、初めてできた。僕もびっくり」
「あそ」
普通の人間みたい。なのに、どうやらやっぱり違うようだ。
不思議なことはまだあって、こうやって渚に触れると……なんだか変な感じがするんだ。14歳の僕が思い起こすには少し早い気もするけど、郷愁って言葉が一番しっくりくるかも。
でもそれは、感覚的にあんまり良いものではなかった。
触れた指先がピリピリして、胸が苦しくなる。今も触れているこの手のひらから伝わってくる、想いの波のようなものに押し潰される。それなのに触れたくなる。確かめたくなる。
だから僕は渚に会う度、彼に触れた。
「なに、どしたの? そんなにじっと見つめられると照れちゃうよ」
「……」
「?」
「……」
「僕のこと好きなの?」
「は?」
「……、だだだだっ!」
意味不明なことを言うから反射的にほっぺを抓り上げたら、腰を浮かせて痛がっている。
壁をすり抜けるくせに、ほっぺはふにふに。馬鹿みたいにやらかいし、普通に痛がる。
変なの。こんな変な、なんだかよく分からないヤツ相手に郷愁だなんて、勘違いかな。
「いひゃい……! 放してよシンジくん!」
「あ、ごめんごめん」
「ぁう……ちょっと、何笑ってんだよ」
「あぁ、笑ってた?」
「笑ってんじゃん! 今も!」
「だって君、すっごく変な顔だったから」
ヒドイよ!って怒りながら隣り合う肩をぶつけられた。そのままグリグリ、おでこを肩に擦り付けてくる。
そんなわけないのに、懐かしい匂い。
ほらやっぱり、フラッシュバックするような、胸が潰れる想いでうまく息が継げない。
「うぅ……シンジくん、やっぱり僕のこと嫌いなんじゃないか……」
「……」
「ね、聞いてる?」
何も言えずにいたら、渚がチラと視線だけ上げてこちらを見た。
「聞いてるよ、ちゃんと」
呼吸が苦しくなるほどの感情だ。スキとかキライとか、そんな単純なもんじゃない。
なんでそんな気持ちになるのかも分からないのに、感情はしっかり声に乗って渚へ届いたようだった。
それを受けて渚が顔を上げる。
まっすぐに、目が合う。
渚の顔が強張った。
だから思わず手を握った。
それを渚も握り返してくれた。
「ねえ渚、君は誰なの」
「僕は、渚カヲル。分かるのはそれだけだよ」
「……そっか。でも、それだけ分かれば十分かもね」
何もないよりマシだ。そう思った。
超常現象も幽霊も、あるワケないから信じてない。
だけど、渚カヲルはここにいる。話ができるし触れ合える。
彼は僕にとって、間違いなく〝現実〟だった。隠したり、決して忘れたりできないもの。
そういう存在。
「渚」
「んー」
「校内を移動する時は、歩け。浮くな」
「えー」
「それから、暇だからってホルマリン標本を覗き込むのはやめろ」
「えー」
「ピアノは、」
「ヒドイヒドイ! 僕からピアノまで取り上げるの!?」
「ピアノは、いいよ。君の弾く『第九』は好きだから」
「! 好き? ほんと?」
「うん、好きだよ」
「デヘヘ〜そっか〜嬉しい〜!」
「変な笑い方するなよ気持ち悪いなぁ……」
明日また、僕は渚に会えるのだろうか。
もしかしたら、突然会えなくなる日が来るんじゃないか?
そんな風に考えてしまうから、放課後、この音楽室で、いつだって僕は渚の手を放せなくなってしまう。
渚はよく「夕暮れ時ってさ、お別れーって感じがしてキライ」と言う。
僕も同じだった。
太陽が沈む。背を向ける。手を放したら、もう会えない。そういう、記憶にも似た明確な予感のようなもので、足が竦んだ。
今日もまた日が落ちて、照明のついていない音楽室で、渚が闇に沈んでいく。
「暗くなってきた」
「そうだね」
「シンジ君、もう帰らないとね」
「うん、そうだね」
「明日も会える?」
そんな問い掛けには、こう答えるに決まってる。
「さっき僕が言ったこと、守れるならな」
「えーっ」
「太々しい顔をするな」
「んー、分かった。ピアノ弾いて待ってる」
「じゃ、約束」
一度、繋いだ手を握り込んで、それから互いの間に立てた小指を掲げる。
それを絡めて、ゆーびきーりげーんまーん、ふたりで声を合わせて明日も会おうと約束した。
何もないよりマシ、ってだけだ。
それでも「また明日!」と手を振り会えることはきっと、僕たちにとって希望だと思うから。