Better Than Bitter ◇
無惨に呼び出されるのは、いつも突然。
その頻度。二週、三週に一度の間隔ならば早い方。大抵はひと月以上開く。お声が掛かるのは決まって前日。指定場所は相手の自宅。時間はまちまち。
俺はそれに、イエスかノーかで答えるだけ。
こちらの誘いにあちらが乗ってきたことは、これまで一度だってない。だから俺から誘うのは早々にやめた。どれだけ会いたくても、連絡を待つしかない。呼び出された日時に先約があれば出来うる限りそれを動かし、無惨を優先させた。あちらの誘いにはなるべく〝ノー〟を唱えたくなかった。次にまた誘ってもらえる確証はないし、断れば即座に切られかねないから。
無惨と俺に心の繋がりはない。カラダだけの関係だ、仕方がない。
だから求めてはいけない。縋ってはいけない。媚びてもいけないし、気持ちを悟られてもいけない。
どれだけ彼を好きでも。
◇
無惨とは馴染みのバーで出会った。
あの夜初めて飲んだウォッカベースのマティーニの香りを、今もよく覚えている。
独りで居たくなくて、けれど一緒に居てくれる人もいなくて。
誰かの存在を静かに感じたくなると、俺はバーで独り酒をする。二十歳になるとすぐに独りで呑むことを覚え、趣味も持たない俺は、学業の合間に掛け持ちしているバイトで稼いだ金の殆どを酒に費やしていた。
家で呑めば安上がりだろうが、先述した通り孤独は嫌だった。だからあの夜も、バイト上がりの俺の足は自然と行きつけのバーへと向いた。
座席数は多くない、こぢんまりとした静かな店内。
そこに先客がひとり。あの人の背中が目に入った。俺は何度もその店で無惨を見かけていたから、もう随分前から彼のことは知っていた。
六席あるカウンター席。ふた席分空けて、そこに掛ける彼に並んで座った。マスターに軽く挨拶。「いつもの」ジン・リッキーをオーダー。
薄暗い照明、小さくかかったジャズナンバー、薫る紫煙。俺は煙草を吸わないが、この匂いは嫌いじゃない。程よい距離に自分以外の誰かがいる、そう思えるから。
そんな雰囲気の中でほっと息を吐き、ジンとライムの香りに酔って、スキッとした後口を楽しむ。そこまではいつも通りだった。だがそれを飲み干す直前になって、突然に状況は一変した。
「独りで呑むのが好きか?」
俺に向けられた言葉だとすぐに分かって振り向いた。頬杖をついて俺を見ていた無惨は、目が合うと薄く笑み、吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。
「二杯目は私が奢るよ」
そう言いながら席を立つ無惨は、自分のグラスを手に俺の隣に座り直した。
その突然の展開に思考が停滞。見ているだけで何も言えず、結局は彼から視線を外すことになった。
「この子にウォッカ・マティーニを」
その言葉に矢鱈と焦って、気付かぬうちに両手で握り込んでいたグラスを一気に煽った。すると隣からは小さな笑い声。居た堪れない気持ちで、空になったグラスを見ていることしかできなかった。
オーダーから程なくして、目の前には美しいマティーニ。俺はそれを見つめたままで、やはり隣を見ることはできなかった。
「君をよくここで見かける。酒は強いんだろ?」
「……まあ」
「しかし、間近で見ると本当に幼い顔をしている。まさか未成年じゃないだろうな」
「初めてこの店に来た時、免許証を見せた」
「っはは! やはり疑われたか」
俺は勿論、無惨の声も知っていた。マスターにカクテルの名を告げる落ち着いた低音を、心地好いとすら思っていたから。しかしこうやっておかしそうに声を上げて笑うのを聞いたのは、この時が初めてだった。何だか心がむず痒くなって、耳が火照る。それを誤魔化したくて「いただきます」とカクテルグラスを手にした。
ひと口含めば癖のない、ウォッカのスッキリとした味わいで目が覚めるようだった。
「んっ、うまい」
「ジンで作るマティーニとは違うキレのある後味が楽しめる。私も若い時分に好きだったカクテルだ」
「若い時分ってアンタ、歳いくつ」
「鬼舞辻」
「……継国です」
「継国君の歳は?」
「ハタチ」
「やはり若いな。ひと回りも違う」
言葉の終わりにグラスを傾ける無惨がこちらに寄越した流し目は、その言葉通り、俺を子ども扱いした表情。目だけで笑うようなその様は妖艶で、胸がざわめいて見ていられなかった。
無惨の容貌はどう見たって二十代半ばのそれだが、彼の持つしっとりした雰囲気は確かに俺のような若輩には出せないものだった。自信、余裕、そういったところから生まれるのであろう理知的な口振り。上品な所作や表情が醸す色気は程よい威圧感がある。
目を見張るほどの美しさも怖いくらいだった。だが気付かぬうちに見惚れてしまうほど、底無しに魅力的。じわじわと蝕んでいく、甘美な毒のような人だと思った。
その後は大した会話もせず一緒に店を出て、そのまま、その日のうちに関係を持った。
それが、始まり。
どうしてあの夜、無惨は俺に声を掛けたのか。
他に客の姿がなかったから?
初めて並んで座ったから?
無惨の機嫌が良かったから?
誰でもいいから抱きたいと思っていたから?
それともその全てが重なって、無惨と俺の運命は交わったのだろうか。
それは今でも謎のままだ。尋ねたことがないから。
だってもし「誰でもよかった」なんて答えが返ってきたら、俺の心は潰れてしまう。
秘密の片想いだけで手一杯だ。このままでいい。今のまま、真実なんて知らないままで。
俺の気持ちも伝えないままでいい。
◇
二月十四日がどういう日かは知ってる。
今日はその前日。日曜だということもあって外は甘ったるい雰囲気の恋人たちで溢れている。そんな日に、ひと月ぶりに無惨から呼び出された。どうしてわざわざこの日なんだ、とは思いつつも俺は馬鹿みたいに浮かれた心地だった。
期待なんてしてやいないが、他の人と過ごすわけではないのだと、それが分かっただけでも十分だった。
「遅かったな」
「ごめん」
珍しく玄関で迎えられたが、腕組みしてこちらを睨むように見ている様子から、不機嫌なのは明白だった。指定の時間に遅れて現れたことを怒っているのだろう。それを咎められる前に、言い訳せずにまず謝罪した。
するとそれには答えない無惨の視線が俺の手元を掠める。
「なるほど、遅れて来た理由はそれか」
「あ、うん。これ……」
俺の手には素っ気ない、何でもない紙袋がひとつ。俺はいつだって手ぶらでここに来る。だから余計に目に付いたのだろう。こちらが言い出す前に気付いてもらえて良かった。
このまましれっと渡してベッドへ直行すれば、この紙袋の中身についてあれこれ聞かれずに済むだろうから。
「私と会う前に女と逢い引きしていたとはなぁ」
「え」
「明日はバレンタインデーだからだろ?」
「そう、だけど……っじゃなくて」
「甘ぁい時間を過ごしてきたか?」
「違う。これは、その、」
「どうでもいい、そんなもの」
思っていた展開と違う方へ転がっていく会話に、焦りから上手く軌道修正できない。
何より無惨の機嫌がどんどん悪くなっていくのが目に見えて分かるから、吐き捨てるように告げられた言葉に、それ以上何も言えなくなってしまった。
視線は床を舐め、玄関に立ち尽くす。浮き立つ心地も地に落ちた。
「どうでもいいとは言ったが、待たされたことには腹が立つ」
「謝っただろ」
すかさず飛んでくる舌打ちに顔が歪んだ。今の言い方は良くなかったと自覚している。ままならない状況で最悪の気分。売り言葉に買い言葉が止まらない。
「人を待たせておいてその態度とはな」
「……スミマセンデシタ」
「ハッ、相変わらず生意気な餓鬼だ。可愛げのひとつもない」
「アンタこそ……」
「何だ?」
「……」
「何だよ。言ってみろ」
「……相手してくれるの、俺しかいないんだろ。いい歳してそんなだから」
最悪だ。
最悪だ、本当に……最悪。最悪。
そんな気持ちのまま顔を上げてしまった。だから当然、無惨は俺の顔を見て表情を消した。俺を何とも思っていない顔。不機嫌な顔をされる方がマシだった。
「お前は、傷付かない。だから面倒がない。大事にする必要がないから、適当に扱っても心が痛まない。どうだっていい相手だからな」
「痛む心なんて……持ってないくせに」
「お互い様だ糞餓鬼。靴を脱げ、今日はここで抱く」
「っ、玄関でなんて嫌だ」
「口答えするな。こちらへ来て壁に手を付け」
「……、……」
何か言わなければと思うのに、やはり上手い言葉は見つからない。いや、何を言ってもきっと何も変わらないだろう。こんなことになるなら余計なことはせず、いつも通り約束の時間きっかり五分前に呼び鈴を押せば良かった。
大切にここまで持ってきた。その袋の持ち手を握る手の力が抜けていく。俺の選択肢は全て過ちに繋がっている。本当に、馬鹿みたいだ。
「早くしろ」
「……」
「何度も言わせるな。私が何より面倒を好かんのは知っているだろ」
「……分かった」
これ以上悪い方へ進んで欲しくない。だから言われた通りにした。
靴を脱ぎ、玄関に上がって壁に寄り掛かる。その足元にそっと、大切な紙袋を置いた。だが次の瞬間、紙袋は蹴り飛ばされぐしゃりと音を立てて廊下の向こうへ滑っていった。
「あっ」
「あぁ悪い、大事なものだったな。目障りだったからつい」
「別に……大事なものなんかじゃない」
「そうか? だったら何故そんな顔をする」
頭ひとつ分低い位置から睨み上げてくる鋭い視線。それが痛くて痛くて、顔を背けて逃げ出した。そんな顔——一体、俺はどんな顔をしているのだろう。嫌な顔、してるのかな。胸がちくちくして、鳩尾が潰れるような悪心がする。きっとそれが顔に出ているんだ。
「縁壱」
「……」
「呆けてないで壁を向け」
後ろを向きたくない。
ひと月ぶりに会えたんだ。キスが欲しいし、無惨の顔が見たい。今どんなに彼が怒っていて、その静かな怒りが俺の胸を突き刺すようでも。
カラダだけの関係に良いも悪いも無い。だけど俺は無惨に抱かれることに歓びを感じる。気持ちが伴わなくても、ベッドの上ではいつだってこの身体を強烈に求め、濃厚に抱いてくれた。俺の中に熱を埋めながら、縁壱縁壱と名前を呼んでもらえるだけで嬉しかった。俺自身を好いていなくとも、その時だけは瞳に俺を映してくれていた。
それが、後ろを向けだなんて。
絶対に嫌だ。
「縁壱、抱かれる気がないのなら帰れ」
「ここでは嫌だ。ベッドがいい」
「してきたんだろ、あれをお前に寄越した女と。そんな奴をベッドに呼ぶと思うのか?」
低く潜められた声がした。その直後、股間に強烈な痛みを伴う圧迫感。
手で、思い切り握り潰されている。息を呑み、背けた顔はそのままに視線だけを無惨へ戻す。だがすぐに後悔した。
あぁ、まだ、もっと怒っている。怒りが収まる様子が見えない。目が合えば更に強く握り込まれ、その痛みから胃がせり上がり脂汗が噴き出た。
「して、っない」
「壁を向け」
「俺は自宅から、真っ直ぐここに、っ……」
「うるさい。私を見るな」
「ゔぅ……あの袋は違うんだ、俺が」
「知るかよ。貴様の顔を見たくないと言ってるのが分からないのか」
なんとなく機嫌が悪いようなことはこれまでにも何度かあった。けれどここまで攻撃的な彼は見たことがない。確かに俺は約束の時間に随分と遅れてここに来た。でも、これ程までに怒らせてしまうとは思わなかった。
滲む涙は痛みからじゃない。俺は壁に抱かれに来たわけじゃないんだ。これ以上、彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。誤解だけは解かなきゃ。
「後ろ、向くから……俺の話を聞いてくれ」
「言い訳は無意味だと思わないか? 遅れるなら遅れるで連絡を寄越せば良かっただろ。それもせずにお前はただ私を待たせた。その理由が女だ。馬鹿にするのも大概にしろよ」
遅れると連絡すれば、それなら来なくていいと言われかねないと思った。今となっては最早その方が良かったとすら思える状況だが、何をいくら悔いても、もう後の祭り。痛みで歪む顔はきっと醜い。だから俯いて、何度か深呼吸。
誓いを捧げるように、無惨の胸——心臓の上に手を添えた。
「アンタとの約束を蔑ろにして遅くなったわけじゃない。それだけは信じて欲しい」
「……まあいい。お前が楽しんできたかどうかは、出せば量で分かる」
「無惨」
「もういいだろ。後ろを向け」
「無惨……」
「あぁ、キスか? お前、何よりキスが一等好きだものなぁ」
嘲笑う口元。歪んだ表情すら蠱惑的な美しさがあるこの人が、好きだ。
無惨が好きだ。好きだ。好きだけど——求めても、縋っても、媚びてもいけない。それは無惨が嫌う、面倒なこと。分かってる。好きだけど、全部諦めなきゃいけないって。
「キスもしてきたんだろ? 今日は無しだ。これは罰だと思え」
物理的な痛みが去った代わりに、胸に置いた手を払い落とされた切ない痛みで息ができなかった。
初めて言葉を交わしたあの夜に受けた無惨の印象は、彼に会う度に更新されていった。我儘で傍若無人。それに、思うほど余裕のある人ではなかった。
彼曰く〝餓鬼〟の俺の前で、ごく稀にだが感情的になって子ども染みた言動をするし、自信のひとつも感じない、虚ろな気配を滲ませることもあった。
それが無惨本来の姿なのだろう。繕わず本心を曝け出してもらえるのは嬉しかったし、何よりこんなに空っぽで鬱屈とした俺を傍に呼んで抱いてくれるんだ。この人だけが俺に触れたいと思ってくれる。
だがそれは俺を特別に思っているわけではないし、決して心を許してくれているわけでもない。彼が言っていた〝どうだっていい〟という言葉。俺たちの関係は、それが全てだ。
壁についた手から、心まで深々と冷えていくよう。
背後から回された腕に腹と胸を抱き込まれると、目の奥がじんとして唇が震えた。それに追い打ちをかけるように、上着を脱ぎ去った背中にひたと張り付く温もりが切ない。うなじに触れる唇が場違いに優しくそこを吸っているのも、今は耐え難い。
壁を見つめていた視線を落とせば、胸に乗った掌が見える。心臓の上に乗ったまま動かない。俺の手は払い落としたくせに、嫌がらせのように優しく添えられている。
こんなんじゃ、乱暴に弄られた方が気が楽だ。
「はぁ……縁壱……」
どうだっていい相手に聞かせる声にしては甘ったるい吐息混じりの声だった。口付けられたうなじが戦慄く。そこに舌が這う。結い上げた髪の襟足を、ペタペタと舌の腹が撫でている。ペタ、ペタ。それから口付けの音も響かせて、今度は耳の裏からピアスの留め具を舌先で擽られた。二月の空気で冷え切っていた耳介が、無惨の呼気でじんわりと血色を取り戻していく。ゾクゾクと俺の身体を血潮が巡る。
こんなことで呼吸が乱れる。もう、勃ってる。痛む心なんて無いのは、やっぱり俺の方なのかもしれない。
「なあ……お前、抱くよりも抱かれる方が好きだろ」
「っ、ン……うん……」
「帰ればいいものを、こんな状況でも抱かれたがる。淫乱め」
「いいからッ……もう、ヤるなら早く」
「待たせておいて今度は早くしろ、か……良いご身分だな」
あんなに怒っていたのに、触れた途端に嬉々とした声を出して。俺を淫乱呼ばわりするが、自分だって俺で欲を満たすことしか考えていないくせに。
悔しい。俺に魅力があれば、身体だけじゃなく心まで求めてもらえたかもしれないのに。
「立ったまま後ろから犯された経験は?」
「アンタにされたこと、ないんだから……ハァッ……あるわけ、ないだろ」
「どうだか」
何がおかしいのか分からないが笑ってる。その吐息がまた耳朶を湿らせ、甘噛みされると無惨の歯がピアスが当たってカチカチ鳴った。その音に、俺のデニムのジッパーが下がる音が重なる。下着の下がどうなっているのか、見なくたってもう分かったのだろう。
「ふ、はは」
「……何」
「玄関では嫌だ、とか言っていたか? どの口が。ガチガチだぞ」
出せば量で分かる、その通りだ。だから早いところ全部出して、出し切ってしまいたい。それが、無惨の誤解を解く一番の近道だろうから。
アンタとしかできない俺の身体で今日も目一杯楽しんで、アンタでしかイけない俺をたくさん見てくれ。全部アンタのものだ。俺は無惨以外、要らないんだから。
それが言えたらどれだけ楽だろう。
◇
あの怒りようからは想像もつかないほど甘く抱かれた。顔が見えずとも、唇が触れ合わずとも、ふたりが繋がり再び離れる時まで、俺の身体は確かに無惨で満たされていた。
その感覚を手放すまいと腹の奥で反芻しながらシャワーを終え、リビングへ。
事後、無惨は決まって煙草に火を点ける。その姿をキッチンの換気扇下に捉えた。こちらへの一瞥に次いで、煙を吐いた口が俺の名を呼ぶ。これは傍に来ても良いという合図だ。考えるより先に足が動いた。近寄るごとに濃くなる煙草の匂いは、無惨を形容するもののひとつ。もっと感じたくて、すぐ傍まで近付いた。
「呼べば馬鹿正直に寄ってくる。まるで犬だな」
「従順なのは好きだろ」
「ああ。だが可愛げがない。せめて尻尾を振って見せろ」
笑み混じりの声。それに表情も柔らかい。良かった。機嫌、良くなってる。
知らぬうちに強張っていたらしい身体の力が抜けていく。ひとつ安堵の息を小さく吐いて、無惨の立つ隣、少し距離を置いてキッチンに寄りかかった。すると、伸びてきた手がポンと頭に乗る。
言葉通りの犬扱い。それ故に眉を寄せて視線をやると、咥え煙草の無惨は僅かに口角を上げた。
「尻尾を振る気は無し、か」
鼓膜を擽るような甘ったるい口振りを肩を竦めてやり過ごす。無惨は吐息の笑みを零し、冷蔵庫から水のボトルを取り出した。開封前のキャップを緩めて「ん」こちらへ差し出す。
玄関でだったから、扉から外へ漏れてしまわないように声は抑えた。その分呼吸は荒くなり、乾燥した空気によって喉はカラカラになっていた。
ボトルを受け取り、開け易いようにと開封されたキャップに手をやりながら思う。
掌なんて俺の方が大きいし、握力だって強いだろう。だのに無惨はこういうことをする。俺に女がどうとか言うが、優しさ云々ではなく自然にやってしまえるくらい、その扱いに慣れているのは無惨の方だろう。
「……ありがとう」
ぼそぼそと礼を伝えるとまた頭を撫でられた。折角距離を取ったのに、わざわざ俺の隣に来てキッチンに寄り掛かる、その無惨の肩もぴたりと触れた。
「お前、この後の予定は」
「ない」
「また食事を抜いて来たんだろ」
「うん」
「時間あるなら、何か食いに行くか?」
「! 行く」
気まぐれな男だ。カラダだけの関係なのに、無惨はこうやって簡単に俺に近付き触れてくるし、情事の後は時々食事や飲みに誘ってくれる。だがそこに何か意味があるわけではないだろう。だから期待しないし希望も持たない。喉を潤すこの水と同じで、冷たく色も無ければ無味無臭。それでも俺には必要不可欠なもの。
虚しいったらない。
だけど俺は馬鹿だから、触れてもらえるのも一緒にいられるのも嬉しいって思う。
緩んでしまいそうになる口元を引き結ぶ。水のボトルは手放して、そのまま身体を翻す。正面から覆い被さるようにして無惨を腕の中に閉じ込めた。
背中、後頭部を抱き寄せて、セックスでしか重ならないふたりの身体を触れ合わせる。そのあまりの切なさに喘ぐ呼吸を漏らし、きつく目を閉じた。
無惨を抱き締めるだなんて、そんなことをしたのは初めてだった。だから当然、驚いたのだろう。彼の身体に力が入ったのを腕の中に感じた。
「……何のつもりだ」
「尻尾、振れって」
「お前は振れる尻尾など持っていないだろ」
先程散々打ち付けられたそこを、するりと無惨の手が滑る。尾てい骨に添う指が降下、割れ目を滑って止まった。悪戯を楽しむようなその手とは裏腹に、煙草を持つ手は俺から火を遠ざけようと向こうへ掲げられている。そこから上がる煙と、鼻先を擦り寄せたこめかみから香る、無惨の匂い。
混ざり合って、とてもいい匂い。けれど胸に広がるのは充足感ではなく遣る瀬無さだった。その気持ちが声に乗って形になるのを止められない。
「可愛げってさ……どういうの」
「これがそうだと言いたいのか?」
「分からないから聞いてる」
鼻面で無惨の髪を掻き分け、ぐりぐり。その時唇に触る猫っ毛を食んで、もう僅か抱き締める力を強めて深呼吸。返事をくれない無惨は俺を宥めるようにポンポンと、触れている尻を叩くだけ。
「なあ、これは可愛げとは違うのか? 尻尾、振れてない?」
「縁壱」
「可愛くないか?」
「火が点いてる。危ないから」
「答えてくれ」
「ああ。ああ可愛いよ。だから離れろ」
「……キスしたい」
「いい加減にしろ。煙草が触れれば軽い火傷じゃ済まないぞ」
「可愛いと言ったよな? だったら可愛がってくれよ」
火傷なんて厭わない。ぎゅうぎゅう抱き締め、シワになるのも構わず無惨のシャツを握り締めた。ここまでしたからには、欲しいものを貰うまで引けない。
今まで見せたことのない類の言動に対処しきれないのか、はたまた単に煙草の火のおかげか、無惨は口だけ。身動ぐこともしない。
これ幸いと頬擦り。それから耳に唇を押し付け、お強請りの溜息を聞かせる。そうやって彼に手探りの可愛げをぶつけた。
「無惨、誤解は解けただろ? だから、キス」
「誤解……?」
「会ってない、誰とも。一目瞭然だったはずだ」
「そんなもの、してないと分かっただけで遅刻の理由は……まあいい、建設的でない会話は疲れる」
「じゃあ会話はやめて、キスしてくれ」
求めることも、縋ることも、媚びることもしてこなかった。しかしあちらが尻尾を振れだの可愛げを見せろだのと言うのだから、本心のカケラくらい覗かせてもいいだろう。
今日は最悪の日だった。遠回しにして、隠して、怖がったからあんなことになった。もうこれ以上悪くなりようがない。だから——
「無惨……」
しっとりと吸い付くような耳朶を唇で撫でてから、一片の花弁を思わせる美しい瞳を、瞬きも忘れて覗き込んだ。
「して」
「たかがキスが、そんなに好きか」
「好きだよ」
好きだ。
貴方のことが、好きです。
「……一寸待ってろ。火を、っ、おい縁壱」
「ん、俺から、してるから……それ消して」
逸らされなかった眼差しで許されたのが分かったから、これ以上は待てなかった。猫背になって無惨の唇を吸う。急かす為にわざと音を立てて、何度も、何度も。
あぁ舌を入れたい。だけど、まだ我慢。無惨が吸い返してくれないうちは進めない。
「縁、壱……ハァッ、待て」
「消して……抱き締め返して、もっとキス、んっ、ん……早く」
話す間も吸って、擦り合わせ、吐息で誘って。顔の角度を変えて、もっともっと。視線でも強請って、キスを深めたいことを示した。無惨は眉を寄せるが、キッチンに置かれた灰皿を横目で捉えながらそこに火を押し付けた。
煙草を手放した手はすぐさま後頭部に添えられ、頭を引き寄せられたことで唇の押し付けが強まった。同時に尻を揉まれると、恥ずかしいくらい鼻にかかった息が漏れる。
「は、ぁ……ン、無惨……」
名を呼べば、密着したふたりの唇の間を生温かな舌の腹が這って進む。俺も同じようにそこに舌を重ねた。
嬉しい。涙が滲むくらい嬉しかった。煙草の味がするキス。これが無惨とのキス。今日はもう、してもらえないと思った。だから嬉しい。嬉しくて止まらない。
「んっ、無ざ、あ、はぁっ」
重なった舌をぬるぬる擦られる。その舌先を、音を立てて吸われる。上唇も下唇も無惨の好きなように弄ばれる。そうしてくれる彼のことを見ていたくて、瞑ってしまいたくなる瞼を持ち上げるために湿った睫毛を瞬かせた。
「ふぅ……もっとして、もっと……」
「どうした、お前……何か変だぞ」
「だって、きもちっ、いぃ」
「ん……そうではなくて」
「なに、いやだ、やめないでくれ」
結い上げた髪の尾っぽを引っ張られ、突然にキスの終わりを暗に示された。
もっと重ねていたい唇に甘噛みで齧り付く。眼差しで続きを強請りながら、引き止める為に何か有効な材料がないかと思考を巡らせた。その脳裏に浮かぶのは、廊下の隅に取り残されたままの紙袋。
「遅れた理由を話す。だからっ」
「ほう……何だ、言ってみろ」
髪を引く手の力が緩んだ。けれど視線は俄かに鋭さを持ち、甘噛みの仕返しにしては痛みの走る強さで唇に歯を立てられた。
……材料選びを、間違えただろうか。
緊張から早まる鼓動。暫しそのまま見つめ合い、それから解放された唇で、言葉を選んで話し出す。
「理由は女でも、ましてや男でもない。アンタが蹴り飛ばしたあの紙袋の中身だよ」
「そこに何が入ってる」
「俺、料理するの好きで、でも菓子作りは初めてだったし、連絡が来たのも昨日の夜だったから……それで、今朝必要なものを買い出しして、時間かかったけど上手く作れたんだ。だから、その……」
言い訳がましいと思いながらも、しどろもどろ、こうなったらどうにか誤解なく伝えたい。その想いで言葉を紡いだ。無惨は物珍しそうな眼差しをこちらに向けてはいたが、口を挟まず話を聞いてくれた。
こんな馬鹿みたいな告白、恥ずかしかった。でも目を背けたら信じてもらえない気がして、緊張のあまり涙ぐんでしまっても、絶対に逸らすものかと無惨の瞳を真っ直ぐに見た。
「セックスもキスも、誰ともしてない。アンタに渡すチョコレートブラウニーを作ってた。それが遅れた理由だよ」
「……何故、私に」
「何故って、えっと……世話になってる、から?」
好きだなんて言えないけれど、嘘を吐くのは苦手だ。だから一番無難な表現をしたが、無惨は怪訝そうな納得のいっていない顔をしていた。未だ向けられている詰問の眼差しに目を逸らしたくなる。でも、逸らしちゃいけない。
「ふぅん」
「な、何」
「世話をしてやった覚えはないし疑問系なのも気になるが、そうならそうと、来てすぐに言えば良かっただろ」
「約束に遅れたのは事実だ。それに、言える雰囲気じゃなかっただろ」
「……そうだな」
「でも、理由はどうあれ約束に遅れたことは、ごめんなさい」
「話を聞いてやらなかった私も悪かった。もういい」
「だったらもっと、キス……」
やっと、ちゃんと謝ることができた。伝えたかったことも言えた。誤解も解けた。
緊張の糸が解け、漏れる安堵の溜息に任せて縋り付くように無惨を抱き竦めた。何だか甘えさせてもらえそうな雰囲気だ。もう一度唇を重ねたい。
鼻先をすりすり。こんな風に強請るのも甘えるのも勿論、今が初めてのこと。猫撫で声で「なあ、無惨」だなんて、舌舐めずりして誘うのも初めて。
けれど、やはりそう上手く事は運ばないものだ。無惨は突然俺の髪をぐいっと引っ張り、仰け反った俺の顎に軽く歯を立てた後、言った。
「キスはもう十分だ。放せ」
「っ……やだ」
「離れろ」
「嫌だ」
「お前の唇には飽きた。ブラウニーが食いたい。放せ縁壱」
「!」
告げられた予想外の言葉に驚いて力が抜けた。すると無惨も俺の髪を放し、腕から逃れて廊下の方へ去っていった。呆気に取られ口をあんぐり開けたままの俺を置いて。
ブラウニー食べてくれるのか? えっ今⁇
隣り合ってふたりでソファに座る。勿論これも初めてのこと。無惨とバーで肩を並べて座った、あの特別な夜を思い出す。今日はあの日以来の特別な日になりそうで、今も胸が高鳴っている。嫌なことも良いことも、あれこれと初めて尽くしで心が追い付かない。
何だか落ち着かない俺に見向きもしない無惨は、素っ気ない紙袋、素っ気ない包装から取り出したブラウニーひとつをまじまじと見つめていた。
形、崩れていなくて良かった。
「くっ、ふふ……ハート型?」
「型が、その形しか売ってなかった」
「この時期だしな。それにしても、そのナリでハートのブラウニー……ふ、ははっ」
「嫌ならいいよ、食わなくて」
「違う違う、可愛いなぁと思っただけだ」
その〝可愛い〟は、ハートの形のブラウニーのことかな。俺のことだったらいいのに。そんな風に考えてしまうくらい、俺の心は浮き立っていた。
無惨が俺の方を見ないから、俺は彼の、矢鱈と楽しげな横顔を見たい放題だった。彼が声を出して笑うと、唇の隙間からチラリと犬歯が覗く。それが何となく可愛くて、無惨の好きなところのひとつだ。噛み付かれると声を抑えられないほど痛いのだがな。
「料理、するんだな」
「食べるの好きだから作るのも好きだ」
「それじゃあ御手並み拝見といこうか」
流し目を寄越して蕩けるように笑う無惨は、緩く弧を描く口を開いてブラウニーに齧り付いた。
無惨の手にあるその欠けたハートには、俺の彼への想いを込めて焼き上げた——なんて、そんな重い贈り物のつもりはない。単純に時期柄思い立って、作ってみただけのことだ。
誤解から無駄になるところだったが、まさか目の前で食べてもらえるだなんて、考えもしなかった。それは素直に嬉しい。だがやはり、想い人が手作りブラウニーを口にするのを見ているのは緊張する。ささやかな大きさのブラウニーひとつなのに、完食を待つ時間は永遠のように感じた。
無惨は指に付いたハートの名残りを舐め取りながらこちらを振り向き、ゆっくりとした瞬きの奥の瞳でもって俺を捕らえた。一秒後、重なる唇。軽く吸われれて、それ一度きりで離れていった。
「……あぁやはり、お前とのキスに似ている」
出来上がりを味見したブラウニーは、しっとりして濃厚、仄苦く、後を引く。そんな味わいだった。
そう、確かに無惨とのキスに似ている。今し方合わせた唇もそうだった。そこからほんのり薫ったカカオの香りが胸を締め付けて苦しい。
「……口に、合わなかったか?」
「いいや、これで菓子作りが初めてなら上出来だ。美味かったよ」
「それなら、俺とのキスも美味いって思ってる?」
こんな風に甘い雰囲気は知らない。俺だって、これ程溶け出したような声を出したことはないし、こんな風に無遠慮に無惨の手を握ったこともない。無惨だって、その手を握り返して指先に口付けるなんてことは、これまでだったら絶対にしなかった。
それが今全て現実に起きていて、俺はもう、どうしようもないくらい彼に夢中だった。
「何だ、急に甘えた顔をして。そういう可愛い顔もできるんじゃないか」
「はぐらかさないで答えてくれ」
「何がだ」
「俺とするキス、好き?」
「さあな」
「さっき美味いって言った」
「あれはブラウニーの話だ」
「じゃあ俺の身体は? 美味いだろ? もう一回しようよ。今度はベッドで」
「何を言ってる。食事に行くんだろ」
子どもの駄々をあやすような声色なのに、無惨は色気を帯びた表情をやめない。それが我が物顔で寄ってきて口端に吸い付き、そのまま間近で淡く笑んだ。圧倒されるほど美しいが、やはり何度だってこの人に抱かれたい。
けど……腹の虫もくぅくぅ鳴いてる。
「…………行く」
「色気より食い気だな。さて、お前は何が食いたい?」
「えと、焼き鳥食いたい」
「いいな。だが騒がしい店は好まんだろ」
「無惨と一緒なら、何処だって良い」
「よく言う。食えればそれでいいくせに」
今や手を握っているのは俺ではなくて無惨の方だし、声を転がして言いながら頬や耳に口付けるのを止めようともしない。無惨こそ、本当に食事に行く気があるのだろうか。
顔中あちこちを啄んでくるくせに唇だけを素通りするキスを追う。するとそれは簡単に捕まって、唇を触れ合わせるだけで途端に応えてくれた。
歓びを通り越して幸福だと感じる。こんなにも幸せなのに、これまで我慢していた反動か、俺の欲の箍は外れてしまったようだ。
「んっ、なあ……本当にもう一回しないのか?」
「お前、もう空っぽだろう? 私もだ。十分した」
「じゃあ次の約束を、今したい」
そう言ったら、無惨のキスが止まった。目を見開いてこちらを見ているだけで、返事はくれない。だが離れていこうともしない。繋いだ手を引いて、今度は俺の方から無惨の唇を啄み、甘噛み。カカオの香りの吐息を食んで、俺も無惨からチョコレートをもらったような気分。いろんな感情が高揚して、本音が溶け出すのを止められない。
「いつも、次は連絡無いかもって……不安になる」
「不安?」
「だって俺、無惨が……」
「私が、何だ」
「無惨が、えぇと……あっ、そう、たまに奢ってくれるだろ。それが楽しみで」
「ふぅん」
「一緒に食事するのも、酒飲むのも好きだし、それに、」
「それに?」
「無惨に抱かれるのも好きだ。あとは、」
「あとは?」
「あと、無惨とのキスは、大好き」
「……そうか。私もお前と同じ気持ちだ、縁壱」
突然に再開するキス。深まることはないが、その代わりのように繋いだ手の指が絡まる。
同じ気持ちって、何だよ。そんなわけない。
「同じなわけ、ない……」
「同じだよ」
「仮に同じなら……次もあるよな? 今度はすぐ会える?」
はぐらかされたくない。だから顎を引いてキスを終わらせた。けれど視線は逸らさない。返事が欲しい。確約が欲しい。無惨が欲しい。俺のことも、もっと欲しがって欲しい。
「来週末、泊まりに来い」
「! 泊まっていいの?」
「ああ」
「バイトの後で、遅くなっても?」
「いいよ」
「どうしよう、嬉しい」
「ホワイトデー前の週末も空けておけ」
「‼︎」
「ふはっ、お前、百面相だな」
「……無惨だっていつもと違う」
「お前が柄にもないことをするから、私までおかしくなっただけだ。まあ気にするな」
俺が甘えれば、無惨はこんなにも甘やかしてくれるんだ。俺たちはちゃんと甘い雰囲気にだってなれる。もしかしたら無惨は、俺が思っているよりも甘いのが好みなのだろうか。
チョコブラウニーひとつで無惨と俺の関係が変わるだなんて、そんな簡単にいきっこないのは分かっている。それでも今日、こうやって仄苦いだけじゃない俺たちの可能性も、あるのかもしれないと思えた。俺はもっと、我儘になってもいいのかな。甘えてもいいのだろうか、この人に。
可愛げというものが今もまだよく分からない。分からないなりに今俺は、思いのままに無惨に抱き付いて、戯れて、首にキスして頬擦りしている。その俺の背中を、彼は笑いながら抱き寄せて、たくさん撫でてくれる。
どうだっていい相手だと思われていても、抱いてもらえるだけで十分だと思っていた。これ以上はないのだと思い込んで諦めていた。
「縁壱、いつまで戯れてる。バレンタイン前夜だ、店が混むからもう出掛けよう」
「ん……もうちょっと」
「いい加減にしろ、来週会えるだろ」
「うん、嬉しい」
「そういうことを言ってるんじゃなくて……あぁもう、これはこれで鬱陶しいな」
そうは言うが、無惨は目尻にキスをくれるし、俺の髪の毛先を指で弄ぶのをやめようとしない。これじゃあまるで恋人同士だ。セックスから始まった関係だ、なるようにしかならないと思っていた。でもそれは間違いなのかもしれない。
俺は無惨が好きだ。
この強い想いひとつあれば、変えられるものはきっといくらだってある。そう信じたい。